紙の本
本はいかに変遷するか。大脳生理学の認識論にも当てはまる話は、30年前の文学論とは思えない。
2010/09/20 16:27
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本を始めとする、表現されたものの変遷を考察したものである。
異本になるといっても、物理的に文章や内容、出版形式などが変わっていく場合もあるが、著者は個人の理解というレベルの変化も含めて「異本」と考えている。
主に文学作品とそれを読むことに関した文章なのであるが、「理解・認識」といった範疇に入る部分は現代の生物学、脳科学に通ずるものがあるので驚いた。
著者は「読むというのは、目に見えないコピーを頭の中につくり上げることにほかならない。(「コピー」より)」とする。そして「われわれははっきりしないものに遭遇すると、これを合理化しようとする。欠落したものに触れると、補償して過不足のないものにしようという作用が働く。(「ノイズ」より)」。こうして各人がそれぞれの「異本」をつくるというのだが、これはこのまま現在の脳神経生理学的認識論ではないだろうか。(物の隠れた部分を補って向こう側のものを推測することは錯視などで良く例に挙げられる。あいまいな場合や辻褄の合わない場合、無意識に都合のよい、間違った記憶も作り出されることもわかってきている。)これが30年以上前に文学の話として書かれたのである。この他にも異なる文化・文芸作品を受け入れることを移植に例えたり。物理学の現象に例えたところもある。著者は文学の理解や手法にも科学的な根拠を求めていた、ということなのだろうか。随分先取りした考え方だったことだろう。「知られること少なく放置されていた(「文庫本あとがき」より)」のもむべなるかな、である。
毎回異なるコピーをつくる芸術として音楽演奏や演劇の上演の例も引かれているのも単なる文学論ではないところで、大変面白く読んだ。
「理解」に関わる「異化」は、時代を超えても起こる。時代が変わり、読み手の持つ考え方が変わると、同じ本でも読まれ方が変わってくるということである。新しい一冊が思想を変え、多数の人の「読み方」を変える事もあるだろう。1人の人間の中でも時間の影響はある。「年をとったら違う読み方ができる」と言うことも起こる、というのは実感としてあると思う。
こうして「異本化」を続け、その中で残っていくのが古典である、というのが著者の主張である。
難しいことばかりではなく、日常読書したり書評を書いたりするときに感じることも多かった。「うまくいった書評は、書評を頼まれる前に読んで、おもしろいと思った本に多かった。(読者の視点)」というエリオットの言葉にはどきりとさせられ、「読者はめいめいのよしとする意味によって理解するほかはなくなる。われわれがわかったと思うのはそういう理解である。(異本の復権)」には、カエサルの「多くの人は、見たいと思う現実しか見ていない」を思い出させられる。この書評を書いていても、何度か寝かせ、文章を推敲する。「推敲も著者自身のつくる異本」と言われればそんな気もしてくる。
このような本の変遷の鋭い捉え方に毎ページ刺激されるので、文庫本としても薄いのだが、読み応えのある一冊であった。
本書の初版は1978年。時を経て文庫本となった本書こそ「異本」の見本ではないだろうか。新しい読者による新しい異本化を栄養にして、古典に生長して欲しいと思う本である。
*9月17日の書評ポータルhttp://www.bk1.jp/contents/shohyou/Indexにも、本が文庫本となることの意義が指摘されていた。まさに「文庫は良書を救う点で大事な意義を持つもの」であり、本書の文庫化もその一例であると歓迎したい。
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文学、さらには芸術全般、より大きく言えばコミュニケーションにおいて、「異本化」は必ず生じうるものであるし、生じないものは表現ではありえない。
「あるがまま」読む、解釈することは有り得ないし、誤解(異本化)することによって、文学作品となり、古典となる。
原稿至上主義に価値を置くことは、却ってそのおもしろさの価値が見えなくなる。
自由な読み、解釈、複製の中におもしろさがあって、それを許容出来るものが古典となる。
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外国文学の面白さ、難しさは、大正のあまりはっきりしたことがわからないからであるかもしれない。
古典はコピー収斂してつくった結晶である。かつて文学は歴史の命ずるところに従ってコピーを否定して原泉のみを追求した。
自然が芸術を生むと考えるのが常識であるように、文学においても一般には先行するものほど権威があるように考えられて、原稿至上主義が生まれる。
文献学ではその古典がいかにして成立するかの説明が困難である。古典になるかどうか、歴史的価値をもつかどうかを決するのは、常に読者の方法、異本論である。
文学作品も文化現象のひとつである。
作品が意味をもち、読んでわかるのは、それを取り巻く環境、具体的には読者の心理との間で対話がおこなわれていることにほかならない。
人間の文化の歴史は、書物が出来、さらには印刷物としての本ができるようになってからの期間に比べると、口伝によっていた歴史の方が比較にならないくらい長い。
文学が人間の表現行動と理解行動の昇華であるとするなら、それはその根源的原理と考えられる異本を忘れては成立することはできないはずである。
新しいものがわかりにくいのは、異本がないからである。
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原典主義や作者至上主義といったものがある。あるテクストの解釈は「著者の意図」という神聖にして唯一のものしか有されないといった主義のことだ。そしてこれらの主義において「異本」――読者が理解することで生じる表現の変化――は忌み嫌われる立場にある。「あるがまま」に作品を読むのが理想であり、それに反駁する「異本」は作品の価値を汚し、貶めるものである、と。
こうした考えを筆者は批判する。何故なら「異本」は一卵性双生児であろうとも指紋が違うように完全に同一のものであることはあり得ない。また優れたものであるとされる古典は、それが多様な「異本」によって時間的空間的に一種のふるいにかけられてきた。時に「異本」が原典の価値を超え、原型から典型へと生まれ変わる。このように洗練されてきた結果、古典が古典たり得ているのではないかと言うのだ。
考えてみれば当たり前のことだ。友人と一冊の書について語り合う時、意見が食い違い熱い議論を交わすことのできるものはおしなべて良書である。一回目より二回目、二回目より三回目と読めば読むほど理解の深まる本もまた、紛れもなく良書である。優れた書からは多くの「異本」が生まれる。あくまでそれが収束した結果が普遍的な一つの解釈であり、唯一の解釈しか求められないような本に価値はない。
この本が刊行されたのは1978年。現代において原典主義・作者至上主義を持つ人は少ないだろうし、著者の意見が新鮮味に欠けるきらいはあるが、それでも十分に読むに値する示唆に富んだ書である。興味がある方には是非読んで欲しい。
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・情報を整理して過去を知るだけでなく、伝えられていることに疑問を持ち、 その問いを突き詰めていく姿勢は、まさに、思考の整理学
東大・京大で2年連続売上1位!になった「思考の整理学」の著者、外山 滋比古 先生の著書。
読者に媚びることなく、ご自身の思考を整理する。だからと言って、読者を意識していないわけではなく、ご自身と異なる背景を持ち、知識も語彙も不足しているはずの読者に優しく歩み寄り、難しいことを分かりやすく解説してくれています。その文章を構築する過程は、まるで、先ず基本となる骨格を組み上げ、筋肉に見立てた粘土を付けていくことによって、肉体を表現するようで、絶品です。
仮説をたて、膨大な知識と思考力で既存の概念を崩し、新しい概念を構築していきます。情報を整理して過去を知るだけでなく、真実は見えてきません。情報は、作った人、伝えた人の意識が反映されているモノに過ぎないからです。伝えられていることに疑問を持ち、情報を紡ぎ直し、その問いを突き詰めていく姿勢は、まさに、思考の整理学、これが学者の姿勢なのでしょう。とても勉強になる良書です。
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示唆に富む内容。文学作品を味わうことにまつわるあれこれを考えさせられました。
例えば・・・
小説をもとに舞台化された作品が、上演ごとに少しずつ変化していくこと
講談により、多くの人に愛され、変遷していった三国志を現代の日本人が楽しんでること
源氏物語を原作とした漫画が、今の女性たちに広く読まれていること
大好きな作品の大好きな登場人物の素敵なシーンが、心の中でどんどん膨らんでいくこと
印刷技術が進み、さらにネットで作品が読めるようになると、copyrightは不可欠だけど、逆に、それが、物語が自然に編集されていく豊かさに制限をかけてる部分もあるのかとも思う。
いわゆる同人誌の中には、いい異本もたくさんあるのではないだろうか。それに、雑多な異本を楽しむことは、それだけで面白そうだ。
ともあれ、私は、これからも、自分だけの小さな異本を作り出し、その中で遊ぶことにしよう。
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テクスト論。
今までは作者が本ぜんたいの権威を持つとされていたが、読者の解釈によって決まるとした。
歴史とおなじように、本は時間を置かなければ真の評価ができない。例えば宮沢賢治のように、生きている間は見向きもされなかったが、その後再評価されることはよくある。逆に、流行するものの、10年後には忘れられているということもある。
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読書について。
読書という行為。本は読まれることで初めて意味を持つ。
そして、人の読み方は人それぞれ。
結局、その本が持つ「意味」というのは読者の数だけ存在する。読者の中でのその本のイメージ__それが異本__を無視して、本を語るのはあんまり意味がない。
というようなお話。若干くどい。
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この論考が世に出たのは1978年。物語や歌謡がいかにして古典になるかを論じた本書は40年以上の歳月に耐えている。既に古典の仲間入りをしたと言ってもいいのではないか。最も印象に残ったのは次の一文。
「文学的表現は物件ではなくて、現象である。書いた人から読む人へ、ある記号表現が移るプローセスにその生命が宿る」
未来の古典を生むことに貢献していると思えば、読書がさらに楽しくなりそうだ。
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何かしらの本を読み終え、感想を形にするべく、キーボードを叩いて言葉を目の前に並べていくと、次第に不安を感じ始める。さっきまで読んでいた本について書いているはずなのに、微妙に的を射ていないような感覚。そんな悩みを抱いたことがあるのならば、本書は必読だ。
『異本論』:「“面白さ”は作品に内在しているものではなく、作品と読者の間に発生している現象のことである」といった主張は、自分がこれまで読んできた本からも得てきた知見だが、そういった作品と読者の関係性についてのあれこれが文庫200ページにまとまっていて、付箋を貼りながら楽しく読んだ。