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タイトルはタイミング的に親にはみせられないが、
すばらしい本だと私は思う。
しかし、かゆいところに手は届いたのだけれど、
まだ掻きたりない。
「個性という幻想」に書かれていることは、わたしもやった勘違いである。
そこで鷲田氏は憤り、私は喜んだのである。
そして、勘違いした個性のまま、すすんだ現在、悩めるのである。
しかし、そこで勘違いしたのも、なにかの運命であったようには思う。
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著者:鷲田清一(角川ソフィア文庫・700円) 評者:山崎正和
毎日新聞 毎日の本棚より
サブタイトル:とつおいつ、ラディカルに
人はみな、選択権を行使して生まれてくるのではない(※)。
自らの意思で生まれたのではない命。
とはいえ、生まれ落ちたそのときから、否、受精したその瞬間から、
細胞レベルでは、そこに宿った命を存続させようとするエートスが
備わるといってよいだろう。
だが。
生を選択するということは、他方の選択肢に死が存在することと
表裏を為す。
死も一つの選択肢として存在するのに、なぜ殆どの人はすべからく
生を第一義とし、死を選ばないのか。
死を選択するということに、どのような意味性があり、そこに
どんなタブーが存在するのかを、作者は本書で解きほぐしていく
と、評者は解説する。
作者は、かねてから臨床哲学という概念を提唱している。
スコラ哲学以降、言葉の迷宮に嵌まり込んだ哲学を、一度臨床の場に
据え直すことで、言葉遊びに等しい理念の楼閣を築くのでは無く、
日常使われる平易な言葉やシンプルな概念の中から、今必要な言葉や
理念は何なのかを導き直そうとする、いわば哲学の再起動とも言える
概念である。
その氏が向き合う「死」の問題。
そこに、どのような解が導かれるのか、大いに興味が沸くでは無いか。
作者は、ともすれば個人の中に完結してしまいがちな生と死という
問題を、社会性という観点から見つめ直す。
そこにあるのは、人は自分だけの存在などでは決してなく、他者との
関わりの中で存在するものだ、という人間関係である。
そのことを称して、「自分があなたのあなただと実感できる社会」
という表現を、作者は用いる。
このままでは、平易過ぎて逆に分かりにくいが(笑)、評者はこれを
うまく整理して、「理想は能力誇示の自立でもなく、依存と密着の
家族主義でもなく、異質者が距離をおいて肯定しあう社交的な人間
関係なのだ」と、要約する。
ただ、難しいのは現実社会は成果主義(メリトクラシー)が横行
する一方、その反動としての個人主義や利己主義も世に横溢する
中で、どこまで何のケレンもない目線でもって、異質な他者を
あるがままで許容するということが可能か?ということだと思う。
かつて、劇作家の一堂令は、その作品「ゆでたまご」の中で、
葛西佐紀に「おまえ自身であること。それがおまえのとりえだ。」
と言わしめた。
その言葉が語られた詩的な情景(ボッコリという、人型のウサギ
のような生き物の子供達が遠足に行っているところ)と相俟って、
劇「ゆでたまご」の中でも一際幻想的で、柔らかく心に染み渡る
シーンではあるが、その言葉は平易であるが故、持つメッセージは
じわりと聞く人の心に重く突き刺さる。
そこで語られている言葉は、ボッコリ達の住む世界でしか実体
し得ないのではないか?という名状しがたい恐怖も感じてしまう
からである。
元より、そうした思いを伝えることは、一堂令の本意では無い
だろう。
だが、一堂令がストレートに伝えたかったその思いは、明るく
希望に満ちているが故、その影となる部分は漆黒となる。
折りしも世間では、不況により社会層が二極分化されていく傾向
にあり、それを心理的に補完するかのように、No1よりもOnly1
という、砂糖菓子のようにべたつく言葉が蔓延るようになった。
そうした、日本型資本主義の行き着く果てに、まるでマンモス
の牙のように袋小路に追い込まれていく人々の精神の有り様を、
作者は玉葱の皮を剥く様に解きほぐしていく(※2)。
解してはいくが、玉葱に芯が無いように、こうした哲学に
アルティメットな解などは無い。
そのことを示唆しつつ、評者は以下の言葉でこの書評を締めくくる。
「ソクラテス以来、哲学は結論をめざす科学ではなく、永遠に
続く思索の過程だと、この人(作者)は確信するからである。」
答えの無い問いに対して、思索を続けることこそに意味があるとする
その指摘は、正にシーシュポスの岩の寓話を彷彿とさせる。
だが、そこに示されたシーシュポスが自らの生きる意味を掌中に
収め、不遇の中にも喜びに満ちていたのに対して、現代に生きる
我々は、その取り得る人生の自由度の広さの故、反って閉塞感に
満ちてしまっている感がある。
「おまえ自身であること。それがおまえのとりえだ。」
この言葉が人々の胸にきちんと届くような日が来ることを、
切に願う。
そのための一助となるものが、作者の唱える臨床哲学であれば。
本書の存在意義も、そこに見出せるというものだ。
(この稿、了)
※ この真逆のことは、ヒプノの世界ではよく耳にする。
過去世からの繋がり(いわゆる輪廻)の中、人は生きている。
過去世で遣り残したこと、間違えてしまったこと(業)を
解消するために、今生の生がある。
その生を全うするために、もっとも相応しい時間と場所と人を
選んで、人は今生に降り立つ、とするもの。
ちなみに、こうした考え方、嫌いではない。
不可知論を突き詰めて、切り捨てる程頑迷でも無い積りである。
※2 進化とマンモスの牙の相似性は、星野之宣の著作「サーベル
タイガー」に教示を得たもの。
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死ぬとわかっていて何故か人間は生きていけるのか、そういう根源的な問いに答えを出していくのが文学部の仕事だ。
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烏兎の庭 第四部 書評 9.25.10
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto04/diary/d1009.html#0925
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あえて言おうと思う。鷲田さんのここでの議論はすでに古い。
というか、この問いが湧きあがってきた時への応答としては
端的に間に合っていない。
死なないできた理由を挙げておられるが、
それらが自明でなくなったからこそ、ではないか。
変わらず、生命は人のあいだにあるとしても、
自明でなくなった感覚は取り返しようがないように思う。
そして、それにもかかわらずいまだに我々は生きながらえるだろう。
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死なないでいる理由を確認しないと生きていくのがしんどいことがある。幸福とはなにか、なぜに幸福論なのか。読んで良かった。
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森見登美彦の『夜は短し歩けよ乙女』の発売日だったので実家近くの書店に。あろうことか見当たらない。しかも何故か同日発売のうちの大学の総長の本なぞ売っている。哲学者の本は売るが売れっ子作家の本は売らないというような高尚な書店に行ったわけではない。TSUTAYAである。田舎のTSUTAYAは本も売るのである。そんな不思議な出会いからこの本を購入。鷲田清一は話を聞いたり、教科書や模試などでしか読んだことがなく、本を買うのはこれが初めてである。
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題名に強く惹きつけられた本。わたしが<わたし>としてここにいることが出来るのは、傍にいてくれるひとがいるから。他者の存在。このことを一貫して実感することができました。死との向き合い方を、医療以外の視点でみることができたのは、この本を読んでよかったことです。地に足がついた様な感覚です。これからもわたしにとって大事な本となりそうです。
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家族論、教育論、生命倫理、幸福論、全てを平易で、なおかつ綺麗な日本語で綴っている。ただ途中、西洋倫理思想史に触れる部分が少し難しかった。蛍光ペンで線引きしながら読まずにはいられない。心の底から人に薦めたい哲学エッセイ。
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先日、鷲田さんの講演を聞いた。臨床哲学などを交えながら、看護職の専門性について語ったもので、かなり面白く、うなずけることも多かった。話したようなことが書かれている本はないかと探して見つけたうちの一冊がこの本。
……実は、鷲田さんの講演を聞いて本を読んでみたのって初めてじゃないような気がする。そして、いまいち読みきれた感がない読後感っていうのも同じ。浅薄な自分はなかなか哲学の本が読めるようにならない。
書中にこんなことが書いてあった。
――働くこと、調理をすること、修繕をすること、そのための道具を磨いておくこと、育てること、教えること、話しあい、取り決めること、看病すること、介護すること、看取ること、これら生きていくうえで一つたりとも欠かせないことの大半を、ひとびとはいま社会の公共的なサービスに委託している。社会システムからサービスを買う、あるいは受けるのである。これは福祉の充実と世間ではいわれるが、裏を返していえば、各人がこうした自活能力を一つ一つ失ってゆく過程でもある。~中略~ ナイーブなまま、思考停止したままでいられる社会は、じつはとても危うい社会であることを浮き彫りにしたはずなのである。~中略~ 「われわれは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁のほうへ走っている」。十七世紀フランスの思想家、パスカルの言葉はいまも異様なほどリアルだ。
生きるっていうことは、言い換えれば死なないでいるということ。いずれにせよ、生きている理由、死なないでいる理由、そういったことを考えながら生きていくべきだと思う。上掲の引用のように、何もかも委ねてしまうということは、意のままに生きることも、死ぬこともできなくなる。
揚げ足とりの問答で、「何してるの?」「人間」ってのがあって、そう答えられるたびに「人間はなってるものであって、しているものじゃない」と思ったものだけど、ある意味では「人間をやっている」という意識も必要かもしれない。
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単行本で同じ本を読みましたが、文庫版は内容がさらに練られ、テーマへの絞り込みも効いています。他者との関係で自分の存在を知るアプローチは受け入れやすく、広く薦められる内容です。ただ、猛毒を以て救済するようなものでもなく、そのような語り口でもないですから、人により多少、物足りないかもしれません。
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生活のさまざまな場面において「老い」を意識するようになり、自分の人生の残り時間をカウントダウンし始めた時、この本に出会いました。図書館から借りて読んだのですが、改めて購入したいと思います。
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他者との関係において初めて成り立つ〈わたし〉に注目するスタンスは変わらず健在。
そしてそれが私はあまり実感できないのだけれども。
緻密と言うよりは、著者の深い実感に支えられた、つまり必然ではないが可能性のある議論。
より練り上げられることのできるような、臨床的視点から発された、示唆に富む文章として読んだ。
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ひさしぶりのわっしぃ本。
ふつうおもわれているのとは反対の地点からものごとを考えてみること。
このことが本書では貫かれている。
タイトルからして、「生きている理由」ではない。
プライドについて語る件でも、「自助努力とそこから帰結する立派な達成によって自分に自信を持て」という陳腐な啓発本のような語り方はもちろんしない。
実は知らず知らずのうちに盲目になってしまっているわたしたちの、目隠しを外す手助けをそっとしてくれる。
いつもそんな語り口のわっしぃがわたしはとても好きなのだ。
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鷲田さんの、ずっと前から読みたかった本。
むずかしい。追いつきたい。
やはり鷲田さんの臨床哲学は、ひととひととの関係があるからこそ存在する学問で、鷲田さんの文章のやさしさはそこから来るんやろうなあと思う。
ひととひととが支え合う、ケアについての部分が印象的でした。