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  5. 教科書頻出の『富嶽百景』。「富士」は何を写しとるのか、「富士山」へと表現が変わるのはいったい何を表しているのか?― 有名進学塾の国語教師が、「有名すぎる文学作品」のトリセツを伝授

教科書頻出の『富嶽百景』。「富士」は何を写しとるのか、
「富士山」へと表現が変わるのはいったい何を表しているのか?
 ― 有名進学塾の国語教師が、「有名すぎる文学作品」のトリセツを伝授

学校の推薦図書などでオススメされた日本の近代文学。いざ、読んでみようとチャレンジしても、マンガと違って難解だし、なかなかその楽しみ方がわからず毎回挫折を繰り返すばかり。物語の登場人物がとった謎の行動の意味や、会話の裏に隠された真意がわからず、読後もなんだかモヤモヤする…なんて人も多いのではないでしょうか。

けれど、コツさえ分かれば、実は難解ではないのだそう。今回、大手進学塾で教鞭をとり、教材制作にも携わる国語教師の西原大祐氏に、「有名すぎる文学作品」の「読み解き方」を解説してもらいました。作品の中に込められたテーマを知れば、生きていく上で一度は直面する数々の悩みと向きあうヒントを得られるのが、文学作品の素晴らしいところ。文学作品の本当の楽しみ方を知り、その世界観にどっぷり浸ってみるのはいかがでしょう。

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「出会い」のいかし方で、ヒトの生き方を変える方法

たとえば、「出会い」という視点から読み解ける物語をとりあげてみましょう。高校の教科書へも掲載されている、太宰治『富嶽百景』です。

筆者の生まれる前ですが、その昔、プロ野球選手の野村克也氏がみずからを月見草にたとえていました。史上2人目となる、自身通算600号ホームランを打ったときのコメントです。

「花の中には向日葵もあれば、人目につかないところでひっそりと咲く月見草だってある。王や長嶋は向日葵。それに比べれば、私なんかは日本海の海辺に咲く月見草だ。」

この発言については諸説あるようですが、野村氏は決してみずからをおとしめているわけではないと思います。向日葵という華々しい存在があったから、地道にやってこられた、という思いではないでしょうか。つまり、ライバルとの「出会い」こそが、自分を大きく育てるということですね。

実はこのエピソードには、モデルとなるヒトがいたことをご存知でしょうか? それは、太宰治の『富嶽百景』に登場する「私」です。作品の中では、「私」が「太宰さん」と呼びかけられています。すると、この作品の「私」は、太宰治本人と考えて良さそうです。かといって、太宰本人の性格を知らないと読めないかというとそんなことはありません。本文から存分に「私」という人物は読み取れます。

文学作品は[読み取り方」さえしっかり身につければ内容もテーマもしっかり理解できる。その意味で高校現代文の教科書にこの作品が採用されています。この『富嶽百景』を載せることで、自分より大きいものの存在を知ったとき、その「出会い」によって人間は何度でも生まれ変わっていけるということを、教科書は教えてくれているのです。それでは具体的に、『富嶽百景』の[読み取り方]を見ていくことにしましょう。

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数字の羅列は、読み手をがっちりと引きつける効果的な表現

[あらすじ]

富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西および南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。

冒頭の表現です。このとき、「私」は富士に期待してはいません。数字上の意味を「私」はこの時点で知りませんから、何も知らない純粋な気持ちの「私」にとっては、「心細さ」さえ感じています。

ところが、十国峠から富士を見たときに、いい意味で期待が裏切られます。雲に隠れた頂上の位置を、ふもとのゆるやかなの傾斜の度合いから「あそこあたりだ」と見当づけたのですが、果たして雲が切れると、実際の富士の頂上は予想より倍も高いところにありました。みくびっていた富士ですが、実際のその頼もしさに接し、「私」はつい、だらしなく笑ってしまいます。

諸君が、もし恋人と逢って、逢ったとたんに、恋人がげらげら笑い出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に逢って、君の完全の頼もしさを、全身に浴びているのだ。

こんな比喩で、気持ちを表現しています。

[読み取り方]

物語は、やけに細かい数字の羅列から始まります。ゆきとどいた科学的な表現が、説得力を持たせます。冒頭で、読み手をがっちりと引きつけるのには効果的な表現でしょう。

一方、富士にマイナスの評価から入っているのは、富士に対する先入観があるからなんですね。それは、東京のアパートで見た、富士の印象が強いことの対比です。はっきりと文章に書かれてはいませんが、このとき「私」はつらい思いをかかえています。ある人から、聞きたくないことを聞かされ、途方に暮れていたのです。そのときに、泣きながら富士を見たことが告白されています。富士に抱く「心細さ」はそのあらわれかもしれません。

ところが、思った以上に富士は良かったのです。太宰は、気分が良いと饒舌になります。そして、読者が物語の中にいるような口調で、「君」とか「諸君」などと語りかけます。この書き方により、読者は、筆者の「私」が、「君」という自分にだけ語りかけているような錯覚に陥ります。つまり、自分だけが太宰の苦しみも喜びも理解しているのだ、と読者を思い込ませるのです。

序盤のこのエピソードでは、十国峠から見た富士との「出会い」を通して、「私」が今まで抱えてきた「つらさ」を捨て、前に向いて歩き出そうとする様子を読み取ることができます。

しぐさの描写から読み取る「私」の性格

[あらすじ]

秋の初め、「私」は山梨県の御坂峠にかばんひとつでやってきます。日常のしがらみを絶って、ひとけのないところで仕事をしようとしているのです。その峠の頂上にある「天下茶屋」という宿屋で、小説家の井伏鱒二が仕事をしています。「私」も隣の部屋に宿をとり、ここに落ち着くことになります。

御坂峠から見た富士は、「あまりに、おあつらいむきの富士」であって、「私」は恥ずかしくなっています。「これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ」とまで言っています。そしてある晴れた午後、井伏とともに、御坂峠より少し高い三ツ峠に登ります。このときの「私」のすがたは、登山服ではなく、そこにみじめさを感じているところで、井伏からも遠回しにおかしさを指摘されてしまいます。しかも濃い霧のために富士を眺めることはできません。

そこで、老夫婦が営む茶店に入ります。茶店の老婆は、店の奥から富士の大きな写真を持ってきて、崖のはしに立ちます。そうして、写真を高くかかげながら一生懸命に説明をするのです。

ちょうどこの辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます。

残念ながら、本物の富士はついに見ることができませんでしたが、そのとき「私」は、老婆の心づかいに、「いい富士を見た」と笑みをこぼします。

[読み取り方]

御坂峠から見た富士は、世の中に広く行き渡っているイメージ通りの富士だったわけです。それに対して「私」は、みずからの希望に合わせてもらったような、そんな不自然さを感じます。そしてこの場面以降、ひたすら御坂峠から見た富士の悪口が続きます

その後三つ峠に登りますが、今度は自分の身なりに恥ずかしさを感じています。身なりを気にしない井伏からも、「身なりなんか気にしなくていい」と言われ、よけいに傷つきます。いっそう身なりの恥ずかしさを、自覚させられたのですね。

老婆の行為は、身なりも変、富士も見えない、そんな「私」を気の毒がっての、老婆なりのサービスなのですね。そして、老婆の富士に対する自分なりのプライドがこめられてもいます。だから「私」ももう、霧が深いのを残念とは思っていません。

そんな老婆との「出会い」を通して、人との素朴な好意にふれることで、「私」は素直に富士を見直す気持ちを持ち得ました

[あらすじ]

その翌々日、「私」は甲府の街に出て、お見合いをすることになります。ところが、「娘さん」が出てきても、「私」はその顔を見ようとはしません。そんなとき、井伏が「私」の背後を見ながら、「おや、富士」とつぶやきます。

「私」もからだをねじって、うしろを見上げます。そこには富士山頂の大噴火口を見下ろすような写真が飾られていたのです。そして、ゆっくりとからだをねじり戻すときに、ようやく娘さんをちらと見ます。

きめた。多少の困難があっても、この人と結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。

このあと、井伏は東京に帰ってしまいます。「私」は、引き続き御坂峠から「おあつらいむきの富士」と向き合って仕事を続けます。

[読み取り方]

お見合いの場の緊張が解けたのですね。話しかけるチャンスも自分で作れない「私」は、井伏のことばに乗っかって、娘さんの方を見ることができました。ここに「私」の性格が読み取れますね。

富士の写真との「出会い」が、「私」の結婚を決めるきっかけとなったのです。

月見草の示す「日かげ」と、富士の示す「日なた」

[あらすじ]

そのころ「私」は、週に何度かバスを利用して、河口湖畔の郵便局に向かっていました。そこで車内から、道ばたに咲いている月見草を見つけます。

三千七百七十八メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。

[読み取り方]

月見草はその名の通り、夏の夕方に咲き翌朝には花を閉じます。まさに、「裏」で「日かげ」のイメージとして描かれています。この場合の「表」で「日なた」は富士ですから、対比的な表現です。そして「立派に相対峙し、みじんもゆるがず」という月見草の姿に、「私」自身を投影しています。

もちろん「私」も冒頭の野村克也氏も、月見草を否定的なニュアンスでは用いていません。富士に象徴されるような、巨大な相手と生きていくための決意表明です。反発ではなく共生です。

月見草との「出会い」の場面は、ささやかな存在でありながらも、しっかりと生きていく意志を読み取ることができます。

[あらすじ] 
しかし、十月になっても仕事は遅々として進みません。「私」は、文学という芸術のあり方に悩んでいました。小説家として、芸術家として、どう富士と向き合うべきかで苦しんでいます。

生活面に目を向けてみると、「私」の結婚の話までも見通しが怪しくなり始めています。頼りにしていた実家からの援助もなく、結婚式の費用どころか生活費すらありません。このことを娘さんの母親に告げるのですが、つい熱が入りすぎてしまいます。かたくるしい「私」に対して、母親の反応は何とも素朴なものでした。

私たちも、ごらんのとおりお金持ちではございませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。

[読み取り方]

素朴で自然なものが文学であるなら、日常のありふれた風景こそがその対象になります。それは、目の前にある「おあつらいむき」な富士も、文学の対象として認めることを意味します。ただそれは、芸術家として正しい姿なのでしょうか?

月見草の一件で、生活者として巨大な社会の象徴としての富士を受け入れることはできました。しかし、芸術家としてはまだまだ富士を認めてはいない姿がかいま見えます。この場面では、生活と芸術の両立で苦しんでいます。

そんななか、「愛情と職業に対する熱意」さえあれば結構だという婚約者の母親のことばは、「私」に大きな気づきを与えます。「愛情」とは生活、「職業」とは芸術です。それさえあればいいというのです。これらは、「おあつらいむき」と軽蔑していた富士への気持ちを変化させるきっかけともなります。

母親の飾らない言葉との「出会い」は、「私」の素朴な生き方に自信を与え、また素朴なものに対する関わり方を変化させました

「笑い」の表す意味合いの差異

[あらすじ] 
十一月、寒気が強くなり「私」は下山を決意します。そんな折、東京から派手なふたり組の女性客と出会います。写真を撮って欲しいと頼まれ、ひどくうろたえてしまいます。しかし良いところを女性に見せたい、という心には勝てず承諾します。

素朴なおもかげの富士の下で、それとは対極的な派手なふたりの女性。そして、そんな雄大な風景に似合わず、緊張しているまじめな顔のふたりの女性。レンズをのぞいて、「私」はおもわず笑ってしまいます。

どうにも狙いがつけにくく、
私は、ふたりの姿をレンズから追放して、
ただ富士山だけを、レンズいっぱいにキャッチして、
富士山、さようなら、お世話になりました。
パチリ。
「はい、うつりました。」

ふたりの女性をレンズから外して、富士だけを撮影します。その後、「私」は富士山を下山します。

[読み取り方]

レンズをのぞいて笑ったのは、そのすべてを受け入れる富士に対してへの笑いかも知れません。

十国峠で雲の切れ間から富士の頂上を見たときも「私」は笑いました。それは、富士に対する信頼からの笑いであったはずです。「私」は改めて、富士に頼もしさを感じています。ふたりを外して撮った写真に、自分の感じた「富士山」のありのままを残したのです。そして、ここでは「富士」ではなく「富士山」としています。「山」を「さん」として親しみを込め、また感謝とともに撮影したのですね。

富士山は、生活者として、そして芸術者としての「私」を一つにしました。芸術の対極と考えていた素朴さと簡潔さは、純粋さという価値に高められて物語は終わります。

まとめ

困難な場面に直面するたびに多くの「出会い」があり、そして乗りこえてきました。茶店の老婆、富士の写真、月見草、結婚相手の母親、二人の女性、そして「富士山」。

一見、地味で無意味に見える月見草も、素朴さの中から価値を見いだすことができましたし、それによって生きる希望までわいてきました。つまり、「出会い」をどうとらえるかで、普段と同じはずの景色が違って見えるはずなのです。

そして、最初から最後まで、富士山は変わらず同じ位置で、同じ姿をしていました。はじめは嫌悪していた富士山も、さまざまな「出会い」にふれて、「私」の見方は変わってきました。

そう、「出会い」は新しいものでなくても、意外と近くにあるのかもしれません。もう一度、周囲のヒトや環境をながめ直すのも大切ではないでしょうか。

ほら、近くに月見草が咲いているかも知れません。
このサイトでの「出会い」が、なにかのきっかけになれば幸いです。

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プロフィール

 

西原 大祐

有名進学塾 国語教師

大学時代から日本文学を専攻するかたわら、大手進学塾「栄光ゼミナール」で国語教師として最難関中学受験を担当。開成や桜蔭をはじめとする御三家中学への合格者は200名以上。現在、会員制難関受験専門塾「elio」の国語科責任者として活躍しながら、神奈川県内の高校では現代文・古典の大学受験指導もおこなっている。受験合格をゴールと設定するのではなく、社会に出ても生きる「本当の国語力」をはぐくむ指導には定評がある。また、「Mothers」の代表を務め、「文学としての国語」を研究しながら、講演・執筆・教材制作をおこなっている。

ライタープロフィール

 

hontoビジネス書分析チーム

本と電子書籍のハイブリッド書店「honto」による、注目の書籍を見つけるための分析チーム。

ビジネスパーソン向けの注目書籍を見つける本チームは、ビジネス書にとどまらず、社会課題、自然科学、人文科学、教養、スポーツ・芸術などの分野から、注目の書籍をご紹介します。

丸善・ジュンク堂も同グループであるため、この2書店の売れ筋(ランキング)から注目の書籍を見つけることも。小説などフィクションよりもノンフィクションを好むメンバーが揃っています。

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