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彼は沖縄に原日本を見たんだと思う
世界で活躍した日本人だからこそ日本というものに対する感性が鋭く、的確に見ぬいたのだろう
沖縄論というより原日本論としての価値を感じる
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返還前の沖縄を訪ねた岡本太郎による見聞録。沖縄の特に離島の数々に今も残る信仰や芸能にこそ、日本文化の原型が残ると説く。いわく、沖縄が日本に還るのではなく、日本が沖縄に還るべきという指摘が、本土の人間の心にグッと突き刺さる。
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現代アートは好きですし、岡本さんの著作は「今日の芸術」も読んでいたんですが、この本がこれほど魅力的だったとは思いもよりませんでした。
眼を剥いてオカシナ事を口走るオジサン、としか思っていない方は、一読、この文章の水準に驚くのではないでしょうか。
感心したのは、この本、沖縄文化の魅惑を語りながら、単なる沖縄論に留まることなく、普遍的な文明論として素晴らしく、芸術一般を語る論考としても優れていることです。
さらに沖縄の風を語る時は、一流の抒情的エッセイとしても読める。
時に確かに納得出来ない論証、賛成しかねる描写もありますが、その考察の鋭さは、文化、文明の深い本質を覗かせ、わずかなそよぎとしか感じられない些細な現象から、魅惑をすくい上げて表現して見せる手並みは抜群です。
芸術家としての感性と、表現者としての力量の両立を感じました。
結局、沖縄という場所が、岡本太郎によほどの驚きと感動を与え、啓発したのでしょう。
沖縄に惹かれている方はモチロン、優れた文明論、芸術論を読みたい方にはオススメの1冊です。
ps
沖縄は「踊る島」だそうで、1章が割かれてますが、以下@ブログ用に改変省略有
「・・そして世界の踊りの喜びがみなここに入り来ているんじゃないか、と極端なことを考える。・・・のびのびと自由にやっているが、洗練されている。民衆自体によほど踊りに対する鋭い姿勢がなければ、とうていこの純粋さと新鮮さを長く保つことは出来ないだろう。凄みである」
個人的には、このエッセンスが安室奈美恵に抽出されている、と考えます。
やっぱり出自からバックグランドがあったのだ。
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1959年の沖縄。まだ米国軍政下の沖縄。ようやく高度成長の軌道に乗ろうとする日本が失うであろうものを1959年の沖縄に見出す岡本さんはやはり天才。
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沖縄文化に興味があって購入。岡本太郎の本だったのはたまたまだったが、意外というか普通に面白かった。ソルボンヌで民俗学が専攻だったとは。沖縄の八重山では庶民は昔文字が禁止されていたそうだ。沖縄は元々文学に対する拘りは弱いのだろうか、少なくとも知る限り歌はシンプルだし観念的ではなく、自然な印象を受けていた。口承だからシンプルになるんだろうか。岡本太郎が言うように沖縄を通して日本を再発見するというのは、小泉文夫の発言にも通じていてなんとなく頷けるものがあった。
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沖縄の文化は何もないことから派生した、という考察が鋭くておもしろかった。
岡本太郎と同じく、島に恋する者として共感、感嘆する。
他の著書より、言葉のセレクトがウィットに溢れていてグングン引き込まれた。
岡本太郎が撮った、久高島の風葬の写真で、その習慣が断絶されてしまった事実が、わたしには衝撃だった。
文化学に長けている、岡本太郎クラスの人でもこういうことを招いてしまうことも衝撃だった。
その賛否についてはここでは述べないが、当時の世論のバッシングを岡本太郎は意に介さなかったというのが、岡本太郎っぽい。
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岡本太郎っぽい、ロマンチックで感覚的な文章。
当時の沖縄がどんなのか想像するしかないけど、きっと私も同じように感じたのではないかと思う。
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岡本太郎の返還前の沖縄への訪問。八重山、久高島の御嶽・巫女(ノロ)、風葬等の等の民俗等々を紹介。他の岡本太郎の著作に比べると、今一つ切れはないかなあ。
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久高島の聖地はぽっかりとして何もないところだった。それがまた、太郎さんの心をひきつけたのですね。芸術家としてだけではない、文化人類学の実践者としての岡本太郎の横顔が浮かび上がる。
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多磨霊園に眠る岡本太郎が沖縄を訪ねて、感じたことを思うままに書いた一冊。沖縄に毎年行っていた頃に感じていた沖縄の良さを、こうやって別の人の、特に感覚的に鋭い感性の持ち主の言葉で描かれた沖縄の姿を見せられると、「あぁそういう背景も確かにあるかも」とか思う部分もあったり、次に沖縄に行く楽しみがまた少し増えた一冊になりました。泡盛を本土で飲んでるだけじゃなくて、やっぱたまには訪れたいな~。
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芸術家岡本太郎が、何をどう見るか?ということは、興味ふかい。
岡本太郎の三原則がある。①芸術は、きれいであってはいけない。②うまくあってはいけない。③心地よくあってはいけない。
岡本太郎は、芸術において、美しいということを拒絶する。心を動かすような激しい芸術を求めている。芸術は、あくまでも人の魂を激しく揺さぶるものである。どれだけ強烈に、毒のような刺激を与えるのか?
岡本太郎は、パリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父とも称されるマルセル・モースのところで民族学を修めている。それは、アフリカの民族の原始美術が、衝撃を与えたからだ。岡本太郎の三原則に当てはまっていた。アフリカでなぜ?が岡本太郎の疑問だった。「抽象と具象がぶつかり合い、引き裂かれたところに人間の本当の存在がある」と思った岡本太郎の想いがアフリカの原始美術の中にあったのだ。
そして、東京国立博物館で縄文土器を見たときに、またしても衝撃を受けるのだった。縄文火炎型土器の造形美、四次元的な空間性にある世界観が原始美術の中にあったことだった。それは、火炎型でありながら、深海をイメージさせるものと岡本太郎は思った。縄文文化のすごさを認めたのは、岡本太郎であり、自らのアートに縄文文化を取り入れて、蘇生させた。
「激しく追いかぶさり重なり合って、隆起し、下降し、旋回する隆線文、これでもかこれでもかと執拗に迫る緊張感、しかも純粋に透った神経の鋭さ、常々芸術の本質として超自然的激越を主張する私でさえ、思わず叫びたくなる凄みである」
その岡本太郎が、日本復帰前の沖縄に行って、またしても衝撃を受けるのだった。
その衝撃を表現したのが、本書『沖縄文化論』である。
「私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない―といって差支えない、御嶽だった。御嶽―つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。そこに、うっかりすると見過してしまう粗末な小さい四角の切石が置いてあるだけ。その何にもないということの素晴らしさに私は驚嘆した」と岡本太郎は書く。
『何もない』という空間が、御嶽だった。表現者である岡本太郎の存在さえも脅かす。沖縄の文化はそこから始まっているのだ。ゼロを発見したインドの人のように、祈りの表現としての『空』を岡本太郎は発見したのだ。
「沖縄の御嶽でつき動かされた感動はまったく異質だ。何度も言うように、なに1つ、もの、形としてこちらを圧してくるものはないのだ。清潔で、無条件である。だから逆にこちらから全霊をもって見えない世界によびかける。神聖感はひどく身近に、強烈だ。生きている実感、と同時にメタフィジックな感動である。静かな恍惚感として、それは肌にしみとおる」
沖縄文化論を通じて、岡本太郎は言う、日本は沖縄に返還されるべきだと。
沖縄の生活の中に美を見出し、踊り、紅型の色彩などに惹かれる岡本太郎。芸術を受け入れることは、根元に立ち向かうしかないのかもしれない。
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沖縄の肌ざわり
「何もないこと」の眩暈
八重山の悲歌
踊る島
神と木と石
ちゅらかさの伝統
結語
神々の島久高島
本土復帰にあたって
著者:岡本太郎(1911-1996、川崎市高津区、芸術家)
解説:岡本敏子(1926-2005、千葉県)
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[ 内容 ]
苛酷な歴史の波に翻弄されながらも、現代のわれわれが見失った古代日本の息吹きを今日まで脈々と伝える沖縄の民俗。
その根源に秘められた悲しく美しい島民の魂を、画家の眼と詩人の直感で見事に把えた、毎日出版文化賞受賞の名著。
[ 目次 ]
沖縄の肌ざわり
「何もないこと」の眩暈
八重山の悲歌
踊る島
神と木と石
ちゅらかさの伝統
結語
神々の島久高島
本土復帰にあたって
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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・沖縄の古典舞踊は、べた褒め。日本舞踊や歌舞伎をお座敷芸の影響を濃く受けてゆがんで発達したと批判的。
・入浴文化論。日本人が大の入浴好きなのは、身体をきれいに保つという実用的な意味だけではなく、多分に精神的でマジナイ的。毎日ミソギをやっているのだ。というのは面白い。
・久高島の風葬。
沖縄には日本の原始宗教、古神道に近い信仰が未だに生きている。のろは、その神秘的な女性の司祭、つまりシャーマンである。古い時代、沖縄では神と交わるのは女だけの資格であり、直接神事に関する一切は男はタブーだった。
すぶのシロウトにも子供にだってグンと訴えかけてくるようなものでなくちゃ仕様がない。(136頁)
身を守る最低の手段として、美しさ、みえなど考えてもいないのに、結果は偶然に美しいのだ。(65頁)
文化とは何だろう。土地の風土によって、、根をはったものが本当だと考える。その土地を耕すことによって生成するもの。その土壌とは、民衆の生活以外にはない。、、やがて貴族や特権層によって、形式の洗練をほどこされ、余剰の富と力の象徴、虚飾的な美となる。いわゆる高度な文化を誇ることになるわけである。(203頁)
・ひめゆりの塔〜異様な記念塔が構えている。デカデカと相当の金をかけたものばかりだ。ああ、ここに代表された無神経日本。聞けば地方選を控えて、昨年後半あたりにぞくぞくと建ちだしたのだという。(225)
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沖縄で見たものを、どのように解釈してよいかわからず、この本を手に取りました。
岡本太郎は、奇抜な芸術家のイメージですが、
ソルボンヌで文化人類学を学んだため、文化論に関する著書が数多くあります。
この沖縄文化論は、1959年、1966年、沖縄を訪れたときのことについて、書かれています。
彼の見た沖縄は、今の沖縄とは、まったく異なる景色だと思いますが、沖縄の、そして人生のひとつの見方、考え方を教えてくれる一冊でした。