紙の本
緩慢な自殺のように
2002/06/30 08:48
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投稿者:あおい - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近短篇の書き方がわからない。長編は、その読み方をその作品そのものによって提示することが可能なのであるが、短篇には場所の論理が必要なのである。しかるにその場所の論理がいまの僕には見えない。いろいろな短篇を読み返しているのだが、かえってわからなくなってくるのはどういうことか。ウルフの短篇は非常に面白いが、しかし僕にはこれらの作品は根本的に破綻しているというか、ものすごくパーソナルな作品に見える。何故こういう作品を書くことが可能なのか。僕も思いきってパーソナルになって良いのか。ウルフは世界を敏感に感じすぎる。この気持ちは良くわかる。でもそれを書き続けることがどういう事態を招くのか、そのことをうっすらと知りながら彼女は書き続け、そして死ぬ。それは、いったいどういうわけなのだろう? 文学とは緩慢な自殺なのか。
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「ラピンとラピノヴァ」が異様に大好きなので、再読のために買いました。他の作品もいいのだけど、全然覚えてなかったぜ。電車の中で読むにはたいへんな集中力を必要とするので、寝る前に一編づつ。ちょうどいい長さ、ちょうどよく幻想的。でも意外と現実。
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すごい、と思った。好きかどうかと聞かれると困る。ただ、自分はだいぶすれてしまったんだなあとぼんやりと感じる。
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直接、自分の中に差し込まれるようなものと
目で触るもの、中に入れるもの入ってはこないもの
文字で書かれたものには少なくともふたつの種類があるような気がする
ことばが森のようになっていて、自分で決める前にそこへ入っていく自分
絵を見ているようではなく、映像でもなく、ことばが見える
文字ではなく、ことばが柔らかく突き刺さるような感じ
女の人が書いているってわかりきっているような、まっすぐさ
だけど
これが男の人だったら・・・と考えるとぞくぞくするところがある
性別って別があるだけのことはあって、染みでて美しくある
詩とか小説とか評論とか、そういったジャンルを超えて
差し込まれるものをたくさん読みたい
久しぶりに本が好き
一昨日みたモネは、そういう意味では文字のようだったかもしれない
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買った後、喫茶店で購入した本をちらちら眺める至福の時間(それきり読んでいない本も数々・・・)。「ヴァージニア・ウルフ短篇集」では「ミス・Vの不思議な一件」を読んでみる。自分は短篇集の場合、あんまり順番通りには読まない。ミス・Vとは作者自身? ウルフ流ミリアム? でも「ミリアム」よりこちらの方が想像力が働く余地が広くて自分好み。と、語り手とミス・Vを同一人物と思って読んでいたけれど、「解説」には別人という解釈で載っていた。まあ、それもよろし。 (2008 09/14)
今日は、前から少しずつ読んでいたヴァージニア・ウルフの短編集を持ってきた。
自分は「オーランドー」の執筆している時間の経過の描写や、「灯台へ」の朽ち果てそうになる屋敷の描写など、ウルフは時間を描くのが巧いなあ、ってかとりつかれているなあ、と思っているのだが、ここでも、主人公はやはり時間のような気がする。「堅固な対象」のジョンが探し求める何かのかけらなど。それらはどこに生まれて、どこを通ってきたのか?そして、何をもって彼の元へ辿り着いたのか?そんなかけらはまた、彼の意識の中へ沈澱していく。かけらはまたもや(今度は海ではなく、意識の)波に揉まれてますます丸くなっていく。
とか。
「サーチライト」では、過去の曾祖父の話と今の話が見分けがつかなくなったり…
「緑と青」という断片詩といってもいい短編でも、昼と夜との交替がテーマ…
時間って本当に始点から終末に向かって流れるものなのだろうか? (2008 12/01)
引き続き、「堅固な対象」と「サーチライト」から。まずは「堅固な対象」から。
考えごとの途中で何度も何度も視線の対象となったものというのは、それが何であれ、思索の織物と深く関係を持ち、本来の姿を失い、少し違ったふうに、空想的な形に自らを作りなおし、まったく思いつけない時に意識の表面に浮かびでたりするものだ。 (P35)
ここで登場するジョンという人物、あるいはウルフという作家は、なんと言うか自分自身を外在のもの(ここでは波に揉まれたガラス、陶器の欠片)に転位(あまりよい言葉がみつからないが)し、それら外在のものが自分内部に入り込む、外在のものはそこで単に異化されるのではなく、自分自身も異化のものとして並列に並んで存在する。そんな感じ。ガラスと欠片と自分(の中の何か?)がともに波に現れる幻想、というよりも記憶。
「サーチライト」ではこの一文。
「光は」と彼女は付けくわえた。袖無し外套やら何やらを拾いあげながら、「ただあちらこちら照らすだけ」 (P59)
まさにサーチライトであるが、「光」という言葉は西洋人にとって「神」と直結する言葉なのかもしれない。しかし、ここでの表現は「全能の神」を否定するかのような、それは無神論とかいうより人間の意識から到達不可能な部分を神から差し引いたというような、そんな表現である。物語論でいえば、作者という登場人物に対しての特権的権限を放棄すべき、ということだろう。
この短篇集に収められた他の作品でも、欠片のことがクローズアップされているところがある。��の辺り、ちくま文庫オリジナル編集というこの短篇集、緻密に短篇の並び順まで考えた趣きがある。 (2008 12/01)
リリーの全部が靴のなかにあるような気がした。おれの愛情とか欲望は蜻蛉のなかにあった。 (P128)
ヴァージニア・ウルフの短篇の中でよく取り上げられ、「20世紀イギリス短篇集」(岩波文庫)にも収録されている作品である「キュー植物園」より。昨日も取り上げた外在化の一例。
ひとつのことが一度為されてしまえば、誰もそれがどのように為されたかを知ることはもうないのだ。(P159)
こちらは「壁のしみ」より。この文などは時間の線形性を言っているような気もするのだが、「池の魅力」という別の短篇では、様々な時点の過去が一体となって池を構成している、そこには線形性時間に対する異議申し立てが感じられる。「知ることはもうない」が確実になにかしらの変化はしている。・・・時間は過去は戻ってこないのではなく、戻ってきてももはやわからないのだ。人間に認識できるのは時間と空間しかない。
ということで、もっとゆっくり読みたかったような気もするけど、ヴァージニア・ウルフ短篇集を読み終えた。この人の文読むたびに「こんな繊細な人は、天寿を全うするなどということはないんだろうなあ」と思うのだが。
内在化と外在化との並列… (2008 12/02)
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彼女は私と、まるきり世界の見え方が違う。
考え方。
物事のとらえ方。
発想やイメージ。
どれをとっても、他とはまったく異なっているように思える。
おそるべき才能とは、きっと、彼女のことをいうのだろう。
彼女の狂気たるゆえんはいったいなんなのなのだろう?
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ウルフの短篇を17篇収録。中には比較的長めのものもあるが、「青と緑」のようにわずか2ページ足らずのものも。ウルフは初読だが、小説の構築の方法はかなり固有のものであるようだ。よく言えば、それはこれまでにも指摘されてきたように「詩的」だということ。テキストとしての自立性が高いだけに、それらは一層、空間に浮遊しているかのようだ。物語としての時間の進行もまた特異だ。時間が物語を牽引する力を持たない、もしくは、はなはだしくそれに欠けるのだ。登場人物たちもまた、なんだか(悪い意味ではないのだが)妙に影が薄いのだ。
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訳がすこし耽美的な感じなので、詩に近い煌めきの短篇集だった。「ラピンとラピノヴァ」は最後女性にはずきんとくる話。ヴァージニア・ウルフの研ぎ澄まされた繊細な感覚と表現に驚く。「乳母ラグトンのカーテン」「サーチライト」「憑かれた家」「池の魅力」「徴」「壁の染み」が好き。何度も読み返したい…読み返す必要がある…リリカルで暖かくて切なくて魅力的な作品が多かった。
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ウルフは初めて読んだので、意識の流れと呼ばれる作風には慣れなくて没頭できない部分もあったけれど、それでも美しい感覚の世界は魅力的だった。
「ラピンとラピノヴァ」と(最後の一文よ!)映画A Ghost Storyにインスピレーションを与えたという「憑かれた家」が特に好きだった。
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"子供時代の代わりになるものなど何もない。薄荷の葉がそれを取り戻させてくれる。でなければ青い縁取りのついたコップが。"(p.85)
"時の推移にかかわらず、時代の推移にかかわらず、多くの者が、ひじょうに多くの者が独りでここにやってきたに違いない。自分の想念を水のなかに流しいれるために、何事かを池に尋ねるために。この夏の夕つ方ここにいる者がちょうどそうしているように。たぶん池が魅力を持つのはそのせいだろう――池は水のなかにあらゆる種類の夢想や、不平や、確信を擁している。書かれたこともなく、口にされたこともないそれら。ただ流体のような状態で犇めきあう、実体性の限りなく希薄なそれら。 "(p.142)
"男性の視点、それが私たちの生活を統治している。それが標準を決めている。"(p.164)
"私は水流に抗って、まるで風に靡く旗のように、水のなかで静止する魚のことを考えるのが好きだ。私は河床の泥の小山をゆっくりと登っていく水棲の甲虫のことを考えるのが好きだ。"(p.169)