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「生態系は完成された隙の無いもの」というイデオロギーに一石を投じる
2016/12/31 19:49
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投稿者:miyajima - この投稿者のレビュー一覧を見る
侵入生物学という学問分野があります。
生態系は一つの場所でともに進化してきた動植物の緊密な連合体だという考えをもとにしています。生態系は順調に動いている機械のようなもので、在来種だけで完成された状態にあるから侵入者が入り込む余地はない、と説きます。
さかのぼれば19世紀の植物学者フレデリック・クレメンツは、植物は群落をつくることで平衡に達すると考えました。これは今で言う生態系です。世界の気候帯はそれぞれに恒久的な植物群落が出来上がっていて、それを「極相」と名付けました。平衡状態が崩れると「遷移」を通じてかつての安定した状態を取り戻そうとするというものです。
20世紀に入るとクレメンツの考えは生態系の概念へと発展します。部分の総和よりも全体が大きくなる植物共同体であり、多数の個体が集まって一つの個体のようなふるまいを見せる「スーパーオーガニズム」だと規定されます。さらにそれが進んで、熱帯雨林は単なる樹木の集合体ではなく、システムとして機能しているという発想や、さらには地球全体が生態系の集まりだとする「バイオスフィア」論も出てきます。ジェームズ・ラブロックはバイオスフィア自体が一つの生命体だととらえ「ガイア」と命名しました。
さて、侵入生物学はこの四半世紀で学問分野として確立しました。ですがその狭量な姿勢に批判の声も高まっています。中でも問題視されているのは「外来種は悪者」という前提から出発しその見立てにあうテーマしか取り上げない、しかも引用の誤り、局所から地球全体への無茶な飛躍などがこれでもかと出ている点です。著者は実際に影響力のある学者の論文を丹念に調べ、あいまいな点は著者自身はあるいは引用元の原典に当たってそれらの嘘や誇張を明らかにしているのです。さらには新たな、あるいは古くからあっても無視されてきた研究を丁寧に紹介してもいます。
外来種は在来種を押しやると批判されますが、実際には在来種の減少でできた隙間にうまくはまっただけ、という場合の方が圧倒的に多いのです。それどころか外来種が生物多様性を高めていたケースの方が多かったのです。
このような事例がこれでもかと挙げられています。つまり、「自然は壊れやすく一度変化した生態系は二度と戻らない」という信念を揺るがすものばかりです。著者が挙げる事例を見れば、自然が一定の状態を続けることはなく、ダイナミクスこそ重要だということが分かります。
生物の活動単位は「個体」単位であり、自らの遺伝子や生理機能にしがって生命活動を営んでいるだけであり、より高次の目的とかスーパーオーガニズムなるものに制約されることはない、排他的で独立した群落をつくるために関係を結ぶわけでなない、という考え方も出てきています。偶然の出会いの積み重ねが複雑な生命相を形成したのであって、生態系で起きているのは共進化よりもむしろこういった「エコロジカルフィッティング」だというものです。
ということで、「外来種は何が何でも排除せよ」という自然保護論に対して当の生態学から寄せられる異論を丁寧に紹介することで一石を投じる本です。巻末に岸由二先生が解説を寄せていますが、この「旧来の自然保護論」に対してきわめて厳しい口調で批判をしておられます。ご自身の体験を踏まえたその論説は、本書の主張を大いに補強するのではないでしょうか。私も岸先生が批判的な解説をしていたことから本書に俄然興味を持った次第です。そうでなければ手にしなかった可能性が大です。
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これはもう科学というよりイデオロギーの話。
2016/10/04 20:14
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投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「環境を守ろう」「自然を大切に」との意識は高まっていると思いますが、「なぜ守る?」「なぜ大切?」という疑問に答えるのは意外に難しいです。考えるときによく「悪者」になってしまうのが外来種。本書では外来種をどう理解し、評価するかがテーマです。文章はテンポが良く、紹介されている世界の具体例をいろいろ知るだけでも勉強になります。ジャーナリストらしい著者の、ちょっとドキッとするような表現も記憶に残るものです。
外来種の問題を積極的に紹介してきたという著者は、わたしも「そういうこともあるかも」とどこかで思っていたことをすっぱりと文章化しています。もちろん、著者の主張したいことに都合の良い方向にアレンジされているのかもしれませんが、それでも「そういう風に考えてみることも必要、と思わされる個所が多数ありました。
「生物」は遺伝子で「複製=同じ物」をつくると同時に「変異=変化」で変わっていくことで続いてきた、という本質にまで著者は言及していきます。「在来の生態系を変えてはいけない」というけれど、実際は少しずつ変わっていくもの。「人間は今の自分を守りたいもの」というところまでつなげて考えた著者の言葉にもドキリとさせられました。「自分の作り上げたもの」「いまのわかっている状態」を護りたい、という性質を持っている。ここまで来ると「人間性」を考える哲学の本にも思えてきました。読んでいくとどうしても「外国人受け入れ問題」と被ってしまうところも多かったのが事実です。
考えてみれば外来種の中には「荒れた土地を緑に戻す」ために導入されたものもあれば、「綺麗な花」だからと園芸用に持ってこられた物だってあります。人間の都合で連れてこられたもの、知らないうちに連れてきちゃったもの。結局はそこにいる「人間の都合」で歓迎されたり悪者になったりしているようにも思えます。
外来種の力で変化してできる「新しい自然」。原題のThe New Wild:Why Invasive species will be nature's salvation by Fred Pearceはこういうことなのですね。
かなり刺激的な意見もあるので、索引などから調べ直す必要があるものもありそうです。きちんと索引(英語ですが)があるのはありがたいですが、いかんせんものすごく文字が縮小されていて読みづらい。年配者にはつらいところです。
解説を書いている岸由二さんは、三浦半島の小網代の谷の自然づくりにも携わっているかたで、著者よりの意見です。「現代生態学の核心的なテーマを扱う不思議な本」 P314とまで解説しています。この文章も併せて読む価値あり、です。
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全てを悪者にしないで。
2016/11/17 21:05
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投稿者:ロン - この投稿者のレビュー一覧を見る
外来生物は悪というレッテルは良くないことを改めて、認識できる本です。侵略的外来生物は駆除する必要がありますが、それ以外は、共存していくことが大切です。
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原題は"The New Wild"、「新しい野生」(邦題の副題)である。
外来種に留まらず、生態学やその成立背景自体に斬り込んでいくような、ラジカルでスリリングな1冊。
外来生物というと、とかく「悪者」というイメージが強い。
しかし本当にそうだろうか?
地球上の生物たちは、ごく単純なものから進化し、多種多様なものが生まれてきた。けれどもすべての種が生き残ってきたわけではない。環境に順応できず、うまく集団を維持できなかったものもいる。ある程度は適応していたが、ライバルとの競争に負け、次第に減っていったものもいる。気温や地形などの環境の急激な変化により、絶滅してしまったものもいる。
地球が大きな環境変化を繰り返す中、生き残る運と力のあるものが生き延び、生物は連綿と続いてきた。
火山灰に覆われ、あるいは氷に閉ざされ、あるいは隕石で一帯がなぎ払われ、すべてのものが死に絶えた後であっても、時が経てば、周囲から生物が入り込み、また生命活動が営まれるようになった。その際、やってくるものはすべて「新参者」=外来種だ。
長いスパンで見たとき、「在来種」と「外来種」の違いはどれだけ明確にできるのか、いや、そもそもそんな区別はできないのではないか。その点がまず1つ本書の要である。
外来種は生物多様性にとってマイナスであるという主張もよく見られるものである。
著者はこれにも疑問を呈する。
外来種はむしろ、生態系に多様性を生んできた。多様な植物が入り込むことで、その植物を餌にする他の動物も入り込み、生態系はより「豊か」になる。
とかく侵略性の高い外来種が槍玉に挙げられるが、多くの場合、外来種はむしろ「平和裡」に入り込んでいる。フランス原産のスノードロップ、バルカン半島原産のセイヨウトチノキは、イギリスでは一般に在来種と思われているが、元は外来種である。
しかし、そうはいってもものすごい勢いではびこる外来種はいるではないかという声も上がろう。
これに対する著者の反論の柱は2つである。1つは、外来種の害を恣意的に水増しする傾向があること。もう1つは、外来種がはびこる環境は、そもそも環境自体に問題があることである。
外来種の害は、往々にして、局地的である。一番被害の大きな部分をクローズアップして、その値を全地域に当てはめるといった乱暴な試算がなされがちだという。例えば、イギリスでは日本原産のイタドリは建物の基礎部分を破壊するとして忌み嫌われている。だが、実際に被害が出るほどイタドリが多いのは南部の町のごく限られた地域である。この地域では、家を建てる前に、敷地内にイタドリが見つかったら駆除しなければならないという決まりがある(よその地域にはない)。つまり、掛かる費用は実際の被害額というより予防対策費である。さらには、この地域の駆除費から、単純に比例計算して、プラスαを水増しし、イギリス全土の被害額を算出している。こうして実態よりも著しく多い額が被害額とされる。
一方、外来種がはびこる環境は、そもそも環境自体がバランスを崩していることが多い。みんなが平和に仲良く暮らしていたところに1人���乱暴者がずかずか入り込んでやりたい放題やるわけではない。例えば都市部で、基盤の脆弱なところにたまたまその環境に適応しやすいものがわっと広がる。そうした場合は、その種が山野にまで広がっていくことは少ないという。場合によっては、「外来種」が、荒れた環境を豊かに戻すことに一役買うこともあるとも考えられる。
人々の中には、「太古の自然」とか「手つかずの自然」という漠然としたイメージがあるが、これも実は根拠が薄い。
アフリカのサバンナはいかにも大自然というイメージがあるが、著者によるとこれはごく最近生まれた風景である。19世紀までは、アフリカ大陸では広く放牧が行われ、これが経済的な基盤ともなっていた。19世紀終盤、列強の進出に伴って、牛疫ウイルスが持ち込まれた。ウシが全滅状態となり、飢饉が広がった。草を食べるウシがいなくなったため、草が生い茂り、灌木の茂みも出来た。そこへ、野生動物たちが戻ってきた。
サバンナの風景は、太古からずっと続いてきたわけではなかったのである。
著者は、外来種が実態以上に叩かれる原因として、よそ者排除の傾向を挙げている。移民を排斥しようとする意識と根は同じだ。「既得権益」を守ろうとする旧勢力。だが、歴史の長さに長短はあれ、所詮は皆、よそ者だったとしたら、いったい何を根拠に新参者を排除するのか。
諸々を受け、著者の結論は、端的に、「自然に委ねよ」である。外来種を除こうと徒に努めることなく、自然の浄化作用に任せ、入るものは拒まず、バランスが落ち着くまで待てばよいではないか、というわけである。それこそが「新しい野生」になるだろう。
無為無策に過ごせ、というわけではない。その心構えで当たれ、ということだろう。
全般に非常におもしろく、説得力もあるとは感じたのだが、引っかかる点は2点。
1つは、外来種排除派も極端だとするなら、著者の論もまた、都合のよい各論しか取り上げていないのではないかということ。
もう1つは、無策ではないというが、ではどうするのかという具体的な提案が見えてこないこと。
人の行き来が昔とは比べものにならないほど活発になり、それに伴い、移動する生物種も増える。急激すぎる外来種の蔓延はやはりあるのではないかと思う。人為的に生じた移動には、人為的な対策もある程度は必要ではないのか。
とはいえ、外来種対策が一般にあまりうまくいっていないのは確かなように思われる。
旧態依然の対策に一考を促す点で、本書の意義は大きいと思う。
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そもそも在来種とは何なのか、その地域に古来より生育する生物なれども、古来ってどの時点なのか。鳥獣や風は種子や微生物を運ぶし、海洋でさえ魚や流木がその役目を担う。人為に因るか否かで外来種と区別する向きもあるが、定義が曖昧だ。要は純粋な在来種なんてないに等しい中で、現在の自然保護のあり方に異議を唱える。二分法的な語りに疑問もあるが、外来種すなわち悪という短絡的な思考は誤っていそうだ。我われが日々食べている国産の食材、たとえば野菜だってほぼすべて外来種なんだよなあ。
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いや、考えさせられます。
日本で「悪者扱いされている外来種」と言うと真っ先に思い浮かぶのはブラックバスとブルーギルではないかと思いますが、残念ながらその2つは取り上げられていませんが(著者がイギリス人であることもあり)、非常に多くの外来生物の事例が取り上げられています。
そこから言えることは、確かに外来種が生態系に壊滅的な打撃を与える例はある。ただ、実際には逆の例も多い。つまり、外来種によって生態系が破壊されるのではなく、破壊された生態系に外来種がうまくはまっただけであり、逆にそれにより生態系が活性化し生物多様化が進む…
多くの人間が勘違いしがちなのは、生態系を「静的なもの」と捉えてしまうこと。
実際には生態系は長い年月の間では絶えず変化しており、「純粋な在来種」などというものはほとんど存在しないともいえる…
確かなことは、外来種を排除すればかつての生態系が戻って来るという訳ではないということ。
生態系に最も影響を与えているのは人間の活動であり、安易に外来種を悪者に仕立て上げることはむしろ自然界に起きていることを間違えて捉えてしまうことになり兼ねない…ということをしみじみと感じた次第です。
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▼外来種=悪という固定観念のバカの壁を打ち壊す本。読むと賢くなった気分になります。
▼手付かずの自然というものは幻想である。アマゾンの熱帯雨林さえも一度は人の手が入ったものであった。たとえ人の手が入っても自然は時間をかけてあるが侭に振る舞い、環境に合わせた復元を行う。
▼在来種と外来種の区別はどこでつけるのか?在来種と思われていたものは、数百年前に侵入して来た外来種だった。
▼外来種が常に勝利しているわけではない。むしろ在来種に敗北していることの方が多い。外来種が定着するスペースは、人間による環境撹乱によって作られたのだ。
▼正しい環境保護、保全、復元とはなんだろうか。気温、降水、生物構成は変化を続けているのに、或る一時代を指してその環境を復元すべき理想と見做すことは、保護に見せかけた撹乱ではないだろうか。
▼自然は人間が考えているように受身でか弱いものではなく、図々しく強かなものではないだろうか。外来種を受け入れた方が、豊かな多様性が育まれている。変化するということこそが、自然であることなのだ。
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人新世、この世界はすでに腐海に覆われており、腐海は全世界を浄化している。的なジブリ的喩えが浮かぶ。
侵略的外来種とされるケースの多くが、すでに人間の汚染によって破壊された生態系に入り込んで適応しただけであり、そればかりかある種の環境浄化をしているという主張。
外来種より、人間という侵略種そのものが致命的に生態系を破壊しているという圧倒的事実。その観点に立ち戻り、外来種排除の原理主義に陥らずにあくまで人間視点で最善のバランスポイントを見つけるべきだとする考え方。
外来種問題を観測と分析無しに感情論で述べるのは、移民排斥論と同根ということなのだろう。
そもそもの「在来種」という考え方への疑問。ヨーロッパ、北アメリカは1万年前まで氷に覆われており、今ある自然はその氷が消えた後に復活したり新たに到来したもの。大きな時間の流れの中ではそもそも在来種というものが存在しない。
外来種の排除はあくまで人間中心の功利主義あるいはノスタルジーであり、崇高な使命ではないということ。原理主義に陥らず「今、目の前の環境が美しくてバランスが取れているように見えるので、私が生きてる間くらいはこのバランスを保ちたい」というくらいの認識で外来種に対応するのが良いのかもしれない。
ただ「絶滅するやつぁほっとけ」っていうのは何だか嫌だな。
近代工業によって荒廃した土地が年を経て豊かな自然を取り戻す、これもまたジブリ感があり。
筆者の書内で警告しているが、こういった自然の復原力の強さを、公害・汚染の免罪符に使うことは断じて許されない。
自然は壊れやすく、一度変化した生態系は二度と元には戻らない。ただし、違う形でたくましく甦る。
現状把握、原理的環境主義への警鐘には首肯できるが、都合の悪い外来種まで放置せよという論には与することができない。アルゼンチンアリ、ホテイアオイ、ブラックバス、シロアリだらけの日本はやっぱり嫌だな。
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『エコロジカル・フィッティング』という考え方。
秩序ある自然、本来の姿、自然回帰、手つかずの自然。
在来植物と外来植物、何がどうあったら理想的とするのだろう。人の手をかけて、膨大な経費と人力をかけて、自然に介入し本来の姿を取り戻す、、というが、本来とは?最近の新しい研究では、手つかずの自然という場所はほとんど皆無ということがわかってきた。アマゾンのジャングルでさえ、何千年前、1万年前という時代に、すでに人の手が加わり、焼畑などをして食料を育てていた形跡がしっかり残ることがわかっている。アフリカもしかり、原始の姿という、ロマンティックな幻想は単にそうであってほしいという夢の姿。人は古くから、食料として採取した動植物を、タネをまいたり、飼育していたとわかった。そして、育ちにくくなると、その土地を捨てて、または休眠させ、他の場所に移動した。その場所は、自然のあらゆる個がその特性で繁殖し、それを食べる動物が集まり、、と新しいバランスで動植物の世界を作ってしまう。現代でも薬品や化学物質などで汚染されたブラックフィールド、ブラウンフィールドでさえ、そこの土地に対応できる動植物がまず先陣を切って入り込み、自然が活発になり始めると、そこに再び対応できなかった在来植物などが外来植物らとともに、新しい自然体系を作り上げる。それは人間が守ってやった世界ではなく、強い生命力にあふれた様々な個が己の命のために、活躍の場を作るのだった。自然からしたら、人こそが天候などの自然の変化以上に、種子、動物、細菌まで唐突に変化の嵐を持ち込む外敵であり、それさえも、動植物は、受け入れ、対応し変化するのだ。ちいさなクエスチョンがいつも頭の隅にあったのだが、大きく「ガッテン!」できる情報が満載の1冊。たくさんの疑問に答えられる1冊でもある。おすすめ。
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序文からワクワクが止まらない
環境保護が自然を破壊している、と言える場合もある
旧来の生態系学者も環境保護団体も自然に人間社会や物語、神聖性などを投影している
だから外来種を悪と決めつけ、正義の戦いをしたがる
それは人間目線のものでしかなく、自然はもっとめちゃくちゃなものだと分かる。
外来種と在来種という区別自体がナンセンス
自然は常に変化している。変化しているのが自然ともいえる。
この世に「手つかずの自然」などというものは存在しない
人間の活動で一時的に激変することもあるが、森なんかは50年ぐらいで戻ることも多い
津波で失われた生態系がすぐに戻ったように。
我々の知らないことを知っている研究者がいっぱいいることに驚く
結局、広く出回るのには時間差があるんだろう
外来在来を越えた新しい生態系の概念が必要だ
新世代の科学者たちによってそれは始まりつつある
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468-ピア
300524451
ずばり、軽く(?)読める本かと。
自然保護の視点では在来種を守ることが「善」であり、外来種は無条件に排除すべきだといいます。
一方で生態系はいろいろな種が外から入ってきて、在来種と入れ替わったり交雑したりして新たな多様性を生み出してきました。ゆえに生態系は常に変遷する-それがこの本の主題でしょう。
実はそれぞれどちらをとるかが、経済・産業にも大きく影響しています。
賛否両論ありますが、両者の視点で見てみると、考え方の違いがおもしろくなってきます。
ものの見方って、一方からではなく他方から見た時に、まったく違う発見があるものです。
いろいろな場面で同様です。
試験に合格するための勉強…いやいや、見方を変えてみてもよいかもしれません。
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「手付かずの自然」などない。
これが分かっただけでも価値がある。
本当にワクワクする知的好奇心が刺激される良書。
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よかった。グローバル化に関心があったから購入。確かにブラックバスなど外来種は悪という価値観はあった。でも言われてみればと思う感じ。事例が述べてあって疲れたけど、一つの意見。まだ何が正しいのかわからないけど、恐竜の時代とか考えても、長いスパンでみれば、この考え方は正しいのかなとは思う。人間も含め絶滅した後にまた新しい種も出てくるだろう。おもしろかった。
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自然は劇的に変わるタイミングを待っている、外来種が入ってきていつのまにか消えることもある、などなど今まで自分にはなかったものの考え方でおもしろかった。しかし、これだけ例を並べられてもやはり、身近でヒメマスがブラックバスに駆逐されていたら外来種が憎いと思う。自分の考えはなかなか変わらないものだと実感した一冊。。。
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(01)
面白い、というのは、この本は大いに笑える(*02)という点で面白い。
確かに邦題は煽りが過ぎている。悪者かどうか、という価値観に著者の主張がそれほど左右されているわけではない。この邦題は、原題の方にある副題"Why Invasive species will be nature's salvation"(外来種が自然界の救世主たりうるわけ)の反語表現にあたり、「新しい野生」"THE NEW WILD"には価値観は表明されているが、煽りはないといえるだろう。
したがって、煽り文句の「悪者」に殊更反応する必要はないが、しかし、本来の副題からしても、そこには、西洋の自然や野生に対する価値観、あるいは本書においても言及されているようにキリスト教的価値観に与えたダーウィニズムの問題、そして、外来で侵略的でも救世主でもある「ジーザス」こそが、新しいエデンを創造するという宗教的な読み方まで含まれている。
(02)
シニカルな物語、という点で本書に多数収められた説話は、悲しくもあり、とりわけ、現場から遠く離れた島国(*03)から冷めて眺めれば、笑えもする。その点で、愉快な小噺集としても読めるだろう。
それらの話が、現実か、科学か、捏造か、偏見か、という問題は、この分野に熱心に失心している世界のとある部分のごく少数の人類にとっては大いに問題ではあるが、さしずめ、大多数の人類にとって、この世界のこの野生は、まるでもともとの自然であり摂理(*04)であるかのようにさりげなく進行するので、真偽を論ずるまでもない。つまり、話が面白ければよいのであって、そこにある社会的問題や科学的問題は人類に関係がありはするが、関係ないものとして神視点から、話を楽しむことも可能だろう。
(03)
外来、というのが社会の問題であるのか、自然の問題であるのか、あるいは、有史以前の問題であるのか、歴史の問題であるのか、という視点で生態学、特に保護的な生態学の100年は進んだ。その100年でも世界では様々な外来種の侵攻や殲滅が進んでおり、実は、それより長いタイムスパンで、例えば1,000年、あるいは10,000年というスパンでも自然と思ってたものが、純でうぶな自然ではなく、社会に侵されたものであったという見解も本書では示されている。
例えば、柳田國男の「雪国の春」は、椿という種を通じて社会に寄生した自然の萌芽がこの島国にも芽生えていたことを伝えてくれている。つまり、人類が対象としてきた自然は社会的でもあり、社会はいつも変幻自在の自然とともにあったことも本書の数々のエピソードから読み取ることができる。
(04)
生態系のシステム論としても、本書は入門的なテキストとなる。共進化という旧モデルに対する新モデルとして提唱されるエコロジカルフィッティングというメカニズムや、そこに見られる自己組織化と「行きあたりばったり」の種の戦略は、読んでいて痛快である。
もちろん、「行きあたりばったり」で読者が連想するのは、レヴィ=ストロースが「野生の思考」で示したブリコラージュという思考機械である。この「行きあたりばったり」の言語学における展開(それは精密なものでなくても見の回りにもある方言や造語のような展開)も興味深いが、伝統的な建築にお���る保存とは何か、生きられた家とは何か、という問題にも通じており、人類学、言語学、建築学からも読まれてみてもよい良書と言える。