紙の本
わが偏愛のコンサートマスター、ヘルマン・クレバースについて詳説
2011/11/15 11:12
7人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:あまでうす - この投稿者のレビュー一覧を見る
欧州の三大オーケストラ、すなわちウイーン、ベルリン、コンセルトヘボウを中心に指揮者に課せられた役割について論じる著者の言葉は、夥しいライブの鑑賞者、世界の楽壇との交流、そして長年にわたるレコード企画製作者ならではの実体験に基づいているだけに、凡百の音楽ひょうげものの言説と違ってきわめて含蓄に富む。
冒頭、筆者はマエストロ(巨匠)と呼ばれてその生涯を全うするためには、1)強烈な集団統率力2)継続的な学習能力3)巧みな経営能力4)天職と人生に対する執念の4つの条件が必要であると説くあたりは全く当たり前の話ではないかといささか鼻白んだが、個々具体的にオケや指揮者の実態を鋭く抉りだすに至って語りはぐんぐん熱を帯び説得力を増す。
上記の4つをクリアーしているからといって指揮者の音楽性の高さの証明には全然ならない。その好例が小澤征爾であり、彼がウイーン国立歌劇場の音楽監督に就任できたのはトヨタが毎年拠金している四十億円!の貢献への見返りではないかという説は、楽壇の裏事情に暗い私にも充分に頷ける。
彼のウイーンフィル新年コンサート上演に際しては、いくらあがいてもウイーン訛りの音楽が出来ず、リハーサルで某コンサートマスターに手取り足取り教えてもらった、という噂もむべなるかな。その無惨な演奏を記録したCDがわが国では何故かベストセラーになったそうだが、近来あれくらい凡庸なコンサートもなかった。
小澤の師は斎藤秀雄だが、彼の指揮法は父秀三郎の英文法解釈を音楽に適用したもので、音を名詞や動詞や形容詞などと同じように細分化された音素に還元し、その音素の特性を演奏に反映しようという要素還元主義に立脚している。だからひとつひとつの音は音符通りに正確無比に表現されるが、音素と音素が連鎖して展開する音楽の有機的な流れの精神的な意味は等閑視される。福岡伸一の生命論を援用すれば、音楽は流れの中の淀みにあり、その音楽を微分積分して分けることは、音楽を殺すことになる、のである。
もちろん小澤とて再現音楽の本質が指揮者の脳内に確立されたその曲のイデアにあることは熟知しているのだが、いかんせん彼の前頭葉で生産された音楽像自体が貧弱な代物なので、それをいくら世界一の音楽テクノクラート(例えばサイトウキネンやN響)が精巧無比に再現してもなんの芸術的感銘も放射せず、いたずらに空虚な音塊に堕すのである。
ああ、またしても脱線してしまった。が、本書は珍しくもメンゲルベルグの衣鉢を継いだコンセルトヘボウの名指揮者ベイヌムやハイテインク、そしてわが偏愛のコンサートマスター、ヘルマン・クレバースについて詳説し、彼らの音楽について新しい光を当てた労作である。
電子書籍
へそ曲がりのようですが、面白かったのは‥
2022/04/23 06:39
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:takuya - この投稿者のレビュー一覧を見る
欧州三大オーケストラ、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ各団体に、かなりの内容にページが、割かれて居ます。ただ個人的に面白かったのは、コラムの『世界一のオーケストラは、どこ?』でした。アメリカで録音が盛んに為されていた時代、録音点数の最も多い団体は、ボストン交響楽団でもフィラデルフィア管弦楽団でもニューヨーク・フィルでも無く、各メジャー・レーベルにRCAヴィクター交響楽団、コロンビア交響楽団、ハリウッド・ボール交響楽団の変名で参加していた、グレンデール交響楽団であった‥と在り、驚きました。尤も、この説も平林直哉さん主宰のGrandSlamレーベルの、ワルター指揮のブルックナー『第九』の解説文を拝見すると、このセッションの契約書コピーが在り、100%ロサンゼルス・フィルが実体であった‥と認識できましたので、様々なケースがあったようです。
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オーケストラ(特に指揮者とコンマス)の裏側が分かって興味深い本でした。
小澤征爾さんの位置づけが微妙なところがちょっと面白かったです。
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タイトルからして指揮者論なのかな、と思っていたら、著者の思い出も交えたウィーンフィル・ベルリンフィル・コンセルトヘボウの比較論だった。。読み物としてはそれなりに楽しめるかも。
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指揮者とコンサートマスターの役割が興味深く書かれていました。
ウィーンフィルのライナーキュッヒル氏、ベルリンフィルの安永徹氏など、トップの奏者が名だたる指揮者とオケとの橋渡しとして両者の落としどころを素早く判断しながらリードしていく姿はプロ中のプロだと。
コンマスは単に技術が上手いだけでなく、人望的にもオケ奏者全体と
つながってなければ困難なポジションとなります。
自己を高め、それ以上にメンバーを包み込む包容力が求められる。
指揮者・コンサートマスターには興味深い1冊です♪
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指揮者のオーケストラの関係について、
更に勉強できました。
なるほどと思うことが多々ありました。
音楽ってほんと奥が深い。
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20140212読了
図書館でたまたま目に留まった本。オーストリアのウィーンフィル、ドイツのベルリンフィル、オランダのコンセルトヘボウに関する内容。2011年出版。著者はオーディオメーカーでCDやLPの制作に携わっていた経歴の持ち主。名盤や名指揮者の話がたっぷりで、クラシックに詳しい人には興味深いだろう。オケの歴史を追えるのもいい。私は往年の名盤とか指揮者をあんまり知らない程度のクラシックかじりなので、このコンビはいい!というCD・LPの話はいまいちピンとこず、だれてしまった。●楽譜から離れるウィーンフィルの凄さ…以前もなにかの本で読んだ記憶がある。そんな集団と対峙する職業(指揮者)も超人的。カラヤンの話も満載。演奏家たちの語るエピソードがおもしろい。●『音楽に生きる ダニエル・バレンボイム自伝』音楽の友社●『カラヤンとフルトヴェングラー』中川右介/幻冬舎新書●章のあいだに差しはさまれるP185間奏曲その二でコンマスの仕事が解説されていておもしろい。●P231要約「一国の存在意義は、軍事力でも経済力でもなく、文化。或る国、或る民族が人類の歴史に刻む遺産は文化のみであって、経済的な繁栄も強大な武力も時が経てば単なる出来事にすぎない。」
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タイトルからすると硬い技術的な内容が書いているかと思ってしまうが、ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、そしてアムステルダム・コンセルトヘボーの3つのオケの約100年に及ぶ歴史を遡るということは偉大な指揮者たちの生々しい実態と音楽のいかなる点が素晴らしかったのかが裏話を豊富に語られていく。実に楽しい。ウィーンではベーム指揮でブラームス第2番の第4楽章の途中に停電になったにも関わらず、暗闇の中で演奏が続き、完了!拍手喝采の中、ベームも上機嫌だったという実話。それほど指揮者が素晴らしかったということか。ウィーンの章ではバーンスタイン、小澤、アバド、ブーレーズ、マゼール…その他にも実に多くの指揮者が登場する。これに対してベルリンはほとんどフルトヴェングラーとカラヤン。フルヴェンがカラヤンを排除しようとしたが、カラヤンが強気の作戦で、終身という条件をベルリンに飲ませたという。カラヤンがフルヴェンとトスカニーニのリハーサル模様を陰で経験することで、2人から学んだということは驚きだった。そしてアムスはメンゲルベルク、ベイヌム、ヨッフム、ハイティンク、シャイーの音楽性の変遷の説明が面白い。この他にも楽しい裏話が満載だった。
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2021/4/25
中野さんの巧妙な例えや人生哲学がめちゃくちゃいいスパイスになってる。タイトルから指揮者の役割の一般論を期待したものの、内容自体は大指揮者時代の裏側に迫る趣旨となっている。指揮者というのは一般論で決して説明できないもので、それぞれの指揮者ごとに厚みのある一般論があるのだろう。
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クラシックミリしらだったけどオケの違いが分かって面白かったです!
知性のかけらのない感想ですが。
ウィーンフィル:楽団員全てが自分の音楽を持っている。
全員の音と合わせることが出来るので、なんなら指揮者不要。
ベルリンフィル:楽団員の音楽の引き出しが多い。どんな指揮者でも合わせられる(言い過ぎ?)何もない指揮者が一番困る。
席次はない。コンマス以外は来た順!
ロイヤル・コンサルトへポー:一国の文化
音色が深い。色彩を音色に変える技術を持っている。
オケからみた指揮者の違いがわかって大変面白かったです。
ここから本の感想というか、そもそもクラシックについて。
日本民謡をメドレーにして管弦楽曲にしたものが日本人に受けないのは仕方のないことじゃないかな。
だって日本には日本独自の楽器があって、それで演奏されているのを知っているから、それをわざわざオケで再現しなくても、ていう気持ちが強かったな、聴いた時。
結局クラシックはヨーロッパの文化から派生してるわけだし、今スタンダードになってるのは帝国時代の名残だからじゃないか…と思っている。
日本独特の笛や太鼓が世界基準になったとき、君達どこまで再現できる?民謡だってその地域の歴史から派生したわけだし。
などと思うわけですよ。
クラシックがアニメやゲームの世界に使われてて嘆く記事も読んだことあるけど(本とは関係ない話)、元々音楽の歴史は宗教から始まってオペラや劇伴とした後音楽として独立したわけだし、それを「高尚なものを(そんなものに)」嘆く必要ないんじゃないかな。今やドラマや映画でも使われてるじゃないか。アニメやゲームを下に見る必要ある?
音楽を楽しむジャンルに高貴も下賤もないよ。
まあこれは学のない人の話なので、曲を深く理解していれば「こんなものに!」と嘆く気持ちもわからなくはない…
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本書は、著者がウィーン・フィル、ベルリン・フィル、コンセルトヘボウ管の関係者等から聞いた話をもとに、指揮者のオーケストラ、演奏など、様々なことに対して考えを巡らせて、私たちに提示するという内容である。
「指揮者なんて要らない?」という結論が章のタイトルになっているウィーン・フィルについてが一番うまく書けている。
個人的に特に印象に残ったのは、ヨッフムが、コンセルトヘボウ管にヘルマン・クレッバースを勧誘するときの話。
会談の時に、ヨッフムが楽団の財務部長を連れて来て、コンセルトヘボウ管の歴史や存在意義などをイチから話した後に、「オランダの危機を救えるか救えないかは、君の双肩にかかっている」という主旨の口説き文句を言う。
単にオーケストラの問題ではなく、オランダという一国の危機を救えるというやりがいの点でも、また金銭的な面でも満足してもらえるよう財務部長を連れてきたというスケールの大きい話を、ヨッフムらしい誠実さで語った素晴らしい話だった。
このように、著者が演奏家から耳にした興味深い話や、裏話、そして、考えさせられるような考察もあるのだが、いかんせんまとまりがなくバラバラ。個々には興味深い所があっても、「指揮者の役割」を説明するにしては、回りくどく、遠回りしすぎた。話が色々と飛んで、まとまりがない。構成が良くないので、読みづらく、やっと読み終えたという感じがした。
読みづらかった原因は、構成だけにあるのではない。
普段見かけないような単語や漢字が多く使われていたため、それが読書の流れをせき止める原因となった。短い文章や、たまにならどうということもないのだが、本書は1~2ページに一回くらいの割合でそれが出てくる。
例を挙げれば、「椿事、角逐、披瀝、指呼、剽軽、招ぶ、可成り、窮極...」。読み手の勉強不足と言われればそれまでだが、「可成り(かなり)」や「窮極(きゅうきょく)」は、どう考えても「かなり」と「究極」を使ったほうが読みやすいではないか。そこに何か特別な意味を込めて使っているのならまだしも、普通の意味で使っているのだ。これが引っかかり、読むのに時間がかかってしまった。
中野氏の本は、「クラシックCDの名盤シリーズ」(新・旧含めすべて)、「ウィーン・フィル 音と響きの秘密」、「モーツァルト 天才の秘密」、「ストラディヴァリとグァルネリ」、「ベートーヴェン音楽の革命はいかに成し遂げられたか」など、文春新書で10冊くらいは読んでいるが、このようなことはなかった。ということは、原因は出版社にあるのだろう。
中野氏は、1931年生まれ。古い漢字や、現在ではあまり使われていない言葉を使うのは仕方がない。原稿もパソコンではなく、手書きだと言う。なので、読みづらいところは、校正・編集の段階で直すのが普通だと思うのだが、おそらく新潮社の編集・校正者は原稿を忠実に起こしただけなのであろう。
クラシック音楽愛好家は、一読の価値はあるものの、以上のような点から、おすすめはしにくい。未読であれば、内容の似ている「ウィーン・フィル 音と響きの秘密」の方がお勧めである。