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あとがきで、佐伯啓思氏ご自身が「本書で、うねうねとあぜ道を歩くかのように論じことを、もう少し体系的に論じたいと思うけれど…」と書いているように、読者の一人としては、自問自答の軌跡を歩かされた疲労感が半端ない
佐伯啓思氏は、あぜ道と言っていますが、一人の読者としての感想としては(実際には残りのページ数が少なくなっているのに)体感的には、いつまでたっても頂上に近づいていないように見える登山のようでした(ワインディングロードという意味です)。
…しかし、マイケル・J・サンデル教授の<正義>とは何か?という問いと同じように、答えのない(コンテキストによって変化せざるを得ない)課題に果敢に挑み、導き出した(現時点での)結論に向かって読者を誘うガイドとしての役割を果たしている。頂から見下ろす景色は、雲に阻まれ鮮明とは言えないけれども、達成感はありました。
私が持っている数少ない政治哲学関係の本であるマイケル・J・サンデル教授関連の本を再読します。
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自由主義の4つの形、市場中心主義・能力主義・福祉主義・是正主義がそれぞれに持つ善の構想、そしてそれらが相入れないこと、リベラリズム的自由と近代的個人観などの考察はこれまで漠然と疑問に思っていたことを説明してくれているようで、とても鮮やかだ。ただし、自由主義が相対主義に帰結してしまい、それぞれの価値観は対立してしまうことを逃れられないことについての解決策が、漠然としなかった。最後には義という概念を持ち出し、共同体における犠牲を受け入れる。偶然性を引き受けるという形に結論しているが、格差の問題をどう考えるのか、その辺の疑問が全く語られずに終わったことが残念である。
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自由にまつわるジレンマから説き起こし「個人の自由」について相対化した見方を提示した本。
自由と一口にいってもいろいろある。
・自然権として自由と国家の存在を前提とした市民の自由
・共和国を前提とした普遍的自由と多文化社会を前提とした多元的自由
そもそも自由というのが自由な言葉なので、XXの自由といえば、様々なところで互いに対立が起きるのは当然なのだが、問題は、自由という名のもとに、自由が抱えている規範がおそろかになってしまうということだ。
・・・・
と最後まで読んで、自由が個人の選択の自由であることを認めたうえで、実は、その背後に価値の問題を二層想定することがポイントであるいうのが斬新であった。一つは、「共同体としての善」によって個人の選択が評価されるということ。もう一つは、共同体を超えて、さらに「義」とでもよぶほかない価値に自ら殉じるという次元があるということ。この二つが導入されることで、リベラリズムだけでは、納得感のある答えにたどり着けない問いに答えることができる。テロ、援助交際、無差別殺人、さらには、自殺する自由。自由が規範とセットであるなど初めからわかっていたような気がするし、それは、結局こうした基本条件のもとに何をするか、ということが大事だと思えば、当たり前のことなのだが、いつのまにか、手段の目的化が進んでいるというのは、皮肉な話だ。
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執筆のきっかけを「(現代で掲げられる『自由』に対し、)あまりに違和感や不気味な感じを持たざるを得なかった」とし、その違和感の根源を「自由」への議論を通じて探った本。佐伯啓思2冊目。
冒頭、現代では人類共通の目標のように掲げられる「自由」に対して、イラク戦争を「フセイン政権からの解放(自由化/民主化)」とし正当化したアメリカを持ち出すことで疑問を提示する。
そこからリベラリズムの根幹である、何事も個人の自由を侵害すべきではないとする思想に対し、背景を探っていく。
君主による抑圧の時代において、自由は「抑圧からの解放」を目的とし推進されてきた。
概ね抑圧は去った現代でも、万人が理解しうるその背景を掲げたまま「自由」は推進され続けている。
目的を達するための手段であった「自由」は、いつの間にか目的になった。
ここに違和感の根源を指摘する。
自由主義の旗本において主観性を排除した市場競争は正当化されるが、しかしどんな政策であれ「誰が報酬を享受すべきか(『善』であるか?)」という道徳的判断が背景にあり、自由主義はその事実から目を背けていると批判する。
自由を唱えても、社会から是とする承認からは逃れられないだと。
自由は目的があって初めて論じられる概念で、目的として掲げてしまうと方向性を失った虚構となってしまう。
現代に跋扈する民主主義至上やフェミニズムは、この罠に陥っているのだろう。
その事実から目を背けるのは、欺瞞である。
「神は死んだ」と絶対的な存在を否定し、世界は人による仮構としたニヒリズムに陥ることは嘆かわしいことではない、しかし「自らがニヒリズムの世界に生きていることを自覚せず、自らの正義の絶対性を疑わない独善」は最悪のニヒリズムだと批判する。
軽率な「自由」の持つ違和感はまさにこれだろう。
批判はこの辺で、では自由に生きるには?という問いに対しては、どう存在するにせよ共同体に属することを自覚すること、その上で自分の成すべきこと(天命)を見つけること。
縛りがあって初めて輝きを持つ「自由」は、共同体の中でこと活きるとする。儒教の仁義と同じような思想。
個人の感想として、現代においては、国家よりも厳格ではなく小規模な共同体の「ポリス」を重要視し、ポリスの構成員として「善い」ことをすることを是としたアリストテレスの思想に立ち戻るのがいいのではないかと思った。
次は数ヶ月塩漬けにしてる「ニコマコス倫理学」を読もう…
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リベラリズムの立場をわかりやすく整理した上で、現在、私たちが自由に倦怠している理由を探ろうとする。全体主義への反省から自由な状況で、何を目的として生きるのかを議論できない状況が、かえって自由の意義を見えにくいものにしているという論旨。本筋とは違うけど、ハイエクやフリードマン、ロールズ、アマルティアセン、ドゥオーキンの立場の説明がわかりやすかった。
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「自由」は現代でも問題なのだろうか
自由は大事
→自由が侵害されているわけではない
「自由」への要求がさほど切実なものではなくなった
イラク人質事件と奇妙な「自己責任論」
自己責任とは
個人の自由そのものが国家によって支えられている
ディレンマに陥る自由
個人によって自由とは異なる
政府による何らかの介入があってはじめて経済活動の自由さえも可能