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例示がうまく行っていないように思う。例が必ずしも筆者の説を説明していない。一事で万事を言っているところもある。
また、支配という語の主語が不明で意味が取れない。というか、全体的に主語が欠けているところが多い。集団が個人のように考え、行動したように言っているところがあるが、よいのか。
読みにくい。
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目からうろこ的。
逆転発想。
強引であっても、解答がちゃんと用意されているのがいい。
あるいはそうかもしれない。
あるいは、まだまだ未熟な理論かもしれない。
でも、すとん・・・とおちる理屈に完敗の気分。
読んでいて、楽しいと感じた。
ジェンダー視点はいつも楽しめる。
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時代・政治情勢などに揉まれながら、今まで使われてきた「女ことば」。
尊重されたりけなされたり、それでも結局守られてきてますよね。
専門的な部分は飛び石のごとく読んでしまいましたが、なるほどと思える「女ことば」の魅力に納得。
「ーだわ。」「ーよ。」「ーかしら。」などといった言葉は、それだけで女が発しているものだとわかるもの。オカマももちろん。
そう言われてみれば、便利ですよね。小学校教科書や絵本にだって、その使い分けによって性の区別がされてるんですから。
これは決して性差別とかではなく、日本語の特徴であり、美しいとされている理由の一つでもあるでしょう。
そんな「女ことば」…私は好きだし、使っていたいと思うし、現に日常、特にメールやWeb上での書き込みで多用している…ことに、改めて気づきました。そう言えば、私ってそうだなって。
一昔前まで強調されていた身分の差による使い分けの要素は薄れてきているし、柔らかくかわいらしく、時には色っぽく、そして女性として「らしさ」を楽しむためにも、「女ことば」は消えずに使われ続けてほしいものだと思えました。
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女性特有の話し方を女ことばと呼ぶが、それは昔からあったわけではなく、作られたものだ。
女ことばは日本の伝統とか世界にない日本の優位性とかいろいろ言われることもあったが、そんなのは後付設定なのだ。
とまぁそんな感じの内容?
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「女ことば」の歴史なんて、今まで知らなかったから、すごく面白かった。
特に、「てよ」「だわ」という言い回しが昔は下品な言葉使いとされてたなんて、ビックリ!
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1.中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書、読了。日本語の特徴という「女ことば」は標準語に顕著にみられる区別という。では女性が使う(べき)それはどのように誕生したのか。本書は、鎌倉時代から第2次大戦後までの女ことばの言説を辿り、言語学やジェンダー研究の知見からその形成過程を追う。
2.中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書。「女は喋るな」から「喋るならこうあるべき」へ--。女言葉の「言説」は、その言葉遣いが女性らしさの規範となり日本語の伝統へと創造され、天皇制国家の伝統として価値あるものへ定位される。同時に女言葉不使用者は「女らしくない」ともされることになる。
3.中村桃子『女ことばと日本語』岩波新書。フーコーは「ことば」に注目し、私たちが何らかの知識や概念を持っているのは、それについて「ことばで」か語ってきたからだと考察。本書は日本語論の一入門書ながら、フーコー『知の考古学』の一つの実践事例といってよい。自明の襞に分け入る魅力的一冊。
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なぜ「女ことば」は存在するのか。この本の問題意識はいたって単純です。
暑い「わね」のように、単語レベルでそれを使うだけで女性を連想するような言葉があるのは、日本語の特徴の一つだと思います。
この本の内容をかなり乱暴に要約すれば、女ことばが存在するのは、言説による規範化、そしてそれが定着することによって「創られた伝統」が定着するところにあるということですね。
言説による規範化とは、女ことばそれ自体が定着するのではなく、「女ことばはこういうものだ」もしくは、「こうあるべきだ」というような言説のなかで定義されるということです。現代でいえば、マナー本や教科書などが一番身近でしょう(ちなみに、女性語のマナー本は鎌倉時代からあったそうです)。規範化のなかで特徴的なのは、日本国民の優越性を示すための国策のなかで女ことばが日本語の伝統として位置づけられ、戦後にもそれが続いたということでしょう。
それまで正式な日本語として認識されず、標準語の策定にあっても「方言」と同じように無視されてきた女性語が、知識人によって日本語の伝統として天皇と結びつけられ、「日本人」という一体感が作られてゆく。そして、その伝統は戦後においても女性のもつ本来の特徴として、再び規範化される。
各章を比較してゆくと、その時代の言説によって「女ことば」の位置づけが全く違うということが示されています。それによって、「創られた伝統」であることを浮き彫りにしようというのが狙いではないでしょうか。それがこの本の面白いところですね。
若干、女ことばの不遇の扱いを嘆いているような・・・その意味で肩入れしているような語り口だと思いましたが、常識を疑うという意味ではこれぐらいでよいのでしょう。例示が多いので、軽く読むにしても面白いです。「~てよ、~だわ」は堕落した女学生を象徴する言葉として使われていたとか、「あたい」は男子にも使われていたとか。
ただ、すべてそのまま納得できるかというと微妙なところもあると思いますが……それは、他の方の意見を伺ってみたいところです。
……関係ないことですが、良く考えてみると、最近はすっかり女ことばを聞きませんね。
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単なるジェンダー論と思って読んでいたが、「言葉と近代的権力」との関係を「言説」というキーワードを中心に、しかし平易に説く本だった。おすすめ。
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要するに、いつの世も女性の振る舞いは批判されてきたのよって話。
昔の日本人女性に関する興味深い話が多い。
だが一番印象に残ったのは、おまけ的に出てきた「書生言葉」だったり……
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kinoppyで読了。
新書ということもあって、もうちょっと論拠が欲しいところもあったけれど、全体的に目からウロコだった。
明治以来の国語学者の言論なんかをみていると、学問的中立というか、思い込みを払拭することの難しさを感じる。
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本書を読むまでは、日本語の「女ことば」が自然発生的に生まれてきたものだと思い込んでいたが、それがきわめてナイーヴな考えであったことを知った。序章の例にあげられているように、現在もっとも典型的な「女ことば」は、翻訳書の女性言葉にこそ見られるものということになるようだ。例は『ハリー・ポッター』のハーマイオニのセリフなのだが、言われてみるとたしかに誰もこんな話し方はしていない。「言語イデオロギー」から「隠された男性性」、果ては天皇制へと論は展開するが、本書は言語学の立場からのジェンダー論として、きわめて示唆的。
しいて難を言えば、「女ことば」の将来像の展望がなかったこと。
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『ノルウェイの森』に影響されて、女ことばを使ってみた時期があった。
8類の本を読みたいなぁと思っていて、新刊のときに書店で見かけて気になっていたこの本のことを思い出し、図書館で借りた。
言葉とジェンダー論。
「日本語には、なぜ女ことばがあるのか。」を解き明かす。
『日本人の知らない日本語』で知った室町の女房詞に、またもや笑う。
ぱあてれ(神父)→ぱ文字、ぱ文字!
女房詞があること、近代まで男尊女卑との関係から女ことばは国語に含まれなかったこと、植民地支配のために内裏の関係から女房詞に光をあてたこと、戦中には女を臣民にして女ことばの存在を認めたこと、戦後には失われゆく戦前までの懐古から女ことばを擁護したこと。
「伝統は創り出される」(ホブズボウム、レンジャー)
女ことばはつくられ、つかわれたのだ。
それを意図的にやっていたのかどうか。
潜在意識でそうしたのであれば、それは性差だけでなく精神の問題にもなってくるんじゃないかなぁ、とぼんやり思った。
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カテゴリ:図書館企画展示
2015年度第1回図書館企画展示
「大学生に読んでほしい本」 第1弾!
本学教員から本学学生の皆さんに「ぜひ学生時代に読んでほしい!」という図書の推薦に係る展示です。
木下ひさし教授(教育学科)からのおすすめ図書を展示しました。
開催期間:2015年4月8日(水) ~ 2015年6月13日(土)
開催場所:図書館第1ゲート入口すぐ、雑誌閲覧室前の展示スペース
◎手軽に新書を読んでみよう
1938年に岩波新書が創刊されたのが新書の始まりです。
値段も分量も手ごろな新書は「軽く」見られがちなところもありますが、内容的に読み応えのあるものも多くあります。気に入った著者やテーマで探してみるとけっこう面白い本が見つかるものです。広い視野を持つために、興味や関心を広げるために新書の棚を眺めてみましょう。刊行中の新書を多様な角度から検索できるサイトもあります。(「新書マップ」)
◇新書で日本語を知ろう
分かっているようで分からない日本語。まずは知ることですが、難しく考えず日本語の本を読んで親しんでみましょう。大切なのは気持ちですが、誤解を招かない表現もまた大切です。大学生として、社会人として知っておいて損がないのが日本語の知識です。
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わたしは方言を話すけど確かに方言には明確な女ことばというものは存在しないので、本書で書かれている「女ことばはうまく利用された」という部分には納得。「ちょっとそれは本当なのか?」と思う箇所もあるんだけど、今使っている日本語を再認識することができてよかった。
当たり前だと思っている常識も実はそんなに古い歴史がないことだったりするし、世に蔓延してるマナー本がいかにくだらないかということもよくわかる。(他人に不快を与えないマナーというものは大切だけど)
フェミニズムの本なのかと思ったけどほとんど社会学的内容で、論文を下敷きに書かれてるからなのかわたしの頭だとすんなりわからないところもあって読むのに時間かかってしまった。古い本からの引用のところは特に難しかった。
(好きなところ引用)
最も有効な支配の形態は、特定の集団の利益となる考え方(イデオロギー)がその政治性を隠蔽した形で「常識」「知識」「当たり前のこと」として流布した結果、支配される人が自分から進んでその考え方に従わざるを得なくなることだとは、フーコーをはじめ、権力について考察する多くの思想家・歴史哲学者も指摘しています。/国というものが最初からあって、国民というものも他の国の人から明確に区別されていて、その国民が話す国語というものが最初からあったわけではないのです。むしろ、国家、国民、国語が一致しているという思い込みが、近代国家の形成にはとても大切なのです。/私たちには「国語」という同じ血液が通っているんだと宣言することで、日本中に散らばっている人に、日本という同じ国の国民だと実感してもらおうとしたのです。
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日本古来の文化かのように語られている女ことば。その「伝統」はどのように作られていったのか、言語学者が具体例を挙げて解明していく。
女性らしい言葉遣いを指南する本自体は鎌倉時代からあり、儒教の思想を下敷きにしたものだったという。はじめは「女は余計なことを話すな」とはっきり男尊女卑を打ちだしていたのが、徐々に「男性から求められる女性になりたくば、しとやかな言葉遣いを」という言説に変化していったという。とはいえ、それは輿入れに人生がかかっている貴族や武家の女性たちの規範であり、近世以前は階級と地域の違いに依拠する言葉遣いの差のほうが男女間のそれよりもずっと大きかったのである。
しかし明治期に入り、言文一致運動と共に女性が男性と同じく教育を受ける学生になったときに転換点が訪れる。同時発生した「書生ことば」と「女子学生ことば」を取り巻く言説の差異を、本書は丁寧に追っていく。女子学生の言葉遣いは当然書生(男子学生)を真似たものも多かったが、「てよ」「だわ」「なの」などの語尾は女子のコミュニティから自然発生してきた。21世紀の日本人がまさに女性らしい言葉遣い=「女ことば」と見なしているこれらの語尾の流行は、当時新聞で「女子学生の言葉遣いが乱れている」と嘆かれていたという。
"乱れている"が"新しい"女性の話し方は、当時の翻訳者によって西洋の女性の話し言葉を訳す際に流用された。そして現在に至るまで、最も典型的な女ことばを話すのは翻訳小説のなかの女性たちである。また、良家の出身である女子学生が恋愛に溺れ、没落するという筋の小説が流行した。そのなかにはポルノグラフィーも含まれ、男性にとって好ましいフィクション内で女性が喋る「女学生ことば」(≠女子学生ことば)が作りあげられていく。
その後は戦争によって家父長制が強化され、男女の役割が明確に分別されていくなかで、子どもを産み育てる女性は「真に日本人らしい」言葉遣いをすべきだとされていく。そこで女性にふさわしい話し言葉として選ばれたのは女学生ことばだった。「女ことば」の規範は大東亜共和圏構想によって東アジアの人びとへも押しつけられていく。かつて西洋人女性の話し方を翻訳するのにふさわしいと考えられていた口調が、「美しい日本語」として植民地教育に用いられたという皮肉。
しかしその構造に鈍感な人ばかりだったわけではなく、戦後すぐに女性の話し方を社会的にコントロールしようとすることは男女平等に反しており、女性を縛っているという批判が学者からでていたというのは驚きだった。しかしそれは「女ことばは女性本来の優しい気質から生まれた伝統である」という印象以上の何物でもない言説にやりこめられてしまい、現在まで「女ことばの伝統」は語られ続けている。
本書によって明らかになるのは、「女ことば」は人工言語だということだ。女性同士のコミュニティで生まれ、使われている言葉遣いはある。だが、そこから他者にとって好ましいものだけを抜きだし理想化した時点で、ことばは話者の手を離れている。同じことは「国語」としての標準語にも言える。方言があり、階級差もあるなかで「東京の学問をやっている中流以上の男性のことば」が���標準語」に選ばれた。その過程で周縁としての「女ことば」が確立されたのである。
映画や小説の翻訳で多用される女ことばに長らく違和感を抱いていた私の疑問に答えてくれる、そのものずばりの一冊だった。この本を読まずに女ことば問題を語っていた過去の自分を怠慢だと感じるくらい。やはり翻訳物の女ことばは、キャラクターとして強調したいのでないかぎり、前時代的な社会規範の再生産になってしまうのではないかと改めて思う。