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拾得さんのレビュー一覧

投稿者:拾得

193 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本逝きし世の面影

2007/10/10 00:01

美しき読書体験

36人中、35人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すでに多くの人に絶賛された本書について改めて述べることはややむずかしい。本書は、幕末から明治前半くらいまでに日本を訪れた異邦人(といってもほとんどは欧米人)による訪問記や見聞録をもとに、江戸という文明の再現を試みた著作である。
 「江戸ブーム」といわれるになって久しいが、江戸の扱い方・位置づけは意外に複雑だ。明治以来の「坂の上の雲」的な近代化をよしとする立場からは、江戸は停滞し否定・克服すべき対象であったことになる。一方、その江戸こそが明治以来の近代化の礎を準備した豊かさそして、「近代」でもあったとする見方も優勢になってきている。さらに、現代がまなぶべき江戸の知恵を汲み取ろうとする紹介のされ方も小さくない。
 本書はそのいずれの立場もとらない。江戸とはすでに滅亡した(させられた)「ユニークな文明」であったとするものである。それは、上に見た立場が、実利的な観点から江戸を評価・位置づけようとしているのとは全く異なるものである。
 同時代に来日・滞日した異邦人による記録を活用し、紹介・引用するものは少なくない。しかし、著者の徹底した姿勢は他を寄せ付けないだろう。未邦訳のものを含め、多数の記録に目を通し、さらにそれらを「親和と礼節」「労働と身体」「自由と身分」「裸体と性」「女の位相」「子どもの楽園」・・・といった具合に、人々の性向から、自然、信仰のあり方や自然や生物との関係性まで、ありとあらゆるテーマに分けて、その記述を再構成していることである。手抜きのない労作である。読者は個々の著者の個性に躍らさられることなく、再現される文明に接することができる(一部、日本人自身による回想録もある。有名なところでは『銀の匙』など)。
 理屈からいうと、「オリエンタリズム」や「ポストコロニアル」といった思潮が論壇・学界で欠かせないものとなった現在において、本書の評価もむずかしい(そのために著者はややくどい1章分を割かざるをえなかった)。しかし、一読者としては、本書は理屈なしに楽しい読書体験をもたらしてくれる。異邦人がかつて記したように、まるで「お伽噺」の国にいるような感覚を味わえ、あえてゆっくりと読んだものである。それは、時代小説・劇やドラマなどとは全く異なる体験であった。まさしく、本書の帯に記されているように「美しい国ならここにある」のである。
 読者は理屈はさしおいて本書の読書体験を楽しまれたい。子ども頃の絵本体験に近いものが得られるかもしれない。そして、そうして楽しめることこそ、いかにわれわれが「逝きし世」から離れてしまったことを実感されたい。

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紙の本

紙の本三陸海岸大津波

2005/09/24 23:53

記憶と記録者の希有な出会い

21人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 最近、岩手県の陸中海岸まで足をのばす機会があり、その予備知識にでも、ということで何の気なしに本書を手に取った。当初、津波を舞台にした歴史小説かと気楽な早とちりをしていたが、1970年の中公新書を親本とするノンフィクションである。一度文庫化され、2004年の3月に再度文庫化された。奇しくもインド洋大津波の直前の再刊である。
 三陸の海岸を何度となく大津波が襲ったことはおぼろげながら知っていた。また、インド洋の大津波の記憶も新しい。それでも、この吉村氏の記録についつい惹き込まれていった。
 本書で取り上げている津波は3つ。明治29年、昭和8年の2つは大きな地震をともなった後を、津波が襲った。昭和35年は、太平洋の向かい側、チリで発生した地震による津波である。吉村氏の筆致は、きわめて冷静で記録者に徹し、多種多様な記録を集めている。津波直前の異常現象や津波の高さや、当時を知る古老たちの聞き書き、さらには津波直後に学童が書いた作文や、警察署の指令文にまでおよぶ。それらの記録が順番に並べられる時、津波のもつ底知れないおそろしさが、時々刻々と浮かび上がってくるのだ。テレビ等の映像によるものとはまた違う、リアリティが読む者をも襲う。
 吉村氏が取材をはじめた時、明治29年の経験者がまだ健在だったと言う。それゆえの体験の生々しさもあるだろう。しかしそれ以上に、この経験を後世に伝えたいと言う強い思いと、それらを記録したいという強い意志との出会いこそが、この作品を生んだのである。
 「過去の体験に学ぶ」ということはどういうことなのか、と同時に活字のもつ可能性を教えてくれる希有な記録作品である。

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紙の本

紙の本関東大震災 新装版

2011/08/07 23:42

災害下の人心を冷静に見透す記録文学

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 3月11日の東日本大震災以後、同じ著者の「三陸海岸大津波」とともに、改めて広く読まれているのが本書である。たいていの書店には並んで置いてあるようだ。震災以後4ヵ月、関連書籍は数多く積まれている。単に「著名人が何かをちょっと書いた」程度の、首をかしげたくなるような本もあるが、吉村氏の2作は今なおこの国に必須の書といってよいだろう。
 同じ著者が同じ「震災」を扱った本とはいえ、両著は重きの置き方が実はだいぶ異なっている。「三陸」のほうが「証言」と「対処」によって構成されているとするならば、本書の重心は「証言」と「人心」におかれている。災害などを扱っている書を読んでいるとき,懸命かつ適切な対処がなされている記述を読むと、ほっとするものがある。本書でも、バケツリレーで町の類焼を免れた話などがあり、読んでいる方が励まされる。しかし本書で紙幅が費やされているのは、見出しとしても掲げられている「人心の錯乱」である。「あとがき」にあるように、両親の体験談になじんだ著者が「人心の混乱に戦慄した。そうした災害時の人間に対する恐怖感が、私に筆をとらせた最大の動機である」という出発点ゆえでもあろう。
 ここで「人心の錯乱」として、具体的に取り上げられているのは、各種の流言、大杉事件、避難民の生活、犯罪などである。おそらくそれらの中でも、最も大きくかつ複合的なものとして取り上げられているのが、朝鮮人蜂起の流言とこれを信じた自警団などによる朝鮮人虐殺である。すでに歴史上の知識として広く知られてもおり、背景としてどのような心理的要因があったかもしばしば議論されている。また、この混乱の中、日本人自身が殺されたケースもあることも知られている。
 本書ではどのようなルートでこの流言が出まわり、具体事例としてどのようなことがあったのか、また、流言の根拠にもなった日本人自身による略奪行為など、丹念に事実を重ねていく。さらに、流言に踊らされた警察などが電信などで、「事実」として発信したことが、よりこの問題を根深いものにしたこと、そして、事実無根に気がついた警察自身が、これをなんとか消そうとしたものの自身も攻撃の対象にもなったことも書き込まれている。そのように強力にこの流言と虐殺とは広がった。なお、警察発表では被害者は200余名だが、在日団体の地道な調査を参考にした吉野作造らによる計算では1府1市6県で2600名をこえているという。
 さてこう書くと、「パニック時の群集心理は怖い」というように、本書の話が落ち着くかに見える。しかし、本書ではそれ以上の群集心理の分析がなされているわけではない。著者の筆はごく冷静に事実を重ねていく。怒りや嘆きをにじませてもよさそうなのだが、それもない。それがこの著者のふだんからの特徴とも言えるが、どうも本書はちょっと違う。丹念に読むと、「騒擾を好む一部の者」というフレーズが何度か使われていることに気がつく。読み流してしまいそうな決まり文句にも見えるが、パニックに陥っているはずの群衆の中にいる確信犯的な存在を読者に知らしめる。その者たちをこそ、筆者は冷静かつ執拗に追いつめようとしていたのではないか。そんな著者の気魄を感じた。

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紙の本

紙の本海の史劇 改版

2009/04/09 23:47

坂の上に雲はあったか

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「第二次世界大戦であれだけ負けておいて、いまさら戦勝気分に浸れない」という、まったくもって時制を無視した感慨から、「日本海海戦もの」は意識的に遠ざけてきた。ところが、「戦艦武蔵」「陸奥爆沈」「海軍乙事件」「大本営が震えた日」・・・と、独自の戦記物を著わしてきた吉村昭氏が、日本海海戦をとりあげていたことを遅まきながら知って、あわてて手に取った。氏の姿勢は、声高に戦争を非難するわけでも、何かの「理由」を強引に探すわけでもなく、ただ「ひたすらに書く」に尽きる。それでいて読者を考えこませる。対象への知的誠実さとはこのようなことをいうのであろう。
 本書最大の特徴は、日本海海戦を日露双方の視点から交互に描いていることである。むしろ、主人公はロシアの第二太平洋艦隊の司令官ロジェストヴェンスキー提督だといってもよいだろう。新鋭戦艦を中心とする大規模な艦隊がフィンランド湾を出航するところから本書ははじまる。そして、彼が会戦の中で傷つき、「敗軍の将」の捕虜として生き残り、どのようにして本国に帰ったか、まで書き込んである。
 かつて参考書で読んだか、それとも何かの講義で聞いたか、「なぜ日本海海戦で日本が勝ったか(ロシアが負けたか)」の理由の1つに、「ロシアの艦隊は疲れていたから」というのがあげられていた。その時は「アフリカ大陸をぐるっと回ってくれば、そりゃそうだろう」くらいにしか思っていなかったが、本書はその「大航海」を丁寧に再現する。定期的に補給しなければならない石炭と食料、北方のロシア人には不慣れな暑さ、中立国違反という理由でゆっくりと停泊できない港の数々、日本海軍の待ち伏せへの恐怖などなど。少なくない兵士がこの途中で死んでいることも初めて知った。また、この航海そのものが一大事業であったことも改めて伝えられる。アジアに着いた時は、各国の新聞が賛辞を贈ったという。
 最近は、日本海海戦での連合艦隊の「丁字戦法」が取り上げられることが多いが、本書では最小限ふれているにすぎない。むしろ、戦争全体の細部を描くことにこだわっているようだ。二〇三高地での消耗戦やポーツマス講和会議はもとより、日露両国での捕虜の態度と扱い、三笠の爆沈、日比谷焼討ち事件、ロシア捕虜内部での兵士の暴動などなど、予想以上にさまざまなことが盛り込まれている。著者が書きたかったのは、「勝ち負けの理由」などではなく、この戦争そのものなのだ。
 本書は東郷の死をもって閉じられるが、その前に、敗軍の将二人の「その後」も記している。艦隊の提督ロジェストヴェンスキーは、軍法会議で無罪となるも官位は剥奪され、3年後に死亡。旅順の司令官であったステッセルは陸軍軍事裁判で死刑宣告。のちに減刑されシベリア追放。老いて紅茶の行商人になったという。

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紙の本

イルゼに 「きみはいつも耳をかたむけてくれたね。そのとおり書くよ」

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

と、冒頭に付された本書は、芸術史の大家が25歳のときに著わした「世界史」の本です。イルゼとは著者の妹か、親戚か、小さな女の子に向けての話がもとになっているわけですから、そう小難しいことは書いてはありません。ひとつひとつの章は簡潔にまとめられており、ストーリーは明快で読みやすいです。たとえば、ドイツで有名なフリードリヒ伝説も(そして、そのもととなった二人の皇帝についても)語られています。年号やらカナの外国人名・都市名に悩まされた人、さらには未履修問題に翻弄された高校生たちにとっても、とても有り難いものです。しかも、原人の世界から古代ギリシャ・ローマ、さらには第一次大戦の戦後処理まで、味わい深いイラストとともに一気に読ませるのですからお得です。
 著者はウィーン出身で、しかも戦前(第一次大戦)生まれですから、ヨーロッパ中心の世界史になってしまうのは致し方ないことでしょう。それでも彼の東洋への理解と敬意は率直です。カースト社会の中で生まれたゴータマ=ブッダ、漢字の解説、孔子・老子という「偉大な教師」を生んだ「大きな民族」中国、さらには短期で近代化を成し遂げた日本もとりあげています。21世紀の日本人研究者は、これをオリエンタリズムとよんで批判するかもしれません。しかし、彼の語り口はバランス感覚と洞察に富んでいます。たとえば、仏教がキリスト教並みに広がっていることを指摘しつつも、「しかし、ブッダの教えにしたがって生き、こころの凪に到達できる人は少ない。」と辛口にむすんでいます。読みやすい本だからといって、浅い本ではないのです。
 ところで、日本については、「賢明な民族」としつつ「日本人は、世界史のもっともすぐれた生徒であった」と書いていますので、手放しで賞賛しているかに見えます。しかし、その意味合いはやや複雑です。この記述の直前では、ヨーロッパ人が教え込み・売り込んだ大砲で、日本人が当のヨーロッパにも乗り込めるようになったことが書かれているのです。著者はこの「世界史」=ヨーロッパの歴史自身にこそ点が厳しいのです。本書では、ギリシャ・ローマから中世、そして植民地・帝国主義の時代まで、暴力的で野蛮な時代がくり返されてきたことを絶えず嘆いていることがよくわかるでしょう。たとえば、「新しい信仰」=宗教改革についてふれつつも、そのあとにつづくプロテスタントとカトリックの血みどろの争いについては「おぞましい時代」と断じています。
 本書は再刊されるにあたって、ほとんど訂正はなされていないそうです。ひとつの書としての一貫性を大事にしたのと同時に、「歴史を書く」という行為そのものがひとつの歴史の対象となるからです。このあたりの経緯は、「50年後のあとがき」に丁寧に記されています。歴史学研究の深化によって、彼の記述で書き直されるべきところは多々あることでしょう。しかし、なぜ世界史を書かねばならないのか、という点では彼の姿勢はまったく変わっていません。いかに現在の社会に暴力や憎しみが満ちていようとも、それでもなお、寛容さと思いやりのある世界に向けて生きて行かなければならないことを、「若者」には教えていなければならないのです。「それは、努力するに値するものだから」。それが、二度の世界大戦を経験してもなお変わらなかった著者の思いなのです。
 本書を贈られたイルゼは、その後どうなったのだろうかとちょっと気になります。歴史に翻弄されたのかもしれませんし、数々の不運に出会ったかもしれません。それでも、まっすぐなメッセージをおくられた彼女は、きっと幸せだったのだと思います。

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紙の本

偽物のおかしな恋の間にある心情を、

12人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「夕凪の街 桜の国」で、一躍注目を浴びた筆者の新刊である。「夕凪の街」は、「感動モノ」として読まれたようだけれど、私の場合、そのやわらかな描線に大いに惹かれた。彼女の作品の中には、感情を直接に表現することばはあまり出てはこない。けれども、そのふうわりとした線が、さまざまな感情を伝えてくれるのである。
 さて本作は夫婦ものなので、「ほのぼの夫婦愛を売られても・・・」と、二の足を踏んでいた。しかし、そうした予期に大いに反して、楽しめる1冊だった。
 なりゆき(?)で夫婦になることになった壮介と道。定職もなく、金と女性関係にいいかげんそうな夫。そして、そんな夫を責めるわけでもなく淡々と働き日常を送る妻。と書くと「耐え忍ぶ物語」になりそうだ。しかし、そんな夫も時として予想以上のやさしさを見せることもあれば、妻の方はニコニコしながら、予測もつかない行動をとる。かといって、それは昨今はやりの「天然系」や「不思議ちゃん」などとは違う。わかりやすくいえば「何を考えているかわからない」だけなのだが、「何かを考えていそう」でもある。
 3〜4ページ単位の連作の中で、読者の期待を心地よく裏切るさまざまな小さな物語が展開される。「次はいったい何が出てくるか?」を楽しみにしながらページを繰る。もちろんやわらかな描線も健在だ。
 帯では、あとがきの「貴方の心の、現実の華やかな思い出の谷間に、偽物のおかしな恋が小さく居座りますように」とあるけれど、おかしな物語の間にも、何かが心のひだにそっと入ってくる。そしてまた、「この感情は何だろう」と思いながらページを繰り続けるのである。

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紙の本

紙の本百日紅 上

2012/02/26 22:51

もっともっと楽しもう

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ひらひら」を読んでから、気になってしまい、今は亡き杉浦日向子女史の本作を手にとった。葛飾北斎とその娘お栄、居候の池田善次郎(後の渓斎英泉)を主要人物とする漫画である。久しぶりだったが、これまたとても楽しめた。いや、私の趣味をかなりかたちづくったのも、本作品ではなかったかと確認した。
 浮世絵師を扱ったという点を除けば、何かと対照的な2作である。劇画調に対し丸まるとした画風、扱う時代も数十年は離れ、作品の制作年も30年近い開きがある。親分(ごっこ?)が好きな国芳に対し、師匠らしさがあまりない偏屈オヤジの北斎の気質が大いに違うようだ。それでもなお、この二作にはつながりを感じさせる。というか「百日紅」を相当意識して、「ひらひら」が書かれているのではないかと感じた。
 まず、歌川国芳が両方に出ていること。「百日紅」では、まだ前髪のある国芳が、兄弟子国直と共に何度か登場してくる。そればかりではなく、国芳の有名な一枚が、さりげないところで背景としてはめこまれていた。これは驚いた。その国直は、歌川派に属しつつも、北斎の画風に惹かれる姿が描かれている。くわえて「豊国と北斎」の章では、両者の画風のちがいをさりげなく解説してくれている。
 「ひらひら」の時代には、北斎だけではなく英泉もすでに死んでいるのだが、さりげない会話で英泉が話題にされていること。英泉も「ひらひら」の主人公・伝八も武家出身である。
 北斎の本名は「鉄蔵」。そう、「ひらひら」の作家の筆名である。
 そんなつながりを楽しむ「余録」があった再読だけれど、もちろん、そんなことを気にしなくても楽しめる。偏屈オヤジと、そんな彼に「アゴ」と呼ばれる娘、女好きの遊び人の善ちゃん。そんな3人の「浮世」が、30話文庫版2冊で描かれていく。ただし、こちらの浮世は「怪」に密接に隣接していることが多いようだ。そんな怪とふつうにつきあいながら、日常と画業が営まれている。改めて見ると各話の扉には、北斎や栄泉の浮世絵が模写されている。これももう一つの楽しみである。
 初読のときは、絵師としてはまだ駆け出しのお栄と杉浦さん自身の姿を勝手に重ねて読み込んでいた。しかし、実の娘にテツゾーと呼ばれる父北斎もまた、葛藤の中にあるように感じた。仕事の依頼も少なくなく、名声もすでに高まっていたはずの時期である。意に添わない仕事は引き受けず、偏屈さも通すことができたわけである。しかし、それでもなお、自分の画業に満足しきっていないような、そんな雰囲気が垣間見える。孤高を通せたわけでもない。そんな3人の機微が楽しめる、そんな贅沢な1冊である。
 杉浦さんが早世されて何年だろうか。漫画家を「隠居」した時にも多くの人が嘆いたけれど、こんな贅沢な作品を残してくれたのだ。もっともっと楽しもう。

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紙の本

エンペラーズホリデー

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 映画「英国王のスピーチ」は面白かった。よく考えてみれば、旧敵国の宣戦布告スピーチがクライマックスな訳で、そこを日本人が興味深くみれてしまうのも妙な話だが、そうした大状況の中での、一個人の孤独な戦いをよく映像化できていた。そのジョージ6世の娘を描いた「クイーン」も面白かった。日本でも同じような映画ができないものだろうかと思ったら、ちょうとよい格好の「青年」がいた。
 20歳前後の青年が海外旅行をするのは、今となっては珍しくもないが、彼の父も祖父も海外に出たことはなかった。自分が初めてである。おつきの者に囲まれるのは国内にいるときと変わらないにしても、その程度は全然異なり、解放感を大いに感じることができた。何より、日本で会うことのできない、多くの海外の人にも会うことができた。皆、きちんと遇してくれた。「外に出る」ということについては、さんざん心配されたが、「習うより慣れろ」ということなのだろう、大方無難にこなせたし、この半年で自分の成長を感じることができた。これから担う「仕事」では、自分の理想が少しずつでも活かせるようになるのではないか。
 その青年は帰路の船上で、こんな感じで大いに希望に胸をふくらませていたのではないだろうか。本書では、そんな一青年の教育環境からはじまり、記者会見、周囲の者の回顧録や政治状況といったものから、その一生を描いていく。没後20年をこえたが、おもいのほか、さまざまな資料が出まわるようになり、興味深い逸話や発言も多く収録されている。それだけでも興味深いが、それ以上に著者のストーリーテリングもうまい。
 私の頃の昭和天皇イメージとは、なにより「感情を表に出さない人物」だった。長年仕えた侍従が亡くなったときの受け答えも「あ、そう」だったという報道がされたこともある。「天皇」とはそういう存在なのだと思った。しかし、それは「長い戦後」を生きてきたがゆえの言動とも解釈できる。近代戦における「敗戦国」の元首が無傷で残ったのは、おそらく「彼」だけだろう。もちろん、それだけに背負うものが多くなったのでもある。
 本書によると、昭和天皇は、かなり頻繁にさまざまな積極的な発言・言動をしている。初期からの侍従が引退するときには「泣いた」とも言う。戦後の発言も意外に多く積極的だ。ただ、報道されなかっただけである。弟の発言に不満をもって、それを解消する意図もあって、回顧録の続編「拝聴禄」を入江侍従長と作成していたのは、とても人間臭く、かえって微笑ましい。
 「『理性の君主』の孤独」というサブタイトルがうかがええるように、筆者の基本線は、大正デモクラシーという時代の子として昭和天皇という位置づけといってよいだろう。洋行帰り以後の宮中改革からはじまり、文字通りの立憲君主制の理想への気概も小さくなかったはずだ。ところが、周囲にいたはずの政党政治の選良たちもいつしか亡くなり、時代とともにその「同志」は減っていったわけである。また本書から改めて気づかされるのが、大衆社会化の影響である。昭和天皇の報道のされ方によるイメージ形成から、天皇自身がごく若いころから「新聞をよく読む」という習慣を身につけるている点など、興味深い。
 かの英国王がスピーチをしなくてはならなかったのと、事情と似ているところもあれば、異なる部分もある。ただし、両者ともかなり生真面目に自らの役割をまっとうしようとしている。英国王はそれゆえに死期が早まったともされる。日本の彼は、「その後」の長い人生を生きることになった。そんな彼を支える思い出の一つが、一青年としての海外旅行だったという。
 もしその青年の映画をつくるのであれば、「エンペラーズホリデー」と名づけてみたい。

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紙の本

紙の本白い航跡 新装版 上

2011/01/17 22:16

リアル『仁』の世界

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ちょうど1年前、ドラマ『仁』にはまった。昨年末にも再放送があり、また、はまった。西暦2000年に生きる脳外科医・南方仁が、幕末にタイムスリップしてしまう話である。幕末という限られた条件下で、現代の医学知識でもって医療に挑む。こう書いてしまうと、未来の医者が全能の神のように活躍するのかとも感じられ、物語としては「反則」という気がしなくもない。しかしドラマ版では、原作漫画以上に、そこに主人公の迷いや陰を持ち込んで、より陰影を深めていたようだ。
 そんな「未来から来た医者」を、当時の人々はどう見たか。たいていの人にとっては、「神」のように見えたかもしれない。しかし、ドラマとしての面白さのひとつに、彼の実力をそれぞれに認めた同時代の医師たちの存在がある。神がかって、自分たちよりはるかに進んでいるものの、同じ医者として見ている。そのうえでそれぞれが「どうふるまうか」がドラマになっていくわけでもある。
 東西の異文化接触であった幕末〜明治の日本では、大なり小なりそんな出来事が実際に繰り広げられていたのではないだろうか。本書「白い航跡」もそんなエピソードからはじまる。薩摩藩軍団付きの医師・高木兼寛は、戊辰戦争の折、転戦してついてに奥州会津まで従軍する。戦闘の激しさは、負傷者も増やす。武器の変化は傷も変える訳で、今までの技術が陳腐化するきっかけともなったという。救えるはずの人命を救えない、そんな自らの医師としての無力さを感じる。そんな時に、外国人医師から直接学んだ医師の活躍を耳にしたり、さらに公使館付きの医師ながら、この時期の戦場で医療にあたったイギリス人医師ウィリスに出会うことになる。そこに彼は自らの進むべき道を見出していくのである。
 この高木兼寛とは、その後、海軍軍医となり、脚気予防に大いに功績があった。また、慈恵会医科大学を創設するなど、日本の医学会の黎明を支えた大人物である。同時代の陸軍軍医には、文豪・森鴎外がいる。両者は「脚気論争」におけるライバルである。森は終世自説を曲げなかったとはいえ、高木こそが実質的な勝利者であり、世界的にも高く評価された。
 本書はそんな彼の個人史を淡々と追っていく。その輝かしいまでの経歴に比し、次々と子どもを亡くすなど、医師として皮肉な人生をおくらざるを得なかったことが痛ましい。神は乗り越えられる試練しか与えない、とはドラマ『仁』での決まり台詞だが、厳しすぎる試練もまた、たまらない。

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紙の本

紙の本昭和史 1926−1945

2010/05/05 23:28

昭和政治史の教科書:ここから学びはじめても遅くはない。

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 すでに多くのひとが紹介している本書を、あらためてここでとりあげるのは、少し気が引けるのだけれど、戦争へと至る昭和政治史を理解するにあたってはたいへん手頃な本である。読みやすいだけではなく、各種の一次資料などかなり細かい資料にもあたっており、とても勉強になる。
 昭和の政治を論じる際は、政治主体としての軍部の存在と役割が注目されるが、本書では昭和天皇およびその周辺の元老・重臣の役割についてもよく知ることができる。開戦内閣およびA級戦犯としての東條英機は、実は彼の存在と役割はごく限られたものにすぎないことがよくわかる。戦争へと至るプロセスという意味では、元老・重臣の役割と責任がもっと重かったのではないだろうか。
 さて、戦争へと至る昭和の政治過程について論じたり、読んだりするのはどうしても気が重い。どのように書いても「左・右」からの批判や曲解から免れないからである。結果、どちらかの論に安住した方が論者としては「安全」となる。しかし、それでは思考停止だろう。以前、山本七平がこの時期の政治過程を動かしていたものを、「空気」ととらえたことがある。卓抜な表現ではあったが、「その後」の論者はこの「空気」の解明にこそ踏み込む必要があるはずだ。最近になって「海軍反省会」の資料が刊行されるように、議論の俎上にのぼっていない資料や事柄はまだまだある。また、既知のこととはいえ、広く知られるべきこともある。吉村昭氏も取り上げているが、日米開戦直前には中立国タイと一時的とはいえ交戦状態に入っている。いくつかの不運が重なったとはいえ、あまりに手際がわるすぎたのではないか(いや、タイを見くびっていたのではないか)。こんな話を知ると、「日本はほんとに世界を相手に戦ってしまうつもりだったのか」と暗澹たる思いにかられる。本書はこれからの議論の出発点になるはずだ。
 ところで、本書を読んで最も印象深かったのは、226事件において襲われた重臣の妻たちのエピソードである。問答無用で襲われた中にあって示したその毅然とした態度は、暗い昭和政治史の中で、「ほっ」とするものがある。昭和の日本を救ったのは、実は彼女たちだったのかもしれない。

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紙の本

紙の本フロスト気質 上

2008/09/12 00:17

諸君、「感じるんだよ、直感でわかるんだ」 フロスト警部は。

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 7年ぶりのフロストシリーズの翻訳。多くのファンが待ちこがれていたはずだ。そして、フロスト警部は相変わらずだ。お下劣な発言を連発し、机の上は整理されず、署長の煙草をくすねてみては、デスクワークはあとまわし・・・。休暇の合間に立ち寄ったデントン警察署では、管内で事件が立て続けに発生し、フロスト警部はまたまた怒濤の数日を過ごすことになる。ミステリーというと奇怪な事件が起き、それを名探偵が鮮やかに解いたりするそうだが、本シリーズにはその片鱗もない。華麗な推理とはほど遠く、行き当たりばったりのようなドタバタとした捜査が続く。部下のみならず読者もそれにひきまわされるのも相変わらず。今までの作品とパターンは大して変わらない。それでもいいのである。いや、それがいいのである。
 本書がおさめられている「創元推理文庫」の刊行目録には、〈本格〉、〈ハードボイルド〉、・・・といった分類が記されており、読者はこれで好きなジャンルの作品が選べる仕掛けになっているようだ。ちなみにフロストシリーズは〈警察小説〉というラベル付けがなされている。確かに、警察署内の人間模様も本シリーズの楽しみの一つである。上司とのやりとり、同僚との仲間意識、セクションごとの駆け引き、新人刑事とのやりとりとその成長、・・・。従来の「刑事もの」とは一線を画し、警察という組織を上手に舞台装置として仕立て上げたストーリーに、日本国内でもドラマ「踊る大捜査線」や、横山秀夫の一連のD警察署の作品群がある。いずれも「警察もの」なのだが、フロストシリーズはどこかが違う。それをなんと表現したらよいか。我らが愛すべきフロストが主人公なのだからとしかいいようがない。そう、フロストシリーズは、「感じるんだよ、直感でわかるんだ」なのである。
 実は、本シリーズで現れる事件もそうそう生やさしいものではない。本作でも、冒頭から少年の誘拐と、別の少年の死体が発見されるなど、忌まわしい出だしである。また、他にも深刻な殺人事件や事故が発生する。そのそれぞれにフロストは嘆き、右往左往もする。しかし、彼はそれを引きずらないし、仕事上からも引きずれない。陽気に部下を叱咤激励して捜査を続けなくてはならないのだから。そのうえ彼は人間だ。実は(時間的には)超人的な働きをしているのだが、煙草も吸えば食事も摂るし、同僚相手にバカ話もする。情にももろいが、自分の欲にも忠実だ。そんな人間臭さを一身に体現したフロストの存在そのものが、事件の深刻さをやわらげているかのようだ。
 ところで、「あとがき」で改めて知ったが、原作者ウィングフィールド氏は昨年亡くなられたそうだ。本邦未訳のフロストシリーズもあと2作となった。だから、われわれフロストファンも、人間臭く言おう、
「お帰りなさい、フロスト警部。さようなら、ウィングフィールドさん。」

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紙の本

紙の本誰のための会社にするか

2006/08/09 23:55

階級社会は親の仇

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 80歳になろうかという老ジャパノロジストが、昨年の好著『働くということ』に続き、日本の会社についての書を、日本語で日本人に向けて世に問うた。醒めた分析視点、バランス良い目配り、そして旺盛な好奇心に支えられた内容は、老大家にありがちな紋切り型に陥らず、前著に続き読み応えのある1冊となった。
 本書は、この十年近く大きく変わってきた、日本の会社のあり方を真正面から扱う。日本の会社観は、日本的経営の想定する準共同体的な会社から、「株主利益の最大化」を至上の目的とする会社へとドラスティックに変わってきた。その象徴が、村上ファンドやホリエモンの登場である。前者に比重をおいた彼の主張はシンプルだが、現在の趨勢を、さまざまな事例を引きながら、その背景にあるものをつかむ視点を与えてくれる。
 彼が最も危惧するのは、「資本主義の型はアメリカ型しかない」と思い込まれてしまうことと言い換えてもよいだろう。この十年の日本では、経済成長とグローバル化への対応のためには、株主利益を中心においた会社経営へ、申し合わせたように変わってきた。社会主義の破綻、さらに長引く不況は、この意見を批判しづらい土壌を用意した。非正規雇用労働者の増加や分配の問題などを素材に、ようやくそれなりの批判も出てきたように思う。むしろ、彼が大きく心配するのは、こうした現象以上に、アメリカ型市場主義万能観のもたらす、思考の枠組みの狭さ、貧困さ、であると感じられた。
 さて、こうした本書の大きな背景テーマの一つが「格差社会」がであることは容易に読み取れよう。しかし、彼がいう格差社会とは、単に「格差が拡大する社会」ではない。文化の「二極分化」、もしくは(貧富の差のある)社会を想像しうる経験・感覚の格差である。しかも、現在進んでいる「階級的団結」とは、個別化された労働者ではなく、グローバル化に乗った経営者によるものなのである。
 彼のこうした感覚、いや志は、彼の生まれた英国階級社会と、戦後に研究対象としてきた(大衆社会である)戦後日本社会とによるところが大きいのだろう。時代に抗ってこそ社会科学研究者。あっぱれ、老大家。

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紙の本

医者でさえ「わかっていない」という状況が実はとても危険だ、ということ。

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 ここ数年、一般向けの統計解説書がよく出版されている。その多くが、「わかりやすい」「数式をつかわなくてもわかる」といったことを謳い文句にしている。そしてもうひとつよく出ているのが、「統計のウソ」を指摘する本である。両者共に、別に間違ったことが書かれているわけではないのだが、問題は「その先」である。自ら使いこなすため、実践に活かすためには、何かを乗り越えて行かなくてはならないわけである。それくらい、われわれは数字にかこまれて生活しているのだから。
 本書もそうした類いの本かと思ったら、さほど簡単ではないはずの話題を、きわめて説得的に解説してみせている。副題にある「ベイズ推定」は、近年、注目されている統計手法だそうだが、そうした言葉を気にすることもなく、すっきりと読みこなせる。
 本書でかなり紙幅を割いて取り上げているのが、乳がん検診の話題である。この点は、次の問題に集約される。ある女性が乳がんであれば、ある検査で陽性となる確率が90%だとする。では、その検査で陽性になった女性が、乳がんである確率は何%か?
 この答えは「90%」ではない。とても簡単そうにみえるが、実はこれだけの情報では問題は解けない。実際には偽陽性の問題があるから、実際にはもっと低くなる。しかし、実際の乳がん検診の現場でが、医者も含めて「90%」と考えてしまっている人が少なくないという。著者は、このために不要なショックや手術を受けてしまっている人が少なくないことを指摘している。さらに踏み込んで、乳がん検診を安易に推奨する最近の風潮に警鐘をならしている。
 いわれてみれば、だいたい「検査」で病気が治るわけではない。これは乳がん検診だけではなく、エイズでも同様である。医者も患者もこのことがわかっていないのだとしたら・・・、われわれは相当に無駄な、そして相当に危険な橋を渡っているのではないだろうか。一方、「難病が治った」「病巣が消えた」などと宣伝する民間療法やら、祈祷やらの話が日本でも出てくるが、問題は同根かもしれない。単にあとで「偽陽性であることがわかった」だけなのかもしれないのだから。
 統計がどうこうという以上に、ひじょうに考えさせる一書であった。著者の問題意識も鮮明なだけに、本来であればもっと一般的な論争を喚起する本ではないのだろうか。その意味でも、類書から群を抜く存在感を見せている。
 

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紙の本

正々堂々経済学者

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 まさしく題名通りの過不足のない本である。何かと奇を衒った書名の本が多い現在にあって、直球勝負のタイトルと内容が爽快である。本書には、誰もがまだ知らない新規な事柄や、何かしらの裏事情がわかるわけではない。むしろ、淡々とした記述が積み重ねられて行く。本書を読んだ経済学者や評論家の中には、「この程度のことなら私も知っている」という人がいるかもしれない。しかし、実際にそれを「書ける」ことは全く別次元の問題である。
 本書を手にとって、「どこかで目にしたことがある」事柄が、誰でもひとつやふたつはあるのではないだろうか。それらをきちんと体系の中に示す。本来、それこそが「本」や「研究」の役割ではなかったろうか。本書が受賞したり評価が高いのも、現在の出版界で、こうした正面から取り組んだ本がそれだけ希有だ、ということにもなるだろう。
 新書判でも400頁近い本書は、第二次大戦後の復興と、経済秩序をどのように作ろうとしたか、といったことからはじまる。先進各国の経済成長、混合経済体制の試み、社会主義、オイルショックといった現代経済史のポイントを確実に抑えていく。ブレトンウッズ体制などいった先進国の話だけではなく、「東アジアの軌跡」やアフリカ大陸の現状までも、きちんと盛り込む。その目配りはひじょうに丹念である。一方で、個々の技術や労働者というミクロレベルへの言及も忘れていない。このあたりは、労働経済学から出発した著者ゆえのバランス感覚だろう。
 そうした細心の配慮にもとづき、ひじょうにわかりやすいものになっており、若干の経済理論的解説を除けば、「高校の教科書」としても十分に使えるのではないだろうか。強いて弱点をあげるのであれば、著者自身も記すように、紙面の制約のために(本書のために準備していた)図表がほとんど掲載されなかったことくらいであろう(ちなみに、図表が豊富なコンパクトな経済史は、日本に限って言えば、正岡の『図説戦後史』ちくま学芸文庫がある)。なおこれは、「次」の企画として期待されるべきであろう。
 さて、本書は単に「網羅性」「わかりやすさ」にこだわっていたわけではない。サブタイトルや「むすびにかえて」に「自由と平等」が入っているように、経済思想的な課題にどう答えるべきか、というところに本書の主眼はある。イデオロギー的な主張をふりかざすのではなく、まずはきちんと読者に戦後世界経済を提示して、「考えてもらう」ことを謙虚にも選択したわけである(経済事情や時勢におもねるような文書を書き散らす自称経済学者Nとは格が違う)。
 なお、著者のスタンスは、社会主義経済の試みについては、実際の歴史をふまえて一貫して否定的であることは当然としても、市場万能という側にも与しない。20世紀初頭の世界恐慌と現在の金融危機とを比較して、「経済学は過去80年の間に確実に進歩した」と記すように、知性による欲望の制御ができる制度を主張している。経済学のみならず、社会科学系の学問が元気がないなかで、著者の精一杯の自己主張である。

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紙の本

紙の本創造の方法学

2009/03/28 00:27

新書のロングセラーにはずれなし

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 手元にあるものは、2004年29刷。1979年刊行なので、ほぼ毎年増刷していることになる。タイトルから推測して、新書に多い「知的生産」系列の本かと思い、ちょっと手をのばしてみた。
 よく知られていることだとは思うのだが、梅棹『知的生産の技術』以来、新書には類書が多く、ロングセラーも多い。川喜田『発想法』、板坂『考える技術・書く技術』、野口『超整理法』など。先頃亡くなった加藤周一氏にも『読書術』という若い頃の名作ハウツー本があるが、これも最初はカッパの本である。いずれも、ハウツーの体裁をとりながらも、自身の考え方をきちんと書き込んでいるせいか、読むだけでも面白い。
 本書もその系譜に属すようなものかと思ったら、著者の専門である社会学をベースに、「研究方法」についてまとめたものであった。また、冒頭から著者の研究歴以上に、運動遍歴も語られ、正直、思い入れたっぷりの話でも読まされるのかとつい感じてしまった。
 しかし、そのはじまりを覆す面白さであった。日本での運動・研究者生活から、アメリカでの研究生活まで、その個人研究史にそって話は進められるものの、因果関係、理論と資料、デュルケームの「自殺論」、数量アプローチ、質的方法、ウェーバー、さらにはベラーやジャーナリズムまで、社会学徒に必要な方法論(もしくは考え方)のエッセンスを手際よくまとめてくれている。基本は社会学ではあるものの、社会学に関心はなくとも、この明快さは他の多くの分野の人にも役立つことだろう。
 とりわけ感心したのは、二変量解析、多変量解析を説明する際に、パンチカードを使って説明していることである。本書刊行時にもすでにパンチカードは時代遅れのものになっていたようだが、「考え方」を解説するには視覚的でわかりやすくなっていることに驚いた。近年のPCとプログラムの普及とで多変量解析は劇的に広がっているが、その考え方が十分に理解されているかどうかはまた別の問題である。数式になじみのない文系学生には有り難い味方だろう。
 当初の見込みとはずいぶんと異なる本ではあったのだが、新書のロングセラーにはずれなし、という感想はゆるぎのないものでもあった。ちなみに略歴をみると著者は81年に50歳で亡くなられている。本書がロングセラーとなることを見ることなく急逝されたのだろうか。合掌。

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