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色々な過去を持つ色々な人々の中で、それぞれがそれぞれの生き方を大阪の混沌とした街角で生きて行く、という話。
流されたり流されなかったり、将来に不安を抱きつつも、答えが見えそうで見えなかったり。
主人公のおじさんよりも、居候の学生さんのほうが心の描写に共感ができる。
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前にも書いたような気もするけれど、宮本輝を読むときは、そのストーリー展開も面白いのだけれど、登場人物が思うことや決断すること、そして行動することをきっかけに自分だったらどうするだろうと考え、さらに生きるって何だろう、豊かな(経済的にという意味ではない)人生って何だろうと考えるられるのが好きだ。電車に揺られながら読んでいると、気づく文章から目を離して物思いにふける自分がいる。そして、またストーリーに戻ってしばらく読んで、そしてまた物思いに。だから時間がかかる。でもそれだから味わえる。自分事にして読める小説って、あるようであまりない気がする。うーむ、また読みたくなってきたぞ、宮本輝。ちょっとヘビロテしようかな。(
ところで、道頓堀川の感想ゼロだけど、まっいっか)
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『川・三部作』を読み終えました。
自分は誰に一番感情移入しただろう。誰の目線でストーリーを追ったのだろう。読み終えて直ぐはそんなことを考えました。
喫茶店のマスター、マスターの息子、マスターの店で働く大学生。彼らを中心に、彼らに関わる人達、夜の道頓堀で生きる人達の人間模様に吸い込まれました。短編連作のよう。
主人公を繋いでいたビリヤード。ビリヤードは打ち手が突いて初めて球が動きだし、球は他の球に当たってそれぞれの道を行く。白玉以外は自分で行く道を決められないだろうし、白玉もまた当たり所が悪ければ、思っていた道から外れてしまう。狭い台の中で玉同士がぶつかり、ポケットに落ちるように道頓堀から去っていく者もいる。
道頓堀の世界と、ビリヤードの比喩が素晴らしいです。
ただし、少し話しが長く、登場人物が多かったようにも思えました。『蛍川・泥の河』の後だけに余計そう感じたのかもしれません。
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宮本輝、川三部作の最後の作品。「泥の河」「蛍川」に続いて、主人公の邦彦はどこへ向かうのか。そう感じさせるラストだった。
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なぜ、いまごろ 宮本輝をよむのか
いまの私の 感性に 一番あっているようだ。
どろどろとした 人間の感情の絡み付き合いが
とても、いいのだ。
政夫が 父親 武内鉄男 と 玉突きで 決闘する。
政夫は 夫を捨てた 鈴子 と一緒についていった息子。
鈴子は どうしようもない 占い師についていったのだ。
そのために 鉄男は なぜか許せないところがある。
戻って来た鈴子は ギヤマンのみどりの色に じっと見入った。
占い師が書く 海は いつもみどりだった。
鈴子が戻って来た時に 鉄男は鈴子を蹴った。
そのことで、鈴子は腎臓をいためたと思い込む。
鉄男は 息子の政夫が 玉突きで 生きようとすることに
理解を示せない ところもあるが、認めたい気持ちもある。
複雑な 父親の思い。
玉突きは あくまでも ばくちだと思っている鉄男。
息子の政夫は スポーツだと思っている。
世代の認識の違いで解決するのか。
邦彦は 母子家庭で 学費をかせぐために
武内鉄男の 喫茶店で バイトをする。
そこで,いろいろな人に であう。
就職活動するが 母子家庭ということで、うまく行かない。
鉄男は 邦彦には 喫茶店で 働いてもらいたいと考えている。
ユキのもつ たくましさ。
焼き肉屋で 自分の城を まもりはじめる。
オカマ、出前ストリッパー、老人の愛人。
道頓堀でうごめく 人々に 出会い
自分が どう生きるのかを なやむ 青年。
大阪の混沌とした 雰囲気が こつ然とする。
宮本輝の物語は 河が 一つのテーマとなるが、
占い師が 重要な 役割を果たす。
一家離散 という 占いが当たり、久しぶりにであう占い師が
次の占いをするが それを信じようとする。
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ひとりぼっちの大学生が、多くの人と関わりそして別れを経験すると同時にマスターにもまた息子を通して人生ドラマがある。人物設定や人間関係がまた先生らしさがでて和みます。ラストも良い。
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人間の生きる上での芯みたいなのを宮本輝の作品を読んでいるとしばしば感じる。
この作品も同様だ。
これといった新鮮な設定でもないし、話の展開もそんな奇をてらったものではない。だけど生きていくうえで大切な、力強いものが文章から伝わってくる。作者が真摯な気持ちで、物語に、登場人物にむきあっているんだなぁと思った。不思議な気持ちでどんどん読み進めてします。
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忘れられない一冊。
ノルウェイの森に似た感情が湧く。
男の子が主人公の話が個人的に好きなのかも。
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ある男からみた戦後の歓楽街に”寄せ集まった”男と女と仲間と親子の話。特に、男のうちにあるぼんやりとした弱さは個人的にこの一文にすべて、凝縮されているように思う。
”相手の心の開け具合を計算して、きっちり開いた分だけしか応じ返していかない哀しい人間の習性を、彼等はとりわけ狡猾に身につけていたが、反面そうした弱さを歓楽街に生きる本物の女たちよりも、一段上手に隠し通す手練に長じていることも武内はよく知っていた。”
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キーワードは「貧しさ」でしょうか。
本書の舞台は大阪道頓堀川。鈍く光る川面で生活する登場人物は、その誰しもが何かしらの「貧しさ」を抱えています。もちろん「貧しさ」とは、金銭的なそれに限りません。離散する宿命を抱えた武内は金銭的には余裕があるのに、とても貧しくみえる人物ではないでしょうか。そんな「貧しさ」を抱えた道頓堀川の住人のなかで、ヌードダンサーのさとみが邦彦の前で一心不乱に踊る姿がやけに印象に残っています。「私なんか、毎日、頭が変になってるわ」というさとみの言葉。この「貧しさ」が小説内に留まるものではなく、普遍的なものとして、いたく心に染み入ります。
ところで、まったく悲哀に満ちた作品なのかというと、決してそうではなく、「貧しさ」を抱えたなかでも必死に生きていく、そんな住人の姿に活力をもらうのです。
宮本輝の描く普遍性と前向きな姿勢に心打たれた作品でした。
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決して恵まれた環境でないながらも、自分の腕や感覚を信じて生きなければならない。そんな人々で溢れている話。
貧困だからといって終始悩みに埋め尽くされているような悲しい話というわけでもなく、かといって力強く前進していく、という話でもない。ビリヤードの腕だったりコーヒーの腕だったりファンの多いゲイボーイやストリッパーだったりなにかひとつ特技はあるけれど、それでも何かに依らずに生きていけない。それを自堕落的な生活様態を送る者を出さずに表現しているところは見物。
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「お金さえあったら、人生の80パーセントは解決するやろなァ・・」
「そうやなァ、20パーセントは解決出来んもんが残るやろなァ。そやけど、その20パーセントが問題や。」(p.205)
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小説家、宮本輝が描くまだ戦後の色合いが大阪を舞台にした昭和40年代の学生を中心に描かれる人間模様。
フィクションではあるらしいが、父を失い大阪で学生時代を過ごした著者自身の体験と重なるところがあるとは思う。
登場人物は多岐にわたるが、共通する言葉のは「赦し」ではないかと個人的に解釈する。裏切られようとも、苦しい環境に置かれようともそれぞれがやさぐれずに生きていけるのは、過去を赦す心構えが根底にあるからではなかろうか。
登場人物の一人である喫茶店マスターが、自分の妻と駆け落ちされた易者に20年後に邂逅し、何も気付かない易者に「どんなことが、しあわせやと思いますか?」と聞かれ「辛い悲しいことが起こっても、いっこうにへこたれんと生きていけることが、しあわせやと思いますかねぇ」と答え易を続けもらうマスター。
印象深い一場面である。
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昭和中頃、道頓堀川に間近い喫茶店リバーの店主武内と、そこに住み込みで働く邦彦を中心に、彼らに関係する様々な人々との間で起きた、様々な出来事が筆述された群像劇。
読んでいて自然に胸に浮かんだのは、濁世という言葉。道頓堀川の描写に使われる濁りが、人間世界にも入り混じっている感覚。
けれど汚濁ではなく、雑多な事象の重なりによる濁りで、それはどの場所にも、どの時代にもある一側面のよう。
事故で一本の脚を失った犬・小太郎が、この時期の、この地域の人々が、ぎこちなくしか人生を集めなかったことを象徴しているのだと思う。
大学生邦彦の青春譚であると同時に、中年店主武内の回想録でもある。けれど回想は、思い出の中に留まらず武内の現在にも残響として生き続けていた。
話があちこちの人々、あちこちの事件に飛ぶ中、ビリヤードの話が冒頭から末尾までを貫く背骨になっていて、最終場面で武内の涙で以て締め括られる。
皆が皆不器用なりに懸命に明日を求める姿に、前向きな気持ちになれた。
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後悔し続ける中年とジュブナイルの青臭さ。
当時の“男”の描き方が上手すぎる。
作者の作品では一番好きです。