紙の本
敵討ちとはこういうものである!
2015/08/16 14:34
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投稿者:historian - この投稿者のレビュー一覧を見る
長い間追っていたどんなに憎んでも飽き足らない仇をついに見つけ出し、苦心惨憺の末に殺害し本懐を遂げる・・・という敵討ち小説。なかなか仇を見つけられない主人公の心の焦り、その間の逼迫する懐事情、もう見つからないのではという諦めや自棄、失敗したときの哀れな末路に対する恐れなど、主人公の心情をことこまかに描いているのがいい。それだけに仇を討ち取ったときの快感も抜群なのだが、描かれた後日譚では主人公たちは必ずしも幸福な余生を送っておらず、考えさせられた。『最期の敵討ち』の方は藤原竜也主演でドラマ化されており、これも秀逸なできだった。
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個人的と思われる敵討ちも社会の動きに左右されていくという2編。
「敵討」は伯父を闇討ちにされ、父も返り討ちにあった熊倉伝十郎が七年後、牢獄から放たれた敵を討つ物語だ。闇討ちの背後に老中水野忠邦の膝下で鳥居の陰謀があった。
当時敵討ちは1%も成功しないことで、成功しないとお家断絶で大変な作業だったらしい。病死などしていてもダメである。あてどない放浪の旅になる。その様子を吉村さんらしい資料に裏づけされた描写が興味深い。
相手が、遠島の罪に処せられていることがわかる。しかし、それでは敵討ちはできず、失敗になるのだけど、火事で帰牢したことで罪一等減で、所払いくらいになる。それでようやくはたせる。背景に倹約令を巡る権力争いがあり、こうした社会の動きに個人的な敵討ちも左右されていく様子が面白いところ。
「最後の仇討」は明治の近代化の過程で禁止された敵討が背景。臼井六郎は11歳と時、藩の争いに巻き込まれ父と母を惨殺される。12年に及ぶ苦難を経て、明治13年に敵を討つ。ところが、それより七年前すでに「仇討禁止令」が公布されていた、結果、禁獄終身刑となる。
敵討は法律では禁止されても「美しい行為」と称える風潮もあって彼は幸せな晩年をすごす。
あいかわらずのたたみかけるような吉村節が堪能できる。中篇二つというのが少し中途半端。
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敵討ち、これは侍の時代のれっきとした制度で、この時代、敵討ちという私刑制度の下、合法的に殺人が許されていた。私刑の禁止されている現代においては考えられない制度である。
主人公は敵討ちの使命を負い、敵を探す旅に出る。出たくなくても、世間体というものがそれを許さない。その道のりは果てしなく、終わりがなかなか見えることはない。この制度の下、敵にめぐりあうことなく、無念に朽ちていった者も数多くいる。まさに、自分との戦いである。
小泉元総理大臣も本書を読んだとか。
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ここ何冊か恨みを晴らするという類いの本をたまたま続けざまに読んでいる。復讐と云えば主君の仇を討つ「忠臣蔵」が、キアヌ・リーブス主演ハリウッド映画「47RONIN」http://47ronin.jp/でリメイクされるそうだ。
この本は、そうした派手さみたいなものはないが、幕末が時代背景となっており江戸美風とされたていた仇討ちを描いた2篇の短編が収められている。その1篇が先頃テレビ朝日系でドラマ化された「遺恨あり 最後の仇討」の原作となったもの。
明治へと年号が変わる慶応4年、西欧に準じ法治国家として仇討が殺人罪となり仇討禁止令の公布となるに至ったこうした背景の中、その後に実際に起こった事件が淡々と綴られていく。
秋月藩中老だった父が考え方の相違により反対派の藩士たちに暗殺された。しかし事後の処理は臼井家にとって理不尽極まりないものだった。11才の六郎は、周囲から止めるように諭されるも仇討を誓い積年の悲願をはたすという史実に基づいた小説。
明治という新しい時代の流れの中、日本という国が個人と個人の恨みというか義憤にまで影響を及ぼしていく。こうした時代に生まれ合わせ、六郎が命を賭けて得たものは一体何だったのだろうか?人生って何?そんな複雑な思いが込みあげてきた。
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敵討ちは武士に許された特権だった。しかし、明治維新でそれは只の殺人になる。時代が変わるとはどういうことなのだろう。仇討ちを通して、国の形が変わることと、本当に時代が変わることとは何かについて考えてみたくなった。
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表題の「敵討」及び「最後の敵討」を収録している。
どちらも大変印象深い作品であり、さすがドラマ化された作品だけある。
吉村作品のよいところは、全てが全てハッピーエンドではないということ。本2作品の中で敵討を果たした人物は、敵討を果たしたあと何事もなく人生を終えているわけでない。
例えば「最後の敵討」では、主人公が監獄から出たあと出獄祝いの宴に参加するが、その時そこにいた大物が演舞を行った人物の師匠によって殺されてしまうという事件が起こる。一方「敵討」では、敵討の助太刀役をした人物は、他藩に召し抱えられることなく、吉原の商店の店主としてその生涯を終えている。
その時は一躍脚光を浴びるが、人々の興味関心が薄れると、あっという間にスポットライトは当たらなくなってしまう。元の通りごく普通の一般人に戻る。それはまるで真っ暗な舞台上でスポットライトを浴びながら演技をする役者のようである。そのような、役者にスポットライトがあたっていないところまでしっかりと目を当てている吉村作品は素晴らしい。特に本作は、そのような人生の深みを感じることができる作品である。
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吉村流仇討2編。何が面白かったかといって、幕末からの話なので、法律が変わったり、政局が変わったりと、取り巻く状況がいちいち詳しかったところ。2編とも一応はハッピーエンドというか、宿願達成で良かった良かった、なのだが、じわーっといやぁな気分がこみあげて、討つ方も討たれる方も、地獄だなあ。
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安定の吉村昭。
仇討ちする側が追い詰められていく感じや、母の惨殺死体を見て「母が汚された気分」とか、そういうのがドライな筆致とあっていていい。
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「敵討」天保の改革の時代に協力者の浪人と父と伯父の敵を追って二人で十数年。漸く見つけた相手は獄中に。このままでは敵討ちが出来ない・・・。この時代に敵討ちがいかに永年、収入もなく、あてもなく捜し回る悲劇。運良く討ち果たした後の二人の叙述もまた悲劇の深さをもの語ります。そして天保時代の政治の影を感じます。「最後の仇討」は明治元年、秋月藩の両親の暗殺を見た10歳の少年がやはり十数年後に判事になった敵を討つまでの苦難の日々と、敵討ち禁止令の施行により殺人罪とされてしまうこれまた悲劇。しかし、明治13年当時は未だ美風とされ、世の中の共感を集めたとの実話。時代の大きな変革に飲みこまれた人々の運命を痛感しました。
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わたしがあまり時代劇見たりしないせいかもしれないけど、敵討はこんなに手続きがいるものだというのが、勉強になったし、面白くて二回目読みなおそうかと思ってます。吉村昭さんははじめて読んだ作家だけど、他の作品も読みたいです。
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武士の美風であり称賛の対象だった敵討が、明治維新によってただの殺人になってしまった時代の狭間で行われた旧秋月藩士の敵討は、2011年に藤原竜也主演で 「遺恨あり」としてドラマ化されたのを見てずっと印象に残っていた。伊予松山藩士の敵討はちょうど安政の大獄の頃で、社会情勢が敵討事情に大きく関わってきて 終始ハラハラさせられる。途中で時代小説読んでるような気分になったけど、これ実話なんですよねー。敵討は個人的な復讐ではなく名誉の問題であるだけに、本懐 を遂げるまでのシビアな現実や苦悩も淡々と描写される。
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江戸時代には賞賛された仇打ちが、明治に法治国家になって禁じられていた。法に従い服役した後、平凡な生活を送り静かに死んだ主人公や彼の周りの人に罪の気配は感じられない。2015.6.20
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「日本史上最後の仇討はいつだったと思いますか?」と訊かれたら、歴史好きならわくわくするだろう。明治13年12月17日、臼井六郎という青年が幕末に秋月藩の内部抗争で殺された両親の仇を討ち果たしたのが最後だといわれている。
六郎の父・臼井亘理は佐幕派であったが、国内の情勢を鑑みて勤皇派に転じて藩士たちの怒りを買い、干城隊という一派に寝込みを襲われて妻ともども惨殺された。当時六郎は11歳。成人するまで仇討への思いを胸に秘め、やがて上京して幕末の剣豪・山岡鉄舟に師事しながら両親殺害の実行犯である一瀬直久と萩谷伝之進の行方を捜し求め、ついに一瀬が東京で裁判所判事になっていることを突き止める。同郷の人々が集まる旧藩主・黒田家の屋敷での会合で偶然一瀬に出くわした六郎は、隠し持っていた短刀で彼を刺殺して本懐を遂げる。
すでに廃刀令・仇討禁止令が出て久しく、六郎の行為は殺人罪として裁かれるものであったが、江戸の気風を色濃く残す世間の人々は六郎の仇討をあっぱれと称賛した。近代化を推し進める法治国家として殺人を赦すことはできないが、両親を殺された六郎の心情も察するに余りある。法と世論の間で揺れ動いた裁判官が下した判決は…。
この小説はほとんどセリフもなく、ただ史実を淡々と述べていく。その抑制の利いた文体がより六郎の無念を際立たせ、ひたすら親の仇を討つために生きてきた彼の人生の悲しさ、虚しさも浮き上がらせる。同時に江戸から明治へ、時代が変わっても容易に変わることのない日本人の美風、世間の人々の心の有り様にも考えさせられる。
「最後の仇討」は2011年に「遺恨あり」という題でドラマ化され、テレビ朝日で単発のスペシャル時代劇として放送された。かなり淡々としている原作にすばらしい脚色が加わり物語が立体化され、主演の藤原竜也はじめキャストの心のこもった演技によって数ある時代劇の中でも屈指の名作となっている。放送文化基金賞を受賞し、DVD化もされているため、今でも容易に視聴することができる。
一瀬を討った後も母の仇・萩谷の厳罰を求め、六郎は執拗に両親の仇を討とうとするが、それは目的を遂げた後に訪れる心の空白をより大きくする。生きる目的を失った六郎が川原で号泣するシーンは必見。また、一瀬にも家族がいること、萩谷の無残な最期、六郎自身も殺人者になってしまった悲しみを丁寧に描き、いつまでも深い余韻を残す。
2018年のTBSドラマ「アンナチュラル」に「殺す奴は殺される覚悟をするべきだ」というセリフがあるが、連鎖の危険性をはらむ復讐の本質を端的に言い当てていて、この「最後の仇討」にも当てはまると思う。