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このエッセイがなにかヒントに、そして思考の補助線になればいいという思いと、このエッセイ自体が、思考の補助線の使い方をレクチャーするものとして機能しているように思いましたが、あんまり覚えていません。
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茂木健一郎は、最近随分と多くの本を書いているし、テレビにも出ているな。この本は、少し茂木健一郎自身の思索がプレマチュアな段階での考えを述べた、という印象が残る。
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人生の時間に対して人間が知られることなんて限られてるけどそんなかで何とかがんばろうぜ!って感じ.
読んでてイマイチピンとこなかったので途中でやめた.
しばらくしてからもう一度目を通してみたい.
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★専門性のタコツボに陥ることなく、知の全体を見渡したい。物理学の論文だけでもすべて読むことはできない時代にそれは不可能な願いなのか。それでも真摯な感情を忘れずにいたい。
というようなことだと思うけれど、私には難しかった。
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茂木 健一郎 氏は、「脳は他人に褒められるように変化する」の章で、
脳内報酬物質を放出させるきっかけになる外部からの刺激のうち、
最も強力なのは、他人からの 承認である。何かをやって、それが
周囲に認められたり、ほめられたりしたときに、そのことが 脳内の
ドーパミンをはじめとする報酬物質を放出させるのである。と
書いています。
つまり、話を聞いてくれて、その話に共感してくれて、自分自身の
存在を認めてくれて、 最後に褒めてくれる人は、最高の報酬を
くれる人なのです。
読み終わって・・・
茂木健一郎さんに本は、そもそも何が言いたかったの?と分からなくなってしまう内容のものが多いような気がするが、この本も、ご自身が葛藤し逡巡し、立ち直ろうとするプロセスが記述されているような気がしました。
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寄贈 タスク (2012/1/9)
最近の茂木さんの本はつまらない。本職の脳科学をもっと勉強し、研究し、クオリアについてもっと解りやすく解説してほしいです。
新田 貸出:2012.12.7 返却:2012.1211
情報量が爆発的に増えて、一人の人間が扱える情報量を遥かに超えてしまっている。それによって総合的な知識を得られるチャンスが少なくなってきている。その様々な弊害を本書では書かれていました。
そこに解決方法というものが存在するのか?あまりそこについて触れられていないように感じられる。若干の物足りなさは感じられるが、刺激的な内容でした。
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文系、理系と区別をする考え方自体に問題がある。
科学的、論理的な思考と、文学的、感覚的思考の融合を
著者は考えているようだ。
今の僕にはすこし難解だった。
「分かった!」という感じはしない。
しかしそこここに「これかな?」と思える箇所があり、
線を引きながら読んでみた。
じわじわと理解できるのかもしれない。
しばらく眺めてみよう。
...茂木さんは理系だけど文系の素養もあるよー的なちょっとレトリックを使いすぎるような気がして、やや読みにくいのかな。もっとすっきり書いてくれたらいいのに。
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日本人は批評性が足りない。
専門に陥らず、総合的に教養を身につけるべき。文理横断せよ。
知識人がやることはサブカルを教場にあげることでなく、古典を現代につなげること。
科学は、この世の背後にある規則を解き明かし、普遍的な法則を規定する試みで、芸術は自由意志に基づくもの。
人間は構造的に無生物と変わらず、意識は虚像であり、自然や宇宙の前には、意味のないものだ。制限に満ちた社会で自分の意思で行動し、一花咲かせるしかない。
エッセイ風で、関係ないエピソードがあったり、難解な用語を使いたがるため、分かりにくいが、著者の言いたいところは、こんなところか。どうせなら、脳科学についてもっと聞きたかったが、それは違う本を読めということかな。まあ、イマイチでした。
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100年間、特にこの50年間に学問の領域は理系とされる分野に於いて細分化され深化した。それゆえにかつてなら科学や知の全領域を専門性を以て見通すことが可能であったが、今ではほぼ不可能になった。
しかし、現在世間一般の知のレベルはその専門性の細分化と深化では説明できないほどの低下を見せている。それはいろいろな娯楽が増えたこともあろうし、それに伴いそもそも知の顎が柔になったこともあるだろう。
それに加えて、一般大衆のうすぼんやりした人生に対する呑気さは日本人に於いて顕著であるという。確かに日本では人生や哲学等のテーマは話題に上りにくい。たまに上がったとしても、たいていは酒席でのからみであったり、反論を待たない捨て台詞の形でしかない。到底討論、対話にはならない。
生活のない哲学は無意味だが、哲学のない生活は空虚である。それは動物が本能で生きるだけの一生と変わりない。金のために働き、子を育て、飯を喰らい、たまに旅行をする。それは人間風の動物的生き方である。動物は生きているが、それは身体を生きているだけである。
五木寛之のように「生きてるだけで正しい」は人生に絶望し、自殺するひと向けには一時的なモルヒネの効用もあるだろう。だが息を吸って吐くだけの「生きる」に人としての価値はそれほど認めることは出来ない。日本は特に額に汗して働き、真面目に生活を送ることを至上の生き方と考える。だが、それは思考の怠惰を是認することであり、そのうすらぼんやりした生活が有象無象の害悪を自己にも他者にもまき散らしていることを忘れてはいけない。それは語弊を恐れずに言うならば、原発の放射能に勝るとも劣らない害悪である。
問題にしたいのは、生活が生きるだけの思考に留まっている点である。生活は重要である。生活の思考は生活それ自体以上に重要である。しかし、それは動物でもそこそこやっている。キリストは「人はパンのみに生くるに非ず」と言った。キリストは戯れ言も多いが、ごくたまにいいことも言う。パンのみに生きない日本人は、娯楽を楽しんでいるがそれはパンである。テレビ、映画、音楽、劇、絵画などこれはパンである。パンを得る労働の癒しとしての存在であるからパンである。
パンに関する集合に属さない知をそろそろ真剣に求めるべきではないか。ボランティアを単位に認定する大学があるという。もちろんそこは「大学」ではない。
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結局、何が思考の補助線なのかちっとも分らなかった。
この手の本を読んで分かったフリをして、偉そうなことを書くことは簡単だけれど、訳が判らんと正直に書くことも重要であろう。
筆者の文章能力、雑学的知識の豊富さから、単なるエッセイ的な読み物としては、十分、読了に耐えうるものではあるが、最終的に本書を通して何を得られるかと言われても、雑学的知識でしかないと言うことができない。
筆者はニューアカ的な衒学主義に反対されているようにも感じられたが、実際に本書で記述されているのは、『君はまだ「神」を殺していない」の章を読む限り、そのような何かでしかなく、また読みでしかないが『構造と力』で書かれていた内容と大差ないのではないかなどと感じられた。
なお、私は哲学を専門に勉強したわけではありませんので、内容などに関して誤りがありましたら速やかに訂正いたしますので、ご指摘ください。
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『クオリア』という問題を考える上での 茂木氏の心構えというか
クオリアへの闘争宣言 序論 というべきものなのだろう。
コンペイトウのような ゴツゴツした ツノが生えていて
そのツノのぶつかっている 部分が おもしろい。
ツノのぶつかっているのは・・
知というものの軽薄化。
科学者の制約とルールの枠を飛び越えない旧態依然さ。
学問に突き進むべき情熱の希薄さ。
世界を引き受ける 勇気を持たない輩たち。
クオリア問題の 『天下統一』を 成し遂げていくための
受難(passion)と情熱(passion)がほとばしり・・・・
モギ的言葉の じゅうたん爆撃みたいで・・・心地よい。
『言葉』の 縦横無尽さが まるで義経の八艘とびのようである。
モギ本をいくつか読んでいると
おなじような 『モギ話』がでてくる・・・・
モーツアルトの明るさとは?
夏目漱石の批評性とは?
湯川秀樹の教養とは?
その 『モギ話』を うまく活用して 展開する。
茂木氏の 編集能力が うまいというべきなのだろう
茂木氏は言う
『昨今の人々は分かりやすいものばかりを求めるようになった。
難解な本を読んだり、
真剣に粘り強く本質的なことを考えたりしなくなった。
「インテリ」という言葉が死語になった。
日本におけるそんな「知のデフレ」現象に私は怒りを覚え、
不特定多数の人々が集う公の場ではともかく、
親しい知人や仲間たちの間では
「ふざけんじゃねえ」と噴火を繰り返してきた』
知識層なるものが 特権ではなくなってきている。
インターネットの急速な進展による
知識を取り入れる方法が簡便になったことによって
『知のデフレ』が起こっている。
クオリアというような問題も
ブログやこのような『新書』で
入り口までは入れるようになったことはありがたいことである。
茂木氏は言う
『大切なのは、「何が正しいか」ということではなく、
「何がしたいか」という情熱のほうなのではないか
と思うようになった。
難しいことに取り組む「インテリ」になること自体が
重要なのではない。
問題は、それがどのような情熱によって
支えられているかということである。』
『まえがき』の 1ページの中に 十分に
知へいざなう 地雷の仕掛けができている。
茂木氏は言う
『子どものように問いかける気持ちが学問から失われている』
なぜ その問題に取り組むのか?
なぜ そのことを考えるのか?
そのような素朴な質問が 専門性や科学性 のなかで
拒絶され 窒息させられている 現実を 素直に見つめる。
それを突き破るには・・・
『学問への情熱』に他ならない。
茂木氏は言う
『情熱は、結局は生きるということに由来する。
生きるとは 行き交うことである。
出会うことである。
幅広く眺めることである。
そして、ときには ルールを無視することである���』
情熱の源泉が ニンゲンが生きることである・・・
うれしいこと、たのしいこと、あいすること、不条理なこと
それをすべて 引き受けながら 生きていくこと。
『わからないこと』に どう 自分の補助線を引くのか?
ニンゲンだけの 楽しみである。
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限りある生の中にある人間にとって、自由に考えるという夢はおそらくは叶わない。制約を引き受けてこそ、ささやかな自由が得られる。ならば制約だらけの海にヤケクソになって飛び込もう
世の中は根拠のないことだらけ。頭で考えて悩んでも仕方ない。信じてみよう
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TVにもよく登場する茂木健一郎の思考というより思想を記述した一冊。
彼が言うところの蛸壺的な専門化が進む最先端科学も確かにあるだろうけど、かといって彼がジェネラリスト志向で全てにおいて正しく把握してるかというと甚だ疑問。
また、簡単なことをあえて難しい言葉で表現しているような印象を受けた。
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意識と物理世界との間の非連続性を、クオリアという概念をカギに越えようとする決意表明の書。「世界全体を引き受ける」という真摯さこそが必要と主張する。ただし本書では、そのきっかけを掴めずに、意識の側の疑問点を多様な論点で思索するにとどまっている。そこがおしい。
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[ 内容 ]
幾何学の問題で、たった一本の補助線を引くことが解決への道筋をひらくように、「思考の補助線」を引くことで、一見無関係なものごとの間に脈絡がつき、そこに気づかなかった風景がみえてくる。
この世界の謎に向き合う新たな視座を得ることができる―。
「知のデフレ」現象が進む日本で、ときに怒りを爆発させながらも、「本当のこと」を知るために探究をつづける著者の、情熱的な思索の過程が本書である。
自由軽快に、そして粘り強く考えるヒントを、自らの一身を賭して示す。
[ 目次 ]
序 内なる情熱
世界をその中心で統べるもの
「曖昧さ」の芸術
世界は「意識」を必要としない?
言語の恐ろしさ
ニーチェとカツ丼
「個性」を支えるパラドックス
現実と仮想の際にて
「みんないい」という覚悟
登攀の一歩〔ほか〕
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
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