紙の本
自由とは、不完全な人間が選択する責任である。
2009/09/20 12:41
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投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
絶望やら熱狂の中にあってその先に現れる世界を予見するには、
それまでの歴史という事象に対する洞察だけでなく、人間という生物への
理解、そして人間が生きていく上で欠かせない言葉というものの本質に
分け入っていかないと何を語ればいいのか見出せない。
1942年、まだアメリカがヨーロッパ戦線に参入する前に書かれた本書は、
ドラッカー32歳のときの渾身の1冊で、その後のドラッカーの仕事の基盤を
為し、戦後社会のあるべき姿を支えた1冊であると言っていいと思う。
社会が機能するには、一人ひとりが「位置」と「役割」を与えられ、権力が
正統性を持たなければならない。これが本書の中心的なメッセージだ。
個人にとって、社会に位置と役割がなければ、社会はないも同然。
そして失業という社会的疎外は、経済的な救済では癒されない。
ドラッカーがこの後、産業社会の発展のために企業という人間組織に
分け入っていく問題意識がここにある。企業は利益を出すことが目的では
なく、人間に位置と役割を与えるために必要な存在なのだ。
そして産業社会は発展した。発展しすぎたといってもいい。
では、今の社会に必要な選択とは何なのか。
本書の白眉は第6章。
自由というものの本質を取り上げているこの章には、こんな言葉がある。
「自由とは責任を伴う選択である。」
あるいは自由をこんな風にも言っている。
「自由とは人間自らの弱みに由来する強みである。自由とは真理の存在を
前提とした懐疑である。」
完全ではない人間が、完全ではないが故に希求すべきもの、それが自由。
ともすれば自由を捨てて絶対的なものの庇護を求める弱い人間の存在を
認めながら、絶対的なものがないからこそ、責任を持つために自由が必要。
今の社会に必要なものを選択するのは不完全なわたしたち。
産業社会が最初にはじけたわたしたちの使命は、産業資本主義社会を
再構築するために、一人ひとりに位置と役割を与えられるような生活、
労働、消費、そして投票を、自らの足場で継続的に行うことである。
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「その権力はもはや財産権から委譲されたものではない。いまや、経営陣の権力はそれ自体が本源的な権力である」
発表されたのが1940年代、たぶん第二次世界大戦後すぐぐらい。今回もたくさんの全体主義批判。ドラッカーは戦時中での全体主義的な社会の中に、権力の根拠の移り変わりを見たんだろう。ゆえに株主の財産権とは明確に分けられている「経営」という権力機構を考察し始めたのだろうと思う。やはり難解だ。でも、なんとなく勉強になる
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第二次大戦中に書かれた本で、前著『経済人の終わり』の続編とも言える本かと思います。戦中であることの影響を大きく受けて書かれつつも、戦後の世界の規範を「自由」に求めた大きなスケールの内容です。
本の帯では、社会における位置と役割と正統性がメインテーマのように書かれていますが(確かにそれもテーマですが)、それよりもまずは「自由」についての本だと思います。ここでドラッカーの言う「自由」は楽しく自由気ままというものではなく、「自由とは解放ではない。責任である...意思決定と責任が伴わなければ自由ではない」と定義される「自由」になります。この「自由」の概念の元、「自由」を伴わない、もしくは「自由」を自ら放棄した全体主義や社会主義を根本的に否定します。そして、その「自由」が成立するための土壌となる歴史やシステムを持つアメリカを戦後の中心とならないといけないとしています。そして自由な産業社会を築くために、「われわれは分析においては革新的、理念においては理想的、方法においては保守的、行動においては現実的でなければならない」と鼓舞します。そのために、この戦争を建設的な政治行動にとって絶好の機会としなければならないとしています。また、その中心となる企業を重要なコミュニティとして捉えていますが、この辺りは後の日本びいきにつながるところが見えるのかなと思います。
今日的な価値は当時と比べて薄まっているかもしれませんし、「自由」の基盤にキリスト教を布置しているところも個人的には共感しずらいところがありますが、よい本かと思います。
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[ 内容 ]
一人ひとりが「位置」と「役割」を与えられ権力が「正統性」をもたなければ、社会は機能しない。
反中央、地域志向、反教条主義の「自由」を保守すべき根拠を掘り下げ、第二次大戦のただ中、戦後世界が「産業社会」になると予見し、その青写真と、米国の使命を明快に論じきった堂々の力作。
生涯を貫く問題意識と方法論を知る社会改革への野心作。
[ 目次 ]
第1章 産業社会の行方
第2章 機能する社会とは何か
第3章 一九世紀の商業社会
第4章 産業社会における権力の正統性
第5章 ナチズムの試みと失敗
第6章 自由な社会と自由な政府
第7章 ルソーからヒトラーにいたる道
第8章 一七七六年の保守反革命
第9章 改革の原理
[ POP ]
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[ 関連図書 ]
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007『産業人の未来』、ダイアモンド社、P・F・ドラッカー
20100220読了
読書目的
①前著「経済人の終わり」で提起した19世紀型社会に代わる新たな秩序の具体的回答を知る。
②ドラッカーの幅広いものの見方(政治、歴史、経済、社会、思想)の方法論を学ぶ。
ドラッカーの2作目で、第二次世界大戦の最中である1942年に刊行。以前書評で紹介した『ドラッカーが描く未来社会』は、処女作「経済人の終わり」と本書はセットで”ドラッカー思想の原点に位置付けられる著作”としており、その点から「経済人の終わり」の次は是非、本書を読みたいと思っていました。また翻訳者でドラッカーの分身と呼ばれる上田惇生氏は、『ドラッカーの著作のなかでも、最も面白く、最も知的興奮を覚える』とはしがきで評しています。この点からも、本書に強い興味を持っていました。
【本書の目的】
自由な社会としての産業社会をいかにして構築するかを提示する。そして、第二次世界大戦の目的が何であり、その意味が何であり、とるべき問題解決方法がいかなるものであるべきかを提示する。重要なことは、機能する産業社会を実現するため、自由な社会と政治が必要であることを認識することである。
【社会についての一般理論(機能する社会とは何か)】
社会とは、一人ひとりの人間に対して「位置」と「役割」を与え、且つ社会権力が「正統性」をもって初めて機能する。前者(個人に対する「位置」「役割」の付与)は、社会の目的の意味を規定し、後者(権力の「正統性」)は、社会を制度化し、諸々の機関を生み出す。
【自由とは何か(自由な社会と自由な政府)】
自由とは、“責任”を伴う“選択”である。絶対真理の下とでは自由はあり得ない。したがって自由な社会は、人間が基本的に不完全な存在、そしてそれ故に選択に責任を伴う存在であることを認識しなければならない。個人の自由は、個々の責任ある意思決定を行う権利と義務をもつ一方で、社会に対しても責任ある意思決定を行う権利と義務をもつ。
又、人間は不完全であるが故に何らかの統治が必要となる。それが政府である。自由な政府とは、市民一人ひとりが、自治に対し責任をもって参画することが不可欠である。つまり自由は、政治の領域における自由な政府と社会の領域における自由な秩序が、互いに牽制し合ってこそ永続し得る。
【時代背景①―産業社会の台頭】
19世紀の西洋社会は、商業中心の社会。商業中心に一人ひとりを組み込むことで社会的な位置と役割を与えた。又、財産権を商業社会の支配力とし、財産権をもって権力の正統性の基盤とした(経済人の概念)。一方産業革命以降、産業が徐々に主流となり、社会の中心を構成するようになった。その特徴は、大量生産と株式会社であった。この時点で課題は、社会基盤が産業社会となりつつあるのに対し、信条や価値観が商業社会のままであった点にある。
産業社会の台頭は、二つの変化を生んだ。一つは、自動化・機械化により、今まで必要とされていた熟練労働者がいなくても大量生産が可能となり、未熟練労走者が労働力���中心となった点である。しかもこの大量生産方式は、労働者に作業の標準化、無個性の労働力を必要とした。その結果労働者は、産業社会において位置と役割を持たなくなった。もう一つの変化は、商業社会ではあり得なかった慢性的失業の発生である。失業は単に生計の資を失うだけでなく、社会としての位置と役割を奪うことを意味した。
そのような中、第一次世界大戦と大恐慌が発生し、商業社会の価値観が崩壊し、社会として機能しなくなった。
【時代背景②-全体主義(ナチズム)の台頭】
社会が機能しない混沌とした状況で、全体主義(ナチズム)が台頭した。ナチスの目的は、位置と役割を持たない産業社会の人々を組み込むことである。ナチスは、党組織と軍を意味ある組織として位置と役割を与えた。そして商業社会を敵とみなし、その代表である上層ブルジョア階級(銀行家、自由業)を標的とした。したがって、ヨーロッパにおいてこの階級を占めていた非アーリア系やユダヤ人を標的したのは当然の帰結であった。
又ナチスは、党組織と軍を正当化するため、侵略主義と軍国主義を教義とした。そして自由を否定し、戦争へ進んでいった。
【ルソーからヒトラーへ至る系譜】
19世紀の自由は、啓蒙思想とフランス革命が影響を与えたとされており、そのことは否定できない。しかしその影響は、むしろ否定的なものである。啓蒙思想とフランス革命は、自由にとって敵の役割を果たした。基本的に理性主義のリベラルは、全体主義者である。
あらゆる全体主義は、理性主義的リベラリズムから発している。ルソーからヒトラーまで系譜を追う事ができ、その線上にはロベスピエール、マルクス、スターリンがいる。
理性主義は、絶対理性の完成を人間に行わせることに矛盾が生じ、政治的には必ず不毛に陥る。その結果、理性主義は捨て去られ、絶対主義、全体主義、革命家へと転化する。ルソーは、啓蒙思想の理性主義が崩壊の危機にあった時、個人の理性の代りに「一般意思」(社会契約論)を唱え、非合理な絶対主義に身を投じた。マルクスは、理性的絶対の代りに、人は階級によって規定されるという非理性的な原理を宣言した。
【アメリカとイギリスが用いた保守主義の原理】
アメリカの独立は、理性主義と啓蒙思想の専制に対する自由のための保守反革命であった。アメリカの独立は、イギリス国王を破ると同時に絶対主義そのものを破った。一方イギリスは、1688年の名誉革命の後、立憲政治が再建されたが、その後は形骸化し、啓蒙専制主義に陥りかけていた。しかし、アメリカの統治失敗で国王は力を失い、専制主義は頓挫した。こうしてアメリカとイギリスには、統治される者の同意が政府権力を制御する仕組みが生まれた。さらに、社会的領域の支配と政治的領域の統治の分離を信奉した。社会的な革命も、数十年に及ぶ内戦も、全体主義による圧制も経ずに、新しい価値、権力、絆を手に入れた。自由で機能する社会と政治を生み出すことで、全体主義による革命を抑え、且つ全体主義に巻き込まれることなく、社会を発展させた。
【自由で機能する産業社会】
機能する産業社会が成立する条件は、①産業組織すなわち企業に働く一人ひとりに対し、「���置」と「役割」を与えること、②産業組織すなわち企業内の権力の正統性を、社会的・政治的基盤として認められるようにすること。
自由な社会が成立する条件は、①政府の権力を制御し、且つ一人ひとりが責任ある参画を実現し、政治的な自由を確保する、②社会の中心領域で、一人ひとりの責任のある意思決定を基盤とする、③政治的な統治と社会的支配を分離・並置し、互いに均衡しあうようにする。
また戦時における統制の拡大は防ぐべきである。中央集権の官僚主義を抑制し、自治による組織、マネジメントによる組織が必要である。
労働者と経営陣、生産者と消費者が戦争に勝つという目的で結びついている今こそ、これを始める必要がある。
【感想】
正直な感想は、「とても疲れた」です。理解するのに「経済人の終わり」以上に時間と費やしました。ドラッカー作品は、政治、歴史、経済、社会、思想等、多方面に渡る内容が網羅され、大変読み応えがあります。ドラッカー作品を読破し、理解し、書評にまとめることは、私にとっては、かなり『背伸び』した行為でした。
しかし、これは決して否定的な意味で言っている訳ではありません。ドラッカー著作を読むことは、彼の深遠な知性に触れ、自らの「ものの見方」、「ものの捉え方」を鍛錬しているという実感があります。又【ルソーからヒトラーへ至る系譜】で書かれている内容は、かつて世界史で学んだ事とは異なる見解も多く、歴史の面からも、大変興味深く読み進めることができました。
「産業人の未来」で、産業社会が機能するため、企業経営の原理と労働者の位置付けを明確にすることが重点課題となりました。これがGM分析を行った第3作目「会社とは何か(会社という概念)」に結実しているようです。この作品も是非、読破したいと思います。
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正直ショックだった。
今の日本に読み替えられると教えられて読んでみた。
確かに民主党政権がダメな理由が述べられているし、ニートやフリーターの問題についても読み取れる部分がある。1942年の著作に現代に通じることが書いてある。
次は「傍観者の時代」だ。
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経済人は終わりだけど、産業人には未来があるということか。当時の経済人と産業人の違いを理解したうえで挑戦したい本だけど、あまり読みたいとも思わない本でもあります(^^;
読んでいてチャップリンのモダンタイムスの一幕を思い出しました。資本主義社会の中で会社では人間の尊厳が失われ機械の一部の歯車のように働くようになっていることを笑いで風刺していますが、最後は自由な生活を求め旅立っていきます。そんな映画が流行っていた時代、人々に魅力的な生き方、働き方を提示できるかいなか、つまり、個人がその社会の中で「位置と役割」を持てる社会かどうか、と述べています。
たぶん(と言うのは本書から明確には読み取れなかった)そのためには個人にも自由と責任が伴うということだろう(正確にはドラッカーの言う自由には責任が含まれているので、併記するのはよくないのかな)。
自由とは解放でもなければ、幸福でも安定でも平和や進歩のことでもなく、「責任を伴う選択である」と説いています。つまり単なる選択の自由は自由とは言わず、選択することにより責任が伴うことを自由と言うということです。
そのために戦後社会において、自由で機能する産業社会を構築しなければならないわけで、ひとりひとりの人間が明確極まりない社会的地位と重要な社会的役割を持つという現実を産業社会の形成に役立てなければならないということらしい。
だから何なんだ(笑)って叫びたくなります。
自分なりにいいように解釈するなら、経営者は社員に、その会社での本人にとっての意味ある位置と役割を与えることが重要だということだろう。そしてそれは自由で保障されていると。自由と言うのは選択の自由であり、選択するということは間違った選択もするということだろう。間違った選択をしてもよりよくする「責任」が伴うということなんだろう。その自由のもとで働く意味を見出していくことが産業人の未来と言うことなんだろうなあ。
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経済人の終わりと同様に社会学の内容。産業社会では、個々人が責任を持ち、正当な権力を持つべきという産業社会の姿を述べている。正当な保守主義の変遷を踏まえながらの記述で、勉強になる。こういうの勉強したことないので。
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産業社会の特殊理論と社会についての一般理論について、若かりしドラッカーが著した名著である。
第二次世界大戦期、アメリカの参戦直前に上梓された本著は、当時の状況からして戦争とともに自由社会と自由経済が終わるだろうと一般に思われていた時代に、「戦後社会に何を期待するか、そのためにいま何をなすべきか」という問題を提起し、戦後は輝かしい産業社会が到来すること、そして経済発展があることを予見していた。
現在本著に掲げられている産業社会とわれる時代を通り越し、さらに次にポスト産業社会さえ抜け出している。なおかつ資本主義社会を通り越し、ポスト資本主義社会とドラッカーが名付けた時代にいる。
だが個々の人間と社会との関わり方はポスト資本主義社会特有の問題ではないし、ここの人間の位置と役割に関わる問題は社会の一般理論に関わるので70年前の本著の見通す社会理論は意義深い。
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社会における「位置」と「役割」を明確にしなければ、社会は機能しない。会社もしかり、介護現場もしかり。
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ドラッカーの2作目。1942年、第2次世界大戦のさなかに、戦後の社会を構想している。
ドラッカーによると「識者と友人の多くが本書をわたしの最も優れた著作としている」らしい。
訳者の上田さんによると「本書は、ドラッカーの著作の中でも、最も面白く最も知的興奮をおぼえさせられるものである」とのこと。
1作目の「経済人の終わり」も驚いたが、こちらはさらにスゴい。
ドラッカーは、まだ経営学者ではなくて、社会経済政治の評論家(?)みたいな感じ。
近代の啓蒙主義、理性主義は、全体主義になる。つまり、「これが正しい」とすると、違う意見の人は間違っていることになる。ここには、自由はなく、善意から始まった活動は、最終的には恐怖政治につながる。
全体主義、世界大戦は、商業社会が産業社会に移行する道が分かっていないから。経済利益を中心とする社会から人間中心の社会に構造転換をしなければならない。それは戦後にやるのではなく、戦争中から始めないといけない。
みたいな本かな?
32才の人が書いたとは思えない、深い洞察。圧倒的な教養の厚み。
これは天才ということも超えているな。
個人的には、全体主義と個人の関係みたいなことを最近考えていて、それと関係してハンナ・アーレントを読んでいるのだけど、ドラッカーとアーレント、思考プロセスは違いそうなんだけど、たどり着く結論部分はかなり似ている。
この本は、アーレントの「革命について」(1963)の議論を先取りするような中身になっているな。
理性中心の啓蒙主義、これが正しいというものがあるという思想は、既存の社会を破壊すれば、歴史の必然(?)や人間の本質(?)から、自ずから正しい社会がでてくるだろう、と善意で考えて、革命を起こす。が、結果、うまくいかず、恐怖政治になっていく。
一方、人間の社会には単一の正解はないと考えれば、人間の自由が尊重された社会となる。(違う意見には、ちょっとイライラすることもあるでしょうけど)
ちょっと単純化しすぎているかもだけど、ドラッカーもアーレントも、アメリカ革命とフランス革命を比較することを通じて、こんな感じの結論にたどり着いている。
あと、フランス革命やロシア革命が、理性主義、啓蒙主義から生じて、恐怖政治になったという流れは分かり易すく、アーレントも同様の理解をしているところ。が、ナチも理性主義から出てきているというドラッカーの見解は、かなり驚き。
ナチといえば、大衆のプロパガンダがイメージされて、反理性主義という感じなんだけど、これは、心理学とか、生物学とか、つまり、身体や心を科学的に取り扱うところからでてきているということ。このへんのところは、なるほどと思うところと「?」が残ることなのだけど、いずれにせよ思考を活性化させる本ですね。
強引にまとめると、
・社会経済が産業化して、生産の自動化、大量化、効率化が進むことによって、人間の仕事の単純化や失業の増加が生じる。これらによって、いわゆる「疎外」が��じて、人間は社会における位置づけを失う。(ここまで、マルクス、アーレント、ドラッカーは同じ見解)
・しかしながら、この状態を一つの正しい理論で合理的に解決することはできない。それは全体主義、恐怖政治につながる。社会の基盤は、人間の不完全性、多数性にもとづくことが必要である。(ここまで、アーレントとドラッカーは同じ見解)
・すでに生じている産業化から昔に後戻りすることはできない。全体主義社会は、産業化の問題を、戦争という目的にむかって、統合、解決したが、これは普遍的な解決にはなりえない。産業社会を運営するポジティブな目的が必要である。そして、その解決策は、今、存在するものを活用してやっていくしかない。(これから全く新しいツールをつくることはできない)経済的利益中心の世界から人間中心の世界に変革し、人間に社会的な目的とポジションを与えていく鍵は、企業である。つまり、企業のコミュニティ化が必要である。(ドラッカーの見解)
お〜、これは「学習する組織」の考えと一緒ではないか。そして、「強み」にフォーカスするポジティブアプローチにも通じるかも。
あと、ドラッカーがマネジメント関係の本で、利益は企業存続の条件であるが、目的ではない。企業は社会、顧客に価値を提供する、貢献する存在である、という考えをよく書いているけど、その背景の思想がクリアになった感じ。
つまり、ドラッカーは、その後の経営学を先取る概念を次々と出しているのだけど、その目的は、企業が競争優位を築くことではなく、企業が人間的な社会に貢献できることだったんだ!!!
自分のやっていることが、なんか壮大な歴史的なパースペクティブのなかで、意味が通じた感じ。