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投稿者:jupitorj - この投稿者のレビュー一覧を見る
★「自由の諸問題について」(『自由とは何か』を読んで)
より抜粋
全文は電子本「哲学の星系」に掲載されています。
「哲学の星系」の内容紹介の頁はこちらです。
◇リベラリズム
援助交際を否定できないものとするのが、リベラリズムである。リベラリズムは、「それぞれの国の社会や文化の相違を相互に尊重しあうという多元的な自由」(四八〜四九頁)を重視する。「どういう生き方をしてきたか、またどういう人生を送るかということよりも、そのつどの状況で、個人が自由に選択できるという条件を確保することのほうが優先されるべきだとみるのだ。あるいは『人の生き方』は評価し得ないがゆえにこそ、それを自由に選択し得る条件の方を重視する。」(一五〇頁)という立場である。
リベラリズムの主張の根拠に価値の相対主義がある。「価値についての判断は、人々が完全に合意できる客観的で普遍的なものは存在しない」(一五三頁)ので、「ある価値が正しいか間違っているかの客観的基準は存在しない。」(一五三頁)。従って、価値である「『善(good)』は客観的に定義したり表明したりできない。」(一五四頁)。「『善』について善し悪しを言うことはできない。」(一五四頁)ので、多様な善を保障する正義は、善よりも優位に立つ。これらについて検討しよう。
まず、事実命題を人間が評価・解釈・判断することで価値命題が生じる。評価・解釈・判断の基準が人間により異なれば、人間毎に違う結果が得られるであろう。しかし、評価・解釈・判断の基準が同じであるならば、客観的合理的推論を行うと同じ結果が出るだろう。では、人間の善について評価・解釈・判断の基準を同じにすることができるか。ソ連邦に見られるように可能であろう。しかし、強制することはできない。問題は、誰もが理性により合意できる客観的合理的な基準を持てるかということになる。
私は『新しい幸福の原理』で検討してきた結果、「自他の幸福の尊重」が善の本体であるという結論を得ている。「自他の幸福の尊重」を基準としたいと考えている。私が『新しい幸福の原理』で述べてきたことは論理の整合性や事実との符合により合理的に判断できる。また、そこで述べてきたことは人々が直ちに完全に合意できるものとは思わないが、一応、納得できるものだと考えている。そして、『新しい幸福の原理』に従えば、行為の善悪を一応、客観的に判断できる。また、そこで述べてきたことが人々の共有財産となり、人々の力で《幸福の原理》を磨き上げれば、完全な合意に近いものを得ることができると考えている。普遍的な価値として「自他の幸福の尊重」を機能させることができると考えている。
この立場からすると、『正義論』で述べたように正義とは「善に比例して利益を与え、悪に比例して不利益を与えること」だから、正義は善に従属することになる。
「自由な社会には、どうしても『慣習』や『常識』がなければならないのである。さもなくば、社会は全体主義かアナーキズムかのいずれかに陥ってしまうのだ。」(一六五頁)この慣習や常識の力が弱くなっているのが、現在である。新しい《幸福の原理》をこの慣習や常識を支える力として使用したい。
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自由という言葉は、私個人にとっては、どちらかというと嫌いな言葉である。
過度に自由が抑圧されているという事であれば、自由に価値を見出すのは理解はできる。しかし、そうではないということなら奇妙な感じがする。それは思うに、自由以外に価値を感じる事ができなくなったのではないか、などと私は勘ぐってしまう。
佐伯氏はイラク人質事件の事を引き合いに出し、自己責任について語る。そしてその事件から、その個人の自由は政府、国家によって支えているということになる、と述べる。
どういうことかと私なりに説明すると、たとえ個人の自由意志だからといって異国の地に銃弾が飛び交う危険地帯に侵入しても、それを自己責任だからという理由だけで国家が放置してはならないという道義的な理由が生じる、という事だ。
「自己責任」といっても、必ずしも「自己のみ責任」にとどまるというわけでは無いわけだ。自己責任といっても、とある何かに波及していく。
自由によって秩序が支えられている面もあるのだろう。だが、一方では自由によって秩序が脅かされる一面もありうる。そのように考えれば、個人に自由をどこまでも委ねる事はできないであろう。
ホッブズは契約論において、自然状態において人間は無制約に自由であり、社会状態では人間は権力に服する限りで自由な活動ができる。そのような事を言ったのだという。
だがこの場合はどうなるかといえば、人間は私的利益を求め、公的事項に携わらなくなる。だからそれでは、個人の自由による弊害が生じ、「国家の論理」と「個人の論理」の対立が生じる。そうならないために、佐伯氏は「公のために何かしなければならない、というエートスがどうしても必要となる」のだという。
本書は「自由とは何か」と題される。自由というものを考える上で、参考になる本だと思う。
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「今、あなたは自由ですか?」と聞いたら、多くの人が「多少のしがらみはあるものの、概ね自由だ」と答えるだろう。この本のような「自由」とは何かを論ずる本は巷に溢れているが、どれもいま一つリアリティを持って立ち現れていない。それは恐らく、筆者の言う消極的自由という概念がいまいち認識されにくいからではないかと思う。結局のところ、公共空間での話を個人レベルにまで落とそうとするから無理が生じるのだと思うのだが。でかい枠組みで捉える分には構わないが、それをどこまで敷衍できるかというと、疑問
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自由とは何か。責任とは何か。
イラク人質事件などの話をもとに「自由」「責任」「国家」などについて考察。
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なぜかamazonで検索しても出てこなかった。
京都大学での講義をまとめたもの。
自由意志と決定論という理系的な文脈でしか自由についての議論を読んだ事がほとんどなかったけど、この本でおぼろげにしか理解していなかった人文系の自由に関する考えに触れれてよかった。
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俺は自由だろうか
俺は自由だろうか
俺は自由だろうか
俺は日に3度そう確認する。
などということはないが、たまにそう考えることならばある。
僕は自由であることが好きだ。
責任、とか、義務、とかそういう言葉も
嫌いなわけではないがどこかかったるい。
自由に生きているだろうか。
幼稚園からお坊ちゃま私立校に通い
周りの望むがままに某国立大学に入った。
自由にしているだろうか。
周りがあわただしくなってくる中で
一人のほほんとしている。
資格を取ろうともしない
特に何かに打ち込むわけでもない。
自由にしているだろうか。
「右腕をあげてください」
あげられましたか?
あるいは、はむかってあげないこともできたでしょう。
しかし、あげて、かつ、あげないことはできない。
あなたは、あげることが(あるいはあげないことが)決まっていた
そういわれたらあなたは反論できるだろうか。
私たちは自由にしているといえるのだろうか。
あるいは、自由な意思など存在するのだろうか。
そんなレイヤーとは少し違うところの話だが
自由に関して話している人がいる。
例えば、これだ。
自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書 680)
作者: 大屋雄裕
出版社/メーカー: 筑摩書房
発売日: 2007/09
メディア: 新書
ゼミの課題。(まぁ何週間かあとですけど。)
先生が言うように、いろんなところに話が飛びすぎている感じがあります。僕のBlogのようですw
とりあえず、書き方は評価できる、というか・・・
感情を鼓舞するようなことを書いて、議論とは関係ないところで
うまいこと誘導しようとしている感があるという点で
まぁ、評価できるw(皮肉ではないですよw)
議論的には、バーリンの話をひいたり
排除系オブジェの話をしたり
現状認識としては、東さんの「情報自由論」とかと近いかな。
ただ、法の話がエッセンスとして加わっているのと、
話の方向性が違う(結論が違う感じ)
これは、まぁ、価値観の違いでしょう。
僕の立場を表明するならば、
慎みあるリバタリアニストとしての
リベラルですw
はっきりリベラルといえるほどには、
他者に寛容ではいられないけれど、
他者に寛容でない世界は(監視社会も含めて)
息苦しすぎる。
皆様にとってはいかがでしょう?
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啓蒙的
価値観フリーな社会制度などありえないと主張
個人主義の相対化を志向
「自由は「善」に依存している」
抽象的に抽出された理論的な個人ではなく、再び経験的な個人に戻る必要がある
自由は手段であって目的ではない
共有できない主張
善と義の違いがイマイチわからない、同じことを言い換えただけでは
道徳的という言葉を定義不明確のまま使っている
「犠牲の状況」(誰かを犠牲にしないと全員死ぬ)ではじゃんけんしては
価値観を主張した文章で「われわれ」という言葉を使われると戸惑う、いや君とはちがう考えなんですけどみたいな
現実から出発しろというが、自己への評価が一枚岩でないという現実についてはどう考えているのか
I was born的にこの世に生まれた人間に対して、死者に対して責任を負っていると言われても困るのでは
→責任から逃れるためには死ぬしかないが、それは「善」と反するから認められなくなる
→生きていることに感謝している「幸せな」人間しか共有できない
なすべき使命は社会的与件によって与えられるべきではなく、自己によって与えるべき(それがたまたま社会的なものと一致することはありうる)
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自由というものについて知ろうと本書を読み返した。
自由というものは、「義」を求めて不断の努力を続けるためのただ単なる手段であることを教えていただいた。
佐伯先生の深き思考に感謝!
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アポリア>解決しがたい哲学的難問
積極的自由の実現は、ある種の全体主義を目指すという帰結を導きかねない
個人が多様なものの中から「主体的」に選択するという現代の自由を、バーリンは「自由の重荷」といった。主体や選択や多様性は、ある限度を超えるとむしろ個人にとっては「重荷」になってしまう。
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卒制のテーマを絞ることができたきっかけの本。
現在のリベラリズムは自由を手段ではなく目的としてしまっている。これが、自由に対して私たちが希望を持てない理由だ。
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[ 内容 ]
「個人の自由」は、本当に人間の本質なのか?
イラク問題、経済構造改革論議、酒鬼薔薇事件…現代社会の病理に迫る。
[ 目次 ]
第1章 ディレンマに陥る「自由」
第2章 「なぜ人を殺してはならないのか」という問い
第3章 ケンブリッジ・サークルと現代の「自由」
第4章 援助こうさいと現代リベラリズム
第5章 リベラリズムの語られない前提
第6章 「自由」と「義」
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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自由という価値を無条件にまつり立てることに対して警鐘を鳴らすこの本は、タイトルの通り「自由とは何か」考えるきっかけを与えてくれます。全6章からなりますが、どの章も内容が濃縮されていて、読みごたえがあります。
著者は、自由を盲目的に礼讃することへと至ってしまう理由として、善い生を営むための自由という手段が目的化されてしまうことを挙げています…まさにこれは、現代社会における自由を再認識する上で基本的なことではありますがとても重要な問題でしょう。
個人的には、人生における失敗やうまくいかないことの合理化がこの手段の目的化を引き起こしてしまうのではないだろうか…と読みながら考えていました。よく言われることですが、ゲームのようなバーチャル世界とは違い、われわれの人生には「リセット」ができません。なので、選択を誤ってしまい後悔することも、何かをやる上で失敗してしまい他人に迷惑をかけたり非難されたりすることもあるわけです。このとき、しばしばこのことを引き受けきれず、そのプレッシャーから逃れようと目を背けたり開き直ったりします。「自由だから云々」と言い訳をして。しかし、本当に善い、幸福な人生を送るためには、そのことと真摯に向き合い応答することなのかもしれません。
…なんて、口では何とも言えますが…そういうことを考えさせらる良書でした。
一つ引っかかったのは、第6章での「義」や「犠牲」についての話です。もうすこしいろいろな視点からの意見が知りたかったです。
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今でこそ自明の理として扱われる「自由」について論じた本。思えば「自由」という言葉ほど頻繁に人の口の端に上るのに、それが何なのか論じられない言葉も少ない。
「自由」を考える上での最大の難問は、ディレンマに陥りやすいこと。例えばアメリカが「イラクの文明化」を掲げて同国の自由のために干渉したことは「自由の強制」であると言える。「自由」を押し付けるのだから自己矛盾である。
また、「○○への自由」という積極的自由を徹底的に追求すれば全体主義に、「◯◯からの自由」という消極的自由を追求すると、自己中心主義や排他主義に陥りがちである。○○に入るのは個人の情緒を反映した価値観であり、価値観の相対化を図るリベラリズム(自由主義)に基づいて考えると、何でもかんでも「どっちもどっち」になってしまい、自由の判断の妨げる。
「自由」という概念は、近代ヨーロッパにおいて自由な個人が国家や社会に先立つものとして「発見」されたことに根差しています。そのため近代国家は国民の安全に対して当然に責任を持ち、権力を行使して自由な個人を支えるものと理解される。
数年前にイラクで三邦人が人質となった事件があった際、「自己責任論」が人口に膾炙しましたが、著者は国家が「自己責任」を押し付けるのは国家が国民に対する責任を放棄したことに他ならず、そのことによって国民の自由を蹂躙することになると主張する。
国家と個人との関係を考えれば、政治家や公務員が自己責任論を主張することは自らの責務を否定する自家撞着である。
現代人は「自由への倦怠」に陥っているとされる。これは昔のように命懸けで抵抗すべき政治的抑圧や道徳的規範がなくなり、自由に対するイメージも稀薄化したことが発端である。
現代のリベラリズムは「多様性を保証するための平等な権利としての自由」を中心としているが、それでも自由への倦怠は止まらない。寛容と多元性を志向するはずの自由というものは、飲めば飲むほど喉を渇かす塩水のように、求めれば求めるほど不寛容と一元性へと収斂していく。
そのような自由のパラドックスをどのように克服すればいいのか。著者はそれを多様な「義」を承認することであると主張する。アメリカ軍もイスラーム過激派も自らの「大義」を唯一絶対と考える独善性を孕んでいる。
そのため両者の調停をするには、互いの「義」を承認しないわけにはいかない。自分の確信も相対的なものの一つに過ぎないことを自覚することが多元性につながる。リベラリズムもその例外ではない。
「自由」の起源やリベラリズムの抱える矛盾や難問について考える上で必読の書。自由が尊いのは言うまでもないが、それよりも寛容さや多元性を尊重したいと改めて思った。
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▼私たちが求めている「自由」とは何か。いざ考えてみると内容もハッキリとしない。
▼それは「正義」とも関わりの深い概念なのかもしれない。だが、正しさは個々人の価値観からは自由になれない。そしてそれは相対的で、つまり、「悪」との境界線は限りなくあやふやである(そして、誰もが、その自覚の有無に関わらず「悪」を内包しているのだろう)。
▼相対的に全てが「正しく」自由だとすると、つまり、絶対的な「善」が登場してしまう。それこそ、ウェーバーの言う「神々の闘い」の状態であり、ハンチントンの「文明の衝突」さえ具現化されてしまいかねないだろう。
▼「自由」であること――そこから生じる「責任」とは、死者への「責任」である。私たちは偶然性の中で生きているのだ。自らの「死」までの時間をいかに生きるべきかを考える「自由」、そこには、偶然生まれた社会共同体のため、考え、中庸を選び取り続ける「責任」があるのかもしれない。
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アリストテレスから、カント、ロールズ、ミル、バーリン、ベンサム、ウィトゲンシュタイン、ニーチェ、サンデルまで古今の哲学者を引き合いにだし自由とはどのように考えられてきたのか述べている。サンデルの『正義とは何か』を自由という視点から考えていると言っても良いかも知れない。
自分の理解の及ぶ範囲で要約してみる。
現代では「何故人を殺してはしけないか」「何故援交をしてはいけないか」といった問いに明確に答えられなくなっている。個人の選択の自由と言ってしまえばそれまでだからだ。
その価値観の基礎にあるのは個人主義、主観主義、相対主義を前提とするリベラリズム(自由主義)である。何を善いと思うかは個人の主観であり、それらに優劣を決めることは出来ない。ならば個人の自由な選択を保証し、平等な権利として認めることがリベラリズムの基本である。
しかし、著者はこうした「個人の選択の自由」を普遍的な権利として推し進めるリベラリズムの風潮(アメリカの掲げる正義は主にこれに由来する)に懐疑する。
自由とは本来何かを行うための手段であるからだ。しかしすべての価値が相対的となり、共通の目的を持ち得ない現代では手段である自由それ自体が目的化してしまう。それはニヒリズムの最悪の形態である。
個人は生まれ出た共同体とは独立に存在する普遍的な存在(負荷なき自己)ではなく、ある共同体に埋め込まれ時代、国家、家、性、人種などの属性を持つ「状況づけられた自己」である。
古代ギリシャではポリスにおいて徳を発揮しポリスに貢献し評価されることが善く生きることでもあった。
また著者は人が時として生命よりも優先させるものとして「義」を挙げた。赤穂浪士の討ち入りやソフォクレスの悲劇『アンティゴネ』などは共同体や時代を超えた義によって動かされていたのだと言う。(主人への忠誠、家族への愛以外にも様々な形の義があり明確に定義できるものではないとも述べている)
著者の結論は自由は多層的に論じるべきでありそれは①個人の選択の自由だけでなく、②共同体を想定した「社会の是認、他者からの評価」③義に叶うという3つの次元であるという。
そして価値相対主義によってニヒリズムに陥るのではなく、多様な義を認め多元性を容認する方向へ向かうことが重要だとしている。