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『川は静かに流れ』の親父がとった行動で、実の息子の無実よりも今の嫁との家庭を選んだのは、こーいう背景があったのかねぇ、と「子供嫌いの文化」を読んでいて、なんとなく納得。
『日本辺境論』と同じくおおよそで同意しているのですが、違和感を感じたままなのが何なのか・・・心証的に納得できない箇所があったのかなぁ。
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元の大きい本を持っているけどつい購入。つ、ついったーで先生直々に「文庫版出るよ」とリプもらったから!単純だなー。
日本人のいわゆる島国根性(こないだの本の辺境という意識)と同じように、アメリカという国の持つ行動原理を考えます。
印象的だったのは、アメリカというのはもともと「こうありたい」為に集まった人の作った、世界で唯一建国理念の先立つ国だということ。
私らの言う「世界では…」の「世界」ってのは、アメリカでしかなくて、そのアメリカという国は、世界でも特殊な国であるということを、よく胆に銘じておくべきだと思います。
ところでこの「街場」って言葉、先生には悪いけどいいかげん鬱陶しい。
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■概要
アメリカって国はどうしてこうなんだろうね、と常々不思議に思うようなこと(どうしてあんなに極端に太った人が現れるのだろうとか、すぐに訴訟を起こすだとか)に、こうだからなんじゃないの、という考え方を提示してくれる本。
■活かせる点
大好きな内田先生の本なので。
「子ども嫌い」に関する部分でモビルスーツの話が出てきます。
アメリカではあまり好まれない、というような表現があったのですが、
今年見た映画アバター、ハートロッカー、第9地区、この3つの作品に
共通してモビルスーツ的なものが出てきたのは面白い偶然では?と思いました。
乗っていたのは・・・
●マッチョな軍人
●マッチョな爆弾処理班
●元はひょろひょろだけどエビ化して強くなってる役人
(モビルスーツはエビしか乗れない)
うむむ。
(さわ)
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おもしろい!
話のつながり方や飛躍の仕方がとても興味深かった。
アメリカについて、あーそういう見方もあるのかなって。
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内田樹がアメリカをテーマにした演習の記録を文字に起こして加筆したもの。
日本がアメリカの承諾なしに政策決定するためにはその自決権をアメリカに認められなければならない。アメリカからの自立はアメリカへの依存を基礎とするしかない。新米的政策は反米的心情に裏打ちされ、その逆も同様に然るという「ねじれ」がある。(日本人はアメリカの「従者」としてのメンタリティーから逃れがたく、「従属」を通じての「自立」というねじれた語り口以外にことばを持ちえない。「従者」であるかぎり日本人のアメリカ批判はいくら痛切であっても「保護者の責務の感覚」が入り込むことは構造的にありえず、そこにはいつでもある種の「気楽さ」が伏流している。)
このようなねじれたナショナル・アイデンティティーの持ち様はアメリカが押し付けたのではなく日本人が選び取ったものである。内田樹は本書において、「日本人はどのようにアメリカを欲望するのか」ということを、「従者」としてアメリカを倫理的な態度で語ることが出来ないというような「病識」を意識しながら語る、という、わかったよなわからないような前置きを以って始める。
本編では、歴史、ファストフード、アメコミ、統治システム、戦争、児童虐待、殺人鬼、身体、キリスト教、コネクション、裁判とテーマを分けてアメリカと日本を対比しながら論じる。
「いかに辛辣な批判」も、日本人がそれを言うかぎり「気楽」であるということは、なるほどそれはその通りだと思った。ただそれを意識しているからといって、いったいなんなのか。それがこの論考に何をもたらしたのかはわからない。でもひとつひとつの章はおもしろく、「アメリカ的」なるものの直輸入は無謀であるということを改めて強く意識させられる。
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筆者の日本はアメリカを欲望しているという話は、なるほどとおもった。つまり、日本はアメリカを模倣したいのだ。この傾向は、政治家などに強い酔いに思う。
アメリカは理想から建国されており、改善はあり得ない。
とりあえず、住みにくいようだ。
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やはり目線は面白いし、切り口は鋭い。
そして、概ね納得してしまう。
■この本を知ったきっかけ
『街場のメディア論』で他にも街場シリーズがあると知って
■読もうと思ったわけ
『街場のメディア論』がよかったので、同じシリーズということで。
『街場の現代思想』と同時購入
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どうして日本はこんな国になったのか?
現代日本論を講じる時、その問いを系譜学的にたどってゆくと明治維新まで遡る。
ペリー来航から今日まで、日本の近代史150年は最初から最後まで一貫して「対米関係」を機軸にして推移してきた。
つまり、日本は国際社会の中での自国の立ち位置や役割、印象を、常に「アメリカにとって(又はアメリカから見て)自分は何者であるのか」という問いをめぐるように構築されてきたのだ。
そしてそのアメリカという国の建国から精神性、社会の構造を、アメリカンコミックや映画、犯罪の背景などから論じた現代アメリカ論。
普遍的なアメリカの姿を見出す時、日本という国についても見え方が変わる。
2005年に単行本で出版され、今年5月に出版社を変え、文庫本で発行されたアメリカの非専門家によるアメリカ論。大学院の演習で行われた「アメリカン・スタディーズ」を録音し、そのテープを起こして更に原形を見ぬほど加筆訂正し、書籍となったものなので、文章はまさに先生が生徒に語りかけるもので読み易く、また理解し易い。
著者・内田樹先生の専門はフランス現代思想、映画論など。
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アメリカという国は独特だなあ。どう考えても礼讃できるような国ではないよなあ…と疑問を抱いて久しい。でもそういうことあんまり言えない。
その上、わたしは日本でその国の言語を教える人になろうとしている不思議。英語=アメリカでは決してないのだけれど。
もっと事実を反映した、クールなアメリカ観を持たなくてはいけないなと思う。
「第6章 子供嫌いの文化―児童虐待の話」は最近読んだ中で1番怖いと思う文章だった。「子どもはかわいい」と思えない文化ってどうなっているの。ぞっとする。弱者にやさしくなれない社会は破綻するのが目に見えている。
「第4章 上が変でも大丈夫―アメリカの統治システム」はすごく腑に落ちて、納得できること自体危ういのかもしれないけど、人間は間違うということを、勘定に入れた方がいいのかどうか、わたしはまだ判断しかねる。
勉強になりました。これからもっと考えよ。
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2010.11.11 図書館。
アメリカって世界のスタンダードみたいな印象だけど、やっぱり狂ってるところもあるよね。
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「歴史に『もしも』はない」とはよくいうけど、それは単に思考停止しているだけなんだなぁ。「その時起こってもよかったのに、結果起こらなかったのは何故か」を考えることが、ひいてはこれから先の未来を読むことにも繋がると。なるほど。いつもながら目から鱗を落とされる。いや剥ぎ取られる?
内田さんは歴史を語っても面白いんだなとこの本で実感。
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アメリカを語る切り口がたくさんあるので、オモシロい!と思ったり、ふーんと流したりしながら読みました。アメリカの子供嫌いの文化は興味深く読みました、ホームアロンもチャーリーとチョコレート工場も邪悪な子供が登場する。子供は邪悪であることの象徴?日本は子供は純真で無邪気と捉える傾向にある。アメリカと日本は対照的という話。
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アメリカといく国の街場で起きている出来事から、アメリカという国にある歴史的背景や行動原理について読み解いていきます。
街場の出来事は無意識に行動している結果表れた表層的なものですから普通に見ているだけではその背景にまでたどり着く事はできません。しかし内田さんは見事に背景までスパスパっとたどり着いてしまいます。本書にはこの導入からその結論に持っていくか!というわくわくがいくつもつまっています。
私的に一番新鮮だったのはアメリカは理想国家として建国され、その制度はいかに今より良くするかではなく、いかに今より悪くならないかを考え作られているという部分です。この考えを持って今の情勢を見ていくと見方が大分変ります。
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考えてみれば、今までアメリカ論みたいなのってアメリカ人か日本人からのものしか見たり、聞いたりしたことが無いと思う。この本では、フランス人のアレクシス・ド・トクヴィルの本が紹介されており、時間が経っても斬新さを感じる意見が述べられている。アメリカ建国者たちは権力者を信用しておらず、間違うものとして彼らの民主主義を作り上げた。その慧眼には本当に感心する。それらが機能し今の発展があるのであろう。普通の国のように歴史的な建国ではなく、理念だけを掲げて国を作り上げた自信の結果、宗教までも理念で広げていった。キリスト教が今日広く米国で信じられていることがよくわかった。
最後にショックであったのは、今でこそ子供の人権云々を主張するが、西洋の文化はもともと子供嫌いということがあるということだ。この本でアメリカの思想的なことについて知識を得たという以上のことが分かった。アメリカに対する感じ方、思いを変えるのに十分な本である。
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わたしは、「関連付けて考える」ということが苦手。
だから世界史も「アジア史」「ヨーロッパ史」「アメリカ史」などなどを一辺倒に覚えて、横のつながりを考えることが出来なかった。
馬鹿なんです。
今現在、「美術史」に関しては「この時代にこの国ではこんな絵が描かれていた」というのを横のラインでも見て考えることが(多少は)出来るようになった。
そこを軸に世界の歴史を広げていけたらば、この人の自由自在に世界を関連付けて考えられる思想に近づけるのだろうか。
読み返してもう一度考えたいな。
日本はどうなっていくんだろう。凋落していくアメリカを対岸の火事のように眺めていることはできないんだろうということは、日々我々を取り巻くアメリカナイズされた生活からも思う。
次の主を求めて、また日本はさまようのかしら。ならば次はどこに?
アメリカで、自分の描いた絵を発表したりしてるんですが
それについて考える。
わたしは、国だとか人種だとかどーでもいっしょ、「絵」ってそういの超越しなきゃいけないしょ、って建前で思いつつも、美大を出てないわたしの絵なんか、日本でどーにかなろうったって無理じゃない?って気持ちの下、「もっと敷居を低く、良いものは良いと見てくれるアメリカ」に自分の価値を求めている。
それは、アメリカの経済の後ろ盾なくして選べぬ選択なんであろうって事もなんとなく感じる。ではそのアメリカの経済が破綻したら?厳しくなったら?わたしは自分を認めてくれるとこ、ほかに探すのかしら?
昨今中国が、絵画のオークションに積極的に参戦している。ただ、日本の力あるギャラリーのギャラリストによると「中国は、絵のよさどうこうよりもセカンダリープライスで大きな利益を得るよう「商品価値」を見て絵を買う傾向にある」らしい。(らしいって・・・ほんと適当やな、あたい)
その中国で認められたら、自分の価値を高められるのであろう。
ただしそれは「絵の内容」込みという意識は希薄。(そこがネックでもあるんだけど、)そこ差しい引いたとて、わたしは「アメリカで認められたい」って思ってるんじゃないかなぁって思う。
その意識、すごく根深く根強い意識を持ちながら、「主」が変わってしまったら、怖い。でも「日本で認められる」ことは「アメリカで認められたわたし」という幻想なくして作られないし、日本人の「アメリカ上位」の意識をわたしは利用しようとしている。本当は日本で認められたい、自分の近しい人に認められたいその意識にたどり着くまでに絡んでくる「アメリカ」・・・
何行ってるかわかんなくなってきた。
じゃあ国外に出すなってことなんだけど、そうじゃないんだなぁ。なんだ。またあとで考えなおそ。