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2/28、チリ大地震の影響で、太平洋沿岸には大規模な津波警報・注意報が出た。というわけで、津波モノの記録文学として評価の高い、吉村昭を読む。吉村昭は、高校時代に「生麦事件」を読んで以来、長らくご縁の無い作家だったのだが、ここのところ「破獄」「羆嵐」とたて続けに読んでいる。
先日の津波警報では、最高 3m 以上の津波が予想され、数十万世帯が避難する騒ぎになったものの、結果的には気象庁の予測を下回る 1.2m 程度の津波で被害も限定的。結果的に気象庁が「おわび」を発表することになった。しかし、気象庁は 1960年に同じチリ大地震の影響で津波が日本を襲うことを予測できず、死者105名を出す失態を演じているのだから、予測の正確性よりも人命を守ることを優先したのは当然の選択だったと言えるだろう。
津波被害では 2004年 スマトラ島沖地震で約 25 万人の犠牲者を出した大津波(波高34m)が記憶に新しいが、本書では三陸海岸を舞台に、上述のチリ地震大津波のほか、明治29年(1896年)の大津波(波高38.2m、死者 26,360名)、昭和8年(1933年)の大津波(波高28.7m、死者2,995名)を取材、記録している。この淡々と記録された惨状を読むと、やはり今回の気象庁の判断は正しかったと確信する。
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淡々と事実のみを。
地道かつ緻密な取材を元にした淡白な文章に、逆に想像力がかきたてられます。
津波怖いです。
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明治二十九年、昭和八年、そして昭和三十五年のチリ地震津波と三つの津波による三陸海岸の被害を生き残った人々へのインタビューをもとにつづったルポ。
2011年3月の東日本大震災以前にも三陸海岸はたびたび大津波の被害を受けていた。その度に人々は対策を施し、毎回被害は少なくなっていたのだが、今回の甚大な被害から予想を上回る津波だったことがわかる。
津波被害は何十年に一度なので、住民の意識が薄れてしまう。だからといって住民の意識を高め、地震のたびに高台に非難するといったことは社会生活に影響を及ぼす。地震をともなわない大津波もあるのだ。
潮位の監視など、システムを構築することが重要と感じた。
巻末に明治二十九年の大津波含め四つの大津波を経験した早野幸太郎氏の言葉「津波は、時世が変わってもなくならない、必ず今後も襲ってくる。しかし、今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにいないと思う」という言葉を読むと、今回の事があるだけに、やりきれない思いに襲われる。次の津波の時は早野さんの言葉通りであって欲しい。
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201105
吉村昭著「三陸海岸大津波」読了→フォークロア、情緒的なアプローチをせず、事実の積み重ねが読む人の想起力をよぶと、解説の通り実感した。
住まないこと、というのは簡単だが、
津波との闘いの歴史、地元の人々のそれでも津波が襲う可能性のある地区に住む故郷への想い等を考え複雑。
三陸沿岸の人々→
津波をいつかくるものと受け止めて生きてきた。
「今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」
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明治29年、昭和8年、昭和35年に発生した青森・岩手・宮城を襲った大津波、その歴史から何を学ぶか───。
「海の壁」と言うタイトルで昭和45年に出され、平成16年に文庫となった本です。著者はその2年後に亡くなられています。もし存命であれば、平成23年の今回の津波をどう思ったことでしょう。三陸地方では大きな堤防を作ったり、津波を想定した避難訓練を実施したり、過去の教訓を普段の生活に生かしているようです。しかし、一番の問題は、希にしかやってこない津波のために日常生活を犠牲にすることはできないと考える人たちが多いという事。恐らく今回犠牲になった方々も、そう考えてあえて海の近くで生活をしていた人たちが多くいたことでしょう。しかし、今回の未曾有の震災後でさえも、生まれ育った場所を離れるのを拒む人が多くいるようです。
津波は、地震後すぐに来るものではありません。地震よりも予知しやすい事象です。生活の場を変えられないなら、防災意識を高めて、もしもに備えるしかありません。今回の震災で未来を絶たれた多くの犠牲者のご冥福を祈ると共に、いずれまたやってくる津波に、次こそは一人の犠牲も出さないよう心から願います。
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S45年刊 ヨダ 津波 海嘯
主な津波 869貞観11年 1585 天正13年 1611慶長16年 1616 元和2年 1651 慶安4年 1676 延宝5年 1687 貞享4年 1689 元禄2年 1696 元禄9年 1716 享保年間 1751 宝暦元年 1781 天明年間 1856 安政3年 1868 明治元年
1896 M29 6月 夜青白い怪しげな火 うなぎ 井戸が濁る
1933 昭和8年
住民の遺した文章 子どもの作文
昭和35年 チリ地震の津波
田老町 S8年の翌年から防潮堤
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これは、今回の大地震、大津波のルポルタージュではないのか。読み始めてそう思った。しかし、勿論そうではない。明治29年、昭和8年、そして昭和35年(チリ地震津波)の出来事なのである。驚いた。吉村昭『三陸海岸大津波』を読んでの印象だ。「苦難を乗り越える一冊」という週刊誌が組んだ特集で紹介されていたものだ。推奨しているのは、作家の高山文彦さん。
出版されたのは、昭和45年。吉村さんは三陸海岸を旅行するうちに妙に津波が気になって資料を集め、体験談を聞き始めた。そのうち地方史を残しておこうとの気持ちになったという。大津波による被災が、殆ど同じように同じ場所で起こっている。ただ息を飲むばかりで頁を繰った。
心を打ったのは子どもたちの文集。八人の家族のうち、ただ一人残された少女の悲しみが滲み出ている作文には考えさせられた。彼女は19歳になって再び故郷(現宮古市田老)に戻り教員と結婚した。その彼も両親、兄弟全て失った人だ。
この夫婦は、その後地震があると、顔色を変えて子どもを背負って山へ逃げる、と。吉村さんが「子どもさんはいやがるでしょう」と訊くと、夫妻は「いえ、それが普通のことになっていますから一緒に逃げます」と言った。この夫婦が妙に気になった。つまり、なぜここまでの悲惨な津波による過去がありながら、同じところに住むのかとの思いだ。いや、それはこの地に住んだ事のない人間の戯言に違いない。いかに厳しくともそれを超えて余りあるだけの美しい天地であり、海原だったのだろう、と思うしかない。
津波についてはこのような記録が残されているが、原発事故については日本の場合はない。作家の広瀬隆氏などはかねて警鐘を乱打している。願わくは、この人が今書いたり話したりしていることが杞憂に終わることを願いたい。
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今回の東北関東大震災に伴う大津波。死者・行方不明2万名を超えるとされる大災害だが、その規模を過去の災害と比較する際によく登場するのが、明治39年の明治三陸大津波と昭和8年の昭和三陸大津波である。前者は死者26,000名、後者は3,000名。吉村昭はこの2度の津波の都度、壊滅状態となった下閉伊郡田老村のことを中心に、この小説(ほとんどノンフィクション)を書き上げた。吉村の解説以外は、全編の大半が津波の記憶をもつ古老からの聞き書きや、当時の罹災者の記録(特に小中生の作文など)に占められているが、それらばまたとてつもなく恐ろしくそして哀しい。
田老村の村民の一人の証言。
沖合いからの異様な音をいぶかしんで海を見ると、海水がすさまじい勢いで干き、700メートルほども海底が露出した。その直後、40メートルほどの高さの黒い波濤が海岸に突進してきて、もやわれていた船や海岸に密集する家屋にのしかかった。
その田老村は、戦後高さ10メートル長さ1,300メートルという大堤防を築き、万全の備えを図った。しかしその大堤防も今回の大津波には勝てず、高波に乗り越えられるとともに決壊。田老村は明治以来3度目の壊滅。著者はすでに鬼籍にあるが、こうした「未曾有の」事態が生じうるという予感があったのか。今回の惨事についての証言が出てくる前に、私たちはまず、この過去の記録を読み返してみるべきか。あまりにも似通った惨劇が繰り返されたことに慄然とする。
なお、この明治39年津波の際、函館も若松・大森・住吉で浸水。海岸から最大80メートル地点まで冠水したと言う。
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過去の三陸津波を簡潔に、臨場感をもってまとめている。津波(災害)に対する心構えが重要と感じるとともに、文庫という形で資料化した筆者の活動に感謝したい。
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3.11以前と以後とではこの本の読み方は大きく変わるだろう。約3000人の死者を出した昭和8年の大津波を経験した古老の「今の人たちは色々な方法で十分警戒しているから、死ぬ人はめったにないと思う」という言葉に素直に頷いていた著者は、今さぞかし悔やんでいることだろう。田老町の大防潮堤で安心していた人も多く亡くなったと聞く。げに「災害は忘れた頃にやってくる」
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「津波とは自然現象であり、今後も果てしなく反復される」。このことを証明するのは、この本に綴られている、歴史という無言の事実だということを痛感しました。事実、三陸沿岸を襲った津波は数知れず、貞観11年(869年)から明治27年まで18回にも及んだといいます。
その歴史を、史実と伝承から、忠実に記録に残したことがこの本のすべてです。津波の前兆のなんとも言えない不気味さ、民家を直撃したその生々しい様子や被害状況が、脚色のない淡々とした事実から余計にリアルに伝わり、ただただ恐ろしくなるばかり。
この記録は、未来に忠実に伝えていかなければなりませんね。恐ろしかったけど、吉村昭氏、ますますファンになってしまいました。★5つ。
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天災は忘れたころにやってくる。
だからこそ、忘れないように後世に語り伝えていかないといけない。
吉村氏が存命だったら、今回の東日本大震災における津波被害をどう記録しただろうか…。
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三陸海岸における、三度の大津波の記録。1970年刊行、1984年文庫化、2004年再文庫化。
・明治29年(1896年)6月15日
・昭和8年(1933年)3月3日
・昭和35年(1960年)5月21日:チリ地震津波
■死者数
明治29年の大津波:26,360名
昭和8年の大津波:2,995名
昭和35年のチリ地震津波:105名
→今回の東日本大震災での死者・行方不明者数が27,000人くらいとのことだが、当時とは人口が違う。各年の日本の人口を調べてみた。
明治29年:4,000万人
昭和8年:7,000万人
昭和35年:9,000万人
日本の人口が現在の3分の1の時に、今回と同じ規模の死者数だったということは、想像以上に激烈な被害だったんだな。
■三陸沿岸を襲った主な津波の記録
896年、1585年、1611年、1616年、1651年、1676年、1677年、1687年、1689年、1696年、享保年間(1716~1736年)、1751年、天明年間(1781~1789年)、1835年、1856年、1867年、1894年
→規模の大小はあれど、多い!
■昭和8年の地震・大津波の際の救援活動が迅速だった。
昭和8年3月3日の夜明け前に地震が発生。
2:32 地震発生
2:40 盛岡市の警務課長中野警視らが登庁
3:22 全警察署からの報告がまとまる
3:30 警察部長森部書記官が登庁、津波襲来の情報。その後警察部、警察教習所職員全員に非常召集命令。
4:00 石黒英彦岩手県知事が登庁。
4:30 県庁内の内務、学務各部の全職員の即時登庁命令。
6:00 岩泉警察署から緊急要請。
7:35 罹災地に警察官の出動完了。
11:00 霞ヶ浦海軍航空隊が岩手に到達、被災地上空を偵察。
翌4日
6:30 海軍の駆逐艦が、青森県大湊から被災地各所に入校。
11:00 横須賀鎮守府から、衣服、食料等を満載した駆逐艦が到着。
インターネットどころか自由に電話もできない1933年に、こんな迅速な対応ができていたとは、素直に驚いた。
■昭和35年の大津波は、チリの大地震によるもの。
チリから1万8,000km離れた三陸沿岸に、22時間30分で到達。ハワイでも60人の死者を出していた。
東北地方での地震ではなかったので、津波の警戒が無かったこと、またチリやハワイで事前に被害があったにも関わらず、気象庁が警告を出していなかったため、避難が遅れて大惨事になった。
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描写されている過去の津波による惨状が、この数十日の間に目にした写真や映像に重なってしまい、その生々しさに目眩すら覚えた。
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「関東大震災」の著書もある吉村昭が明治29年、昭和8年、チリ地震(1960年)の大津波を描くルポルタージュ。
吉村が同書を発表したのは1970年。「関東大震災」は1973年発表であるから、何らかのきっかけにはなっているのだろう。吉村は小説の舞台として、三陸海岸を使ったことがあり、かねてから津波のことが気になっていた、という。
三陸の人々は津波を「よだ」と呼び、恐れていた。
津波は襲来の度に、我々の想定外の大きさで襲ってきた。田野畑町では、高さ8メートルの防波堤があったが、明治29年の津波ではこれも乗り越えてしまった。昭和8年の大津波の教訓をもとに作った田老地区の10メートルの防波堤「万里の長城」も軽々と破られた。
東日本大震災では、震災直後の治安のよさが日本人の道徳心の高さと世界的に賞賛を受けたが、明治29年は無法地帯化し、盗みが横行、被災後に盗んだ金品で一財産築いた人間もいたという。
昭和8年の際は第6波まで続き、第2波が最大。この時も無法地帯化し、住民の不安は大きかった。震災時の日本人の道徳心は最初からあったわけではない。もっとも、東日本大震災でも、略奪のほか、婦女暴行事件など顕在化していないものもある。
また、遺体発見の話も生々しい。死体からは脂肪分がにじみ出てくるので、一面に水を流すと、遺体のある場所からは油が湧き上がってくるので、そこを掘り起こしたのだった。
2つの大津波からの復興では、県からの指示で、高所に住宅を建てるよう強く要請された。昭和8年の大津波では、高所にある墓地が宅地になる所もあったが、年月が経つにつれ、海岸へと逆戻りした。
「地震は人がいるところに起こるから、災害になる。人がいなければ、それは自然現象だ」といったのは18世紀の思想家、ジャン・ジャック・ルソーだっただろうか。
地震はとめられないが、人間への被害は少なくできる。その方法としては過去の教訓を活かすことしかない。
東日本大震災では、昭和大津波後に建立された石碑「此処より下に家を建てるな」を守った重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)は家屋の被害を免れたと聞く。
今回の震災を機に再び注目を集めた吉村昭の2冊が、今後、まだ起こるだろう震災への力になることを願ってやまない。必読。