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『高丘親王航海記』は澁澤龍彦氏の遺作として、つとに知られている。澁澤龍彦氏といえば、日本初の本格的マルキ・ド・サド研究家であり、彼が手がけた、サド著の『悪徳の栄え(続巻)』の翻訳が猥褻であるとして、いわゆる「サド裁判」の渦中に置かれた人物である。一九六九年には有罪が確定。私が生まれる六年前の出来事であった。氏は、一九二八年~一九八七年まで存命し、昨年二〇〇八年は生誕八十周年にあたったので、様々な書店で「澁澤龍彦生誕八十周年フェア」が組まれ、そこで氏の著作に触れた人もいるだろうと思う。
かくいう私も、三十代に入ってから澁澤作品を読み始めた人間である。私の場合は、宇月原晴明氏の『安徳天皇漂海記』という本を読んで、それが澁澤作品のオマージュになっていることに気付かされ、そこから澁澤龍彦の著作に目が向くようになったのである。どっちかというと遅すぎるほどの「澁澤デビュー」であった。
高丘親王は生没年不詳だが、平城天皇の第三皇子である。時代でいえば平城京から平安京に遷り変わる時期で、高丘親王の子供時代に「薬子の変」が起こっている。高丘親王は平城天皇の皇子ではあるが、嵯峨天皇の皇太子として立太子せられた。平城天皇と嵯峨天皇とは、同じく桓武天皇の皇子なので、高丘親王は、親戚の叔父さんの跡継ぎになったといえる。その時点で、実父・平城天皇は上皇となった。しかし、藤原薬子とその兄仲成が、平城上皇の権勢復活をもくろんで、いわゆる「薬子の変」を起こした為、嵯峨天皇としては面白くないわけで、高丘親王は皇太子の地位から下ろされ、廃太子となってしまったのである。
高丘親王には何らの落ち度もないのだが、この政治的事件によって、親王は皇太子という華やかな地位から、一気に廃太子の憂き目に遭い、挫折を味わうことになるのである。したがって、彼はその生涯を通じて「親王」と呼ばれ続ける。自分のせいではないにもかかわらず、地位や立場が貶(おとし)められ、人々からの羨望の眼差しが、廃太子の自分に対する憐れみの視線に変わるのを肌身に感じた時、高丘親王は、どんな心持ちがしたろうか。自分が悪いわけではないのに、毀誉褒貶(きよほうへん)の内の毀と貶の部分のみ、押し付けられる役回りしか与えられなかった時、親王は、どんなところに救いを求めたろうか。彼の、ひたむきな航海への情熱は、この「薬子の変」が起爆点となっているのかもしれない。
本書は、儒艮(じゅごん)・蘭房・獏園・蜜人・鏡湖・真珠・頻伽の七篇から成っている。そのどれもが高丘親王の旅と夢の軌跡だ。親王であり続けた彼は、出家し、空海の弟子となって仏法に帰依し、日本国内での仏道修行では飽き足らなくなって、天竺行を企図するようになる。その計画を夢のままに終わらせず、実現に移したのが、西暦八六五年(貞観七年)で、澁澤氏の『高丘親王航海記』の記述によると、親王ときに六十七歳というから、オドロキだ。無論、その前段階として、親王は西暦八六二年(貞観四年)に唐に入国して、天竺へ向かうための色々な手続きを進めている。当時の六十七歳って、かなりのご老体だと思うのだが、本書に書かれる高丘親王は、背筋もすっくりと伸���、快活で、天竺への航海に若者のような情熱と夢と憧れを抱いている。こういう人がいたら、好きになって、何かしてあげたくなるだろうなぁというような人物なのである。そこには、廃太子という鬱屈した半生を送ってきたような性格の暗さは微塵も感じられない。親王は、有り余るほどの好奇心を胸に、弟子たちと共に東南アジアの数々の国を経巡っていく。
私は七つの物語全てに愛着があるが、一番好きなものを挙げるとすれば、鏡湖であろうか。南詔国という国に辿り着いた親王は、その国の若き王の精神病を治すことになる。南詔国の王は、向かい合わせの二枚の鏡を持つ鏡台に魅入られてしまい、その間に立つことで自分の姿が限りなく増殖し、そこから自分とそっくりの男が抜け出てくると思い込んでいるのである。親王は自ら二枚の鏡の間に立つ。そして鏡の中をゆっくりと覗く。しかし、そこに高丘親王の姿は映らない。親王は、若き南詔国の王に「影はすっかり封じられました」と告げ、鏡面を内側にして、しっかりと縛ってしまうのである。何故、親王の姿は鏡に映らないのか。実は、南詔国には洱海という湖があり、その湖面に姿が映らない者は一年以内に死ぬという言い伝えがある。南詔国王に謁見する前、親王はその洱海を覗き、自分の影が映らないことに気付いていたのであった、というエピソードである。
物語中の高丘親王は、徐々に死に向かっていくのだが、いよいよ病膏肓に入った時、天竺と羅越国を行き来する虎に喰われて、その腹に収まって天竺へ行くことを決意する。そうして実際に、虎の出没する藪の中に身を横たえて、喰われてしまうのである。しかし、これほどまで安らかに、死を想えるだろうかというくらい、親王の死生観は穏やかで満ち足りている。天皇位に恵まれなかった彼は、天竺へ行くという最大の目的の中で、天皇位が小さな世界に思えるほどに、もっと大きな存在になっているような気がしてならない。この『高丘親王航海記』を読むとき、我々は親王の従者、あるいは旅の同道者となって、親王の天竺行の夢に参加し、親王と一緒になって、見たことも聞いたこともない土地を歩き回り、嵐の海の漂流を耐え忍んでいるような気持ちになるだろう。そして読後は、一度親王と共に死んで、生まれ変わったような感覚さえ得られるであろう。
史実上の高丘親王は、西暦八六五年、天竺に向かい、羅越国(マレー半島南部)で没したとも、そのまま消息を絶ったともいわれている。
平成二十一年八月二十三日 再々読了
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初めての澁澤作品。タイトルに惹かれて購入。
とても不思議な話でかなり好き。文章から情景が想像でき、とても幻想的。
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紀伊國屋ワールド文学カップで何の気なしに購入。下地があって書けるトンデモ。アンチポデスの下りから俄然面白くなる。キャラが立っていて萌えを誘うが、それとは関係なく抜群の浮遊感。
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ファンタジー歴史もん。こういうの初めてかも。
世界地図もインターネットも飛行機もない時代の「旅」って、ものすごく未知。
刺激的でおもしろくって、まだまだ高丘親王の旅に同行したかった。 もっと読みたかった。
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貞観七年、高丘親王は天竺に渡るため、唐の皇帝に許可を取り付けて、二人の共と連れ立って、船出した。幼い頃から植えつけられた天竺のイメージに誘われ、はるかな地を目指して旅を続ける親王は、行く先々で奇妙な夢にとらわれ、あるいは目覚めているときにも、幾多の不思議な光景にであう。
ものすごくエキゾチック。幻想というよりも、幻惑的。
面白かったのは面白かったんだけど、この作品を本当に楽しむためには、私にはいろんな下地が足りないんだろうなという気がします。それが具体的に何かと考えると、悩んでしまうんですけども、人生経験、死生観、性に対する感覚、想像力、歴史知識……うーん。どれともつかないな。ぜんぶかな。
のめり込めなかった原因のひとつは、語り口になじめなかったことかなあと思います。そういうことで好き嫌いをするのはよくない(というかもったいない)のですが、筆者が筆者であるという顔をして、物語の前面に出てくると、それだけで急に、すっと醒めてしまう性質なのです。
その物語の語り手が、読者の存在を意識してしゃべっているというのは、べつに平気なんです。一人称の主人公が、読者に話しかけるスタイルというのは、べつに気にならない。あるいは語り手、神でも脇役でも語り部でもいいんですけども、そういう「誰か」が、自分の知っている物語を人に話して聞かせている、というようなスタイルも、ぜんぜん気にならない。
でもその語り手が「作家」だということがちらりとでも匂うと、なんだかふっと醒めちゃうんです。ただのワガママなんですけど、語り手は、イコール作者であってほしくない。架空の話でもなんでもいいから、少なくとも読んでいる間は、前のめりで騙されたいんですね。いま目の前に広がっている世界は、作者さんが頭の中で考えて書いたものではなくて、そこに本当にある一つの世界、本当にあった(あっている)出来事なのだと、錯覚したまま読みたい。フィクションなんだけど、フィクションということを忘れる勢いでのめりこんで読みたい、作品中に入りこみたいんですよね。
それができなかった原因のひとつが、語り口であり、あともうひとつが、登場人物に感情移入するとっかかりがあまりなかったことでした。これはまったくもって相性というか、私の持っている人生観の幅の狭さが原因で、本にたいして文句をつけても仕方のない部分なのですが、登場人物の感情に、あまり共感を誘われなかった。男性的なものの考え方だというのも、ひとつの原因かもしれません。私の中にも男性性はあるので、同じように男目線の読み物でも、ものすごく共感できるケースもあるんですけども、今回は、遠くから「ふーん」と眺めているような感じが抜けなくて、のめりこんで読めませんでした。
このあたりは、歳をとって、自分の世界や考え方がもうちょっと広がってから読みなおせば、また印象が違うのではないかとも思います。また何年かおいてから、もう一度読んでみたいような気がしています。
あるいは澁澤氏が死を間近にして遺した一作ということで、それを念頭において読めば、作中に描かれる死生観が、また違った意味をもって感じ��れたのかもしれません。(なるべく小説は先入観を持たずに読みたい派なので、下調べなしで読み、解説でそのことを知りました……)
……と、ネガティブなことばかり書いておいてなんなのですが、じゃあつまらなかったかというと、面白かったんです。これだけ個人的にのめりこめない要素があったにもかかわらず、興味深く読めました。
鳥の下半身をした女、犬の頭をした男、獏。登場する架空の生き物の、奇妙な行動や生態、旅先に広がる光景のもつ豊かなイメージは、それだけでも一読の価値ありです。
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友人に勧められて読む
実は澁澤さんの小説はこれが初めて
まああとがきによると長編はこれしかないし短編集合わせても全部で3作しかないらしいから無理もないけど
良くも悪くもない、でも、なんだか不思議な気分になる
春先くらいに良く見る様な、そんな夢を見ているような感覚を抱く作品だった
現実と虚構の境が曖昧で、でもそれが特に気持ち悪いわけではなくて
この作品はファンタジーを読んでいたりすると、とても親和性が高いのではないかと思う
理解しかねる箇所もあったし何度か読みなおしてみたいと思う本だった
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幻想東南アジアぶらり旅。至る天竺。
時は平安(?)。エキゾティズムに心奪われ、天竺を夢見てきた高丘親王。老境に至って遂に決心した親王は、二人の従者と孤児の娘を連れて天竺への旅に出る。
某ゲームの元ネタと聞いて納得。
冒険というありふれた単語にわくわくできる喜びよ。
BC700年頃という、日本ですら当時を知る資料が少ないような大昔、それも東南アジアらへんの冒険となると、それはもう未知の世界と言ってもいい。だから、ジュゴンが言葉を喋っても、妓楼を兼ねる後宮があってもなんか納得してしまう。という快楽。分かりにくいね。俺もわかんない。
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澁澤龍彦さんの遺作となった小説。
時代は9世紀、高丘親王が天竺に行く航海記&夢物語。
父平城帝の愛妾薬子との会話、犬頭人の国など…その世界は涼やかかつ幻想的。
澁澤さんのセンスに酔いしれ、読後は極上のシャンパンを堪能した気分になる。
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内容(「BOOK」データベースより)
貞観七(865)年正月、高丘親王は唐の広州から海路天竺へ向った。幼時から父平城帝の寵姫藤原薬子に天竺への夢を吹きこまれた親王は、エクゾティシズムの徒と化していたのだ。鳥の下半身をした女、犬頭人の国など、怪奇と幻想の世界を遍歴した親王が、旅に病んで考えたことは…。遺作となった読売文学賞受賞作。
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読んだつもりになっていたが、実は読んでいなかった澁澤龍彦の、この作品。平城天皇の皇子、高丘親王が最晩年に天竺を目指して航海した、それを小説仕立てにしたもの。
言葉遣いや語り口が、70年代とか80年代の感じがして、懐かしい気がした。当事者によりそって書かれているかと思えば、ふと後代の情報によって突き放していく。自嘲気味に描かれるところが、懐かしさのもとなのだろうか。
厳密にいえば、「懐かしい」という感情は間違っている。年齢的に、このあたりの小説を読んでいた時期とはずれるから。
さらさら読める、今時の「読みやすい文章」ではないため、時間をゆっくりかけて楽しんだ。
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漫画のような、児童文学のような部分と、ペダンティックな、博物学的な部分が渾然一体となり、澁澤らしい小説になっている。
登場人物、動物が軒並み可愛い。
澁澤も親王と同じく喉の病で亡くなっており、親王に自分を重ねていたのだ
ろう。
円覚や安展の衒学的なところは、若い頃の澁澤のようで、秋丸・春丸はアンドロギュヌスに近く、また「少女コレクション序説」に見える澁澤の少女趣味的な所を思わせる。
彼の作品の魅力が多く含まれており、最期の作品に相応しい傑作となっている。
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言わずと知れた澁澤龍彦による幻想文学の名作であります。
実は宇月原晴明の「安徳天皇漂海記」を読みかけていて、そのあとがきで触れられていたので再読したもの。
平安時代に高丘親王が天竺に向かおうとした逸話をベースにしているものの、決して歴史小説ではなく、珍妙な生き物などが次々と登場する幻想譚となっています。
天竺を目指して進む親王は、同時に夢と現実のはざまを旅していく。人語を解すジュゴン、鳥女を閉じ込めた後宮など、ある意味バカバカしくも、しかし非常に美しい世界観に魅了されます。
澁澤龍彦氏はガンによる死を前にしてこの小説を書き上げたとか。美をもって死を迎え入れる姿勢に、遺作として単純に心打たれます。
初めて読んだときはそれを知らなかったため、衝撃的なラストは氏の芸術至上主義とニルヴァーナ願望を表出したものと考えてたんですけど。
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私が持っているのは、1987年版、文藝春秋のケース入りの美しい単行本。「遺作」「幻想」「綺譚」との帯に惹かれ、すぐに手にしました。でも、まだちゃんと読んでない。遺作って、もったいなくて、なかなか開くことができない。私には、何冊かそういう本があって、こっそりひっそり、棚で出番を待っている。
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耽美で幻想的な1冊・・・なんてありきたりな言葉ですみません。
きっと30代、40代、50代と歳を重ねるごとに、またもっと違った読み方が出来るんだろうな。
読書好きな人ほど読んでほしい1冊。
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旅とは浪漫であって、それが目的になってはいけない。親王は天竺に行って何をしたかったのだろうか。遠い遠い距離を進んでいくことは一生懸命に生きることと似ている。