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「市民科学者」の最後のメッセージ。悪夢が現実となったいま本書を読む意味は大きい
2012/03/26 14:40
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:サトケン - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者が逝って12年、最後のメッセージをテープから起こして編集した文字通りの遺著である。『市民科学者として生きる』(高木仁三郎、岩波新書、1999)には書ききれなかった思いが、このほんとうの最後の本にはこもっている。著者の執念と気迫が読者にも迫ってくるものを感じるはずだ。
著者の故高木仁三郎氏は、原子力関係者に多い物理屋ではなく化学屋である。この点が、著者の見る視点にユニークさをもたらしているようだ。現象を数値計測し観察するのが物理屋の世界であれば、モノとしての放射能に直接かかわるのが化学屋の世界である。
シミュレーションによる設計からもれ落ちてしまう放射能というリアリティ。バーチャルな世界ではなく、リアルな世界で放射能とかかわってきた著者の、実体験から語った日本の原子力技術が誕生当初から抱えている問題点については説得力がきわめて大きい。
いかなる産業であれ組織であれ、その後の性格はその誕生時点で大きく規定されてしまうものだが、1950年代における日本における原子力産業の誕生が財閥企業復活の原動力ともなったことには大きな注意を払う必要があるだろう。この側面にかんしては書いている人も少なくないが、著者のようにその当時の「空気」まで語れる人はそう多くはない。
つまり、原子力産業には「出生の秘密」があるというべきなのだ。「輸入技術としての原子力」という視点も鋭い。原子力産業とは、明治以来の日本近代化をそのまま凝縮したようなものとさえいえるものだ。けっして自然発生型の技術ではなく産業でもないという点が重要である。また、各財閥グループ企業から技術者を寄せ集めてつくった組織という点にも、原子力産業における他人まかせの無責任体制が誕生時点から内在していたことが理解される。まさに「押しつけられた運命共同体」だったわけだ。日本における原子力産業の誕生からかかかわってきた著者が語るところを聞けば、そもそもの誕生の時点で原子力産業が大きな問題を抱えていたことが手に取るように実感される。
そもそも、営利事業であるビジネスと技術はお互いにとって異物なのであるが、とくに原子力という技術はその最たるものでることが理解される。本書は、「組織と個人」の問題、「技術と倫理」の問題にも大きく踏み込んでいる。「企業の社会的責任」をクチにする以前に、「技術の社会的責任」を理解しない技術者たちの存在に言及している本書の指摘に、原子力産業だけでなく、ひろく技術者のみなさんも真摯に受け止めて欲しいと思う。
アカウンタビリティは「説明責任」ではない、ほんとうは「結果責任」と訳すべきなのだ。こう語る著者の気迫が「3-11」後によみがえったことはたいへんよろこばしい。技術者そうでない一般市民も高木仁三郎氏の声に耳を傾けてほしいと思う。そして、日本は「先進国」とは何がどう違うのかを考えてみてほしいと思う。
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10年前の鋭い指摘。直接の事故対処手段を教えてくれるものではないが、根本原因を考えるよい材料を提供してくれる。
2011/04/05 17:39
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
自ら原子力研究に携わった経験から、生涯原子力発電問題に取り組み続けた著者。著者には同じく岩波新書で「市民科学者として生きる」もあり、科学と社会との関係の問題を指摘し続けた人でもある。本書は原子力発電を題材としているが、根本にある「社会に対する科学者の責任、企業の責任」という問題は前掲書と同じである。
東海村の事故(1999)をきっかけに、既にガンで闘病生活に入っていた著者が筆を執ったというだけあり、「書いておかねば」という強い気魄が伝わってくる。直接の事故対処手段や個人の持つべき対処知識を教えてくれる本ではないが、根本原因を考える材料を提供してくれる。
原子力発電についてまず指摘されているのが「国家予算がついて動き出した、上からの文化」ということ。日本人の性格なのかもしれないが、「お上が決めたのだから」となると、推進派は当然強気になる。「なにかあったらお上が解決してくれる」という責任転嫁の気持ちもひそんでくるだろう。学校でも「原発は安全」「大事なエネルギー源」ということばかり聞かされていた気がする。民間知識(たまには間違ったものもあるが)も無いままなので、「放射能」と聞くといたずらに脅え、怖れる弊害も大きい。
今回の災害の報道・ニュースへの反応などを聞いていると、放射能の知識などももっと「きちんと学校で教えること、学ぶこと」の大切さを感じた次第である。
二つ目は、「民間企業である限り利潤追求が目的であり、企業秘密も発生する」ということ。その結果、企業イメージを悪くするような事故報告などはなかなか伝わらない。さらには隠蔽や改竄のおそれもある。働く科学者も、企業の一員として「言われたとおりに研究していればいい」と考えるようになっていく。
報道内容への不信、ずさんな管理、保証の問題・・・。今回の地震後、毎日原発の状況が報道されているが、著者の指摘した幾つかの問題点はいまだになくなっていないと感じないわけにはいかない。現在の事故処理であげられている問題点の根は深い。
技術は変化しても、扱っている人間はさほど変わることができないらしい。謙虚に学び、少しでも「過ちは繰り返さない」ようにしなければ。
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本当に言及しなければならない問題は、きっと・・・
2011/03/21 19:53
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:koo± - この投稿者のレビュー一覧を見る
1960年代。著者が原子力企業にいた期間は、原子力産業の基礎を築く一番大事な時期だったはずなのに、恐ろしく真空状態だった。議論なし批評なし思想なしの状態だったと書かれている。
日本の原子力の導入の歴史は1954年に中曽根康弘元首相と財界人の正力松太郎とが一体となり、補正予算という形で原始力予算を通して始まった。誰もが寝耳に水の出来事だったという。本来ならばこの黎明期に様々なことを協議し、原子力産業の骨格を形成するべき筈なのに、現実はそうではなかったという事実を告発。この曖昧なスタート地点が、現在の原子力事情に様々な弊害を巻き起こしている元凶なのだそうだ。
パブリックな「私」という定義を日本文学になぞらえて解説している件が趣き深い。また。卓上の理論だけで、物としての放射能を扱っていない技術者が多いことも指摘している。アカウンタビリティーの欠損。原子力開発だけでなく、すべてのモノ作りに携わる人々にとって最も大切なのは、自分の仕事がどのような公益性をもって世に広まっていくのかを自覚することであると本書は訴える。
自分の仕事に置き換えて考えてみた。たしかに社内のしがらみや色々なことに翻弄されて、自分の考えた製品を利用してくれる人々の顔が見えなくなっていることは否めない。気を引き締めねば。
往々にして日本の組織って、本質をわざと見過ごして惰性で過ごさなければ生きていけないところがある。原発を推進した政府や東電ばかりを一概に責められないな。ぼくらと同じ組織人であり人間であることに変わりはないのだから。本当に言及しなければならない問題は、きっと目に見えないところに蔓延しているのだろう。見えない恐怖を撒き散らす放射能と同じように。
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公益性って何だろう?
2006/10/21 14:23
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:朝光 - この投稿者のレビュー一覧を見る
一番 印象に残ったのは”公益性とは何か?”という問いです。
高木さんは有名な反原発の人ですが、この人が所属する原子力資料情報室が社団法人化の申請をした時に、科学技術庁の役人から「政府の方針は原子力推進なので、それに反対するのは公益性に反する」という理由で拒絶されました。
高木さんが指摘するのは、”政府の方針に従う事が公益=国家の役人の方針に従うのが公益”という考えに固まっている(又は 信じ込んでいる)人がいかに多いかという点です。
公益性とは、人々が求めるものは何か? という所から出発すべきだろう。国民が自由に議論して行けることが公益という考えではないだろうか? という事です。
お上は民草の事を真剣に考えてマツリゴトを行ってくれているハズという理想を信じている事にして、各自の努力や気力が必要な議論を避けようとする気持ちになっているという事なのかもしれません。
私自身そういう逃げをしている事が多いなと、気づかせてくれた一冊でした。 独立の視点の大事さ、それを自分でアピールする努力が進歩の原動力なのだと思います。
尚、日本人の特異性として 面白い指摘も記されています。
日本人の書く文書や演説などには、「我が国は」で始まるものが非常に多いのですが、世界で自分の国を「我が国は」と表現する所はあまり無いとのこと。 アメリカなども”我々の国は”とか”ディス カントリー”いう表現を使う事が一般で、これが日本人の意識構造の典型的な例とのこと。
”個人と国家”という認識が無いのです。
そういわれて見れば、行政の文章だけに留まらず、学校の論文や、企業のリリースなどでも「我が国は」のオンパレードです。
なんか、「我が国」を思わせておいて、本当は一握りの人の国ということが実態なのではないかとフト思いました。
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原発をめぐるシステム、制度、人間などについての問題点の包括的な指摘。
実際に、携わっていた著者だからこそ言える、リアルな危惧。
2011年3月11日の震災、およびそれに続く原発事故を期に、高木仁三郎が再評価されることは想像にかたくない。
ずーっと、警告し続けてきた人が、ずーっといたのである。
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市民科学者の故高木氏の著作。物理学者など、原発を研究する人たちが、いかに放射能の恐ろしさをあまり配慮せずに、原発を扱っているかが伝わりました。
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原子力の本質はあの八月の閃光だ、「絶対的な破壊」だと著者は主張している。
力は別の力に変えられる、破壊の力も平和の力に変えることができると信じて、科学は進んできた。
原子力技術にまつわるさまざまな問題点も、未来の技術が解決してくれるだろうと信じて、色んなことを置き去りにしながら進んできた。
では何を置き去りにしてきたのか。
原子力事故が起きた背景には何があったのか。原子力問題の根本には何があったのか。
それが明らかにならない限り、日本の原子力行政は最悪の事故を招いてしまうかも知れない。
その危機感が、余命幾ばくもない著者を執筆に向かわせた動機だ。
原子力の問題点を原子力産業の歴史から始めて、丁寧に明らかにしている。(1 議論なし、批判なし、思想なし 2 押しつけられた運命共同体)
3 放射能を知らない放射能屋さん
原子力産業の中にもさまざまな分野があり、放射能の危険性を充分認識して慎重に扱っている分野もあれば、放射能の危険性に鈍感で無神経に扱っている分野もある。
そして原子力の開発の主流である炉物理学や原子炉工学の分野の人は、放射性物質の扱いが化学者の目から見てぞんざいで、それが原子力の安全性の欠落に繋がっているのではないかという指摘はショックだ。
以下本文要約
「化学物質を扱っていると、教科書通りでないことがしょっちゅう起こる。慎重に扱っているつもりでも、放射性物質は予測できない動きをして、いつのまにか実験室を汚染してしまったり、揮発を起こしたりする。
そういう経験を経ながら、放射性物質というのは非情に難しいものだと放射化学者は学んでいく。
放射化学者は放射能がいろいろな状況で漏れてしまうことに敏感だ。
その危険について発言もするが、工学的に放射能を扱ったり、計算上で数値としてのみ放射能を扱ったり、物理法則の上だけで放射能を扱ったりする核物理学者はその感覚がよく分からないようだ。
物理学者は非常に考え方が緻密だ。
彼らは物理現象を綿密に解明し、化学者が見逃したことまできちんと測定する。
けれど、物理学者は実際に自分の手で放射性物質を扱うことについては、まったく訓練ができていない。
彼らは、放射能物質の微妙な扱いにくさを知らないで、計算だけで済ませている。
科学技術庁(現・文部科学省)にも本当に放射能のことを知っている人間は少ない。だから、放射能の扱いの無神経さを取り締まれないでいる。
計算で見積もるよりも放射能は漏れやすいのだ。」
「炉物理とは中性子が原子炉の中でどのように振る舞い、原子炉の中でどのような反応が起こるかを調べる学問だ。炉物理学者は、原子力の現場の第一線で原子炉の設計をする。彼らは、原子力産業の頭脳の中心に位置している。彼らはマクロ量の化学物質や化学反応の扱いには長けているが、ミクロ量の物質を扱うセンスはまったく持っていない。マクロ量とミクロ量では違う扱い方をしなくてはならないということも知らない。
彼らは放射能物質にまつわる知識や理論は豊富に持っているが、実際に事故の時に問題になってくるような放射能や、日常的に汚染が問題になるような放射能の微妙な取り扱い、放射能に生じる微妙な難しさを理解していない。
実際に手で持った経験がないので、全て計算だけで組み立てられている。
計算上や理論だけで放射能を理解することはできない。実際に放射能を手で扱えば、はるかに厳しい世界が見えてくるのだ。」
4 個人の中に見る「公」のなさ
日本では、現在の政府の方針に沿う言動だけが公益と認められる傾向がある。個人の倫理観や、社会の持っている健全なチェック機能は公益と結びつかないように言われている。政府の計画が絶対で、一人一人の人間はそれを実現するために従うことのみを求められるとしたら、文化も教育もあったものではない。個人の倫理は消え去ってしまう。
「公」とは、政府や各種行政機関などの公的機関や、役職を持つ公人などの狭い意味ではない。
「公=パブリック」は、人間の持っている個人を越えた普遍性のことだ。
「公」と「私」が同時に矛盾なく存在できる方法はあるはずだ。
5 自己検証のなさ
普遍性を追求する技術の分野で、物事を曖昧にしたまま自己検証をしないでいるのは問題だ。
日本の原子力産業は自己検証能力がない。事故調査委員会でも、事故の責任だけでなく、自己検証がなされなかったという問題が明らかになっていない。過去の事故も、「想定外」な出来事が起きたので、事故が起きた施設を作った人に責任はないということにされた。けれど、その想定が妥当かという検証はされなかった。事故調査の徹底より、自己防衛を優先したのだ。
調査には、厳しいチェックを行い徹底して究明する自己検証型の調査と、これ以上ひどいことにはならなかったということを立証したいが為の防衛型の調査と、二通りの調査がある。
国や関係機関による調査は、被害はこの程度ですんだ、国の安全審査はそこそこ健全な機能を果たしていたと証明するためにするので、防衛型の調査になりがちだ。
事故調査委員会が作られる場合でも、文部科学省が最初から結論の方向性を想定して、その線に沿って調査が行われる。
どういう結論が出ても恐れない徹底調査がされたことは原子力産業内ではほとんど無い。大抵は大体こんな事だろうというシナリオで済んでしまっている。それでは、同種の事故を起こさないという保証が充分得られない。
6 隠蔽から改ざんへ
データの隠蔽や事故隠しは、どの産業でも昔からよくあることで、それほどの悪意が無くても自分のマイナス行為については小さく言いたがるものだ。
原子力産業内ではこれが顕著で、事故隠しの体質、秘密主義の体質と厳しい批判を受けてきた。
1970年代から1980年代頃までは、大きな事故が起こっても外部に隠され、随分時間が経ってから内部告発によってかろうじて明らかになるというパターンだった。
1990年代に入ってから起こった「もんじゅ」や東海再処理工場の事故では、隠しきれないほどの規模の事故だったので事故そのものは公になったが、自己の進行状況や情報は隠されたり、事故を小さく見せかけるように意図的���編集した虚偽情報を発表する方向に変わってきた。
事故の隠蔽の質が変わったのだ。
データ隠しというのは、ちょっと失敗しちゃった、不都合をやってしまった時に、それを積極的に言わないで黙って隠しておくこと。それで済めば隠しおおせる場合もあるかもしれない。
しかし改ざんは積極的に嘘をつくことだ。安全を立証するために、なかったことをあったことにする。虚偽報告は、隠蔽よりも次元の進んだ意図的な悪質行為だ。
技術者にとって観測した数値は絶対だ。改ざんは技術にとってはあってはならないことだ。人によってデータの解釈が異なることはあるだろう。しかし、観測した生のデータを書き換えたら、技術が存在しなくなってしまう、基礎の破壊だ。
改ざんが行われるようになってきたということは、それによって安全性が損なわれるというレベルに留まらない。技術者の基本的な倫理が問われる、根本的な問題だ。
「捏造は、技術者にあるまじき事です。…略…技術というのは、自分で実際に計算した数字や実験的に確かめた数値に基づいて事を運んでいきます。それを勝手に別の数値にすり替えてしまうようなことをやって、平気でいる。これは技術の倫理、技術の公的性格という観点からは、とうてい許される行為ではありません。…略…国はこれを、結果としては大して安全性を損ねていないからと安易に済ませているようですが、とんでもないことです。「安全文化」という言葉を口にするならば、その根本に関わる重大な問題であって、徹底的に究明されなくてはなりません。」
7 技術者像の変貌
日本は技術立国と呼ばれ、科学技術によって戦後急速な経済成長を成し遂げてきた。
しかし、JCOをはじめとするさまざまな事故。阪神・淡路大震災で露わになった建築の耐震設計の甘さや都市構造の弱さ。H-2ロケットの相次ぐ失敗。
これらの出来事が、日本を支えてきた技術にもろさが内包されているのではないか、という疑問を出した。
技術の基本には、実際に物に触れ、その物の感触の中でやりとりをして、そこからさまざまなことを感得し、学び取って工夫をすることだ。
サイバースペースにあるヴァーチャル・リアリティーの世界での数値制御や画像処理で全てすますのは、リアリティーの感覚が相当違う。
現在の技術はコンピューターを使った計算技術やサイバースペースを使ったシミュレーション無しでは立ち行かない。
IT技術時代の技術者には新しい倫理が必要だ。
リアリティーが薄れる世界でモラルをどう保つかが問われている。
8技術の向かうべき所
「本当に原子力安全文化というなら、機構の枠組みではなく、関わっている人間のありようがどう変わるかということが問われるべきですが、国の側は、個人個人の技術というものをどう捉えるか、あるいはその個人が集団として集まって企業体をなすときに、その技術の公的性格というものをどう捉えるか、そういう根源的なレベルに戻って考えているわけではないのです。ただ安全第一主義と言うことを標語のように捉えているだけなので、なかなか徹底した改善には至りませんでした。」
安全とは、技術に内包されていること。大きく構えて考え��ようなことではない。
パッシビズムの技術
人為的な介入が無くても事故が収まるようなシステムを念頭に置いた設計。重力によって水が高いところから低いところに流れるとか、熱も高いところから低いところに伝わるとか、そういった自然法則に充分に依拠したようなシステム。太陽熱のように自然の循環の中でエネルギーをまかなっていくシステム。
原発は自然の法則に逆らったシステムの典型。
自然を制御することは不可能だ。
時代を逆行するのではなく、自然を支配するのでもない、大きな事故や破綻を招かずに済むシステム。これからをどう生きるか。
原子力事故の賠償は民間企業が払いきれるものではない。社会的責任を負いきれるものではない。
だからといって、国が民間企業の事故の責任を肩代わりするのはおかしい。
これまで安全神話を宣伝してきたのに、いまだって東電は大事な広告主だから主要なメディアもあんまり原発のこと悪く言えないでいる。
これだけの事故を起こした会社が社会的責任から逃れていいなんて、ありえない。
その一方で、福島第一原発で作業している人達は、そこまでしなくてもいいんじゃないかと思ってしまう。
民間企業の従業員なんて、本来国家的責任とは無縁の筈なのに、いま「国のために」将来深刻な健康被害が出るかもしれないリスクを承知で作業している。
原子力はリスクが大きすぎる。何か起こったときに、一部の民間人にリスクを押しつけるようなシステムは間違ってる。
「原子力ありき」という前提で全てが決まっていった。
日本の原子力産業は国が主導で作っていったから、原子力に否定的な意見は排除されていった。
電力の選択肢が欲しい。
自分で使う電気を、原子力発電所で作った電気か、火力や水力発電所で作った電気が、風力や太陽光発電などの再生可能なエネルギー発電所で作った電気か、選ぶ自由が欲しい。
原子力産業への政府補助を削って、電力の選択の自由のための補助をしてくれればいいのに。
そしたら電力会社もいまある原子炉は老朽化するまで使うだろうけど、リスキーな原子力発電からは段階的に撤退するだろ。
原子力発電の縛りを無くせば、将来もっと良いエネルギーが見つかるかもしれないし。
参考図書
『原子力の社会史』吉岡斉 朝日選書 1999
飛岡利明 原子力推進 推進派と反対派の議論が必要
『原子力eye』 原子力産業側が出している雑誌。超原子力推進派。いまでもあるのかな。
「原子力事故の災害評価」についてもうちょっとkwsk
ガルシア・マルケス ラテンアメリカの作家 ノーベル文学賞を受賞した。
原子力資料情報室 脱原発を目指すNPO法人
グレン・シーボーグ
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[ 内容 ]
日本中を震撼させたJCOの臨界事故をはじめ、数々の原子力施設の事故から明らかになった国の政策や原子力産業の問題、技術者の姿勢を問い、これからの科学技術と人間のあり方を考える。
生涯をかけて原発問題に取り組み、ガンで逝った市民科学者・高木仁三郎が闘病中に残した最後のメッセージ。
[ 目次 ]
1 議論なし、批判なし、思想なし
2 押しつけられた運命共同体
3 放射能を知らない原子力屋さん
4 個人の中に見る「公」のなさ
5 自己検証のなさ
6隠蔽から改ざんへ
7 技術者像の変貌
8 技術の向かうべきところ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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「核施設と非常事態 地震対策の検証を中心に」で再注目されている高木仁三朗さんの遺作。
原発事故の根底には日本人の持つ「自己の抜け落ちた客観性」という技術観があると高木さんは言う。これは役人の「公共性」に対する考え方にも通じ、「脱原発」を掲げる原子力資料情報室の設立のさいに「それは政府の理念と違うから公益性を欠いている」という彼らの言葉にそれを痛感したという。
あとがきに次のような記述がある。
「なお、楽観できないのは、この末期症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO自己からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです」
高木さんは自らの危惧が他ならぬ日本で現実になるのを目にすることなく大腸癌で亡くなったが、震災後の日本で原子力産業が生き残る道があるとすれば、それは高木さんのいう「パッシブセーフティ」、つまり大災害の際に外部的な動力を必要とせずに稼働を停止する技術を追求することだと思う。
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企画コーナー「今、原発を考える時」(2Fカウンター前)にて展示中です。どうぞご覧下さい。
貸出利用は本学在学生および教職員に限られます。【展示期間:2011/5/23-7/31】
湘南OPAC : http://sopac.lib.bunkyo.ac.jp/mylimedio/search/book.do?target=local&bibid=1324430
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2000年の夏に書かれた原発の隠蔽、改ざんは、その後も続いていたんですね。福島原発事故は、起こるべくしておこったように感じる。高木さんが心配した通りになってしまった。
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「会社の理念」にひたすら忠実に働くとは異常なことなんだ。
本来、自分の行いが社会にどんな影響をもたらすのか、どんな意味があるのか、という自分のもたらす公益を考えて働かなくてはならない。
それがなく、皆がただ誰かの言う「理念・方針」にしたがってだけいるから、誰も責任がとれなくなってしまうんだ。
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11年前に上梓されたこの本に書かれていたとおりのことが、今回福島で起こった。
こと原発のことだけでなく、ある意味でこの本は「日本文化論」としても読めるのではないか。
「公」の意識とはいかなるものか、今ほど一人一人に問われている時代はなかろう。
全ての日本国民必読の書。
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放射化学を勉強する必要性を感じた。
出版は著者が亡くなった後とのこと。
口述筆記だったという。
論述の内容はその通りだ。
具体的にどうするとよいかが見えてなかった。
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今回の原発事故で、企業、政府の隠蔽体質がはっきりと現れていたけれど、
この体質は本当に昔からで、著者がこの本を著した後も何も変わっていないように思えた。著者が今のこの状態を知ったら、何を思うだろう。政府や原子力関連事業に携わる人達の体質はこれからも変わる事はないのだろうか。