投稿元:
レビューを見る
教養として読むならば、阿刀田高さんの『旧約聖書を知っていますか』のほうをお勧めする。本書は著者の主観でかなり肉付けされている。それが面白い部分もあるが、信者でない者としては「どんな親でも敬え」「神に仕えるように夫に仕えよ」「男が女の、女が男の服を着てはいけない」「同性愛は悪」と熱心に語られても困惑しか感じない。善意と真心からの言葉だろうと思えるだけに薄ら怖い気さえするし、「裁き心をもつな」という教えに矛盾するのではと言う素朴な疑問も浮かぶ。(ただ、この文章が書かれたのは70年代だと言うことも念頭に置いた方が良いかもしれない。)聖書の筋をたどる部分は分かりやすく、信仰のある人がどういう視点で聖書の物語を見ているのかを窺い知るヒントにはなったと思う。
投稿元:
レビューを見る
2021/3/4
解説書というよりは著者の実体験に比重が置かれていて、聖書がいかに人生の糧になるかがひしひしと伝わってくる。旧約聖書の入門書なのだが、広く書物をどう人生の糧にするかの入門書でもある。
僕は本を読む時、自分が変容する可能性があるという覚悟で読んでいるが、著者の読み方と多少重なっているのではないかと思う。逆に言うと、糧にならないのであれば読書なんてしなくていい。読書は知識を積み重ねる手段として重要だが、それを「身につく」まで読むことはもっと重要だ。そのためには一冊を何度も読む、あるいは一人の作家の全集を読むことが必要になる。著者は7回聖書を読んだそうだ。旧約聖書のみならず、本をいかに読むかということを学べる一冊。
投稿元:
レビューを見る
わたしは短気である。
50も見えてきて恥ずかしいがすぐにキレる。1日2,3回…は言い過ぎだが、週に1,2回は切れているのではないだろうか。
キレる原因はたいていがメールやメッセンジャーだ。とにかく部外からのクソな依頼が多いのだ。あれせい、これせい、と。たいていが1, 2回仕事で絡んだことのあるシンガポール人だ。昔絡んだからちょっと依頼しちゃおっていう軽いノリで重い球を投げつける。一回電話してこいよ。英語しゃべれんだろ?担当違うから。 …仕方ないので、『私はお答えをする立場も権限もございません』とけんもほろろの返信をする。だってJD(Job Description)にもないしマジで専門外なことを聞いたりしてくるんだもん。会社の中では部下のいないヒラだぜ?『確かに部署ではハンドルできるかもしれませんが、私が担当ではないので受けかねる依頼です。私の上司に直接依頼されてはどうでしょうか』と一応返信してみるものの、まるで取り合わない。だから今度は、6つも7つも下の上司にキレる。『CC入ってたんで見てますよね?何度もやり取りありましたし。いやあね、私が『ハイハイそれでOKです』って実態知らないで返信してもいいですよ。でも最終的に失敗したらあなたが責任取るんですよ?それでいいんですか? 私がだんまり決め込んで依頼を無視してたらどうするつもりだったんですか?…仕事はしますけど、仕事捌きはヘッドがやらないと案件落っことしますよ?』
ということで、窓際で店歴の長いおっさん部下を抱えると転勤族の上司は大変です。
・・・
話が大分それました。いや、実は私だってそんなキレる自分が嫌なのです。いつもニコニコ笑って対応してあげたいと思っています(相応の給金が出てれば)。
そんな時に思い浮かぶのが、高潔さとか寛容さとか、宗教者が備えている倫理観や道徳です。些事に動じない広くて豊かな心が欲しいと切に思います。
で、本作『旧約聖書入門』なのですが、著者の三浦さんが日常の経験や彼女独自の視点も交えて旧約聖書の内容を語るものです。そこで出てくる聖人たちのひたむきな信仰や信仰に基礎づけられた高邁な行為、逆境にへこたれない姿勢には信者ならずとも心洗われる気持ちになります。ああ、こういう素敵な心持を持てるようになりたいなあ、と。
読後、ちょっとは寛容にそして誠実に周囲に対応できた気がします。するとあらまあ、なんだかどの方の反応もスムーズで皆優しい!?という感じを受けます。普段から舌打ちと悪態の常習者からすると、本書は一抹の清涼剤のような爽やかさをもたらしてくれました。
・・・
他方で、聖書や宗教に疑問点も出ます。十戒の解説部分があるのですが、まずは第六戒は『殺してはならない』です。いやいや、イスラエルもそうだし、旧約も聖典に数えるキリスト教徒の代表:米国は何ですの?彼ら異端ですか?と嚙みつけなくはありません(日本国憲法9条もそうですが、実態ではなく理想を条文化しただけだという解釈もできますね)。
また、三浦さんは『神は不完全な人間の愚行にこれでもかとお付き合いくださっている』という旨のくだりがあったのですが���2,000年以上続いているこの宗教からすると、人類というのはそんな高邁な教えをもってしても一歩も精神的に進歩していないのではと思えてしまう。であるのならば宗教にどういう意味があるのか(学問的・哲学的な意味です)。
あるいは、不信心な宗教者が旧約にはたくさん出てきますが、高邁な異教徒がいたとすると、旧約的には前者しか救われないのでしょうか、等と問うてみたくなりました。
…え?キレている?キレてませんよ。いやでも聖書の世界は実に興味深いしもっと勉強したいし、信者に聖書の内容についていじわるな質問もしたいなあと少し思います笑。完全にロジカルだったり完璧ではないからこそ、どのように首尾一貫性を保つのか、あるいは保たないのか、そうした解釈がどのようになっているのか気になります。また、宗教が人心の安寧のために果たしている役割については決して否定はできません。
・・・
色々くだらないことを書きましたが、著者三浦さんの本書にあたってのスタンスがとても好きです。裏表紙にもこうあります。
“教典は経典である。そこにふくまれている宝石のような真理をみつけなければ、意味がない。だから、手引書は、どうしても必要なのだ”(まえがきより)
つまり聖書は独りよがりに理解するのではダメで「読み方」もまた学ばなければならないのです。読書人にはこの言葉は非常に重いと思いませんか。これはあらゆるテクストにも言えることですが、自分の読み方が正しいという保証はどこにもないことに気づかされます。先人の読み方に沿うことで、独りよがりでない読み方・今まで見えていなかった内容が得られるかもしれないのです。…いままでどれだけ他人の見方なぞ気に留めてこなかったことかと。
そういう点も含め、いろいろ身につまされる気分になった読書でした。
投稿元:
レビューを見る
旧約と新約とが絡み合ってキリスト教の聖典となる。その読み方の入門書。読み方には多種多様であっていいと作者は言っている。
一日一言ではないが読んでいこう。
投稿元:
レビューを見る
「新約聖書入門」を興味深く読んだので、引き続きこちらも読みました。著者も語っているように、旧約聖書は「新約聖書の古いもの」と誤解していました。旧約と新約を合わせて「聖書」と呼ぶべきなのでしょう。聖書がいまだに世界で読まれているのは、単に信者が多いからとかそういうことではないのかもと感じました。
投稿元:
レビューを見る
旧約聖書の内容知りたいと思って手に取ってみたら…キリスト教信者ではない自分には気持ち悪かった。
冒頭から【宇宙は規則正しく星が運行していて、それを知っただけで、私たちは謙遜に、神の前に頭を下げねばならないのではないだろうか】とある。
もうここで、はぁ?の一言(笑)
【男と女を、神が創ったと、ちゃんと聖書に書いてあるのよ】とか。
無理だ読めない!ギブ!
投稿元:
レビューを見る
聖書は過去数千年にわたって読み継がれてきた世界的なベストセラーであるといわれている。
それを、クリスチャンではない人にも感覚的に分かりやすく解説されていると思った。もともとは全く神様を信じていなかった作者だからこそ、より分かりやすく書けるのだと思う。