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wildcatさんのレビュー一覧

投稿者:wildcat

731 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本西の魔女が死んだ

2010/07/21 23:33

「魔女は自分で決めるんですよ。分かっていますね」/「だって、この道きり、ほかにないんだもの……」

37人中、32人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書には、「西の魔女が死んだ」と「渡りの一日」の
ふたつの物語が収録されている。

「西の魔女が死んだ」では、
「西の魔女」(おばあちゃん)が倒れたと知らされて、
ママの車でおばあちゃんのお家に向かうまでの約6時間、
2年前のおばあちゃんと過ごした1か月の日々を
主人公・まいが思い出している。

おばあちゃんは英国人で、
しかも、ママが「あの人は本物の魔女よ」と言ったことから、
まいとママふたりだけのときは、
おばあちゃんを「西の魔女」と呼ぶようになった。

当時中学1年生だったまいは、
「わたしはもう学校へは行かない。
あそこは私に苦痛を与える場でしかないの」
と宣言し、学校に行かなかった。

ママは理由を聞かず、
おばあちゃんのところでゆっくりさせるという選択をする。

まいは、おばあちゃんとの生活で、植物の名前を覚えたり、
野イチゴを摘んでジャムにしたり、鶏の卵を取ってきたり、
自然になじんだ生活をしていくようになる。

まいは、おばあちゃんから自分の祖母が
予知能力や透視の力を持っていたと聞かされる。

それをきいたまいは、
もし、そういった能力が出てきたら
ちょっと怖いような気がするけれど、
もう学校のことでこんなつらい思いをしなくても
すむんじゃないだろうかと思い、
自分もがんばったら、
その超能力が持てるようになるかしらとおばあちゃんに訊く。

まいには生まれつきそういう力があるわけではないので
相当の努力が必要といわれるが、
魔女になるための基礎トレーニングをすることになるのだ。

それは、精神力を付けること。

正しい方向をきちんとキャッチするアンテナをしっかりと立てて、
身体と心がそれをしっかり受け止めるようになること。

こうやってあらためてあらすじを書き出しながら、
そうかと気づいた。

これは、すでに起こるとわかっていた来るべきことに耐えうる心を
まいがもつための訓練でもあったのだ。

おばあちゃんは、
「一つ、いつ起きると分かっていることがあります」
と言っていた。

そう、彼女は知っていたのだ。

だからこそ、魔女のレッスンがあったのではないか。

人は死んだらどうなるのかという問いに対する、魂についての説明。

魂は身体を持つことによってしか物事を体験できない。

体験によってしか魂は成長できない。

成長を求めて生まれてくるのが魂の本質だ。

こういった、スピリチュアル系の本に書かれていそうなことが
どんどん出てくるが、
これを押し通そうというものでもない。

おばあちゃんは、このように考えているし、
まいの両親はまた違う物事のとらえ方をする人である。

まい自身は、どちらもバランス良く
無理せず受け入れているようなところがある。

そういった異なる考えをどれも包み込むように
共存させているような穏やかな力が
この作品世界全体を支えている。

直観の扱いやネガティブな感情に対する処し方など、
1か月で様々な経験をして、学ぶことになる。

パパの単身赴任先で、ママと一緒に住むことを選択する、
つまりは、新しい学校に転校することを選択したまいは、
おばあちゃんのところを去ることになるのだが、
おばあちゃんとあることでぶつかってしまい、
少しわだかまりを残してわかれることになってしまった。

そしてその後、2年間、「魔女が―倒れた。もうだめみたい」
と言われ、会いに行くまで、
両親も彼女も一度もおばあちゃんのところを訪ねていなかったのだ。

あんなに好きだったあの場所を思い出さなかった2年間。

最後だと分からずに別れた相手に対して、
やり残したこと、言い残したことがあったとき、
なんともやりきれない気持ちになる。

本書ではほとんど語られることのない、
おばあちゃんとママ、つまりは、母と娘は、
おばあちゃんとまい、よりも
もっと葛藤や思いがあったのかもしれない。

ママの悲しみ方に、描かれなかった物語の存在を感じた。

旅立った魂は、残された者に、
その人だけに分かる方法でメッセージを残すことがある。

それは、残された者が旅立った者を思う気持ちと受け取る心が
そのギフトに気付かせ、受け取らせるのだろうと思う。

本書にもそのようなメッセージが少なくとも3度現れる。

そのギフトは、残された者の後悔の気持ちや葛藤を和らげるのだ。

残るのは、愛されていたこと、愛していたこと。

「渡りの一日」は、新しい中学校での友人ショウコとまいの一日の物語。

予定通りに事が運ばないことを望まない、
というよりも、なぜか思った通りに事を運んでしまう、まいのことを
不思議に思ったショウコが、あえて予定を覆すような行動に出るのだが・・・。

ユーモラスにして、結局、人は望む場所に向かってしまうんだなぁというお話。

まいは、おばあちゃんに、
「魔女は自分で決めるんですよ。分かっていますね」
と言われていた。

まいは、本当に求めていたものに最終的に出会えたという経験を通して、
その出会えたものが発するメッセージを、一つの方向を目指す強力なエネルギーを
「だって、この道きり、ほかにないんだもの……」という思いで受け止める。

本書を私に薦めてくれたのは、私の妹だった。

私自身が大きな喪失経験をしてから少し後のことだったと思う。

「私はどうしてこうなんだ…」的なことは、
彼女に言ってしまうことがあった。

どこか魔女なところがある彼女は、
「結局は自分で選んでいるんだよ」と言い切る。

その通り。わかっているんだけどね…。

「結構流行っている本だよ。
お姉ちゃんは読まないかもしれないけど…」
という無理には薦めないというスタンスでの紹介だったので、
そのときは手にしなかった。

今落ち着いてから本書を読んで良かったと思うし、
おかげで、妹が本書を薦めてくれた意味を
心から味わうことができたと思っている。

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紙の本

私と彼女とこの本を結びつけたのは大切な人の死だった

32人中、26人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

自分の望みにフォーカスして、それだけを考えて、
いい気分でいれば望みはかなうという「引き寄せの法則」。

去年から今年にかけて、この言葉が本のタイトルに踊る本が
たくさん出版された。

みんな幸せになりたくて、お金持ちになりたくて、思い通りに生きたくて、
すべての願いを現実にしたい。だから類似本だらけなんだ。

この本は、その少し前、「引き寄せの法則」を
タイトルに含まないまま出版された。

私自身は、「引き寄せの法則」にそれほど関心があったわけではない。

なんかその法則だけ知っていれば知らない人よりも有利で
なんか自分だけ得したいみたいな雰囲気が
なんとなくこのブームに纏われているようで
なんかいやだったんだ。

私も幸せ、あなたも幸せであれたらどんないいいだろう。
影響しあう相手とともに幸せでいられたらどんなにいいだろう。

でも、実際は、幸せを誓って一緒になった相手とは、
お互いに悪影響を及ぼすようになったから離れなければならなかったし、
その後やっと心から愛せる彼を見つけたと思ったら、
彼はお空の神様のもとへ行ってしまった。

願えばかなうとか、相手は自分の鏡だとか、いろいろな法則がある。

だけど、その手の法則は、相手を変えようとするのではなくて、
変わるのは自分だと、前向きな気持ちでいるときには、
すっと入ってくるし、心に良い作用を与えてくれるけれど、
一番苦しいときにこれらの法則を取り入れるのは難しい。

全部自分のせいなんだ・・・になってしまうから。
苦しい環境にいるのも、病になったのも・・・。
一番苦しいときこそ、心から幸せになりたいのに、である。

そういうスパイラルに落ちたときに、
もう挑戦する気力も立ち上がる力すらも沸いてこないときには
どうしたらいいのだろう。

あるいは、目の前にそういう人がいたときに
その人にもう一度パワーを呼び起こすものは何なのだろう。

一番苦しいときでも、
引き寄せているのは自分だと静かに気づいて
前に進むためには、そこに向かう前に何が必要なんだろう。

さて、こんな私とこの本を結びつけたのは、
私と誕生日が5日違いの友人だった。

彼女とは、直接会った回数は、実は少ない。
就いている職業もまったく違う。
だけど、どこか似ているなと思うところが多い。

彼女と私の最大の共通点は、大切な人を亡くしたこと。

彼女はお母さんを、私の彼が亡くなる1年前の同じ日に亡くしている。

彼女が、この本を私に薦めてくれたのは、
死を描いている本だったからだ。

彼女自身は、ここに書かれている
死の捉え方に必ずしも納得できたわけではないと言いつつも、
そのときの私に必要な一冊だろうと思って紹介してくれたのだった。


少女サラは、周りの人と関わるのをあまり好まない女の子だった。

こっそり心の中で「他人の雑音反対クラブ」を作る。

「他人を好きだというのはかわまないけれど、
 他人と話をしなくてもいい。
 他人を眺めていることは好きでもかまわないけれど、
 何も誰にも説明したりしなくていい。
 時々、自分だけの考えにひたるために、
 ひとりでいることが好きでなければだめ。
 他の人たちを助けてあげたいと思ってもいいけど、
 実際に助けることはあまりしたくないと思わなければだめ。
 だって、それは抜けられない罠にはまってしまうようなものなんだもん。
 あんまり人を助けてあげようとすると、もうおしまいだ。
 みんなが自分の考えでわたしを利用しようとしはじめて、
 ぜんぜん自分の時間がなくなっちゃう。
 目立たないようにして、
 誰にも気づかれないように他の人たちを眺めたいと思わなければだめ」
 (p.8-9)

でも、サラは人と関わるのを完全にあきらめたわけではなかった。

サラはソロモンを探しに行き、出会ったのだ。
唇を動かさず想念で話すふくろうに。

サラは、ソロモンを通して、
「望まないこと」ではなく、「望むこと」にフォーカスすることや、
「自分の喜びは他人にかかっているのではないと分かったら、
 そのときは本当に自由になれる」ということを学んでいく。

そして、ソロモンは、ふくろうの肉体を離れた存在になる。

「サラ、僕たちの友情は永遠だ。それはどういう意味かって言うとね、
 君がソロモンとおしゃべりしたい時はいつでも、
 何を話したいのかをはっきりさせてから、それに意識を集中させて、
 とてもいい気持ちを感じさえすればいいっていう意味なんだ。
 そうすれば、僕は君と一緒にここにいられるんだよ。」
 (p.158, p.160)

こうして、ソロモンが肉体を持たなくなった後も、
サラとソロモンの対話は続く。

ソロモンが生きていた頃とは違った方法で。

「君はただ、ある特定の在り方のソロモンを見ることに
 慣れていただけなんだ。でもね今、君はこれまでより
 ずっと強くそれを求めるようになったから、
 ソロモンをこれまでよりもっと広い見方で見ることが
 できる機会が得られたんだ。
 もっと普遍な見方で見る機会だ。
 ほとんどの人々は物事を肉眼を通してしか見ることはできないんだ。
 でも今、君はもっと広い見方で見る機会が得られたんだよ。
 物理的存在としてのサラの中に生きている
 本当のサラの目を通してみるという機会だ。」
 (p.166)

「君がソロモンとおしゃべりしたい時は、いつでもそれができるんだ。
 君がどこにいるかは関係なく。
 もう雑木林まで歩いていかなくていいんだよ。
 ただソロモンについて考えるだけでいいんだ。
 そしてソロモンとおしゃべりするのがどんな感じがするかを
 思い出すだけで、僕はすぐに君のそばにきて君と話ができるんだ。」
 (p.167)

今私は、彼が旅立った後の8ヶ月で、
このソロモンのこの言葉を実感として感じることができるようになった。

もう手をつなげないし、キスできないし、
体を通してつながることはできないけれど。
彼の思いは、たくさん受け取った。

本も音楽も映画も、「メッセージが入っているもの」にたくさん出会った。

自分に霊感があって、彼が見えたらいいのに、
直接話せたらいいのにと願って、それは叶わなかったけれど、
私がもっとも今まで使ってきた方法で
彼の想念を受け取ることができたのだと感じている。

肉体を失っても、彼がゼロになることはないのだ。

私が知らないところで生きている多くの人たちよりも鮮明に、
彼は私の中で生きているのだから。

「引き寄せの法則」の本は、私にとっては、
この1冊で十分だと思っている。

なぜなら、私がもっとも受け取りやすい、
子供の頃から読み続けてきた、親しんできた翻訳児童書という形式で
ここにあるのだから。

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紙の本

紙の本花のかみかざり

2008/11/24 22:35

だきしめるのは 無言の 全面的な 存在肯定の しるし。

18人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

誰もが多かれ少なかれ傷を抱えている。

ずっとしまいこんだまま誰にも話せないこともある。

その秘密をうさぎがたぬきのおばあちゃんに話せたのは、
おばあちゃんがうさぎを、だきよせたから。

「わたしに はなしておくれ」という言葉より前に
だきよせるという行為があったからこそ、
うさぎは胸にずっとつっかえていたことを話すことができたのだ。

ずっと話せないでいたのは、うさぎはそれを
取り返しのつかないことだと思っていたから。

さいごのねがいをきいてあげられなかったこと。

それはもっとも大きな傷になる。

それがさいごだとわかっていたら、
もっともっとしてあげられたことがあっただろうと・・・。

取り返しがつかないことをずっとずっと考え続けてしまうこともある。

でも、うさぎは、その傷から逃げずに現場に居続けた。

苦しみながらも居続けた。

そのときの学びから逃げずに、
おおかみのおばあちゃんにはしてあげられなかったことを、
他の誰かにしてあげようと決意したのだと思う。

だから癒しのときが訪れた。

おおかみのおばあちゃんにしてあげられなかったことを、
たぬきのおばあちゃんにしてあげることで、
うさぎはおおかみのおばあちゃんに謝ることができた。

たぬきのおばあちゃんはうさぎをだきしめることで
おおかみのおばあちゃんの代わりに許しを与えることで
介助されているという受身の立場だけではない存在になった。

花のかみかざりは、うさぎがたぬきのおばあちゃんに
つけてあげたものだった。

それをたぬきのおばあちゃんからうさぎにつけてあげるのだ。

ふたりが介助する者される者の立場を超えたことを
このかみかざりは象徴しているように思う。

最初の絵と最後のひとつ前の絵は、
うさぎにかみかざりがついていないのといるのと、
一見それしか変わっていないように見える。

だが実はその間に起こった変化はとてつもなく大きいものだったはずだ。

たぬきのおばあちゃんがうさぎをだきよせたとき、
それはうさぎへの無言の全面的な存在肯定として伝わったはずだ。

ここにいていいのよ。今までよくがんばってきたわねと聞こえたはずだ。

問題が自分のキャパシティーを超えていると思ったとき、
相手にかける言葉をなくしたとき、
人は逃げ出してしまいたくなるものだ。

だけど、逃げずに、それでも居続けること、
ここにずっといるよ、応援しているよと
静かに伝えることは、
自分が思っている以上に、意味があることだ。

抱きしめることは、あなたはあなたでいていいのよと伝える
最強の魔法であるに違いない。

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紙の本

人間の究極の幸せは

17人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まずは、帯のこの言葉に惹かれた。

  人間の究極の幸せは、
  人に愛されること、
  人にほめられること、
  人の役に立つこと、
  人から必要とされること。
  働くことによって
  この4つの幸せを
  得ることができる―。

シンプルに、まっすぐに、飛び込んでくる言葉だった。

日本理化学工業株式会社は、チョークづくりに取り組んできた
社員74人の小さな会社で、社員の7割は知的障害者である。

1958年に、2人の15歳の知的障害者を雇用したのがはじまりだった。

『日本でいちばん大切にしたい会社』で紹介されて以来、
マスコミで取り上げられるようになったので、ご存知の方もいらっしゃることだろう。

創業者である父のあとを継いだ大山泰弘氏は、知的障害者の雇用をした頃は、
知的障害者に対する理解や障害者雇用に対する理念は持っていなかったという。

ところが、彼らから「働く」ことの意味を教わることになった。

近年のニュースを見聞きするなかで、社会全体が
「働く」ということの意味を見失ってしまったのではないかと感じた大山氏は、
「働く幸せ」、働くことの原点を見つめなおす必要が
あるのではないかと考え、本書を記したのである。

  私は、会社とは社員に「働く幸せ」をもたらす場所だと考えています。

  もちろん、会社を存続させるためには利益を出すことが絶対条件です。

  しかし、利益第一主義で「働く幸せ」を度外視してしまうと、
  会社が永続的に発展する力が失われてしまうでしょう。

  その意味で、私は仕事でいちばん大切なのは「働く幸せ」だと考えているのです。

本書は、プロローグと6章の本文から成っている。

プロローグ 知的障害者に導かれたわが人生
第1章 「逆境」を最大限に活かす
第2章 働いてこそ幸せになれる
第3章 地域に支えられて
第4章 幸せを感じてこそ成長する
第5章 「働く幸せ」を広げるために
第6章 会社は、人に幸せをもたらす場所

各章のキーワードを切り口として、日本理化学工業株式会社の歴史を語っている。

第1章では、東京都立青鳥(せいちょう)養護学校の先生が
生徒の就職をお願いにやってきたときに語る言葉が印象的である。

それは無理な相談だと断った大山氏のところに再び訪ねてきた先生はこう言ったのだという。

  もう、就職をとは申しません。

  でも、せめて働く体験だけでもさせていただけませんか。

  あの子たちはこの先、施設に入ることになります。

  そうなれば一生、働くということを知らずに、この世を終わってしまう人となるのです。

なんという重い言葉だろうか。

そして、この事実は、当時に限らず、今も知的障害者の現実である。

第1章では、創業時代や大山氏自身の東大受験の挫折のエピソードまで遡る。

東大受験を失敗し、中央大学に入ったときに
「これからは逆境を甘んじて受け入れ、その境遇を最大限に活かす人生でいこう」
と決意したことが、その後の選択に影響したのだと、著者は振り返っている。

帯で紹介されていた言葉は、ある人の法要に出席したときに禅寺の住職が語った言葉だという。

  人間の幸せは、ものやお金ではありません。

  人間の究極の幸せは、次の4つです。

  その1つは、人に愛されること。

  2つは、人にほめられること。

  3つは、人の役に立つこと。

  そして最後に、人から必要とされること。

  障害者の方たちが、施設で保護されるより、企業で働きたいと願うのは、
  社会で必要とされて、本当を幸せを求める人間の証しなのです。

その言葉で、大山氏は、施設にいれば楽にすごすことができるはずなのに、
つらい思いをしてまで工場で働こうとする知的障害者たちの気持ちがわかったのである。

必要なときに必要なタイミングで人からのアドバイスをもらっていて、
しかも、著者はそれを素直に受け入れている。

それが、著者の、そして、この会社の成功だったのではないかと感じた。

第2章では、会社の中の障害者と知的障害者の軋轢が起きたときの対処方法、
障害者と健常者のどちらに軸足を置くのかの決断、
ビジネスと思いの両立、知的障害者だけで稼動する生産ラインの考案などが語られていく。

  その人の理解力にあったやり方を考えれば、
  知的障害者も健常者と同じ仕事をすることができます。

  彼らが「できない」のではありません。私たちの工夫が足りなかったのです。

これはひとつの会社の歴史であるだけではなく、
障害者雇用を考える上でも前向きな参考となる事例である。

第3章では地域との関係や新しい商品の開発などに触れている。

チョークといえば、学校で使われているものしかイメージができていなかったのだが、
子供用のお絵かきチョークもあったのかと新鮮な気持ちになった。

そして、第4章では、実際に働いていく中で、
知的障害者や健常者の社員がともにどのように成長してきたのかが書かれている。

  知的障害者たちは、たとえ上司の言うことであっても、
  納得できないことには従おうとはしないのです。

  「権力」は通用しないと言ってもいいかもしれません。

  そのかわり、指示の意味をきちんと理解して、納得したときには、
  健常者よりも生真面目にその仕事に取り組んでくれます。

  仕事がうまくいかないときや、障害者が言うことを聞いてくれないときには、
  自分の態度や指示の仕方を見直すようになります。

  そして、相手の立場にたって、相手に伝わるコミュニケーションをする力をつけていきます。
  
  「人のせいにできない」からこそ、自分を磨くようになるのです。

第5章は、障害者雇用制度への提言、
第6章ではそもそも経済とは企業とは働くこととは何なのかを問うている。

著者の語源へ鋭く迫る言葉が印象的である。

  「福祉」を広辞苑でひくと、「幸福」とあります。

  そもそも「福祉」の「福」も「祉」も、両方とも「幸せ」という意味なんだそうです。

  そして、「福」は主に物質的(お金も含めて)な豊かさを表し、
  「祉」は主に心の豊かさを表すといいます。

  ですから、福祉とは、ものと心、両方の豊かさをあわせもった「幸せ」ということになります。

この幸せそのものの意味を持つテーマに自分は関わっているのだ。

そのことの意味を考えさせられた。

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紙の本

教育的な知識・経験と医学的な知識のバランスがよい良書

18人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、発達障害を脳機能から理解するための本である。

著者は、長い間、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、
高機能広汎性発達障害等の子どもたちと関わってきて、
「なぜ発達障害の子どもはできないのか」を考えるようになり、
同時に「なぜ発達障害でない人はできるのか」を
考えるようになったという。

発達障害の子ども達と関わることが、
「普段何気なくやっていること」を支えている
「実はとても複雑で高度な脳の働き(高次脳機能)」への興味関心、
そして、その情報を一番必要としていることに
わかりやすく伝えることへとつながっていく。

大脳生理学や認知神経心理学といった脳科学の進歩は、
高次脳機能や発達障害についても多くのことを明らかにしてきたのだが、

その情報は一部の専門家が理解しているだけで、
一番情報を必要としている、発達障害の子ども本人、
子どもたちに関わる保護者や教育者には伝わっていないことに
著者は問題意識を持つ。

著者の略歴は、オンライン上では、
「千葉大学医学薬学府博士課程修了。医学博士。」からはじまっているので、
最初から医学薬学系だった方という印象を持っていた。

ところが、本書には、その前の略歴がさらに書かれていた。

著者は、もともとは社会福祉学の専攻だったのである。

通常学級の担任、知的障害特別支援学級担任、
情緒障害通級指導担任、養護学級教諭のご経験がある。

その後、総合教育センター、子どもと親のサポートセンター指導主事として、
不登校、非行の子どもの教育相談や生徒指導に関わっている。

社会人大学院生として千葉大学教育学研究科修士課程修了(教育学修士)後退職し、
それから、千葉大学医学薬学府博士課程修了(医学博士)だったのである。

ここに刻まれた略歴が表す著者の歩みは、
本書に確かに織り込まれており、
発達障害を脳機能から理解するための本なのだが、
教育関係の本を読んでいるような印象を受ける。

第1章の最初で、発達障害の典型的なタイプの子どもたちが登場するのだが、
こういった冒頭の書き方は、教育系のルポ本に多いのではないだろうか。

また、「全部ひらがなにして書かれた英文」のように、
障害がない人でも実際に理解が困難である状態を
疑似体験できるような工夫をしている。

脳機能ばかりを語って人を語っていないのではなく、
まずは人を語りそれから脳機能を語っている。

こういうと御幣があるかもしれないが、
医学系の本にありがちが無機質な感じではないので、
人文社会系に読みやすいのである。

脳機能について知りたいのだけれども、
医学系の本を読むのはちょっと・・・
と敬遠してしまっていた関係者にとって、
非常に読みやすい1冊ではないかと思う。

章構成は次の通りである。

第1章 発達障害って何だろう?

第2章 脳機能から理解するLD(学習障害)の子どもたち

第3章 脳機能から理解するADHDの子どもたち

第4章 脳機能から理解する高機能広汎性発達障害の子どもたち

第5章 子どもの育ちを支える

第6章 脳についての基礎知識

ここには、章題のみを挙げたが、
節まで降りると「メカニズム」という言葉が多い。

LDの章には、「見ること」「聞くこと」のメカニズム、「記憶」のメカニズム、
ADHDの章には、「コントロール」のメカニズム、「注意」のメカニズム、
高機能広汎性発達障害の章では、「社会性」と「対人認知」のメカニズム、「感情」のメカニズム
について説明している。

発達障害と日々向き合っている人がなじみやすいものを先に持ってきて、
「脳についての基礎知識」のように脳の図がたくさん出てくるようなものを
あとに持ってきていることも工夫のひとつであると思う。

各節が短く簡潔にまとめられていて、総ページ数が索引を入れても186ページである。

それでいて、発達障害関係ならば必要な概念、理論、基本的な用語は押さえられている。

医学的診断一辺倒ではなく、
著者の教育的な経験と知識と医学的な知識のバランスがよい。

  多動性や衝動性の症状を併せ持っている場合は、
  幼児期にADHDという診断がついていることがあります。

  しかし、ADHDという診断がついていたとしても、
  PDDの特徴ももっていると考えられる場合、
  教育的にはPDDとして支援を行っていった方がうまくいくことが多いです。

  それは、高機能PDDへの支援が、最もていねいで手厚いからです。

といった記述が見られるのである。

第5章は、遊びを通した認知支援(CIP:Cognitive Intervention in Play)、
五感を育てる、ソーシャルスキルトレーニング、
指導法としてTEACCH、SPELL、応用行動分析、ソーシャルストーリーなどが紹介されている。

あとがきにこんな言葉がある。

  障害のある子どもたちを支援していると、
  さまざまなことを「ポジティブに」考えるようになります。

  「うまくできたところはほめ、うまくできなかったところは修正する」・・・・。

私自身も、このような考え方をするようになったのだが、
それは、北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者の
地域活動拠点である「浦河べてるの家」の活動を知ること、
そして、近い立場の人が精神疾患を得たことを通してであった。

本書でも紹介されているSSTを、
べてるの家で行っているところを見たことは今でも自分の支えである。

著者が得た学びを私は精神障害分野から学んだ。

本書を読むことを通して、専門とは何かについて考えた。

著者は、障害のある子どもの教育に携わり続け、
それがやがて、「脳科学の成果を教育に生かしたい」という思いとなり、
学問の垣根を越えて新しい分野に挑戦した方だ。

真に実践を突き詰めようとしたら、ひとつの専門では立ち行かず、
自分でそれを超えるか、他分野の人と協力をしていくことが必要なのだろう。

また、本書に語られていることに限らず、専門知識といわれているものは、
ちょっと目線を離してみると、その分野だけでのものではないのだとわかった。

例えば、発達障害の子どもは、
「視覚情報処理」と「聴覚情報処理」のバランスが取れていないことが多いので、
使いやすい感覚について、「視覚優位」、「聴覚優位」という言い方をする。

これは、何も発達障害分野だけのことではない。

NLPでも、視覚・聴覚・体感覚のように
ベースとして使っている感覚によってタイプ分けするそうだ。

自身の専門分野と考える知識を深めるのも大切だが、
そこだけにこだわらずに広い視野も大切だ。

そんなことも考えさせてくれた1冊だった。

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紙の本

アファメーションに使えそうな魔法の言葉

19人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

赤やピンクのパステルカラーの表紙たち。

もうお年頃は過ぎたでしょと自分に突っ込みを入れながらも、
女子本の前で立ち止まってしまうことがある。

平積みになっていた他の本の上にたった1冊だけ置いてあったこの本。

タイトルが、あまりにストレートだった。

副題も、ちょっと、ささった、かな。

でも、この本を手に取らせた決定的なひと言は、見返しにあったのだ。

  あなたの恋がうまくいく
  "魔法の言葉"があります。それは・・・・・・

  「私はあなたが好き。
   私は一人でいても楽しくて幸せ」

もともとノウハウ本は、そのテクニックのために読むというよりも、
一本筋が通ったものが好きだった。

ノウハウのすべてをまねするつもりはないけれど、
その哲学をどうやって表現しているのかに
興味をもてたものは手にしてみる。

たいていは、誰かを好きになると、自分はまるで病気みたいになる。
早く日常に戻らなければと思うくらいにコワレル。

追いかけすぎて、自分の価値を下げすぎて、
失敗に終わった恋の残骸が心の片隅に棲んでいてため息が出る。

それでも、まだ私は、おひとりさまシリーズを読む勇気はないし、
さりとて、婚活というモードでもない。

愛し愛され、幸せになりたいものだと、傷を癒しながらも、
そういう思いがようやっと芽生えだしたというところだろうか。


著者には、4年間思いつづけた人がいた。

  彼は私の生きる希望で、どんなことをしても彼の彼女になりたかった。
  彼と仲よくなって、好きになってもらって、
  彼女にしてもらうためなら、なんでもする! と思っていました。

  彼には私の愛の大きさ、真剣さをいつも伝えていて、
  彼のためにはかならず予定をあけましたし、
  モーニングコールも留守番もし、いつでも喜んで家に泊め、
  料理もつくりました。

  だけど彼にはつねに彼女がいました。

  別れてもすぐに次の彼女ができました。

  いくら待っても私は、彼女候補にさえなることができませんでした。

  どうしたら、彼は私を愛してくれるのだろう。

  どうしたら彼女になれるのだろう。

  なんと4年間。4年間も、毎日毎日そう思いつづけていました。

  (はじめに より)

著者は、彼のことをいろいろな友達に相談し、
毎日思いつめ、初対面の人にまで相談したのだが、
誰も彼女の問いに答えられなかったのだという。

人の魅力に興味があった著者は、キャバクラやクラブで働きながら、
ママや人気ホステスに男性のあしらいかたを、
お客や男性の友だちに男性の感覚や発想を、リサーチをした。

徹底的なインタビュー調査、
そして、答えが公式として天啓のようにわかったとまでくると
これはもう彼女の研究テーマであるかのようだ。

「はじめに」にこめられた、思いや情熱も、
この本を読ませる原動力となった。

彼女の今の成果にあやかりたい、というよりも、
彼女のかつての一途さや不器用な生き方に動かされたような気がした。

「彼を振り向かせるために必要な3つのこと」や「男性の7つの性質」や
「恋愛方程式の解」など、覚えやすいように法則化しているのだが、

無理やり、3つや7つにまとめたという感じではなくて、
経験に裏打ちされ、ひらめきとさらなる熟考で練られた中身には
説得力と納得感があるのだ。

恋愛における力関係を段階で表すなど、
人間関係力学的にもよく研究されている。

しかし、まぁ、こうやって読んでいくと、
過去の私は(今もか?)、とってもとっても痛い女なのだ。

思い当たる節が多すぎて大変困った。

ノウハウが小手先のテクニックではなくて、
人間関係の基本的なところをきちんと押さえているので、
痛い自分を素直に反省できるのである。

「心の命柱」などの命名センスも、ステキなのである。

ちなみにこれは、こういう意味である。

  多かれ少なかれ人はだれかに完全に受け入れられたいと思っていて、
  その部分を出せる、わかってくれる人を、
  無意識でさがしつづけているように思います。

  「命柱」とは、人に分かってもらえないと思っていて、
  だけどすごく大切にしている
  繊細な「感情」のような、心の場所です。

  (p.54)

わが身を振り返り痛くなるばかりではなく、
勇気をくれる言葉もたくさんあった。

最後に、今の自分はまだそうできているというわけではないけれど、
そうありたいと思わせてくれた言葉を4つ引用したいと思う。

  「私を好きになるのも、キライになるのも自由」と、
  相手の意思を尊重できれば、愛されつづけます。

  なぜなら、あなたが空気のように軽やかで、
  彼は自由でいられるから。 (p.161)


  彼がどうあるかは、彼の問題です。

  あなたは「この状態の彼に対して、どうしようか」
  ということだけに、全責任をもってください。

  「あなたがどうあるか」を選ぶ自由は、
  すべてあなたにあるのです。 (p.165)


  結果がどうなってもいい! と本当に思えたら、
  してはいけないことなどなくなります。 (p.217)


  あえて願いをもたず、「今」「できること」
  「したいこと」「すべきこと」をしていれば、
  あとは勝手になるようになっていきます。

  もしあなたが心からの願いを生きていたら、あなたが「今」になり、
  あなたと願いは一つになって、
  あなたが「願いそのもの」になります。 (あとがき)

「私はあなたが好き。私は一人でいても楽しくて幸せ」は、
アファメーションに使えそうな魔法の言葉だと思った。

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紙の本

料理本という名の哲学書

17人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の辰巳芳子氏を知ったのは、ある朝の情報番組だった。スープ作りのカリスマ的存在の彼女の料理教室は2年待ちだという。ただの料理教室の紹介なら、私にとってその情報は全く意味のないものになるはずだった。なぜなら、私は、家族に本の中と頭の中しか見ていないと言われるほど地に足のついていない主婦で、主婦歴7年を超えたというのに家事全般がさっぱりうまくならない女だったのだから。

ところがなぜかその日は彼女の言葉がまっすぐ入ってきたのである。実際に、お父様を8年介助したという彼女の言葉は、介護職よりも介護職だった。「良い道具を持つと体に負担がかからない」とか、「ちょこまか混ぜるのではなく、的確に混ぜる」とか、そういう言葉の1つ1つが介護や人との接し方につながっていた。「的確な混ぜ方を知っていると、言葉を発することができない人の体を拭いてあげるときに、拭いてほしいと思っているところを拭いてあげられるのよ」。「思っているだけじゃダメなのよ。思っているだけじゃ何もしていないことになるんだから」。悩むと止まってしまい、次の行動が取れなくなる自分の背中を押すには十分すぎる言葉だった。

私がそういう背景で入手した本は、本書が2冊目である。1冊目は、『あなたのために−いのちを支えるスープ』であった。最初のページから「料理は図式化できると考えていた。特にスープはすでにぴったり図式化できていた」という印象的な言葉で始まる。すべてスープのことを書いた本だが、ただのレシピ集ではない。文章を読み味わってふせんが貼れる料理本である。読みやすさでは本書だが、こちらもぜひ合わせてオススメである。

本書は、料理本という体裁をとった著者の人生哲学書である。開いてすぐ赤い文字でこの言葉が飛び込んでくる。「優しい心となって、火の前、水の前に立つには…」。その問いの答えが、生命と食のつながりを語っているまえがきなのである。本書は、基本をスープに置く著者の考えに基づき、スープから始まり、野菜、魚、肉、基本の味と続く。他の料理本に比べ、スープにページを割いているのが特徴である。目次にもスープへの思いが表れている。他の食材は、食材に対して下に料理名が書いてあるのだが、スープは1つ1つのスープの名の下にそのポイントが書かれているのである。

本文は、1つ1つの料理が見開きで収まっている。左のページに写真と材料の分量、作り方があるというのは、どの料理本でも同じだが、右のページには1つ1つの食材と料理に対するの著者の考えがまとめられていて、なぜそのように調理するのかの根底の理由がわかるようになっている。特に、「レシピで言わないコツ」にまとめられた数行が深い。おっくうがらずにひと手間かけることの意味を考えさせられる。

料理本は、料理名で引き、辞書のように使うものだと思っていた。本書ももちろんそのように使えるのであるが、一度じっくり座って最初から読んでみても味わえる。また、手順を調べるだけでなく、その料理を作るたびに見開きを深く深く読んでみるとよい。

2冊の料理本、そして、辰巳氏の料理理論に貫かれているのは、料理は、「1にも2にも、練習、稽古」であり、「1回こっきりではなく、何度も繰り返し作り、自分のものに」するということではないだろうか。それは料理に限らず、何かを身につける基本なのだと思う。私はまだ何も極めてはおらず、その意味で、この本にしても人生にしてもほんの数ページを開いただけのような気がする。急にすべてを変えるのは難しいが、1つ1つできることから大切にしていきたいものである。

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紙の本

紙の本ライ麦畑でつかまえて

2010/02/05 23:29

街に出ても書は捨てるな

17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

2010年1月29日、出勤前に眺めていた朝のニュースで
27日にJ・D・サリンジャーが亡くなったことを知る。

まっさきに思いついたのは、本書だったのだが、
私は本書を文学史的に知っていただけであって、
一度も開いたことはなかった。

いや本屋で開いたことはあって、読むに至らなかったんだったかな。

著者が亡くなったのを契機に本を開くのが似合うのは、
再読という行為において、である。

初読は似合わないと思っていた。

だから、サリンジャーが亡くなったね、
といかにも知っていそうな顔をしながら話題にはしても、
そのまま流してしまうつもりだったのだ。

ところが、その直後に『Twitter読書会』なるものが存在することを知った。

同じ本を読み、その感想を決まった日(24時間いつでも良いのだが。)に
ハッシュタグ#tw_dokusyokaiを使って、語るというものだ。

同じ本を読んでゆるくつながるのは楽しそうだった。

2月6日、第4回読書会の課題図書が"The catcher in the rye"の
誰訳でも原文でも良いというものだったのだ。

*** http://soundberuka.blog47.fc2.com/ より引用***

  課題図書 ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger)

  「ライ麦畑でつかまえて」(The Catcher in the Rye)

  開催日2月6日(土)の24時間

  ハッシュタグ#tw_dokusyokai

  誰の翻訳のものでも可。原文もOK。

  サリンジャーについて語っても、他の作品との比較もあり。

  ルール・24時間以内にハッシュタグを使って
  課題図書についての感想・書評・批評・その他、自由につぶやくこと。

  以上。

  終了一時間前に感想会を予定。

***引用終わり***

ミドルサーティーを越えてそろそろアラフォーなワタクシが
青春小説を初読するという状態をどうせなら楽しんでしまおうと決めた。

本書は、最初から最後まで16歳のホールデン・コールフィールドの独白である。

セットは凝らない、何にもないような舞台上の一人芝居が似合うような語りである。

ホールデンは、本質的なことを悟りきっていて、
この世界との渡り合い方だけを知らないというタイプの少年だ。

相手の期待に沿ったふりをしてうそを言うことができないのだと思う。

こういうタイプは、コワレてしまうのだ。

コワレないのは、本質的なことは何も学ばずに、
先にこの世界との渡り合い方を覚えてしまうタイプという皮肉。

コワレてしまった者が復活するにはどうするか。

完全には妥協しないぎりぎりの線で、
世渡りの仕方を学ぶことで大人になっていくしかない。

ティーンの語りのようでいて、どこか古風な言葉が使われている翻訳。

流行にあわせてその時代の十代のままに語るのではなかったところが、
本書がずっと読まれ続けた理由のひとつかもしれない。

著者が亡くなったニュースを聞き、
私よりも先に本書を読み始めて読了した友人は 、
読んだということしか語らなかった。

もちろん、その人がしたのは「再読」である。

行間がたっぷりとあるように思えた。

再読を終えた報告を文字で読んでの想像だが、
きっと複雑な笑みを浮かべていたと思うのだ。

若い頃にホールデン・コールフィールドだったようなタイプが
世渡りの仕方を覚えて大人になってから
過去を回顧する場合にしか出せない行間なのだ。

そして、ホールデンと同じような年齢で
本書を初読していないと感じない何かを感じたのだ。

私は、本について語る際に、
「その本と出会った時が今なのだ」という言葉をよく使う。

その本が出たばかりのとき、流行っているとき、
自分と登場人物が同年齢で最大限に共感できるときなどを
逃してしまったとしても、
きっと今この本を手にしている瞬間が、
あなたがこの本を必要とする時なのだという想いをこめて。

だが、そう言いながらも、悔しさを100%拭い去れたわけではない。

私自身は、小学校時代までは、本の世界としかお話できないような子どもだった。

だが、中学校以降、周りと上手くやっていく術を学ぶために書を捨ててしまったのである。

本を再び読み出したのは大学時代で、
その頃はもう、本は趣味ではなく情報になっていた。

学ぶために必要だから読むものになっていたのだ。

情報のための読書一辺倒から
情報と趣味を兼ね備えた状態になったのは、実は最近のことだ。

よって、私は、読書家ではない。

文学史的名作をしかるべきときに読んでいない、
作家の誰々を好きというほどに誰かの作品を追ったことがない自分は、
読書家というには何かものすごく欠落しているような気持ちになる。

よくインプットからアウトプットまでの時間が早いと驚かれるが、
このスピードの8割は悔しさでできてるといっていいだろう。

失われた時間を取り戻したいのだ。

子どものころに本と出会った者は、本とともに生きるタイプの人間である。

(ちなみに、本との対話をを必要としない人もいると思うし、
その生き方は否定しない。その人は違うものと対話をする人なのである。)

本とともに生きるタイプの人間は、本との対話を一生必要とするはずだ。

だから、周りが何と言おうと、うまく世渡りするためであろうと
書を一生捨ててはならないと言いたいのだ。

さて、読書会までには無事に本書を読了することができそうなことを喜ぼう。

#tw_dokusyokaiで、明日(2月6日)はどんな言葉が語られるだろうか。

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紙の本

紙の本チーズはどこへ消えた?

2009/04/24 00:57

10年前のベストセラーだが、今でも「新しいチーズ」になりうる1冊

23人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

原書"Who Moved My Cheese?"は1998年、
訳書『チーズはどこへ消えた?』は2000年に出版されたのだが、
その10年近く前のベストセラーを原書で手にするきっかけは、
『英語多読完全ブックガイド(改訂第2版)』だった。

Graded ReadersやLeveled Readersなど、
英語学習者用にretoldされた作品はたくさん読んできたし、
もともと児童書読みだったこともあり、
児童書の原書へのチャレンジは早かったのだが、
実は一般書はまったく読んでいなかった。

そこで、そろそろチャレンジしようと手にしたのだった。

本書は、3部構成になっている。

第1部は、高校の同窓会で再会した仲間を前に、
マイケルが物語を語り始めるところ。

第2部は、『チーズはどこへ消えた』の物語部分。

第3部は、高校の同窓生達のディスカッションである。

物語部分は、シンプルである。

最初は、シンプルな話を何でそんなに引っ張るのだ
と思ってしまうくらいである。

2匹のねずみと2人の小人がいて、
今までのチーズがなくなったらさっさと新しいチーズを探しに向かい
新しいチーズにたどり着くことができる2匹のねずみ、
そして、考えてばかりでなかなか動かない2人の小人。

1人は葛藤の末、動き出すが、
もう1人はそれでも何が起こるかわからない迷路に踏み出すよりも
チーズがなくなっても安心なその場所がいいとなかなか動かない。

動いたほうは、ねずみに遅れるが新しいチーズにたどり着く、
果たして、動き出さなかったほうはどうなるのか。

その後動いたか動かなかったままか、答えは、読者にゆだねられている。

動けばたどり着ける、動かなければたどり着けない。

単純にチーズを探す話と思うと、
何をそんなに引っ張るんだ、悩むんだと、思ってしまう。

それに、読者の立場でいると、
外からすべての登場人物の行動が見えるので、
とてつもなくこっけいに見えるし、
自分は古いチーズがなくなったら新しいチーズを
探しにいけると思えるのだが・・・。

これが実際に、自分の人生という名の迷路にいたらどうなのか。

本当に、すぐに次に向かえるのか。

枯渇した場所を掘り返して穴をあけるだけってことはないか、
いつまでもしがみついて動けないことはないのか。

チーズや2匹のねずみと2人の小人の行動が
何を象徴しているのかを考えると、
それはとたんに、「自分の物語」になるのである。

原書を英語のブッククラブで借りて読んだのが最初だったが、
言葉の使い方がおもしろく、原書と訳書を購入してみた。

原文が日本語ではないものは、
原文にあたってみると発見が多いものだと思う。

まずは、この作品、とっても名付けが象徴的なのである。

訳書は、名前をカタカナ表記し、
訳者あとがきの最後で、その言葉の意味を説明しているが、
2匹のねずみ、2人の小人の名前は、彼らの行動を見事に象徴している。
そのまんま、なのである。

彼らの名前は、名詞であり、動詞なのだ。

ねずみは、スニッフ(Sniff)<においをかぐ、~をかぎつける>と
スカリー(Scurry)<急いで行く、素早く動く>、

小人は、ヘム(Hem)<閉じ込める、取り囲む>と
ホー(Haw)<口ごもる、笑う>である。

さて、私たちは「チーズ」に何を見るのだろうか。

第3部のディスカッションや訳書の返し帯にあるように、
仕事、家族、財産、健康、精神的な安定・・・など様々である。

私は、自身の経験や最近読んだ本の影響から、次の2つに思い至った。

ひとつは、虐待やDV等の不利な状況から動けなくなっている状態について、である。

自分も経験があるが、傍から見て、そこから逃げ出したほうがいい、
抜け出したほうがいいという状態であったとしても、
人はその状態に慣れてしまい、苦しい中でも、
安定を見出してしまうものなのである。

そうなると、その状態から逃げ出せない。新しいことが怖いのである。

悪いのは自分だと思いながら、その不利な状態に安住することを
選んでしまう。

「新しいチーズは必ず見つかる」と一歩勇気を持って
そこから踏み出せばそこに新しい幸せがあるということに
気づいてほしいと切に願う。

過去の私には、踏み出す手助けをしてくれた人や状況が
あったということに、改めて感謝したくなった。

もうひとつは、池田晶子さんの3つの問いの影響だと思われるのだが、
肉体としての自分への執着についてである。

動物は死期を悟ったら潔い。

人間はというと、老いと死を恐れて、変化を恐れて、
肉体としての自分に執着してばかりように思われる。

それも「古いチーズ」に執着しているということなのではないか。

ところで、目立つところに、英語にはあって、
日本語には訳出されていないニュアンスがある。

それは、タイトルの訳し方なのである。

"Who Moved My Cheese?"は、直訳すると、
「誰が私のチーズを動かした?」となる。

「誰かが」「私の」チーズを、持って行ったと言っており、
日本語訳タイトルの、いつの間にかチーズが
なくなってしまったというような感じとは
全然違うのである。

思いっきり被害妄想なのだ。

人のせいなのだ。

古いチーズのことはすっかり自分が所有していたと思っているのだ。

ヘムがホーにチーズをもらったときに、
「新しいチーズは好きじゃないような気がする。慣れていないから。
 私はあのチーズがほしいんだ。(I want my own Cheese back.)
 変える気はないよ。」
といってしまうあの気分。

英語タイトルは、短い中で、それを全部表し切っている。

日本語タイトルは、日本語としての語感は良いが、
本当のニュアンスは落としている。

だから、英語併記なのだと思った。

今後は、さらに原典に当たる力をつけて、
元は何だったのかを見ることができる人でありたいと思わせてくれた。

本書は今でも「新しいチーズ」になりうる、
新しい発見をたくさんさせてくれる1冊である。

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紙の本

紙の本さっちゃんの まほうのて

2009/06/14 22:12

「私のさっちゃん」のことを思い出しました。

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

今日は絵本のコーナーに違う絵本を探しにいっていたのです。

目的の絵本は見つかりませんでしたが、この本と目が合いました。

書架から外れて、平積みの本のところにそっと1冊だけ置かれていました。

手に取って少しめくって、心が波立ちました。

きっと今日はこの本に会うために私はここに来たのではないか
という気がしたのでした。

***

さっちゃんは、幼稚園のおままごとで、
今日こそはお母さんになりたいとねがっていました。

お母さんの大きなおなかにそっと耳と手を当てて、目を閉じるさっちゃん。

お母さんの手がやさしくさっちゃんの頭に重ねられています。

おままごとでお母さんになりたいというのは、
自分のお母さんがお母さんになること、
自分がお姉ちゃんになること、
そして、いつかは自分がお母さんになることを
肯定的にまっすぐに捉えている証です。

最近、おままごとでお母さんになりたい子が減っていて、
赤ちゃんやペットにばかりなりたがる
という記事をどこかで読んだことがあり、

みんなお母さんになりたい頃は、
良い時代だったんだよなぁとそちらに思いがいったりもしました。

さて、その日、幼稚園でお母さんになりたいのは、
さっちゃんだけではなく、
お友達と言い合いになってしまうのでしたが・・・。

とうとう友達からこんな言葉が飛び出します。

「さっちゃんは おかあさんには なれないよ!
だって、てのないおかあさんなんて へんだもん。」

「あたしだって、あたしだって、おかあさんに なれるよ!」

さっちゃんは友達に飛びかかり、幼稚園の外に出て行きます。

「おかあさん、さちこのては どうして みんなと ちがうの?
どうして みんなみたいに ゆびが ないの? どうしてなの?」

「しょうがくせいに なったら、さっちゃんのゆび、
みんなみたいに はえてくる?」

表紙のさっちゃんの目は、涙を流しながらも、
真剣にまっすぐにお母さんを見つめています。

こんな目で見つめられたら、ごまかせません。

お母さんも真剣に答えなければならないでしょう。

このときの答えは、お互いのこれからを左右するくらいに
大きな意味を持つでしょう。

そして、このときは、いやだいやだとさっちゃんは泣いてしまいましたが、
お母さんの答えは、本当にまっすぐで真剣だったと思います。

そして、さっちゃんのてをつないで歩きながら、おとうさんがいった言葉。

その言葉が、この作品を貫くタイトルとなるのですが、
障害のある子の親は、その子と接していると
力が沸いてくるのだろうなと思います。

そういうご両親には、本の世界でも、リアルの世界でもご縁がありました。

しばらく幼稚園に行かなかったさっちゃんがまた幼稚園に行った理由は?

お母さんの言葉もあるでしょうし、
お父さんの言葉もあるでしょうし、
先生の言葉もあるでしょう。

でも、お友達の言葉が一番大きかったように思いました。

子どもの世界は大人の世界を濃縮していて、
大人が実は心の中で思っていて、でも、口にはしないことを、
はっきりと言ってのけます。

残酷にまっすぐに相手を傷つけ、
だけど、だからこそ、仲直りもまっすぐなのです。

***

私自身にも、「さっちゃん」がいます。

彼女は、小学校時代の友人で、
さっちゃんと同じように、右手の指がありませんでした。

彼女は、クラスを引っ張っていく存在で、
リコーダーも鉄棒もすべて工夫して、
彼女なりのやり方でやりきっていました。

彼女も手のことで心無いことを言われることがあったでしょう。

でも、なんにでも真剣に取り組むその姿勢で、
そんな言葉は跳ね返すような人でした。

『思い出のマーニー』も『モモ』も『はてしない物語』も、
教えてくれたのは彼女でした。

本好きというだけではなく、私の雰囲気に合った本を
手渡すセンスの持ち主だったのですね。

二十数年ぶりに同窓会で会った彼女は、
小学生の頃からの夢だった分野の職を得て、お母さんになっていました。

私の職業選択を私らしいと言ってくれた彼女ですが、
私の本好きも、今、書評を書いていることも、
そして、職業選択だって、かなり、彼女の影響を受けているのです。

「私のさっちゃん」も「まほうのて」の持ち主だったのですね。

その生き方で、障害者という言葉を知らない頃の私の
物の見方、考え方に大きな影響を与えたのですから。

この本は、たくさんのさっちゃんや、
さっちゃんのご両親によって作られました。

さっちゃんの可能性は、さっちゃんが強く願い行動すれば
叶えられることを知るのは、
さっちゃん自身だけではありません。周りにいる私たちなのです。

子どもの頃に、さっちゃんと出会った子どもは、
その「まほうのて」の影響を確実に受けるのですから。

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紙の本

紙の本12星座

2008/12/08 23:50

「なぜ私は占いをするのか」と問いながら書かれた本

15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

著者の石井ゆかりさんは、「星占い等テキストコンテンツサイト 筋トレ」 の主宰です。

筋トレの2000年3月21日からのアクセス数は、2008年12月8日21時30分時点で13,913,502という驚異的な数値を記録しています。この本が出版されたのはちょうど1年前で、カバーには、800万アクセスと書かれているわけですから、1年でほぼ1.5倍になっています。毎週更新される週報は、いったい何人の人が見に訪れていることか。

私自身は、週報は見たり見なかったりですが、「今週の空模様。」と「○○座の空模様。」の週に13種類しかストーリーがないはずが、今週の空模様や自分の星座の空模様に、「これは私のことですか?」と思う記述に出会うことがあります。毎回というわけではないけれど、重なったときは、心臓をすっとつかまれたような不思議な気持ちになります。

彼女のコンテンツは、星占いのようで星占いではありません。彼女自身が使っている「星占い等テキストコンテンツ」という言葉がとってもぴったりきます。

星占いという手法を用いてはいるけれど、星の動きから読み取ったことを大量のテキストで書いてあるので、「占いを読んでいる」というよりも、「彼女が星を通して見たことを彼女が表現して書いた言葉を通して読んでいる」、それが時として「私のことを描き出している」と思って読んできました。

いつだったか、どこだったか、ここにリンクを出せないのですが、石井ゆかりさんが本当は占いをやりたかったわけではないと書いていたことがありました。自分のテキストは占いの要素が入っているから読んでもらえているけれど、本当は、自分は占いなしの自分の言葉で勝負したかった・・・といったような、普段のテキストから感じられる彼女の穏やかなイメージとは違うかなり激しいものであったと記憶しています。

彼女がそういう葛藤の中にあることを、私はそれを読むまで想像もしていませんでした。

この本が書かれた頃と葛藤が強かった時期は重なるのではないかと記憶しています。

『「星占い」のこと。』の章では、「星占いが「当たる」ことはなんの裏づけもなく、未来を正確に予知できることも証明されていない」、「自分が星占いを信じているかと聞かれれば、信じていませんと、お答えします」といった事が書かれています。「現実に起こる事象との相関関係を証明できない「占い」を、単に昔から存在するというだけで、「信じる」のは、理性的であるべき人間として、間違った態度だと思います」とまで書いています。ではなぜ占いをするのかということについては、まだハッキリした答えが持てないでいます」とも。

この章の中で4回出てくる表現があります。それは、人間は弱い存在だということ。

「占いなどなくてもまったく困らない、という生き方、考え方が、絶対に正しい」と思いながら、「人間のもうひとつの真実である「弱さ」の側で、なんの理性的根拠もない「占い」に携わっている」。これが、この章の彼女の締めの言葉でした。

著者は占いをすることについて、悩みながら、迷いながら、でも、持っているすべてを出し切った本であったのだと思います。

次に、「○○座というのは自分が生まれたときに太陽が○○座にあったということ」とか「12星座を10個の天体が時計の針のように動く」とか「スタートラインは牡羊座の0度」といったような「星占いの基本的な考え方」を「しくみ」として説明していきます。

ある惑星がある星座にあれば、その惑星が扱う世界においてその星座的なしくみが組み込まれているという見方です。

このあたりは、星座占いの基本的な情報なのですが、そこに「彼女の言葉」での説明があるのですね。

どんな基本事項でも、説明する人によってなんとなく色が出るものだなと思います。

この本を貫くのは、牡羊座から魚座までを一人の人間の一生になぞらえて語るやり方を踏襲して描かれたひとつのフェアリーテイルです。

12星座は、バラバラに独立した分類ではなく、星座と星座は鎖輪のようにつながっていて、12星座全体でひとつの流れを持つ物語になっているという捉え方です。

「フェアリーテイル」を通読すると、12星座を循環する人生として読むことができます。

各12星座の章は、「フェアリーテイル」、「しくみ」、「各星座を象徴とすることば(たとえば、牡羊座では「過去との関係」、牡牛座では「快美の感覚」のような。)」、「神話」、「スケッチ」、「メッセージ」という互いに独立した同じ構成を持った章になっています。

各星座の「しくみ」は、「フェアリーテイル」の種明かしのような位置づけで、そこを読むと、「フェアリーテイル」が暗示していたことの意味がわかり、同時に、自分の人生に起こった象徴的な出来事を思い出します。

自分の星座やよく知っている人の星座のページを読んでにやりとしつつ、自分の星座の「スケッチ」や「メッセージ」で、石井ゆかりさんは、やはり私に話しかけてくれているような気がしたり・・・。最も落ち込んでいるときに本質を思い出させてもらって励まされたり、自分が自分の星座でよかったなぁと深く深く思ったのでした。やはり私も「弱い人間」ということなのですね。

その弱さのある自分も人も、強さも弱さも喜びも悲しみも清濁併せ呑み、愛し、いつくしめる人になりたいものだと、自分の星座へのメッセージを読むといつも思うのです。

通読一度で終わるのではなく、なんとなく、読み返してみることがあったり、ひとつぶで何通りもの味わいが可能です。

そして、私は、彼女がつむぎだす占いの物語だけでなく、彼女の長い味わいのあるテキストそのものがやはり好きだなと思うのです。

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紙の本

紙の本わすれられないおくりもの

2009/09/08 00:10

子どもに死というものを、死とどうやって向き合っていくのかをやさしく伝える良書

15人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は、死を描いた作品としての定番ロングセラーで、
たいていの絵本リストでは紹介されているのではないかと思う。

いまさら自分が何を足すんだというくらいに
語りつくされているとも思ったが、
最近積み重ねた一連の読書の中に組み込んで、
もう一度向き合ってみたいと思った。

本書の原タイトルは、『Badger's Parting Gifts』で、
実は、日本語訳よりも直球である。

直訳すると「アナグマの臨終の贈り物」となる。

アナグマは、老賢者のような存在である。

「死んで、からだがなくなっても、心は残ることを、知っていたから」、
死ぬことをおそれていなかった。

からだがいうことをきかなくなっても、くよくよしなかったし、
友だちには、
「自分がいつか、長いトンネルのむこうに言ってしまっても、
あまり悲しまないように」といっていた。

このアナグマの死生観は、
どの宗教の人でも、あるいは宗教を持たない人でも、
比較的抵抗なしに受け入れられるものではないかと思う。

つくえにむかい、手紙を書き、夢を見るように、旅立つ。

一番穏やかな死の形である。

自分の旅立ちのときを分かっていて、メッセージを書き残し、
眠るように旅立ったのだから。

死は、自由になること。

これも、宗教を超えて共有できる死の理想的な姿である。

残された者たちが、アナグマの死とどう向き合っていくのか。

これが本書のもうひとつのテーマである。

最初は、喪失感ばかりかもしれない。

だが、時がたつと、
旅立った人から教えられたり、思い出となったりしたものが、
確かに自分の中に息づいていることに気づく。

肉体をもう持たなくなってしまった大切な人は、
どこにいるかというと、自分の中なのである。

温かくやさしく、すべての動物達に寄りそうような筆遣い、
特に、最後のページの色遣いが非常に印象的である。

本書は、子どもを怖がらせずに、死というものを、
死とどうやって向き合っていくのかをやさしく伝える力を持つ本である。

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紙の本

いつか死と向き合うときまでに読んでおきたい1冊

13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

私が本書を読了したのは、実は、2008年の6月中旬だった。

本書のあとに、『「死ぬ瞬間」と死後の生』、
『人生は廻る輪のように』、『ライル・レッスン』を
一気に読み、それも含めて7月上旬には読了していた。

読み終わったとき、風が吹き抜けていくようだった。

その頃の私は、本書について何も書くことができなかったのだが、
今読むべき本だったのだと強く思ったことは覚えている。

医療、看護、福祉の分野、特に終末期医療の分野では、
エリザベス・キューブラー・ロスの名、
『死ぬ瞬間』(原書名:On Death and Dying)という書名、
そして、本書で展開されている「死の五段階」説は、
あまりにも有名である。

2008年3月、どういう話の流れだったか思い出せないのだが、
知り合いからキューブラー・ロスの自伝を薦められた。

彼女の人生は壮絶だけど魅力的だという内容だったと記憶している。

その1ヵ月後、私の大切な人が亡くなってしまった。

その頃の私は、かろうじて食事も睡眠もとり、仕事も行っていて、
何かに憑かれたかのように英語の多読だけはやっていた。

そんなとき、エリザベス・キューブラー・ロスのことを思い出した。

何らかの答えをこの本がくれる気がして、まとめて文庫で買ったのだった。

英語の多読は進んだのに、本書は少しずつしか読めなかった。

そうやって出会った本書だが、
読了から1年以上経ち、今日はなぜか書くときだという思いがした。

本書とその後の著作については、
訳者があとがきに次のようにまとめている。

  本書を執筆した段階では、著者はまだ
  「死後の生」を視野に入れていなかったことを付記しておきたい。

  というのも、キューブラー・ロスが
  死後の生や輪廻転生について熱弁をふるうようになってから、
  そうしたものを信じる多くの人びとの熱狂的な支持を得たと同時に、
  キューブラー・ロスは宗教家あるいは
  神秘主義者になってしまったとして、
  彼女のもとを去っていった人、
  彼女の著作を読まなくなってしまった人も多いのである。

  死後の生や輪廻転生を信じる信じないにかかわりなく、
  本書は、死へといたる人間の心の動きを研究した
  画期的な書物としての価値をいまも失っていない、
  ということを強調しておきたい。

ちなみに、訳者は、「死とは生の終着点であり、
死の向こう側にあるのは無のみである」と捉えている。

Death and Dyingというタイトルについては、
直訳すると『死とその過程について』となり、
著者の基本主張は、
「死とは長い過程であって特定の瞬間ではない」というものである。

だが、すでに旧訳で、『死ぬ瞬間』という邦題は定着しているので、
それをそのまま使って、直訳は副題としてつけたのだという。

訳者は、著者の考え方と自身の捉え方、
旧訳との関係などを冷静に考えて言葉を選んでいかれる方で、
この距離感が訳をするときに良い方に作用したのではないかと感じた。

本書は次の12章で構成される。

1 死の恐怖について
2 死とその過程に対するさまざまな姿勢
3 第一段階/否認と孤立
4 第二段階/怒り
5 第三段階/取り引き
6 第四段階/抑鬱
7 第五段階/受容
8 希望
9 患者の家族
10 末期患者へのインタビュー
11 死とその過程に関するセミナーへの反応
12 末期患者の精神療法

著者は、本書を執筆した時点で
2年半にわたって瀕死患者と関わってきていて、
本書は、その経験の初期の頃についてまとめたものである。

著者の言葉を借りると、
「患者を一人の人間として見直し、彼らを会話へと誘い、
病院における患者管理の長所と欠点を彼らから学ぶという、
刺激にみちた新奇な経験の記録」である。

「人生の最終段階とそれにともなう不安・恐怖・希望について
もっと多くのことを学ぶため、
患者に教師になってほしいと頼んだ」のである。

  私の願いは、この本を読んだ人が、
  「望みのない」病人から尻込みすることなく、
  彼らに近づき、彼らが人生の最後の時間を
  過ごす手伝いができるようになることである。

  そうしたことができるようになれば、
  その経験が病人だけではなく
  自分にとっても有益になりうるということがわかるだろうし、
  人間の心の働きについて多くを学ぶことができ、
  自分たちの存在のどこが
  いちばん人間らしい側面であるかがわかるだろう。

死への五段階は、死に瀕している患者200人以上への
インタビューから見出された。

自分が不治の病であることを知ったとき、
最初は自分のことではないと思い、
いよいよそれが自分のことだ、間違いなんかじゃないとわかると、
怒り・激情・妬み・憤慨といった感情がやってくる。

そして、避けられない結果を先に延ばすべく、
なんとか交渉しようとする段階に入っていく。

もはや自分の病気を否定できなくなると
楽観的な態度をとりつづけることはできなくなり、
大きな喪失感に囚われる。

これまでの段階を通過するにあたって何らかの助力が得られれば、
やがて患者は自分の「運命」に気が滅入ったり、
憤りを覚えることもなくなり、最期の時が近づくのを静観するようになる。

本書は、死へと向かう末期患者のことを書いた内容だったが、
この五段階の変化は、
肉体的に死へと向かう場合だけではなくて、
ずっとつきあっていくような病や障害を得た場合、
病や老いによって社会からの死を経験する場合、
また、大切な人を失った場合も
同じような心の軌跡をたどるのではないかと考えさせられた。

私はまだ、医療専門職、福祉専門職のようには、
本書を読むことができなかった。

異なる経験が語られているはずなのに、
ふと語っている患者と気持ちが重なることがあった。

でも、末期患者ではなくとも、そんな風に患者や家族に近い視点で
本書を読んだこの時期を覚えておきたいと思った。

この1年半去来した様々な感情を思い出す。

そして、これらの感情を超えて、
読んで考えることのできる自分に戻ってきた。

もう少し時間を置いたら専門職に近い視点で読めるのかもしれない。

何年かしてまたきちんと読んでみたい1冊である。

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紙の本

まずはその人の内面で何が起こっているのかを知るということ。その手がかりとなる一冊。

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本書は、アスペルガー症候群当事者と自認している綾屋紗月氏と
脳性まひ当事者の熊谷晋一郎氏の共著である。

テキストの中に熊谷氏が登場するのは7章のみで、
大部分の章を執筆しているのは綾屋氏である。
熊谷氏は、綾屋氏に問いかけ、対話をしていくことで
表現を引き出していく役割を果たしている。

綾屋氏と熊谷氏は、大学時代に手話サークルを通して知り合った友人で、
当時は綾屋氏はアスペルガー症候群との診断は受けていなかった。

綾屋氏は、当事者が書いた自伝に書いてあることが
自身の体験と驚くほど似ていたということから、
「アスペルガー症候群という概念を自分で発見」し、
10年ぶりに再会した熊谷氏に尋ねたのだそうだ。
「わたし、アスペルガー症候群だと思う?」と。

熊谷氏は、小児科医であるが、
児童精神医学についてのトレーニングは受けておらず、
自閉症の専門家でもない。

綾屋氏との共同研究において羅針盤にしているのは、
医師としての知識や経験ではなく、
脳性まひ当事者としての困難だったという。

熊谷氏は、アスペルガー症候群という概念は
どのようなものかを知る必要があると同時に、
アスペルガー症候群という概念では語りつくせない綾屋氏固有の体験を、
なるべくていねいに見分けなくてはならないと考えた。

「綾屋さんのその感覚、苦しさや喜びは、
自分の経験ではどれにちかいだろうか」、
「ほんとうに自分の感覚と同じだろうか」、
「質的には同じでも量的には違うのではないか」・・・。

この問いかけが綾屋氏の言葉を引き出した。

「その経験を等身大で表現しきれている概念はないだろうか」
という思いで、医学に限定せず、情報を検索し、
見つからなかったときは自分たちでことばをつくり共有する
という手法をとった。

こうして、自閉とは何かという問いに、オリジナルな説を与えた。

「意味や行動のまとめあげがゆっくり」であるということ。

綾屋氏は、2006年にアスペルガー症候群と診断されているが、
自身の体験のすべてが
「従来の」自閉症概念に収まるわけではないという可能性を
自覚しているため、
「発達障害」という言葉をタイトルに使っている。

  従来の自閉症概念に合うように私の体験を編集しなおすことなく、
  発達障害という大きい枠の中で自由に語ることから始め、
  その自由な<<私語り>>を起点に、
  従来の自閉症概念をずらしていくのが、
  この本の目的である。 (p.4)

本書は次のように構成されている。

はじめに 「まとめあげが、ゆっくりで、ていねい」という自閉観

1章 体の内側の声を聞く
 1 身体の自己紹介
 2 行動のスタートボタン
 3 具体的な行動のまとめあげ
 4 今日、寒いの?
 5 風邪かな、うつかな、疲れかな
2章 外界の声を聞く
 1 感覚飽和とは何か
 2 「身体外部の刺激」が飽和する
 3 「モノの自己紹介」が飽和する
 4 「アフォーダンス」が飽和する
 5 声があふれる日常
 6 感覚過敏・感覚鈍麻という言説の再検討
3章 夢か現か
 1 夢侵入
 2 夢への入り口
 3 夢の世界
 4 夢のあと
4章 ゆれる他者像、ほどける自己像
 1 所作の侵入
 2 キャラの侵入
 3 「行動のまとめあげパターン」と
   「意味のまとめあげパターン」の関係
 4 他者像の揺らぎ
 5 自己像のほつれ
 6 「普通のフリ=社交」の困難
5章 声の代わりを求めて
 1 私と声との物語
 2 話せない感覚
 3 聞こえない人びとの文化によるアシスト
 4 手話歌でうたえる
6章 夢から現へ
 1 東洋医学との接点
 2 食後の身体変化
 3 音での空間把握
 4 月光の効果
 5 草木の声
7章 「おいてけぼり」同士でつながる
 1 脳性まひ当事者の経験を重ねて
 2 便意の「まとめあがらなさ」
 3 電動車いすと「アフォーダンス」
 4 リハビリ中の「夢侵入」
 5 一人暮らしで「モノとつながる」
 6 「おいてけぼり」当事者同士でつながる
おわりに 同じでもなく違うでもなく

各節の副題まで書くと、さらにおもしろい表現があるのだが割愛した。

独特な表現の意味は、実際に本書を読んで確認していただくとして、
最後に最も印象的だった言葉を紹介したい。

  今でも、私にはときどき猛烈に「人恋しい」気持ちがやってくるし、
  いまだに「いったいあの楽しそうな様子とは、
  中にいるとどういう感じがするものなのだろう」という、
  楽しそうな集団への素朴で強烈な憧れが沸き起こる。

  このようにヒトとつながることへの憧れを抱くのは、
  もしかしたら、私がつながる満足感を知っているからかもしれない。

  私には植物や空や月とならば、つながっている感覚がある。

  心がかよい合い、開かれて満ちていく楽しさや充足感がある。

  それと同じように、もし人びとが集団のなかで、
  「自分が集団の一構成員として、
  主体的に輪の中に存在していることを自覚し、
  やりとりを重ねるうちに楽しいという気持ちが自然に湧き上がり、
  気持ちを他の構成員と共有する」という体験を
  味わえているのだとしたら、
  うらやましくてたまらないのである。

  (p.123-124)

ヒトと本当につながっている感覚は、
なかなか味わえるものではないと思う。

本当に味わったことがあるのかと問われると、
私自身は実はないのかもしれないとさえ思う。

綾屋氏は、本当に体の感覚が繊細な人で、
体中の痛みやそれに対応したときのすっきり感や、
何かを食べたときの体の反応を細かく感じる人である。

それが「あふれるような身体感覚」となり、
意味や行動につながっていきにくくなっている。

植物の声が聞こえることや
出産のときの月の影響のエピソードにあるように、
彼女が自然や空や月とつながっているというのも、
本当につながっているのだと思う。

何かが足りないことも生きにくさを生むが、
何かが多すぎることも生きにくさを生む。

敏感で、繊細で、純粋であることが生きにくさを生む。

「できないわけではない」、「ゆっくりていねいならできる」から、
「できるできない」という質的な二律背反ではなく、
「できるけれどもどれくらいの負担がともなうのか」という
量的な問題で伝える。
「できるけどしません」ということが大事だという。

これは、重度身体障害者の自立生活運動の根底となる考え方である。

発達障害の世界と重度の身体障害者の世界は離れている
と思っていたのだが、
自立生活の考え方が両者をつなぐことも発見だった。

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紙の本

なぜ「イカ」なのか。

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この本を開く前から気になっていたことは、
この本のタイトルがなぜ『プルーストとイカ』なのかということだった。

表紙のイラストも、雲からそびえる古代文字の石碑に座る女性の背景が
夜空と虹というところまではロマンチックなのに、
三匹のイカが、一気にこのイラストを不思議にしているのだ。

こうまでしてイカが出てくるのだから、彼らは重要参考人にちがいない。

ちなみに原題は、"PROUST and the SQUID : The STORY and SCIENCE of the READING BRAIN"である。

副題を『文字を読む脳の物語と科学』ではなく、
『読書は脳をどのように変えるのか?』にしたのは、正解であったと思う。

副題でも十分なのになぜ主題が必要だったのか。

「プルーストとイカ」は、象徴として、また実際の素材としてなど、二重、三重の意味を持っている。

「プルースト」は、読書を象徴する語として、
「イカ」は、著者の専門である認知神経科学を象徴する語として使われている。

50年代の認知神経科学者達は、イカの長い中枢軸策を使ってニューロンを研究したそうだ。

具体的な素材としては、この本が用いるアプローチの理解のために、
プルーストの著書『読書について』の引用が使われている。

この引用はかなり長く、2ページ以上に及ぶ。(p.21~23.)

この引用をできるだけ早く読むことで、読むことによって読者の中に何が起こったのかを実体験してもらい、
それを解説すると言う手法をとったのだ。

また、イカが象徴しているものは、ディスレクシア研究でもある。

  「文字を読む脳をテーマにした本なら、読字に適さない脳に
   わざわざページを割くこともなかろうにと言われそうだ。
   
   しかし、素早く泳げないイカは、
   それを埋め合わせる方法の学び方についてたくさんのことを教えてくれる。
   
   確かに、素早く泳げないイカは完璧な例とは言い難い。
   
   イカが泳げるのは遺伝子のおかげだし、
   素早く泳げないイカはまず生き残れないからである。
   
   しかし、もし、泳ぎの下手なイカが死なずに済んだだけでなく、
   イカの個体数の5~10パーセントにのぼる子孫を増やし続けたとしたら、
   ハンディをものともせずにそれをうまくやれたのはいったいなぜかと、
   問いただしたくもなるだろう。
   
   読字は遺伝で受け継がれるものではないし、
   読字を習得できない子どもが生き残れないわけでもない。
   
   それより重大なのは、ディスレクシアに関連した遺伝子は
   しぶとく生き残るということである。」
  
   (p.331-332)

「イカ」は彼女の興味の核となるものを象徴してもいるのだ。

この本は、3つの部分から構成されている。

著者は、Part1で「書字の起源の美しさと多様性と変形能力の素晴らしさ」、
Part2で「文字を読む脳の発達と読字取得に至るまでの多様な経路」、
Part3で、「問題と才能を併せ持っているディスレクシアの脳」について触れ、
最後に「徳に関する難しい問題と前途に待ち受けている危険」について言及している。


ディスレクシアを4つの原理と言語によって異なる障害の表れ方に分け、
過去から現在に至るディスレクシア研究を総括しつつ、分類している点も興味深いが、

それだけでなく、なんのためのディスレクシア研究なのかもきちんと言及している。

  「ディスレクシアの研究が持つ唯一最も重要な意味は、
   将来のレオナルドやエジソンの発達を妨げないようにすることではない。
   
   どの子供の潜在能力も見逃さないようにすることである。
   
   ディスレクシアの子どもたちすべてが非凡な才能に恵まれているわけではないが、

   どの子どももその子ならではの潜在能力を持っている。
   
   ところが、私たちがそれをどうやって引き出してやったらよいかわからずにいるせいで、
   見逃してしまっていることがあまりに多いのだ。」
  
  (p.307)

ディスレクシアを取り上げると障害の部分か
逆にずば抜けた才能の部分かのどちらかが極端に取り上げられ、
すごく大変か天才かのどちらかに見られがちである。

でも、大切なのは、個人差が大きいディスレクシアの子たちの潜在能力を見つけて
伸ばしてあげることであると本書は教えてくれる。

かつて口承文化から文字文化への変遷を迎えたとき、
それによって人は従来の能力を失うのではないかと、ソクラテスは危惧したという。

その危惧がオンライン文化を迎えた今こそ現実化しているのではないかという
著者の問題提起については、
ディスレクシアへの支援にITを活用するという立場をとっている者として、
また情報科学を専門とする者として、意識しておきたいと思った。

「より多く」「より速く」押し寄せてきてしまう情報の中から必要なものを選び出していく能力と
かつての読書が培ってきた文字を読みながらじっくり考えて感じる能力とを共存させていく未来を、
どちらからも恩恵を受けている者としては、そんな未来を望みたい。

一般の読者を対象とした著書は初挑戦だったという著者だが、
本書は、注記と参考文献をたくさんつけて原典にたどりつけるようにする
研究論文由来の流儀と本としての魅力を兼ね備えた本になっている。

また、著者がたいへんな読書家であり、
読書という行為自体をとても愛しているということが伝わってくる本でもある。

かなりいろいろな作品や人の言葉を引用していて、
その引用にはどれも引き込まれたし、
その引用している本が読みたくなってしまうのだ。

たとえば、こんな引用があった。

  「ダニエル…おまえが見ている本の一冊一冊、
   一巻一巻に魂が宿っているんだよ。
   
   本を書いた人の魂と、それを読んで、その本を人生の友とし、
   一緒に夢を見る相手として選んだ人たちの魂だ。
   
   一冊の本が人の手から手へとわたるたび、誰かがページに目を走らせるたびに、

   本の精神は育まれ、強くなっていくんだ。」
  
  (p.213)

これは『風の影』という本からの引用だが、参考文献リストがしっかりしているおかげで、
この本をどうしようもなく読みたくなった私はそこに行きつけるというわけだ。

この本は、これから何度も何度も読み返して噛み砕かなければ、
きっと自分のものになった気がしないだろうと思う。
米国人である著者がスルメを知っているかどうか知らないが、
イカというのは、噛めば噛むほど味が出るということだったのかもしれない。


読んでいる本が好きになれそうな人とはきっと気が合うに違いない。

だから、再読が今から楽しみなのだ。

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