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先端諸科学が描きだす、統一的でない諸学のメタ構造を考える。何かの経験や位相や時代に統合されえない、メタ的な場所を描きだす。これが、ドゥルーズやその世代の思想家に課されたテーマであったといえる。そのために、テクスト自身の、その読みの精度を高めていく。それはまさに、「超越論的経験論」を考えるという、そもそも異種結合のようなアイデアをもって繰り広げられるドゥルーズの記述の根本にあるものである。p43
ベルクソンの読解においては、何がポイントであったのか。いうまでもなく、潜在的(ヴィルチュエル)なものが、「生命」という主題に深く結びつけられたことが捉えられるべきである。この二つのテーマを発展させることにおいて、ドゥルーズはまさにベルクソンの最良の後継者である。p44
「可能と実在」の記述に見られるように、流れにおいて、何か新たなものが創造されることが問題なのである。たとえば新しい文学が生み出され、新たな潮流が形成されたとする。するとひとは、そうした新しいものは、過去に「可能性」に埋め込まれていたもので、そのひとつが実現されたのだと考えやすい。しかしそうした思考において、可能性とは、すでに実現したものを過去に投影することから成り立つものでしかない。ベルクソンはこれを、可能性にまつわる「回顧的」な錯覚と見なしている。つまり可能性とは、すでに過ぎてしまったことを後ろ向きに見直すことによって形成されるだけのものなのである。だがそれは、流れる時間を、流れた後で、空間化して捉えているにすぎない。p47
生命であるものは、それがもつ潜在性によって、まさに未来に開かれている。それは本質的に開かれているのである。未決定性とは、決してネガティヴなことではない。そこでの未決定性は中途半端であることを意味しない。未決定性であることは、何か新しいものになりえ、そうした意味において、未来という時間を可能にする、そうしたポジティヴな存在であるということである。生命とは、そうした点において、潜在性の範型なのである。p54
何を措いてもドゥルーズが自らの哲学の形成において、ベルクソンを乗り越える先に見いだすものは、ニーチェとスピノザなのである。ベルクソンの純粋記憶論の彼方にはニーチェの永劫回帰が置かれている。ベルクソン的な差異化−分化システムの根底には、ベルクソン的な差異の発想では視野に収められず、なおかつそれを「超越論的」に支えていくとされる位相である。こうした意味で、ニーチェとスピノザへの賞賛は、まさに手放しであり、いわばドゥルーズの思考が導かれていく再基底部を露呈されるものになっている。p56
「内在」とは、逆説的であるのだが、一切の「超越」を除外した上で見いだされる「超越論的」な領野である。p58
ドゥルーズがニーチェとスピノザから獲得したものは、ヒエラルキーのない、そしてそこで働く否定性の影もない、自己肯定的な空間の開示である。それは、頑迷に自己中心性を確保した上で、それを開き直って肯定するものではない。自己が自己であることそのものを、自己中心性なく肯定することである。p61
自己は孤立した空間の内部に、自己だけ��住まう領域として存在するのではない。だからそこでは、自己がありながら自己中心性がない。あるいは自己を何かの基準とともに、そこに到達しえないルサンチマンによって追求する必要がない。p62
こうした自己肯定的な空間が「一義性」と名指されるものそのものである。「一義性」とは、後期のドゥルーズでは、「平滑空間」として、あるいは「リゾーム」として描かれるものであるのだが、それは『差異と反復』の概念装置において、何よりもヒエラルキーなき空間として押さえられている。一義性とは、階層性のない、バロック的多孔空間のことである。(中略) それはスピノザ的な意味での「内在」であり、徹底した「内在」への内属なのである。最も逆説的なことであるが、それこそが徹底した「外」を形成する。何の基準にも一致しないかぎりでの「外」に「内在」していること。p62
このように見いだされた一義性や内在性の空間とは、それ自身何であるのか。それはまさに、「自然」という名で呼ばれているもおではないのか。自然であること、自然のなかに存在しつづけること、それが、超越的な一神教の発想を根底的に拒絶する、肯定的な思考の本性である。その点でスピノザが、無神論的な唯物論者といわれたこと、ニーチェの永劫回帰が一種の物理学的な思考と一致する相をもっていること、それは繋がりをもつだろう。唯物的で、物質的で、しかしそれ自身が時間的な開かれのなかでさまざまなものに変化する自然。こうした自然の肯定性をドゥルーズは世界への「信」と呼んでもいる。世界があることを信じること。それはヒエラルキー的に設定される超越を見いだすのではなく、内在的で唯物的なこの生を、そのままに受け入れることを意味している。p63
ベルクソンにとって、現在とはそれ自身が流れの一断片にすぎないようないのだから、そうした流れそのものの方が「実在する」。そのような時間的な流れの過去になった部分には、ベルクソンにとって「記憶」という名が与えられている。記憶が流れの潜在性を形成し、その尖端が現在であるということになる。ここで「実在」に関する視覚の逆転が生じてしまうのである。ベルクソンにとっては、現在的なものが実在するというよりも、記憶こそが「潜在的」に実在する。そしてその帰結として記憶は、それが現在であって、ついでに記憶になるという二次的な仕方で形成されるのではなく、記憶そのものが、現在であることと同時に成立するのである。すべての記憶は現在と同時存在であり、なおかつ記憶の方が優先的に実在をなしている。p90
「問いは、命令なのである。あるいはむしろ、問いは、その問いが生じてくる命令と、問題との関係を表現しているのである・・・・問題つまり理念は、問いとして提示される偶発事あるいは出来事としての命令から流出してくる」p105
「パラドックスこそが哲学のパトスあるいは情念である」p113
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ミシェルフーコーが原型をつくり
それをドゥルーズとガタリが地球規模にまで拡大したポストモダニズム、ポスト構造主義は
地球市民学的見地からみても非常におもしろいですううう
ちょっとPHPで出てる「ポスト構造主義はなんだったのか」
ってのを読みなおしてみたい
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ドゥルーズの「哲学」とは何か
ドゥルーズと哲学史
『差異と反復』―ドゥルーズ・システム論
『意味の論理学』―言葉と身体
ドゥルーズ=ガタリの方へ―文学機械論
著者:檜垣立哉(1964-)
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逗子図書館で読む。興味深い本でした。ただし、何を書いているのか不明です。本人は分かっているのでしょうか。そんな気になります。何故、分からないのでしょう。第1に、僕の知性の問題です。これが最大の問題です。後の問題は大した問題ではありません。第2に、前提となる知識の問題です。多分、この本の読者には自明なことです。ただし、僕には自明ではありません。例えば、この哲学者の経歴です。前の世代と大きく異なっていると指摘している。前の世代はアカデミズムにとどまらない活動をしている。それに対して、この哲学者はアカデミズム内のものだと指摘している。そうなんでしょう。ただし、前の世代のキャリアパスを紹介しなければ、納得できません。そういう部分が多すぎるのです。そんな気がします。
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[ 内容 ]
没後十年以上の時を経て、その思想の意義がさらに重みを増す哲学者ドゥルーズ。
しかし、そのテクストは必ずしも読みやすいとはいいがたい。
本書は、ドゥルーズの哲学史的な位置付けと、その思想的変遷を丁寧に追いながら、『差異と反復』『意味の論理学』の二大主著を中心にその豊かなイマージュと明晰な論理を読み解く。
ドゥルーズを読むすべての人の羅針盤となる決定的入門書。
[ 目次 ]
第1章 ドゥルーズの「哲学」とは何か(内包性と潜在性;十九世紀という文脈 ほか)
第2章 ドゥルーズと哲学史(ドゥルーズのコンテクスト;テクストの存在論化的読解 ほか)
第3章 『差異と反復』―ドゥルーズ・システム論(二つの主著;反表象主義の哲学 ほか)
第4章 『意味の論理学』―言葉と身体(『意味の論理学』について;静的発生と動的発生 ほか)
第5章 ドゥルーズ=ガタリの方へ―文学機械論(ドゥルーズと文学―ドゥルーズと言語;クロソウスキー論 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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第3章までは何とかついていったものの、その後は集中力を失った。著者がNHK出版から出した入門書で理解できたこと以上のことは、あまりわからなかった。
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ドゥルーズがいかにベルクソンに影響を受けたかが丁寧に整理されている。一方で新書ながらも用語が多く、入門書とはいえない。ドゥルーズを改めて別の本で読み直して再度挑戦したい。新書にする意味はあるのかしらと思いました。