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経済学の観点も踏まえ、21世紀を生きる我々が持つべき、都市や学問、環境、政治のあり方についての考え方を教えてくれる。宇沢弘文さんの思想が、おそらく表面的、簡略的にではあるが、その一端を伺い知ることはできるのではないか。
戦中、戦後に生きて、欧州やアメリカなど世界を奔走した稀代の経済学者が宇沢弘文先生である。多くの歴史的な経済学者だけでなく、様々な分野の偉大な学者との交流もあり、スケールの大きな内容も多く、学生にとっても、興味深いのではないか。
デューイ、ヴェブレン、ケインズ、フリードマン、昭和天皇、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、マッカーサー、歴代の日米首脳等々が端々に登場する。宇沢弘文先生は、こうした人物の多くと関わりを持っていて、彼の偉大さをより一層際立たせる。
ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世、昭和天皇との逸話は、彼らと宇沢先生の「人間的な素晴らしさ」を表していたように思う。
ウィットに富んでいるものの、辛辣さを隠しきれないマネタリストとしてのフリードマン批判には、宇沢弘文という経済学者の信念を感じた。
環境経済学についても、地球温暖化を生半可な知識をもって批判・誹謗する、ウィリアム・ノードハウス(2018年、「地球温暖化の統合評価モデル」の構築に大きな貢献をし、経済学賞を受賞した。)といった経済学者を糾弾している。スティーブン・シュナイダー博士(著作に『地球温暖化で何が起こるか』がある。)のような、理性的な考え方が、地球温暖化問題の解決には欠かせない。
ここが個人的に重要で、面白いと思ったのが以下の内容だ。
後半の19章「人間的な都市を求めて」と20章「緑地という都市環境をどう創るか」では、都市のあり方が、ジェーン・ジェイコブスの『アメリカの大都市の生と死』や、エベニーザー・ハワードの「田園都市」、ル・コルビュジェの「輝ける都市」等の考え方を挙げながら、論じられ、どのような都市が人間的、文化的でかつ、環境に優しい都市なのかがよくわかる。ここで重要なのは、人間的、文化的な都市と、環境に優しい都市が「矛盾しない」点ではないだろうか。
ル・コルビュジェの建築への貢献は大きいものだと思う一方で、その「非人間的な」建築と彼の描いて、現実化してきた(たしか、政治都市のブラジリアなんかが、ル・コルビュジェの理想通りに計画してつくられた都市であった気がする)都市計画が、今、我々を「呪縛」し続けていると思わずにいられない。
非常に有用かつわかりやすい「ジェイコブスの四大原則」を以下に紹介したい(基本的に、本書の249~250頁から引用しているが、一部、改変して引用している)。 ①都市の街路は必ずせまくて、折れ曲がっていて、一つ一つの区画が小さくなければならない。
②都市の各地区には、古い建物ができるだけ多く残っているのが望ましい
③都市の多様性が大切である。都市の各地区は必ず2つ以上の機能、働きを持っていなければならない。
④都市の各地区の人口密度が充分高くなるように計画した方が望ましい。
その詳しい内容については、本書を読んでほしい。もしくは、私に尋ねて欲しいところ。笑
���じてみると、「社会的共通資本」の考え方が、平易にまとめられており、「宇沢弘文入門」と位置付けて良い本だといえる。教育や医療、都市における緑地の重要性、格差と貧困、戦争という行為の愚かさ、総括すれば、本書のタイトルに似ているが、経済学という営みは人間を幸せにするものなのか?という宇沢先生が生涯考え、挑戦した問いの一端が垣間見れる。 「グローバル・チェンジ」を考察し得る、「人間主義的な」経済学のパラダイムの、一刻も早い確立が待たれる。
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夢中になりました。
現代社会の課題に対する考察は、どれも共感できるものでした。むしろ今まで意識していなかったことを、不意に気付かされた印象です。
中でも特に大事にしたいと思ったのは、教育と都市造りに関する論考です。
教育に関する部分では、子を持つ親としてこれまでの認識を改める必要性を感じました。親はもちろん、教職に付く全ての人に知ってもらいたい内容でした。
都市造りに関する論考は、言われてみれば納得の内容でした。ではなぜ今まで認識できなかったのか?それは自身で考えることを疎かにしていたから。そして他人の意見を鵜呑みにしていたからだと思います。
素晴らしい読書でした。
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経済学者の宇沢弘文と、最初に出逢った(買った)本。
人によっては考え方に合う合わないがあると思いますが、環境問題などから経済について研究を続けられた先生なので、お薦めです。
また、近年よく聞く「社会関係資本」に近い(微妙かも?)「社会的共通資本」を唱えられています。(じん)
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https://toyokeizai.net/articles/-/409923?page=2
https://toyokeizai.net/articles/-/384561
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宇沢は、モンペルラン・ソサエティに淵源する正統ネオリベラリズムの潮流(ハイエクやナイト)とフリードマンの市場原理主義を峻別して、前者には一定の重要性を認めた上で、後者を厳しく批判している。宇沢によれば、フリードマンは経済学について、マクロな側面についてはいっさい論文を書いていないし、ミクロな側面についても一貫した理論を持たなかったらしい。じっさい論文審査にあたり「どんなに前提条件がおかしくとも貨幣数量説が結論として出てくるならばそれは良い論文である」などと放言していたそうである(本当に学者なのか?)。
「共産主義者など一人でも多すぎる」などと吠え、“自由”を守るためなら北ベトナムへの水爆投下もやむなしとするほどの狂犬は、同じ自由主義者ながらあくまでも人道を重んずるナイトによりスティグラーとともに事実上の破門宣告を受け、ゴールドウォーターにさえ“too extreme”と評された。フリードマンの訃報に接したとき、宇沢は妻とともに喜んだそうだが、まあ無理からぬことかと。
経済学の話よりも日本の教育批判の方が面白い。日本の学歴ヒエラルキーの頂点は医学部と法学部であるが、欧米の一流大学は自然科学、人文科学、哲学、古典のような“虚学”が中心であり、工学部、医学部、法学部、経済学部などはスクールと呼ばれ、専門大学院のような扱いである。1960年代、丸山眞男は、本郷の学部を専門学校化し、駒場を東京大学とする東大改造案を構想していたが結局頓挫、その後東大を去った。
本書第10章で宇沢は、学部における少人数制の演習が大量生産方式の教育に慣れきった学生たちに与える影響の大きさを強調している。いまCOVID-19の蔓延により日本の政治家、官僚、医師の愚劣さ加減が炙り出されており、タイムリーなことであるが、日本における偏差値エリート(実務家)の腐敗、リベラルの弱さは畢竟、「リベラル」・アーツ軽視に相当の原因が帰されるのではないかと私はけっこう本気で思っている。
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宇沢弘文の正義感に惹かれる。市場原理主義を厳しく批判。ミルトン・フリードマンを憎んでいるような発言も同根。制御しない資本主義は強欲を暴走させ、しかも力を与えてしまうから、社会的に制限をかけないといけない。社会的共通資本は、市場原理主義では守れないのだ。
本書は宇沢弘文の思想や日常に触れるエッセイや対話文の寄せ集めなので、どこかで読んだ内容も多い。それでも理解が深まるので、私には嬉しい。
ー 1945年夏、フリードリヒ・ハイエクとフランク・ナイトがスイスの避暑地モンペルランで会話。ナチズムによって、人間の存在基盤自体が破壊され、人間の自由や人間の存在を回復するために、経済学者として考えなければならない。独裁的な規制を否定し、自由な人間らしい生き方ができるような経済的基盤を考えていく必要がある。そのために運動を起こそうと。ネオリベラリズムはそこから始まった。フランクナイトは、長崎に原子爆弾を落とした事は、人類の犯した最悪の罪であると糾弾し、競争と倫理について深く考えを進めた。素晴らしい経済学者。しかしその後フリードマンが中心になり儲けをひたすら求めた。フランク・ナイト先生は、ミルトンフリードマン、ジョージスティグラーの2人を破門した。
ー 1805年に有名なトラファルガーの海戦があって、スペインとフランスの連合艦隊がネルソン提督率いる英国艦隊に敗北。その後1815年ワーテルローの戦いによりナポレオンが連合軍に乾杯。パックスブリタニカの出発点はここ。バックスブリタニカの崩壊の始まりは、世界大恐慌で、日本では昭和大恐慌と呼ばれている。192 9年のニューヨーク株式市場の大暴落に始まった大恐慌だ。この時2人の経済学者、ケインズとベバレッジがパックスブリタニカの崩壊を防ごうとした。
ー ケインズは一般理論にて。
資本主義制度における資源配分は必ずしも効率的ではなく、またそのときの所得分配は公正なものではない。経済循環のメカニズムもまた安定的ではない。資本主義が安定的に調和のとれた形で運営されるために、政府がさまざまな形で経済の分野に関与しなければならない。
政府の関与が無ければ、巨大な資本を操る成功者が最低賃金で大衆を奴隷化し、継続的に搾取する事が可能になる。生活インフラを買い占めれば、資本家の独裁が誕生だ。民主主義がブレーキの機能を発揮しなければ、資本主義の暴走が剥き出しになる。市場原理主義一辺倒が正しい筈がない。