紙の本
マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日
2003/07/08 09:30
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投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
笙野頼子が芥川賞を受賞した短篇で、冒頭から勢いに乗って現実からはみ出していく。
「去年の夏頃の話である。マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日、当のマグロともスーパージェッターとも判らんやつから、いきなり、電話が掛かって来て、ともかくどこかへ出掛けろとしつこく言い、結局海芝浦という駅に行かされる羽目になった」
もうここから読者を選んでしまう。しかも、ここから始まるのは、物語ではなく、すれ違う言葉たちの洪水なのだ。唐突な冒頭の文章の固有名詞、「マグロ」「スーパージェッター」「海芝浦」などは、普通なら与えられるはずの言葉の意味や奥行きではなく、新たな言葉を生み出す装置として現われているように見える。
この短篇を覆っている言葉の狂騒的な噴出と、なんらかの終局に到達しない横滑りぶりは、とにかく面白い。冒頭から続くのは三十頁ほどの電話の主との掛け合いなのだが、電話の主の正体は不明である。最初は、知人の一人かと思うのだが、それとも違うことがわかるのだが、だからといって正体が判明することはなく、誰でもない、彼でもない、とずれ続ける認識が掛け合いの妙味を演出している。
そして、語り手の「沢野」のうちでもさまざまな言葉がどんどんずれていってしまうのである。
なぜずれていくのか。
後書きの対話で、笙野は「もう一つの世界」という言葉を使っている。言葉のズレ、認識のズレとが、時空を超えて唐突に現われ出でる(タイムスリップ)ように、われわれの世界をぼやかしていくと言える。その根底には根本的な世界に対する違和があるのだろうか。ズレによって外と内との混濁を呼び寄せるのだろうか。そもそも、笙野頼子は「妄想」の作家として出てきている。妄想とは、現実と私とのズレから生まれるが、妄想こそがズレを生んでいるとも言えるかも知れない。
まるで夢のようだ! という感想私はを持つが、それはそれで正しいのだ思っている。語り手「沢野」は電車で「海芝浦」に行く途中、何度も「寝惚け」ているのであり、それによって時空の制度の外から何ものかを呼び寄せる。
おそらくこのズレの象徴として、「海芝浦」がある。「海芝浦」というのは実在の駅のようで、片方が東芝の会社、片方が全部海という聞けばなかなかファンタジックな立地であるらしい。
そこを見ると、「海に落ちてしまいそうな気が」するという特異な感覚を惹起する。
「タイムスリップ」する「コンビナート」とは、この「海芝浦」のことであるのだろう。「海芝浦」から引き出されてくる、言葉のズレが、原動力の片方としてあると思うが、もう片方の「マグロ」というのが実はもっと重要なのだと思う。「海芝浦」を引き寄せるのは、まず「マグロ」なのだから。
「恋愛には相手が必要なのか」というのがテーマだと後書きの対話でいっているが、そういえば、この種の視点から論じた笙野論というのは読んだことがないな、と思う。初期の「硝子生命論」でも、人形愛という対象ならざる対象への愛が出てきているが、笙野の「恋愛」というが何なのか、考えてみる必要がある。また、「タイムスリップ・コンビナート」と「硝子生命論」に共通する、水のイメージも。そういえば、「大祭」など初期作品の多くは、「水」を重要なエレメントとして成立している(本書所収の「シビレル夢ノ水」も)。特に初期作品集の「夢の死体」は著しい。清水良典は「タイムスリップ・コンビナート」を後に続く都市探訪小説(渋谷色浅川、東京妖怪浮遊)の走りとして捉えているようだが、水のイメージを用いた初期作品からの繋がりを見ることもできるのではないだろうか。
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自由自在に飛び回る思考、巧みな仕掛け、それでいて美しい文体に圧倒されてしまう。夢とも現実とも似つかない世界でぷかぷかと浮遊する思考。突飛もないところへ時空移動する意識。止むことを知らぬ妄想。マグロ、海芝浦、富士、日本…オキナワ変換…まるで自分の頭ん中をごろんとそのまま文字に起こしたような、見知らぬ奴に思考をぐちゃぐちゃにされているみたいでなぜこの作家は私の頭ん中を語ろうとしているのだ、と疑ってかかりたくなる。東京からJR鶴見線で40分、出られない駅。それが海芝浦だ。東芝の敷地内にあり、東芝関係者以外は駅から出ることができない。この海芝浦、ホームのすぐ横が海だということもあり、駅のホームから釣りのできる駅としても有名らしい。
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夢の中でマグロとの恋愛に凝っている「私」は、ホームの片側が東芝、片側が海という「海芝浦駅」を探しに出かける。
非現実的なようで、的外れでもない。
夢の中の声が出ない感じとか、テンポとか、見たことないはずの景色が現実の記憶と少しずつ重なっていく感じとか、よくそのまま文章にできるものだなあ、と、ちょっと感動する。第111回芥川賞受賞。
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共感とか理解とか、はたまたストーリー性がどうとか、そんなのたした問題じゃない。
この文体とうねるリズムに身を任せて、異世界に連れてってもらっちゃえばそれでいいと思うんですよね。
だってマグロがしゃべりかけてくんだよ!
学生時代に初めて読んだ時、しばらく海芝浦のことが頭から離れなかった思い出が。
実際に行きはしなかったけれど。。
笙野様の世界に初めて触れた一冊です。
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先日、鶴見線の海芝浦駅に行き、この駅を題材にした小説があると知って、読んでみました。
芥川賞受賞作品ということで、少し気張って読み始めましたが、主人公の寝起きの寝ぼけたシーンから始まります。
どんな風に話が展開していくのかと思いきや、混乱した内面心象のままに、主人公は東京から電車に乗り、鶴見から海芝浦を目指します。
この心理描写が普通ではなく、著者のオリジナルティにあふれています。
常軌を逸していると言えるほどぐちゃぐちゃ、ごちゃごちゃのうねりもつれるモノローグ。
人の思考はとりとめがなく、それを文字に起こしていったら、このようになるのかもしれませんが、文章で読むとその破綻ぶりには威圧的なほど。
予測のつかない人の心の移ろいを追っていくのは、かなり骨の折れることだと気付かされます。
実際に、本人の心理描写を抜いてしまえば、単に寝起きに電話を受けた主人公が、そのまま電車に乗って海芝浦に行った、という話で、何の面白みもありません。
やはりこれは、心理をなぞるようでありながら支離滅裂さも抱えている、読者に嫌悪感さえ抱かせかねない、かなりギリギリのしつこさで文を進めていく手法が特徴的。
しかし、始まりも曖昧なまま、結果もオチもよくわからず、ハードカバー1冊ものかと思えば、思ったよりも短編だったので、(なんだったんだろう?)というモヤモヤが残りました。
身近な異感覚、不安な浮遊感を味わえる感覚は他に類を見ず、ほかの作家に埋まらないほど印象的です。
ただ、キーワードが奇をてらいすぎているというか、謎めいてはいても深くはない感じ。
「ブレードランナー」ネタで全編を引っ張っている気がするのもどうかと思います。
私は漠然ながら知っていましたが、まったく分からない人には「レプリカントが云々」と突然書かれても、何のことかわからず、ついていけないでしょう。
また、同時収録された他の作品にも心は寄せられず。特に無抵抗のまま蚤に浸食されていくような「シビレル夢ノ水」は、不気味な悪夢を延々と見させられているようで、気持ちが悪くさえなりました。
表現の斬新さが、選考委員の目を引いたのかもしれませんが、これが芥川賞なのかと思うと、えっと思います。
海芝浦の独特のロマンがどのような文章で表現されるかと期待していましたが、全くそういった類の内容ではありませんでした。
白昼夢というか、幻覚兆候というか、現実を抱えたままに、かなり夢との際ギリギリを付いてくる、人の不安感をあおるような文章が印象的な本ですが、私の好みではなかったので、この作家のほかの作品には、もうおいそれとは手が伸びなさそうです。
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これはなかなかの傑作。
ポストモダン文学ってほとんどツボにはまらないことが多かったんだけど、流れるような文体と幻想的でエキセントリックな描写はクセになる。
収録短編『シビレル夢ノ水』はなかなかメンタルがやられる一編。
第111回芥川賞受賞作。
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1994年上半期芥川賞受賞作。一言で印象を語るなら「お気軽なカフカ」といった感じである。誰とも知れぬ者からの勧誘(あるいは半強制的な示唆)によって、鶴見線の海芝浦に向う私(沢野)の体験を綴る一種のロードノヴェル。目的地も、途中で経過すべき「オキナワ会館」もはっきりしていながら、そこに当然あるべき「何故」そこなのかは謎のままだ。では、当然そのことに付き纏う焦燥感は、といえばこれがまたあるようなないような「ユルさ」なのだ。そして、これこそがまさしく笙野頼子の文体であり、持ち味なのであろう。
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タイトルはSFっぽいけど全然違う。
冒頭から強烈。
「去年の夏頃の話である。 マグロと恋愛する夢を見て悩んでいたある日、当のマグロともスーパージェッターとも判らんやつから、 いきなり、電話がかかって来て、ともかくどこかへ出掛けろとしつこく言い、結局海芝浦という駅に行かされる羽目になった。」
日常風景と、
時間・空間(距離感)のねじれた超現実的ヴィジョンが重なりあった世界を生々しく描いたシュルレアリスム的小説集。
夢をリアリズムの手法で描いたらこうなった、
と説明した方が当てはまるのかな。
他人の夢の話を聞くほどつまらないものはないと言われているけれど、
この人の夢語りには、全く当てはまらない。
悪夢を見ている「私」の実像を、
滑稽なものとして浮かび上がらせるメタ視点で描いているから、
単純に読み物としても面白いと感じた。
居候猫についていた蚤に対する、
幻想的なまでの強迫観念を描いた「シビレル夢ノ水」も非常に印象深い。
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冒頭のインパクトがすごすぎるし、テーマも話もすごい。ことばの使い方や比喩が特殊でちょっと読むのに時間がかかったけども。
もう、夢と現実の境界がわからなくなるとかそんなレベルの話じゃない。そういう二者を分ける概念はもはや無いような感じ。
あとがきの対談で、そういう世界「もう一つの世界」を掘り起こすために「私」を使うんやっていよった。作者自身っぽい「私」を使うのは(私小説とはまた違う)何かしらの目的があってするテクニックやと思っとったけど、そういうのん言ってくれるのもめずらしくて、対談も興味深く読んだ。
「シビレル夢ノ水」が猫小説かと思わせといて蚤でしたー三つの中ではいちばん好きやった。まじで蚤に取って代わられるかと思った。
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不条理な、心象風景の飛躍。シーンとしてはわかるけど、イマジネーションのジェットコースタームービーのようなめくるめく速さにはついて行けなかった。
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これはあかん芥川賞の方かなぁ。
ブレードランナーを想起させるって、うーん、それは無理筋ってもんでしょう、という気がするのだけれども。
そもそもお話があんまりそそられないなぁ。