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1978年に刊行された同名書の文庫化
米沢の里修験の歴史資料を調査中なので、身近に感じるために久しぶりに藤沢周平を読んだ。
江戸時代、出羽の羽黒山で修行した大鷲坊という山伏が、かつて父親も務めた庄内の野平村の薬師神社の別当に任じられてやってくるが、そこには勝手に住み着いて村人に受け入れられている別の山伏がいた。当時村に住む山伏(里修験ともいう)は修行によって得た神通力でいろいろな問題を解決する立場だった。
大鷲坊は歩けなくなって閉じこもった娘を診て、足の機能が失われておらず、恋人を亡くしたことが原因だ考え、背負子で背負って何日も連れ歩き、自然の生命力の豊かさに触れさせ、若者たちと交流させ、歩かせることに成功して村に受け入れられる。
乱暴者の夫が出稼ぎに行っている留守宅に密かに通う若者が、娘を女郎屋に売った金も飲んでしまった男から脅迫され、大鷲坊が相談を受けて狐の足跡を細工して穏便に解決し、大酒飲みも更生させる。
昔、村中から嫌われ放火されて親が死に、生き残った子供が成人して村に帰ってきて空き家に住み着いたので、仕返しを恐れた村人に頼まれ大鷲坊は説得に行くが、折から起こった山火事のなか唯一優しくしてくれた娘を助け出して若者は去る。
力持ちだが女っぽくて嫁の来手がない男の嫁探しを頼まれ、刀を持った盗人が隠れてた小屋を揺らして追い出させ、大鷲坊が金剛杖で打ち据えて解決し、男を見直させる。また、狐が憑いたとされる娘の狐を追い払うのには失敗するが、娘が大木に下敷きになって村人が助けられないときに男が救って、狐も出て行ったことになり、娘を嫁にできる。
最後の「人さらい」は、命がけのサスペンス。大鷲坊の幼なじみの後家の幼女が祭りの夜に行方不明になり、山奥の里から仕事に来ていた夫婦ものに連れ去られた疑いがあって、何人かで探しに山へ入り、怪我人や谷底へ落ちた者も出しながら大鷲坊と母親だけになって山奥の村にたどり着いて娘を救出し、大鷲坊も娘の父親になりそうで、読み手も安堵する。
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マイ•ベスト「秋になると読みたくなる本」パート2!
武家物、剣豪物、江戸市井物などの時代小説で人気が高い藤沢周平ですが、この作品は郷里庄内の小村を舞台にして、羽黒山伏の大鷲坊を主人公とした短編集です。
大鷲坊が故郷の野平村に帰って来るところから始まって、村の薬師神社別当として村人達と折々の四季を過ごす、江戸期の庶民の物語が綴られていきます。
五編あるどのエピソードも素晴らしいのですが、白眉は最終話の「人攫い」。
秋祭りの夕暮れ、寡婦のおとしの娘たみえが行方不明になります。村人総出で捜索するも見つからず、村に来ていた"箕作り"(みつくり)の夫婦が関わっている事が分かります。
この"箕作り"の夫婦は、明らかに『サンカ(山窩)』として描かれています。農具の箕(み)を作る技術をもった人々は、時折村へやって来る"まれびと"でした。大鷲坊たちは攫われた娘を探して、あるかないかも分からない"箕作り衆の村"を求めて初秋の深山へと分け入ります。
第一話からの登場人物たちが縦糸となって各話を緩やかに繋いでいく構成の妙。庄内地方の山村を取り巻く春夏秋冬の風景描写の美しさ。そして何より、著者が生まれ育った故郷の方言を、『ルビつき』で文章にした名も無き人々の会話文の温かさ。
「日本語とはここまで美しかったのか」
と、私は自分の不勉強を恥いる思いをしました。
藤沢周平作品の中でも屈指の傑作だと信じて疑いません。最大級にお薦めしたい本です。
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作者、藤沢周平氏の故郷、山形、庄内平野の近くには、奥羽連山があり、その中腹の羽黒山では山伏が修行しているそうだ。
江戸時代までの羽黒山伏は、神社の別当として、荘園などの寄進を受け、幕府から手厚く保護されていたらしい。
山伏たちが行う修験道とは、日本古来の山岳信仰と道教、仏教などが結びついて形成された思想であるそうだ。
この小説の主人公はその羽黒山で修行を終え、庄内平野のある村の薬師神社の別当として任じられてやってきた山伏、大鷲坊。
山伏の役割は普通の仏教のお寺のお坊さんよりもっともっと幅が広い。加持祈祷によって病を治し、家相を見たり、八卦占いなどによって様々な困りことの相談に乗り、示唆を与える村のインテリであった。だけでなく、大鷲坊は子持ちの後家に口説かれて、しばしばその空閨を満たしているのであるが、それもある意味、“功徳”であった。人間味溢れ、情に溢れる大鷲坊。村人たちは、喧嘩の成敗や泥棒退治、息子の嫁探し、狐落とし、拐われた子供の捜索など、ありとあらゆる困りごとを解決してもらおうと持ち込んでくる。
最近読んだ、イザベラ・バードの「日本奥地紀行」にも「大変美しい」と書かれていた庄内平野。作物が実り豊かで、山に囲まれた自然が美しく、人々も穏やかで勤勉である。一方、「よそ者」に対する警戒心が強かったり、何か村で不運なことが続くと誰かのせいにして、その者の一家を追い出したり、一家の誰かに「狐が付く」とその一家はもう村人たちから相手にされなかったりと窮屈で厳しい面も。そんな中、大鷲坊は「思いやり」と「機転」と「体力」で平和に解決してゆく。髭面の中は意外とまだ若く、20代くらいであるのもかっこよく、ロマンスの要素もある。
山また山に囲まれたそこは、言葉が美しく、景色が美しく、人々が優しく、神秘的。お祭りの間に子供をさらっていったのは「山窩」と呼ばれる山の民で、蓑直しなどで稼ぎながら山から山を軽々とひっそりと渡りあるく習俗だった。
山窩にさらわれた子供を探す旅は崖の切り立つ山道などを命がけで渡り手に汗握る一方、大鷲坊と子供の母との間でロマンスが生まれるなど、期待どおりだった。
関西人で、千葉より東に行ったことのない私には、山形も福島も岩手も秋田も青森も、東北の一県一県が外国のよう。山を越えると見たこともない世界が広がっていそう。いつか行ってみたいと思う。
“白いヤギと黒いヤギ”さんのレビューを拝見して、藤沢周平さん、初めて読みました。ありがとうございました。
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1984(昭和59)年発行、新潮社の新潮文庫。5版。地方の農村の市井物。比較的珍しいのでは。あとがきにもあるが、山伏の目を通した農村の人々が主人公。ほのぼのしているわけでは決してなくて厳しい部分もあるのだが、うまく山伏がおさめえていく。しかし、最後の話で月心坊源助は可哀そうだ。結局敵役だったんですね。
収録作:『験試し』、『狐の足あと』、『火の家』、『安蔵の嫁』、『人攫い』、あとがき:、解説:藤田昌司、1978(昭和53)年、家の光協会から刊行した本。