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拾得さんのレビュー一覧

投稿者:拾得

193 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

本「書評ポータル」が閉鎖されるという。残念です。お世話になった御礼に、「本」を扱った書の書評を最後にお贈りしたい。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は、学術出版社4社へのフィールドワークをもとに、出版のあり方さらには学術コミュニケーションについて論じた研究書である。本文だけでも400ページをこえる専門性の高い本とはいえ、フィールドワークをおこなった個別各社も丁寧に紹介されており、出版産業のノンフィクションとしても読めるだろう。扱っている出版社は、社員一人のハーベスト社、本書の刊行元でもある新曜社、学術書としてはかなり大手の有斐閣、大学出版部の中でも老舗かつ大きな東京大学出版会である。著者たち自身が社会学に身を置いているせいか、学術出版一般を対象とする姿勢は見せつつも、議論の焦点としてしばしば想定されているのは、文系のしかも社会学分野といってよいだろう。
 『誰が本を殺すのか』がベストセラーになったことからもわかるように、「本についての本」は意外に多く、読んでいて既視感のようなものもあった。著者の一人である佐藤郁哉氏がかつて著わした『現代演劇のフィールドワーク』のほうが、よく知らない世界だっただけに「新鮮さ」があった。かといって、本書に新味がないわけではない。出版について論じる本の多くは、現場のレポートと論者の論調とが一致していないことが少なくない。『誰が・・・』もかなり期待はずれといってよい部類だろう。紹介されている事例は、それなりによく知られたものであったことにくわえ、その独特の慨嘆調が個別レポートとかみ合っていない印象が強かった。その点、本書では、フィールドワークの成果を「出版のありかた」論に性急につなげるのではなく、「学術コミュニケーション」という枠を設定した上で丁寧に論じている。言い換えれば、本書は、「出版」についてというよりも、日本の学問のあり方をこそ問うている、ともいえるだろう。
 ところで、こうしたフィールドワークの本は、「議論」はさておき「読み物」としても興味深いことが多い。本書で取り上げられている4社について、バラエティに富んだそれぞれの歴史が書き込まれているのが興味深い。「一人出版社」というものが、それが編集者の個人史と重なるのに対し、大きくなるほど組織的な問題をさまざまに経験しているのはあたりまえにしても、こうも明快に対照されると説得力がある。また、「出版不況」は1997年以降とされるものの、本書で取り上げられている有斐閣や東大出版会は、従業員数や新刊刊行点数という側面では、その前に「ピーク」を迎えてしまっていることがわかる。事情はそれぞれ異なるのだろうが、「出版不況」を前に学術出版はすでに別の危機を迎えていたとも推測され、興味が尽きない。また、「面白さ」というので傑作であったのは東大出版会の創立当時の事情だろう。同会は、日本にもユニバーシティプレスをという、当時の南原総長の掛け声で設立されたことはよく知られていよう。ところが、当時は誰もその内実を知らなかったというのである。制度が違えば、大学出版のあり方も当然変わらざるを得ず、それゆえにアイデンティティを模索していくことになったという。時代の変わり目における人間の楽天さを見るようで面白かった。著者たちの意図をこえて、出版を考えるさまざまなヒントが転がっている。
 さて、こうしたフィールドワークをもとにした「議論」となると、なかなか難しい。本書では、「ゲートキーパーとしての編集者」「複合ポートフォリオ戦略」「組織アイデンティティ」というキーコンセプトを提示した上で、その議論を展開しているが、興味がない人には少々めんどうかもしれない。確かに、「売れる本」だけを刊行すれば済むわけでもない、という学術出版のもつ性格をよく描いている。多少、売れゆきが芳しくなくとも、その社を象徴するような刊行物をもつことは、長い目で見ればその社の「のれん」にかかわる大きな強みとなるのである。しかし、それは学術出版に限ったことだろうか。他の出版社も象徴的な「のれん」を欲しているのではないだろうか。
 著者たちの議論とは別に、個々の事例からむしろ見えてくるのは、学術出版といえども意外に「いい加減である」という点である。計画がないわけではないが、計画通りにいくわけでなく、編集者個々人の手腕が組織的・職人的に蓄積されているようで、実はそうでもないようで・・・。出版というものがもつ、本来的な「いい加減さ」というものがかえってよくわかろう。学術出版は、「高尚な世界」に見えるかもしれないが、新聞や一般雑誌とは異なり、編集者自身が「書いている」わけではない。「職人的」といっても、彼らが活字を拾ったりするわけではない。ある種パラドクシカルな存在でもある。計画性や組織性から見れば、本書で著者たちが対比させている「ファスト新書」のほうがはるかに進んでいるといってよいだろう。しかし「進んでいる」からといって、それが「計画通り」に「売れる」わけでもない。
 本書はそうした学術出版のとらえがたさを明快に解きほぐし、明日への処方箋を示してくれる、わけではない。「とらえがたさ」をそのままとらえているといったらよいだろうか。それは著者たちの力不足ではなく、知的誠実さのあらわれなのである。
 


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紙の本

紙の本長嶋有漫画化計画

2012/04/15 22:19

なんとも贅沢な計画

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 自らの作家生活十周年を記念して、自分の作品を様々な漫画家さんに作品化してもらう、というのがこの「計画」の全貌である。私がこの計画を知ったのは、「LOVE書店」というフリーペーパー上の、長嶋自身のコラムであった。「なんと贅沢な(そして、少々身勝手な)」と感じたけれど、「どんなものになるのだろうか」とちょっと楽しみにしていた。長嶋作品のファンではないけれど(実は、読んだものは「1つ」しかない)、気になる試みであった。総勢15人の漫画家の作品がこうしたひとつにまとまってみると、想像した以上に楽しめるものになっていた。大ベテラン荻尾望都による「十時間」から、新人ウラモトユウコによる「サイドカーに犬」まで、バラエティに富んだ漫画家がそろっている。あえて個々の作品の紹介はしないので、実際に手にとって楽しまれたい。
 長嶋作品をほどんど読んでおらず(本書で初めて、映画化されたものを見たことがあるのに気がついたくらい)、15人にのぼる漫画家さんの作品もほとんど読んだことはない(そのうちの一人のファンにすぎない)。それでも、この計画には人をひきつける「何か」がある。一時期、CD界ではやったトリビュートアルバムというのとも、少々異なる「何か」である。本書には「舞台裏」も綴ったコラムが随時挟み込まれており、どのようにこの計画が進められていったのか、がある程度わかるようになっている。「何か」をさぐる手掛かりである。
 「文字」だけの世界とちがって、漫画家ごとのタッチの違いは、作品世界の雰囲気をがらりと変える。漫画家それぞれの個性が際立ってくる、といえようか。また、どうやら原作の忠実な漫画化ばかりではなさそうだ。中には、原作のアナザ—ストーリーとなったものもあるという。かといって漫画家の自由度が高かったかと言うとそうでもないようだ。原作者である長嶋自身が細かな点の要望を出したり、いっしょに打ち合わせをしたり、漫画家を「指名」したりと、なかなか深く関わっている。本人も漫画ファンであり、別名でコラムも書いているという。やはり、本人が一番「楽しんだ」計画なのではないか。そんな「楽しさ」こそが、人をひきつけるのではないだろうか。
 そんなこんな発見をしながら、「今度は、この作品(漫画家)を読んでみようか」と思いつつ、ページを手繰っていた。作品解説や漫画家紹介も丁寧にされているのも大いに参考になる。そう、こうやって様々なファンが様々なまま増殖していくことが、この計画の目的だったのではないだろうか。

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紙の本

足下を見つめる経済論

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 東日本大震災以後、関連書籍の刊行や復刊が相次いだ。その中で気になったのは、「こんなに日本はすごいのだ」式論調の本・雑誌である。なぜ、この時にこの素材でこの論調?と、首をかしげるようなものが見受けられた。「失われた20年」を枕詞にした「こんなにも日本人・日本社会はうちひしがれているのだ」という、一見真逆かのような論調と、共通するものを感じた。いずれの論調にも、当事者に迫りきれていないまま、気軽に結論を提示してしまっている、といえようか。
 本書のタイトルにも、「似たような」匂いを感じてしまう。しかし、扱っているのは、データにもとづいたシンプルな主張である。一言でまとめると、「日本の多くの企業は、グローバル化することで成長することができる」となろう。この種の本は、様々な事例をあれこれ並べるものが多いのに対し、本書はマクロなデータにもとづいて論の展開を試みる。もちろん著者自身も、相関関係と因果関係とのとりちがえについては、再三注意を喚起しているが、興味深いデータが丁寧に拾われている。
 さて、この「グローバル化」というものがくせもので、たいていの人にとって、トヨタのような「大企業の問題」と考えがちである。著者がターゲットとするのは、むしろ中小企業である。中小企業は、海外と取引するのは人的にも手間的にも面倒と考えがちで、それゆえに、グローバル化による成長の可能性を秘めているというわけである。副題にもあるように、そうした企業を「臥龍企業」と著者はよぶ。やや芝居がかった表現ではあるが、方向性を示す役割を強く意識しているからだろう。評論家の論調にかかわらず、黙々と働く人や企業は少なくない。その中から原石を見出すきっかけとなるのであれば、こうした表現もアリだろう。本書の役割も、飛躍しがちな経済議論に対して、足下をきちんと見よ、というメッセージを発するところにあると感じた。
 もちろん、すべての企業がグローバル化で利益を出せるわけではない。そのキーが「つながり」である。思わぬ出会いが、新たな可能性を生むというのである。その交流の基盤として、産業集積さらには特区の重要性が取り上げられていく。一方で、公共投資が生産性の低い企業の存続を許した面を指摘するなど、バランスも忘れない。ただし、産業集積の重要性そのものは、繰り返し指摘されてきたところでもあり、今までの諸実践をどう総括するか、という視点があってもよいかったのではないだろうか。
 あえて不満をいえば、やはり具体事例の少なさであろうか。一部の成功事例の背景には多くの失敗例、さらには生々しい現実があろう。「その中で何をができるのか」を模索している人・企業は数多いはすだ。そうした人々への指南を目指すには、もう一歩何かが必要なのだろう。

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紙の本

紙の本フランチェスコの暗号 上巻

2012/03/20 19:33

彼と彼女との符合

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書については、ここbk1ですでに適確なレビューがついており、付け加えることは
ほとんどないので、ごく個人的な印象まで。
 「ダヴィンチ・コード」の余勢をかって、手にとられた方も多いかもしれない。ただ、本書の「謎解き」の中核となる古書とその背景となる歴史をあまりよく知らないと、「何がなんだか」という思いに、しばしばとらわれた。このような古典読解ミステリー(?)を読むのであれば、「おたから蜜姫」のように、「竹取物語」など日本人に身近なもののほうが、入り込みやすいのではないだろうか。
 それでも本書を手繰る手がとまらなかったのは、謎解きそのものよりも、主人公の彼女ケイティーの存在だった。時に、陰鬱な雰囲気さえ漂わせる謎解きの中で、主人公をとりまく学園生活と彼女の存在は、まばゆい輝きを放っていた。謎解きの深みにはまってしまう主人公と、現実に引き戻そうとする彼女との、この2人の関係がどうなるのか、どうもならないのか、そんな思いで物語を読み進めることになった。
 これがハリウッド映画であれば、「彼女」は常に主人公のそばにいるものだが、現実ではえてしてそうではない。本書でも、彼女は謎解きそのものに深く関わるわけではないし、時に主人公は疎ましくも感じているようにさえ思える。しかし、この物語で欠くべからざる存在であることを確認して、本書を閉じることができた。

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紙の本

紙の本単位のしくみ

2012/03/12 22:33

めくるめく単位の世界

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「単位」にかかわる本を、いくつかまとめて見たことがある。これが意外に沢山ある。現在の基本的な仕組みであるSI単位の解説から、その古今東西の壮大な歴史を垣間見せてくれる本、さまざまな話題をつまみぐいした雑学本まで、色々である。研究者の書いたものは、自分の専門に引き寄せやすいようだ。これに、「測る」「測定」という部分まで広げると、もっと沢山になるだろう。今まであまり目につかなかったのは、図書館や書店では、「物理」の棚に置かれたり、「機械」の棚に置かれたり、と置き場所に困ってきたからではないだろう。精密科学としての物理学に資するべく厳密さを深めていった側面もあり、そのための計器の発達をみれば確かに機械分野にもなる。科学全般に関わるようでいて注目の度合いが今ひとつなのは、「縁の下の力持ち」扱いだからかもしれない。
 そんな数多くの「単位」本のなかで、科学としての側面を理解するのに、手っ取り早いのが、この「図解雑学」シリーズの本書である。刊行されて時も経ち、絶版扱いの本のようだが、もし見つけたら迷わずに入手されたい。著者は、他にも単位の歴史・技術史的な側面の著作も多く、小泉袈裟夫氏とならび、この世界では第一人者といえる。ただし本書では、技術史的な蘊蓄は最小限にしたうえで、なぜ単位が必要なのか、なぜ単位がSI単位に収斂させる必要があったのか、単位の相互の関係性はどのようになっているのか、などなど「単位の仕組み」について丁寧に解説している。
 シリーズ名にもかかわらず、本書の構成と内容は「理科の単位」をきちんと反映している。通例、単位と言えば「度量衡」が中心であるが、理科ではこれに「運動と力」「電気磁気」が必要となることを、明快に構成の上で示してくれている(ただし、著者自身も認めるように、モルなど「化学系」の記述はやや弱い)。本書を手にしていて思い出したのは、高校の理科の講義を受けていて、その扱うスケールが自分の日常から一気に離れていったことである。だからこそ、こうした単位の理解が科学の習得には必要になってくる訳である。
 多くの一般読者を対象に、わかりやすさを考慮して、見開きでの解説と図解を多用してくれている。ここでの図解がすべてうまくいっているかどうかは、私の力量では判断できない。限られた紙面の中で押し込んでいるようなところも散見され、「図解雑学」シリーズとしては、ちょっと難しくなっている部分もあろうかと。けれども、関連する単位の関係を「SIマップ」としてまとめるあたり、なかなかのアイディアと感じた。たいていの辞書や教科書では、「換算表」で済ませているところであろう。
 著者の本領である歴史記述は1章分のみだが、単位の基準が「自然物」と「人工物」とのあいだの揺れ動きで端的に記述するあたり、見通しのよい整理をしてくれる。他書の引き写しのような本では単なる「雑学」になるところを、該博な知識を十分にもった著者が書くと、歴史もきちんとした「しくみ」の記述になる好例かと。もちろん、ファンサービスも忘れておらず、ケプラーの作った標準器の紹介と同時に、ほぼ同じ発想のものとして中国の漢嘉量を並べて示したりもする。
 なお、著者の基本姿勢はSI単位重視であり、「追放されるべき単位」まで立項されている。著者の経歴をみれば、当然の姿勢であろうし、この批判もポンドヤード法を捨てない「アングロサクソン批判」といってよいだろう。実際問題、厳密に整理された単位系だけで生活できる人はいないだろう。廃止されたとはいえ、今でも使い慣れた単位を使う人は少なくない。それぞれの分野の慣習や制度のみならず、スケール感覚からいっても、「手頃な単位」の存在理由はなくならないのだろう。だからこそ、まだまだ単位本が生まれる余地がある訳でもある。
 さて、このあたりのバランスをうまく保っている異色作が、アシモフの「宇宙の測り方」(河出書房)である。さまざまなエピソードを洒脱に紹介しつつ、長さ・広さ・体積・質量・密度・圧力・時間・速度・温度といった基本的な構成の中に盛り込んでいる。さらにそれぞれが大小のスケールに分けてエピソードがまとめられている、スケール感覚も追体験できるしかけになっている。これも刊行から時間が経ち、すでに絶版扱いのようだ。文庫化をぜひ希望したい。

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紙の本

紙の本七人の敵がいる

2012/03/04 18:51

ハードボイルド兼業主婦小説〜続・働く女性の物語

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「働く女性」を主人公とした小説ジャンルの登場は、1980年代半ば以降の総合職導入以後といってよいだろう。サラリーマン小説の伝統は長く、その枠内でのOLとしての登場は少なくないものの、働く女性自身をも小説の受け手と想定した小説は、やはり量的な成熟があってはじめて可能となったのではないだろうか。ただし、登場とジャンルとしての確立はやはりタイムラグが出る。ジャンル確立の一つの画期としては『女たちのジハード』およびその直木賞受賞を挙げたい。
 働く女性の物語は、質量共に充実してきたと思うのだけれど、十分に越えられていないハードルがある。結婚して子どももいる「働く女性」の主人公化である。少し考えてみれば当たり前なことで、実際に子どもを持ち働く女性たちは、そんな小説を読んでる時間などないであろうからだ。TVドラマで少なくないのは手軽に見られるからだろう。実際、NHKの朝の連ドラは、子持ち働く女性の一代記というものが多かった。しかしそれは、それぞれの個性にこそ惹かれるものでもあり、また、「母(もしくは妻)の物語」となることが多い。「働く女性」一般に思いをはせるような作りには至っていなかったのではないか。
 そんなか、子持ち働く女性を主人公に、PTAや学童保育、町内会、スポーツ少年団を舞台にした小説を成し遂げたのが本作である。なんとも地味な話題だけに小説になるのか、リアリティ重視であればかえって息苦しくならないか、と思いつつ読んでいると、そんなことおかまいなく、スリリングに読める。「あとがき」で著者自身が書くように「これはあなたのすぐ隣にある、日常でありコメディであり、・・・時にはある意味ホラーです」にきちんとなっているのである。人の苦労を「楽しい」と言ってしまうのは、なんだか気が引けるが、なんといったらいいだろうか。パレツキー描くところのヴィクが、結婚して子どもを持ってPTA活動に巻き込まれたらこんな感じになるのではないか、という面白味がある。
 出版社に勤める主人公山田陽子は、一人息子の小学校入学を機にPTA活動や町内活動に巻き込まれる。なんとか負担を軽くしたりできないかと思いつつも、結局は参加はする。そこでは、他の層(専業主婦層など)と衝突するなど、様々な葛藤に出会う。そこには構造的なものもあれば、自らの言動が招いたものもある。それをいかにして切り抜けていくかが7つのストーリーの骨子である。主人公の言動や考え方に反発する読者も出てくるだろう。しかし、それも著者の計算の内である。主人公と対抗的な考えをもつ者も必ず登場するし、その間をつなぐような者も必ず配している。「誰か」には感情移入できるだろう。人のもつ境遇はそれぞれであり、それは作者も認めているわけである。
 タイトルに「敵」を入れてはいるものの、これは勝ち負けを決める訳ではない。むしろ、両者がどこで協力できる点を見出せるかというストーリになっている。主人公の側からすれば、相手の事情や状況を少しずつ知っていく流れにもなっている。
 さて、本書で取り上げ、主人公が戦ういずれの活動の舞台も、世間的には「必要」とされているものである。その一方で、その実施にあたっては善意を前提としており、少なくない人に負担を感じさせているのも事実だろう。世の中はカネだけではないが、善意だけではまわらないのも事実なのである。むしろ、善意の名のもとに関係者を追い込んではいまいか、そこにある課題を不問いにしてはいまいか、そうしたことを、主人公を狂言回しにして思い起こさせてくれる。コミュニティの重視を論じる研究者や識者は少なくないが、そうした人々がここで扱われている活動にきちんと向き合っているかは別問題であろう。そんなこんなを本作は軽やかに小説にしてくれたうえで、いろいろ考えさせてくれる。そして最後の最後で、戦うばかりであった陽子は、どーんとした構想もうちあげる。本作は、働く女性のビルドゥングスロマンだったのかと深く納得するのである。

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紙の本

紙の本百日紅 上

2012/02/26 22:51

もっともっと楽しもう

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「ひらひら」を読んでから、気になってしまい、今は亡き杉浦日向子女史の本作を手にとった。葛飾北斎とその娘お栄、居候の池田善次郎(後の渓斎英泉)を主要人物とする漫画である。久しぶりだったが、これまたとても楽しめた。いや、私の趣味をかなりかたちづくったのも、本作品ではなかったかと確認した。
 浮世絵師を扱ったという点を除けば、何かと対照的な2作である。劇画調に対し丸まるとした画風、扱う時代も数十年は離れ、作品の制作年も30年近い開きがある。親分(ごっこ?)が好きな国芳に対し、師匠らしさがあまりない偏屈オヤジの北斎の気質が大いに違うようだ。それでもなお、この二作にはつながりを感じさせる。というか「百日紅」を相当意識して、「ひらひら」が書かれているのではないかと感じた。
 まず、歌川国芳が両方に出ていること。「百日紅」では、まだ前髪のある国芳が、兄弟子国直と共に何度か登場してくる。そればかりではなく、国芳の有名な一枚が、さりげないところで背景としてはめこまれていた。これは驚いた。その国直は、歌川派に属しつつも、北斎の画風に惹かれる姿が描かれている。くわえて「豊国と北斎」の章では、両者の画風のちがいをさりげなく解説してくれている。
 「ひらひら」の時代には、北斎だけではなく英泉もすでに死んでいるのだが、さりげない会話で英泉が話題にされていること。英泉も「ひらひら」の主人公・伝八も武家出身である。
 北斎の本名は「鉄蔵」。そう、「ひらひら」の作家の筆名である。
 そんなつながりを楽しむ「余録」があった再読だけれど、もちろん、そんなことを気にしなくても楽しめる。偏屈オヤジと、そんな彼に「アゴ」と呼ばれる娘、女好きの遊び人の善ちゃん。そんな3人の「浮世」が、30話文庫版2冊で描かれていく。ただし、こちらの浮世は「怪」に密接に隣接していることが多いようだ。そんな怪とふつうにつきあいながら、日常と画業が営まれている。改めて見ると各話の扉には、北斎や栄泉の浮世絵が模写されている。これももう一つの楽しみである。
 初読のときは、絵師としてはまだ駆け出しのお栄と杉浦さん自身の姿を勝手に重ねて読み込んでいた。しかし、実の娘にテツゾーと呼ばれる父北斎もまた、葛藤の中にあるように感じた。仕事の依頼も少なくなく、名声もすでに高まっていたはずの時期である。意に添わない仕事は引き受けず、偏屈さも通すことができたわけである。しかし、それでもなお、自分の画業に満足しきっていないような、そんな雰囲気が垣間見える。孤高を通せたわけでもない。そんな3人の機微が楽しめる、そんな贅沢な1冊である。
 杉浦さんが早世されて何年だろうか。漫画家を「隠居」した時にも多くの人が嘆いたけれど、こんな贅沢な作品を残してくれたのだ。もっともっと楽しもう。

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紙の本

紙の本調査の科学

2012/02/19 22:05

シンプルかつ大胆な調査論議

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書は講談社ブルーバックスから1984年に刊行された同名書の再刊である。すでに四半世紀も経っているわけで、調査をめぐる環境も手法も大きく変わっているように思えるだろう。特にPCや統計分析ソフトの普及は、状況を大きく変えているはずだ。ところが、あらためて本書を読んでみて、とても「勉強になった」のが率直な感想である。それは本書が、調査のハウツーや分析手法の高度化にこだわることなく、「調査の論理」いいかえれば「考え方」をシンプルかつ大胆に述べている点にあるだろう。さらにそれは、著者の長年の調査経験に裏打ちもされている。
 文庫版200頁とごくうすく、さらっと読めてしまう。しかし初学者向けとは言えない。本書を読んだからといって、すぐに調査が実施できるようになるわけではない。むしろ、ある程度調査経験がある者の方が、「我が経験」をふりかえったとき、初めて本書の価値がわかるだろう。ここで提示されているのは「解答」ではなく、調査者が常に考え続けなければならないこと、なのである。
 興味深いのは、「調査の本」であるにもかかわらずに、調査でわかることは限られていることを何度も強調している点である。調査の専門家が書いたものとしては逆説めいて見えよう。しかし、それは「わかった気」になってしまうことへの戒めともいえようし、調査や統計分析というものが、あくまでも調査者側の操作的な定義にもとづくものである、ということへの自覚を促すものともいえよう。他にも、「仮説検定」への懐疑について意外に多くのページを割いていたり、部分集団の意見の重要性を説いたり、議論の尽きないテーマをいくつも提示している。
 本書で想定されている調査の多くは、著者の経歴もあり、世論調査・意識調査である。一方、現在日本において、現役首相への支持率がこまめに報道されるなど、世論調査の役割が重視されているかにみえる。反面、調査データのウソ式の書籍も多く、世論調査の限界への批判も根強い。さて本書の著者はどう答えるか? おそらく、以前からそうした議論はあったのだろう、本書でもそうした批判を十分に意識している。特に世論調査と政策との関係について、鳩山一郎首相の日ソ交渉を素材に議論しており、世論調査と政策との関係を考えるにあたって貴重な素材と論点になっている。詳細は本書を読んで、自身で考えてみられたい。
 改めて本書を読んで、私が唸ってしまったのは、「少数意見は外にあるのではなく各人の心の内部にある」という指摘であった。著者が見ているのは、調査結果として表されるような「量として数えられている人」だけなのではない。その内部に矛盾をかかえた一人一人なのである。それを踏まえて、人々の意識調査に挑んできたのである。亡くなって十年経つというが、今さらながら著者に「宿題」を出されてしまった感じさえする。

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紙の本

紙の本心と脳 認知科学入門

2012/02/12 22:03

認知科学という「知的営み」の歩みと成果を、一望のもとにわかりやすくおさめる新書

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「新書らしい新書」といってよいだろう。その拠って立つ人間観から認知科学のあゆみ、そして現在の研究の広がりまで、コンパクトに1冊にまとめたものである。広い領域に目を配りつつ、読みやすいストーリーにまとめてくれている。一定水準以上の知識を、門外漢のような私にもすらすら読めるように提示されている。新書の鑑である。
 「認知科学」と「学」を付けてしまうと、ひとつの学問領域に見えてしまうが,著者が再三強調するように「完成した学問分野」ではない。著者の表現を借りれば、さまざまな学問領域における「知的営み」である。心と脳の働きへの関心をもつさまざまな学問領域に対し、情報学のインパクトが加わって成立した営みである。近年はこれに脳科学という強力な道具が加わっている。
 さらりと読めてしまうが、認知科学すなわち本書が対象とする学問分野は、心理学、神経科学、言語学、人類学などにもおよび、それを一つのストーリーにまとめることは、たいへんな労力であっただろう。新書ゆえのスペースの制約から直接に明示されている文献は限られているが(参考文献は著者のサイトに掲載)、本文そのものに手抜きはない。限られたスペースでも、丁寧な紹介ときちんとしたコメントが添えられている。サブタイトルで「入門」とは謳っているが、それ以上の「認知科学小辞典」といった趣さえある。特に、認知科学の研究史を扱った第2部は、膨大な研究史を手際よくまとめあげている。コミュニケーションも認知科学の重要なテーマと言うが、こうした「まとめあげる力」そのものも、著者が認知科学研究で培ってきたものなのであろうか。
 認知科学という知的営みが、人間の心とは何かという根源的なテーマをもとに、いかに大きな流れをつくりだしたのかがよくわかる。ここで得られた成果を、個別の研究領域がどう受け継いでいくのか、それとも新たな「知的営み」の大きな流れが見られるのか,それももまた楽しみである。

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紙の本

「よくそんなにしらばっくれていられるものだと思う。」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「リーマンショック」が起こったのは2008年。その後、そんなに昔のことではないはずなのに、いつのまにか「それがどのような問題であったのか」が忘れかけられている感がある。こうした傾向に対して警鐘をならすと(というより文句をいう?)同時に、「どのような問題であったのか」という議論そのものが不十分だったのではないか、と真正面から迫るのが本書である。
 ロナルド・ドーアは、齢80歳をこえた社会学者である。日本研究者として著名で、かのライシャワーもその自伝で、次世代を担うジャパノロジストの有望株と紹介していた。地に足のついた調査を持ち味とし、「イギリスの工場・日本の工場」など、読み応えのある著作が数多い。戦後すぐの滞日時には、寿限無もおぼえるなど好奇心も旺盛でもある。90年代以降は、経済システムについての著作が増えている(が、日本では未訳)。21世紀に入り日本語書き下ろしの新書を刊行しており、本書はその3冊目にあたる。
 リーマンショック以降の経済危機において、さまざまな議論や解説がおこなわれた(ように思う)。しかし実際には、多くの人は目前の課題におわれて、いったいそれは何だったのか、というのはよくわからないままだったのではないだろうか。私自身も、本書で描かれているような「金融の世界」は、正直ほとんど理解できていなかった。いかに高度な金融工学の技術にもとづこうとも、「何かが起こる確率」をゼロにできるわけではないから、・・・というしごくまっとうな説明もそれなりに納得はしたが、今ひとつ腑に落ちない。この間、何が起こっていたのか、がよくわからない。だいたい、破綻した会社にいた人々が、なぜそんなに桁違いの報酬がもらえるのか(がもらえたのか)、というところからよくわからない。一方、「現状を憂う」論調も数多かった。ただし、たいていは自分の言いたいことを言っているだけで、その批判が批判される側に届くようなものは意外に少なく、著者の自己満足をこえてはいないのではないだろうか。
 本書は金融のメカニズムを解説する教科書ではない。書名の通り、金融というものが、いかにして化け物のような存在になったのか、ということを解説している。文字通り、金融のあり方に対して「批判的な」本ではあるが、それは自己満足的な批判ではない。もっと執拗だ。過去の経済学者から現在進行形の「関係者」の言動をも、執拗にいや縦横に追っている。いったい何がどう議論され、どのように誘導されているのか、をも明らかにしようと試みている。「失われた十年」という表現はレトリックとしてよく使われたが、その中で「実際に何が失われたのか」ということを丁寧に拾っているのである。
 本書での指摘がどこまでの妥当性をもつのか、は私の力量では判断できない。金融のもつ問題性が断続的にさまざまな論者により指摘されてきたことを思い起こさせるのに十分であることは理解できる。そして、「なんとかしなければならない」という議論が、閉じられていきつつあるのかがわかるだろう。「どのような問題であったのか」さえ、よく知らされないままに、議論に幕が引かれようとしているのである。
 本レビューのタイトルとして掲げたのは、「本文」の最後の言葉である。「ドーア節」健在を感じさせる。その一方、サブタイトルにあるような「21世紀の憂鬱」を、黙々と日本社会と世界を見守り続けた著者は感じているのであろう。

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紙の本

紙の本ひらひら 国芳一門浮世譚

2012/02/08 01:03

どんなときでも面白がって生きる、国芳親分とその愉快な門下たち。

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 本書を一読して、正直、「ああ、生きててよかった」と思った。ちょっとおおげさかもしれないが。この年になって、このような漫画が読めるなんて、とても幸せだ。
 現在、森ビルで大規模な展覧会が行われている歌川国芳展に合わせたかのような、その国芳一門を登場させた漫画である。浮世絵師を扱った漫画と言えば、杉浦日向子の傑作「百日紅」がある。北斎父娘を描いたもので、もちろんおもしろい。一方、こちらは副題のとおり「一門」を描いたもので、国芳を親分とする仲間たちが愉快である。鯨がきたといえば、仕事を放り出してみんなで喜んで見に行き、火事といえば火消しの手伝いに飛んでいく。この世を全身で楽しみ尽くそうとするかのような勢いである。
 ところがこの漫画の筋の中心には、重たい過去を背負った侍上がりの若者が、国芳のもとに転がり込むことからはじまるという、シリアスなものが据えられている。陰と陽といえようか、この深刻さをかかえた若者と国芳門下の愉快な仲間たちの対比が、読者をうまく引き込んでくれる。
 「浮世」には、この世の中は浮き浮きした楽しいものであると、世の中は厳しく浮草のように漂うように生きなければならないという、2つの解釈があるという。愉快そうにみえる江戸時代も、板子一枚下は地獄でもあったのだろう。国芳自身も不遇の時代があっただろう。その門下生も面白がってばかりはいられなかったろうし、こんなイケメンばかりでもなかったろう。そんな世の中だからこそ、本気で面白がって、楽しく生きようとしたわけである。
 実際、国芳展の白眉は、出世作となった一連の武者絵より、さまざまな制約の中で刷られた一連の作品ではないか。どんなことがあっても、楽しんでみせるという気魄をみた。しかし、そんな国芳の作品を人ごみにもまれて森ビルで見るとは・・・、なんだか彼らに笑われそうである。

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紙の本

紙の本SatoShio 2

2012/02/05 22:16

日常を生きるお仕事漫画。

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 「働く人」をテーマにした物語は、小説も、映画も,そして漫画も数多いのですが、この作家に手にかかると、一味変わってきます。
 ゆるゆるお仕事漫画、というのがどうやら売り文句(?)のようですが、別にのんびり仕事をしているわけではないです。ちゃんと仕事はしています。むしろ、仕事をしているのかどうかわからないような、バブル期のトレンディードラマの人物たちにくらべれば、はるかにちゃんと仕事をしているといえましょう。若手女社長と社員2名(と、ときどきアルバイト)の「弓田デザイン」は、小さいですが、一生懸命に仕事をしています。もちろん、のんびりする時間もあります。でも、徹夜続きのどうしようもなく多忙な日々もあるのです。でも、どこか確かに、ゆるい感じがするのです。
 この「ゆるさ」は何でしょう、どのように表現したら良いのでしょうか。仕事の中に、どこか「生活感」とでもいったものが強いからではないでしょうか。プロジェクトXのようなビッグプロジェクトをこなすることばかりが仕事な訳ではないのです。たいていの人にとって仕事とは日常です。仕事をしていると、さまざまな事や人、場所に出くわします。この漫画でも、大家さん(ついでに孫も)が出てきたり、社員の趣味(や買い物?)が時折出てきたりします。名刺のやり取りも、出かけた先の風景も日常の物語になります。寅さん映画のような家族企業とはまた別な、仕事の日常生活感をうまくすくいだしてくれているのです。小さな会社が舞台ゆえとも、作者の腕ゆえともいえましょう。
 ちなみにタイトルは、2名の社員・佐藤と塩田(いずれも若者男子)によるもので、かれらが主人公ということだそうです。ただ、表紙は女の子がメインになっており、ちょっとした期待をもって手にとった人もいることでしょう。そんな読者に肩すかしをさせつつ、楽しませてくれます。
 残念ながら、そんなゆるやかなお仕事漫画も、この「2」でおわりだそうです。弓田デザインの安泰を祈りつつ、どこかでの再会を期待しましょう。

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紙の本

紙の本少年少女飛行倶楽部

2012/01/27 00:42

ファンタジーなきファンタジー、ミステリーなきミステリーという力技。

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 タイトルからすると、一見、ファンタジー。そして著者の名をみれば、中学校を舞台にした爽やか系青春ミステリーかと想像される。そう思いきや、倶楽部を主催するというのはかなり変人な先輩。なまえは神(じん)。そこに友達にさそわれて入ってしまった、中学一年の女の子・海月(みづき)が語り手である。そこに集まる少年少女たちは、飛行以前に、それぞれの名前が不可思議である。副部長は海星、海月の友達は樹絵里、不登校から一転入部する朋(るなるな)。顧問の先生の名前も信長。比較的ありがちな名前の球児君は野球が不得意。いたってふつうな良子は、なかなかのくせ者で、主人公はイライザとよぶ。顧問自身が、「珍名クラブ」とつぶやくくらいの集団である。名前の付け方が「日常の謎」のミステリー?と思ってしまうくらいである。そんなコミカルな感じで物語ははじまる。
 そんな彼女と彼たちのクラブ活動を描いたのが本書である。そこにはファンタジー要素はなく、いたって現実的な中学生の日常が描かれていく。クラブ活動にしても、まず正式なものとして認可されるようにならなければならない。人集めである。また、活動しようにも、飛行なんてそんな簡単にできるものでもない。進んでいるような、進んでいないような、そんなふうに物語は展開していく。しかし、それでもこれはファンタジーであり、ミステリーなのである。奉仕活動の名のもとの校外学習あたりから、書名通りのクライマックスへ向けて、一気に展開していく。いろいろな想いをてんこもりにのせて。
 本書には、魔法使いや名探偵もいないし、犯罪事件も不思議もない。ファンタジーやミステリーに要求される要素はなんらない。しかし、それでも彼女と彼たちの生活と家族そのものが、ファンタジーであり、ミステリーであることを、説得力をもって示してくれる。名前も重要な伏線である。一方で、タイトルも登場人物も舞台も、ジュブイナル要素だけは満載である。どう見てもジュブイナルのはずである。しかし大人こそ読むべき本格小説なのではないかとさえ思えてくるから不思議である。これが、「日常の謎」派とよばれる作者の力技なのであろう。

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紙の本

紙の本深海の使者 新装版

2012/01/23 22:05

冒険と鎮魂と

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 本書は、吉村昭による戦史小説のひとつである。「綿密な取材による史実の再構成」というスタイルの小説の読み応えは保証付きといってよいだろう。本書で取り上げるのは、第2次大戦下で日独の往復を図った潜水艦である。あまり広くは知られていない史実だけに、事実を知るだけでも興味深い。その克明な記録をぜひ楽しまれたい。
 先の大戦において、日独伊は同盟国であったにもかかわらず、その物理的な遠さから、日独の協力や交流はごくごく限られていた。特にレーダーなどを含む兵器開発においては、技術交流が渇望されていた。ドイツ側も南方資源を欲していた。それゆえの潜水艦による日独往復が企図されたのである。飛行機による往復も試みられたが(本書でも紹介)、(日本にとって)中立国だったソ連上空をまたぐ必要があり、必然的に潜水艦への期待が高まったわけである。
 本書は戦史としてはやや異質である。戦時下であるにもかかわらず、その使命は戦闘ではなく、「移動」そのものにあったことにある。しかもその移動は、日本からアフリカ喜望峰を大きく回ってヨーロッパまで、という長距離であった。その記録は戦史というよりも、もはや「海洋冒険小説」ともいえよう。リアル「海底2万マイル」である。「見つからないように」という緊迫感は、読者の関心をより高めてくれる。インド独立運動の闘士ボースが、ドイツの潜水艦から日本の潜水艦へと受け渡され、再度アジア入りしたのも初めて知った。もちろんそこには、移動そのものの困難さも克明に記録されている。長時間の潜航を余儀なくされれば、船内はどうなるか。二酸化炭素は増え、風呂には入れず・・・、そんな乗組員の苦難も再現されている。しかし、それでもやはり戦時下である。少なくない命が、深海に消えていく。「あともう少しで・・・」という思いに何度なったことか。また、撃沈による死だけではない覚悟の死もあった。
 この潜水艦による日独往復は、当時から秘密にされてきたために、戦後においても広く知られることなく今に至っている。作家の腕力は、そんな個々人をあらためて浮上させてくれるのである。
 ところで、本書のこのレビューを書きながら、「深海の死者」と偶然に変換されたことがある。自身の想いについては常に寡黙な著者だが、そこにはやはり鎮魂の深い思いが込められているのかと、感じてしまった。

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紙の本

シリーズを総括する巻ではないです。

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 講談社版「日本の歴史」の「締め」を飾る1冊である。本シリーズは、日本史研究を専門としない者にとっても、とても面白いものだった。同じく巻数の多かった中央公論社版と比較をしても、「これほどまでに日本史研究というものは進んでいるのか」と感嘆することもしばしばであった。正確には「進んでいる」だけではない、政治史中心であった中央公論社版にくらべて、研究の視野が「広がった」ともいえよう。編者の一人網野善彦氏が半生をかけて主張をした、列島の多様性というものが、豊富な研究蓄積にもとづいて示されていったわけである。
 この多様性とは、いわゆる民族だけではない。人そのものの多様性といってもよいかもしれない。もちろん、過去の個々人すべての記録が残っているわけではないので、精度には限界があろう。しかし、時代を隔ててもなお、それらを読み解こうとする研究者の志向も大きく変わってきたのではないだろうか。
 親本の刊行から文庫化まで十年経っている訳で、専門の日本史研究者にしみれば、個別には「もっと研究が進んでいる」というかもしれない。しかし、一人の著者が一冊に書き込むということは、一書籍として価値が高いといってよいだろう。ここしばらく読みつがれる通史となることだろう。
 今回のシリーズのもうひとつの特色は、基本は「一冊一著者」という原則でありつつ、「古代天皇制を考える」「周縁から見た中世日本」といった複数の著者による論説をまとめて、「論点」編をいくつか配していることである(「文明としての江戸システム」は一著者)。本巻も「近代史の論点」といえる1冊で、近代日本のアジア観、マイノリティ、沖縄、アイヌ、象徴天皇制といった諸課題をバランスよく取り上げている(ただし、24巻分の総括というわけではない)。
 それぞれよく知られた著者の手によるものでもあり、現代日本人はよく知られていない史実も書き込まれ、読み応えも十分にある。しかし、どこかその論調に既視感を感じてしまった。彼らが考察の対象とし、時として糾弾もするのは「近代日本」のはずなのだが、そもそも議論の焦点は、「近代」なのか、「日本」なのか? 個別のパーツを置き換えれば、「近代アメリカ」や「近代ヨーロッパ」「近代中国」でも通用する議論ではないのか? などと感じてしまった。著者たちが近代日本について議論すればするほど、近代日本そのもののがぼやけていく感じさえした。そもそも、網野氏の考えに従えば、「日本はどこへ行くのか」というタイトルそのものがナンセンスだったのではないだろうか。

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