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1980年代に小学生、90年代に中高生だった身にとってはうなずける所もあった。
ポップ―オタク―ネオポップ―ぼっちの流れは理解できました。
しかし、村上龍、春樹はラノベではないのでは?と疑問に思いながら読んだので後半身が入りませんでした。
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読みにくかった… まず各章ごとに何が主題で、全体を通しての主張がはっきりしないのに、やたらと参考文献の引用が多くて、この引用から 何が分かるのかが 前後にあまり書いていなくて、頭の中の整理がしにくかった。
村上春樹、村上龍のポップカルチャーの時代の若者と、現代のラノベの時代の若者から 現代の日本を考察する内容であったとは思うけれど、、
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ラノベを通して現代日本を解釈しようとする哲学の書。
まかり間違ってもオタ向けでもなければ、一般人向けでもない。
やたらめったら内容は難しいが、ハルヒ世代の人間としてところどころに納得できる内容はある。
アメリカとの対比をもって解釈しようとする昭和世代に対し、
僕らにとってそれは所与のものであまり興味がない。
非リア充である僕らのぼっちこそがテーマだと言うのはひどくしっくり来る。
それ以前の部分の語りはいまいち分かりにくいが、
ただライトノベルの書き手とその読み手の間にある種の断絶があるかもしれないというのは、
ある種の恐怖も感じるところ。
言ってみれば自分もおっさんであり、若い世代との断絶があると言う事実。
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「本書の考える「現代」とは、あくまでも、誰かのノスタルジアの産物として観測可能な事象だ」(183頁)というスタンスのもと、第二次大戦以降の日本において、各世代の人々の内的な過去の嫌悪/美化のパターンを描こうとしている。特に、ポップ世代として村上龍や村上春樹を据えながら、その後の村上隆や穂村弘との、さらにその後のラノベ世代の感覚(自分や世界との向き合い方)の違いを、様々な作品を紹介しつつ説いていく。後の世代になるにつれ、内的な過去が依ってたつリアルが失われていく。それはよいことでもなければ、悪いことでもない。そんな感じだろうか。著者の論の運びは図式的なようで感覚的。視点は面白いが、読んで納得、とはならなかった。
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ライトノベルと称される文芸ジャンルの作品群のなかにえがかれた「現代」のとらえかたを、文学研究者である著者が読み解く試みがなされています。
「ラノベ的であることから限りなく遠い「大人」であろうとしていた」と述べる著者は、東浩紀の『ゲーム的リアリズムの誕生』(2007年、講談社現代新書)によって開かれたコンテンツの文化的読解に刺激を受けつつも、「ラノベ的世界」への「敷居を片足またいだ格好のままで」その作品を読みはじめたと語っています。東のコンテンツ批評が、思想の分野における業績を背景になされたものであるとするならば、本書は現代文学の研究による東の文化的読解に対するアンサーとみなすことができるように思います。
本書が考察の対象としているライトノベルは、平坂読の「僕は友達が少ない」、渡航の「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」、裕時悠示の「俺の彼女と幼なじみが修羅場すぎる」、さがら総の「変態王子と笑わない猫。」などのシリーズですが、村上春樹や村上龍、大江健三郎や寺山修司、穂村弘といったライトノベルではない作家たちにも言及がなされており、日本の現代文学においてえがかれてきた「現代」のかたちが、ライトノベルにおいてどのような変容を受けることになったのかということが考察されています。
著者は、これらの作品にえがかれる「ぼっち」のすがたに、もはや一般的な消費者を意味するだけとなった「オタク」の現代のありかたを見いだすとともに、そこにえがかれている少年少女たちが、両村上の作品に示されるような、平板な日常を越え出ようとする志向をいだくことなく、平板な日常を送ることに終始しているということが指摘され、そこにライトノベルの「現代」を見ようとしています。
200ページに満たない分量の本になっているのですが、現代日本文学における「家」や「アメリカ」といったテーマについての概要を解説する手間を著者が惜しんだことが悔やまれます。