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闘病生活(大腸がん)を送りながら口述筆記し最後の著作となった書。「原子力の名において技術者の主体性がそがれるようなプロセスがある」「そこにはカルチャーがない」(P115)という指摘、とても興味深かった。
日本には「公共性」がないのではないか、というのです。企業の体質も、日本独自の「私小説」にみられる耽美的で破滅的な美のありようも、公共性のなさという点でまったく同じなのではないか、と(P106)。
本当の安全文化とはどういうものであるか、技術だけでなく、文化の面から考察した書。
「後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。」
最後まで科学者として反原発の姿勢を貫き、この国の将来を危惧していた高木さん。今の状況を見たら何とおっしゃるか…。
わたしたちは、原発がどれだけ危険なものか、いやというほど思い知った。本当の安全文化を構築しなくては。そのために一人ひとりが、考え、行動しなくては。
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市民科学者として著名な高木仁三郎氏が、福島第一原発事故よりもずっと以前に人類に向かって発信していた警告の書。名著である。もっと早く知っておくべきだったと深く後悔。
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フクシマの惨事から半年が経過しようとしている。
何もできない私はしばらくの間、余暇を読書にあてることとした。
核に関わる書籍との付き合いは不思議と焦燥感にかられる。
ゆえに一気読みになってしまう。
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日本の原子力政策のトップダウン的性格に起因する、責任の所在の曖昧さ、実際に放射性物質を取り扱う技術者の認識な甘さや、データの改ざんや捏造等杜撰な管理体制等をするどく指摘されていた。どれだけ科学技術が発達していったとしても、その技術を扱うのは不完全な人間であるということを忘れてはならないと思った。
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原子力産業の黎明期に携わった人だからこそ指摘出来る、現場の危機意識の欠如。ごくごく当たり前のことが出来ない原子力村の人たち。自己検証をおざなりにして来たから、福島の事故は起こったのではないのか。もう少し、生きていて欲しかった。
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この本はガンで逝った市民科学者・高木仁三郎氏が闘病中に残したラスト・メッセージです。国の政策や原子力産業の問題、技術者の姿勢…。今だからこそ読んでいただきたいです。
はじめに言っておきます。今回の福島第一・第二原子力発電所がああいうことにならなかったら、僕はきっとこの本を読まなかったでしょう。先日、地元の新聞で著者の同級生だとおっしゃる方が、コラムで取り上げていたというのもあるのですが、この本はぜひ、読んでいただきたい文献のひとつになってしまいました。肝心の内容はというと、「生涯をかけて原発問題に取り組み、ガンで逝った市民科学者・高木仁三郎が闘病中に残した最後のメッセージ。」
ということで、僕もこの方のことはつい最近知ったばかりですが、経歴を見る限りでは、ゴリゴリの原子力関係者で、なぜ高木先生がある時期を境に反原子力の立場を貫くようになったかは残念ながら不勉強でわかりませんが、こういう本があるからこそ、『日本の原発世界一』という某ロックシンガーの歌詞のような宣伝にあーそーなんだと今まで何もしらないで電気をこうして使っていたということに読み終えたあとに少し気落ちしてしまいました。
ここに書いてあることがもし本当だとするのだったら、今回の事故は起こるべくして起こった結果なのかなと、残念ながらそんなことを考えてしまいました。しかも、それがたまたま今回の福島だったというだけで、本当は日本全国どこだってありえたのだと言うことも考えてしまいました。それでなくてもやっぱり大なり小なりもれていたんですね。放射能って。今は責任の所在を云々するときではないのかもしれませんけれど、今回のことが『想定外』だったのか?それとも『想定の範囲内』なのか。それを判断するためにどうかご自身で目を通して判断をしていただけると紹介した身としてはこれに勝る喜びはありません。
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JOCの臨界事故の後に出版されたこの本では
原発事故を引き起こす理由を明解にしてくれる。
著者は元原発の技術者だけに、
企業内部や現場での状況に詳しい。
そもそも原発はアメリカの技術をコピーしたものに過ぎず、
ブラックボックスも多いので企業内での
自発的な安全性の追求がむつかしく、またその気もない。
その予算規模や事故時の想定賠償額の大きさから
単独企業ではリスクが大きすぎ、国が主導した
寄り合い所帯となるので互いの、
あるいは設計と現場の間の意思の融通に欠ける…。
など、構造的に問題を抱えている。
政府、電力会社、メーカーの、誰も責任を取らなくていい
システムが、福島の惨状にまっすぐに繋がっている。
既に予言されていたことが、いとも簡単に起きてしまった。
残念である。
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原発事故を生む精神的土壌にまで踏み込んでいる
公共性とはなにか、アカウンタビリティーの本来の意味は何なのか、それをどう日本や日本人は履き違えているのか、ということに言及した哲学書だと思う。
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今から12年前、福島原発から11年前に書かれた、高木仁三郎の遺書である。化学者の放射能の扱いに比べて物理学者の放射能の扱いがいい加減ということが他の本にも書かれていない。
3.11について卒論で書こうとする学生にとって、その原発推進組織がどのようなものであったかを知るためには避けて通れない本であろう。
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2000年に出版され、その直後に高木氏はガンで亡くなった。
まさに生涯かけて反原発の道を貫いた人である。
中学生にでもわかる平易な文章だが、故人の信念が伝わってくる。
読み終わって思うのは、日本の文化というのは、原発のような巨大なエネルギーを扱うには、リスク管理の面からも技術革新の面からも、適していないんじゃないか?ということである。原発のような危険を伴う産業には安全をどう確立するか、という問題が常に意識されるべきだが、この安全を守るということができないのである。
原発産業に特徴的な土壌、つまり、「議論なし、批判なし、思想なし」、というのはまさに日本の社会文化そのものだ。リスクのないようなところでやってるならいいけれど、原発のように市民全体の健康を脅かすような危険を伴う巨大産業でこんなことやってたら、安全を守ろうという姿勢は生まれないのである。安全を目指すには、リスクを想定しないといけないわけで、最悪の場合を想定して研究を重ねるしか安全な技術は確立できない。でも、日本のやり方は、衝突を避け、嫌なことは見ないようにするわけだから、
建設的な研究はできないのである。
日本の原発は安全とか、日本は技術大国ですとか、どれだけ言われてきたことか。
技術というのは、手先が器用なだけじゃだめなんだってことが、今回の事故でよくわかった。思考のないところに発展はない、ってことだ。
日本は戦後、60数年かけていったい何を学んだのか。結局、外側だけ作り変えても中身はそんな簡単に変わらないのだった。
高木氏の言うように、とにかく、原発は危険が大きすぎるからやめて、危険の少ない自然エネルギーにしましょう、というのがこれからの正しい道のような気がする。採算がどうのとか、いつまでも言ってないで。事故が起こったときの危険性を考えたら原発はやめたほうがいい。単純な発想だけど、それでいいんじゃないか。
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名著。私は事故が起こるまで、良いものではないけどそれなりの平和があればなんとか人間が管理できなくはないだろうと思っていました。これを読んで原発には廃炉を目指してもらいたいし、なるべく原発のないところで暮らしたいというスタンスがはっきりできました。
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(2003.07.11読了)(2003.07.04購入)
(「BOOK」データベースより)amazon
日本中を震撼させたJCOの臨界事故をはじめ、数々の原子力施設の事故から明らかになった国の政策や原子力産業の問題、技術者の姿勢を問い、これからの科学技術と人間のあり方を考える。生涯をかけて原発問題に取り組み、ガンで逝った市民科学者・高木仁三郎が闘病中に残した最後のメッセージ。
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あえて、今、岩波新書の故・高木仁三郎さんの遺作を手にしたのは、原発事故や原子力というテーマが、私の頭からずっと消えていないからだと思います。
読み進めるほどに、彼の言葉は、予言のように、3.11から発生する重大な事故への警告を感じました。
科学者の立場で、当時から、危険性を予見できた人。予測不可能な事故ではなく、原子力を扱う難しさ、課題の多さ、など、もっと、我々が理解し、議論をしなければいけなかったことに、反省させられます。
誰が悪い!という理屈だけではなく、真実を知らないまま、知ろうと努力しなかった結果、将来世代にも、重い十字架を背負わせていることは、忘れてはいけないと実感しました。
高木仁三郎さんの著作を、しばらく、継続的に読みたくなりました。
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齊藤誠「原発危機の経済学」の中で、原発関連の著書で共鳴したのが本書と『新・原子炉お節介学入門』だと、紹介していた。
著者は、化学者として、日本原子力事業や東京大学原子核研究所で原発技術開発の現場に身を置いていたが、当事者として携わるうち、問題意識をもつようになり、その後は原子力反対派としての姿勢を貫いてきた。
しかも、本書は、著者ががんの闘病中に記されたものである。本書が世に出たときは、すでに亡くなっていたというから、緊張感を持って読んだ。
「放射能を知らない原子力屋さん」「自己検証のない原子力産業」などを読み進めるにつれ、このような人たちに原子力産業が委ねられていたのかと衝撃を受けた。