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アン・モロー・リンドバーグの『海からの贈り物』は、名著として名高い。試しに、ある程度本を読んでいそうな女性何人かに訊ねると、「読みました」とか「勿論読みましたよ」と返ってきた。中には「私の一番の愛読書です」と答えたひともいた。単なる随筆の域を超えて女性の生き方の指針たり得る一冊であるらしい(「らしい」というのは、私自身は男で『海からの贈り物』もよく読んではいないからだ)。
そのアンも、多くの場合姓名ではなくてリンドバーグ夫人と呼ばれてしまう。実際、新潮文庫版の著者名でさえ「夫人」となっている。まるで、歴史的な冒険旅行家であるチャールズ・リンドバーグの配偶者であるということが、この女性の最大の存在意義であると言わんばかりの呼称である。
それはともかく、大西洋単独飛行で有名な夫君のチャールズと妻のアンの二人が、カムチャッカから千島列島を経て日本まで、小型機で飛来した時の記録が『北方の旅へ』で、アンの処女作だ。本邦では昭和十一年初出の山本有三編の『世界名作選』(日本少国民文庫)に抄訳が紹介されている。
須賀敦子は、その一文との出逢いと、後に忘れることなく深く刻み込まれたその時の感慨を『遠い朝の本たち』の中に記している。後世に生きる私の眼には、稀代の女流名文家二人の運命的な邂逅に見えてしまうのだけれど、昭和十七、八年ごろと思われる当時の二人は、著名な冒険飛行家の妻に過ぎぬ女性であり、空襲に怯える日本の小さな、勿論無名の少女であった。
リンドバーグ夫妻が千島列島に不時着し、救援を待つ場面の記述がある。その記述を読んだ半世紀後に須賀敦子が回想する。日本のどこなのか、人が住んでいる島なのかどうかもわからぬ島の葦原に浮かぶ暗い機内で、じっと耐える二人の様子が、奇跡的といえる臨場感で迫って来る。そうして、幼い須賀さんは、「いつか自分もこんな風に書きたい」とも思う。そして「アンの文章はあのとき私の肉体の一部になった」と半世紀後の須賀さんは回想する。それは著作者としての須賀敦子の生成過程であり、同時にひとつの人間形成過の断面図である。しかも極めて見事な断面である。須賀敦子の透徹しきった目と記憶とに鳥肌が立つほどだ。
鳥肌ものの記述はもうひとつ。
アンが日本語の「さようなら」について語ったくだりと、それを読んだ須賀さんの感慨とである。
「さようなら」は「左様ならば仕方ない」という運命を静かに受け入れる、日本人の美しいあきらめの心の表現だとアンは説く。それを読んだ須賀敦子は、外国語の側から日本語を見る視線の透徹性を感得する。やがて川端康成を伊訳し、ナタリア・ギンズブルグを和訳することとなる翻訳家須賀敦子の礎となった原体験だったのだろうと私は解釈する。さらには、日本語からイタリア語、イタリア文化から日本文化へと二つの言語、二つの異文化世界を行ったり来たりするうちに(ちなみに彼女は英語、仏語にも堪能)、自らの中で違和感というものが雲散消滅してゆく、その過程が、須賀敦子の魅力の計り知れない深さと広さとの根源であるようにも私には思える。
60近くになって彗星のごとく登場した彼女は、巡り合わせの如何によ��てはミラノの主婦として生涯を終えていたかもしれない人だった。登場以来亡くなるまでの数年間に10冊ばかりの作品を遺した。
私は今その十冊ばかりの珠玉の著作群に嵌り込んでいる。順繰りに繰り返しそれらを読み続けている。いつかは、須賀敦子の人と作品の魅力についてキチンと書いてみたいと思っている。だが、今はまだ、伝えきれるような言葉を知らない。それほど広く、深い。
須賀さんは、アンの『海からの贈り物』からもひとつの表現を引いている。それは、人間にとって孤独とは、あるいは一人になることは何なのか、それを問いかけている。私は、須賀さんの人生と作品の奥底にある掴みがたいなにものかを掴むヒントが、そこにある気がする。
アンの一文は以下の通り。
「我々が一人でいる時というのは、我々の一生のうちで極めて重要な役割を果たすものなのである。或る種の力は、我々が一人でいる時にだけしか湧いてこないものであって、芸術家は創造するために、文筆家は考えを練るために、音楽家は作曲するために、そして聖者は祈るために一人にならねばならない。しかし女にとっては、自分というものの本質を再び見いだすために一人になる必要があるので、その時に見いだした自分というものが、女のいろいろな複雑な人間関係の、なくてはならない中心になるのである」
最後には、一人確固として立っていた須賀さんの内奥に潜む、確かななにものかが見えた気がしてならない。
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著者の生きてきた背景や感じ方・考え方・捉え方に共感するところが多く、吸い込まれるように読み終えて、著者が小さい頃から読んだ本についての感想に感化されて何冊か読んでみたいと思った。
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ああ、私が大事にして読んだ「ケティ物語」。想い出させてくれた。私にとっても「遠い朝の本たち」がたくさんで、忘れられない。これが、彼女の「遺著」である。帯に本文からの引用がある。 あの本を友人たちと読んだ頃、 人生がこれほど多くの翳りと、そして、それとおなじくらいゆたかな光に満ちていることを、 私たちは想像もしていなかった。誰にでも「遠い朝の本たち」があって、そして須賀敦子という人の書くものは、これからはもう増えないのだ、と、少し震えるような心で読んだ。
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人物評価は難しい。自分の価値観や体験に照らして相手を判断するわけだが、実際は好き嫌いにとらわれているだけのような気もする。感情の後ろを理屈が追いかけているような節がある。脳内では大脳辺縁系にスイッチが入った後で前頭葉が作動しているに違いない。根拠や理由というものは後出しジャンケンなのだ。
http://sessendo.blogspot.com/2011/07/blog-post_7922.html
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須賀敦子さんの文章って、声に出して読みたくなります。母も「海からの贈りもの」を持っていたので、今度読んでみよう!
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感受性の鋭い子ども時代に多くの本との出合いを経験し、それを成長過程の風景と共に記憶している著者を羨ましく思った。
最初は、本との幸福な出会いを綴ったエッセイだと思ったけど、どんな本も出合って不幸になるものはないかもね。
アン・リンドバーグの「海からの贈物」は読んでみたい。
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1年ぐらい前にも読んだけれど、再読。須賀さんの文章は読んでいるとわたしの時間の流れをさりげなく変えてくれるから好きだな。
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本好きのための本。読書の習慣があれば同じ体験をした記憶がきっとよみがえる。
若い頃の本との出会い。本に関わる友人との巡り会い。それにまつわる記憶。
それらをすべて抱えて生きていくことの覚悟。読書する幸せを実感できます。
著者の須賀敦子は漱石、鴎外、谷崎、川端など日本の近代文学をイタリア語に翻訳されています。
日本での文筆業としては遅咲きで、晩年のわずかな期間に残した随筆は、
うっとりするほど美しい文体、優しくも圧倒的な文章です。
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サンテグジュペリの「星の王子さま」の記述、アン・リンドバーグに関する記述、お父さんやお婆さんに関する思い出と本との接点。柔らかく、優しい文章で、読んでいると何故だかすぐに眠気に襲われてしまって、それはつまらないからではないもので、なーんだ、これ、不思議だなぁ、不思議だなぁ、と思いながら、読み進んでいた。(10/10/23)
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妙先生にお借りした本。
子供の頃感じたこと、本にまつわること、そういったことを大切に、素直な気持ちで書けるなんてすてき。子供の頃何が大切だったか、どう感じたのか、そういったことを大切にしている人が好き。例えば、中勘助とか。忙しない日々に、つかの間の透き通った時間をもらえた気分。アン・リンドバーグも並行して読んでいる。そんな年頃なのかな。
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サンテグジュペリの「人間の土地」が出てきたりして、ものの見方とか、絆とか、そういうものも考えさせられました。須賀さんて、いい本を読んでるんだなあ・・・というより、いい本を見つける力があるんだろうなぁ。私はいい本だと気づかないまま、その本をブックオフにやってるんだと思うとちょっと反省。
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読んだ本を思い返すことは、その時の自分の思い出を手繰ることなんだと教えてくれる。
美しい言葉で語られる情景は素晴らしく、読んでいると須賀敦子さんの思い出に入っていくようです。
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書物をたよりに、フランス、イタリアへ。そして故郷である日本へ。
“吸い込まれるように”本を読み、“本にのめり”こんだ少女は、訪れた街や出逢った人を手掛かりに、書物の続きを紡ぎ出す。
須賀さんの、幼いころからの身の廻りに起きたこと、そしてそれらと処を隔てずに在る書物をめぐる記憶。
ワーズワース
“ダフォディル”
谷や丘のずっとうえに浮かんでいる雲
みたいに、ひとりさまよっていたとき、
いきなり見えた群れさわぐもの、
幾千の軍勢、金いろのダフォディル。
みずうみのすぐそばに、樹々の陰に、
そよ風にひらひらして、踊っていて。
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読んだもの見たもの感じたことの仔細な記憶がみずみずしいままに書かれていて、読んでいるこちらの切なさを誘う。
小さいころに読んだ童話からサン=テグジュペリ、あるいは森鷗外にいたるまで、なんでこんなにも素直に書けるんだろう。
自分はこのように語るものがあるだろうか……
サン=テグジュペリの話の中で
「行動をともなわない文学は、というような口はばったい批判、理論ともいえないような理論を友人たちと論じてすごした時間を、いまはとりかえしたい気持だし、自分は、行動だけに振れたり、文学にとじこもろうとしたり、究極の均衡(そんなものがあるとすれば、だが)に到るのはいつも困難だった。自分にとっては人間とその運命にこだわりつづけることが、文学にも行動にも安全な中心をもたらすひとつの手段であるらしいと理解するまで、ずいぶん道が長かった。」
この文章に出会えただけで。
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著者が遠い昔に読んだ本の記憶。
多くの大人が、幼少期に読書という体験をしているはず。
勿論、私もその一人だが著者の様に鮮明に何かを想起させるような物語はそんなに多くは持っていない。
その意味で著者はとても恵まれていると思う。
けれどもそれは、著者の感受性の豊かさにあるようにも思う。
本書を通して、若かりし頃の著者やその情景が読者にも感受性を分け与え、一緒に過ごしていたような身近な気持ちにさせる。
読書の楽しみを読者に強いることなく、自身の経験を通して教えてくれる。
表紙もとても素敵だ。