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・沖縄の古典舞踊は、べた褒め。日本舞踊や歌舞伎をお座敷芸の影響を濃く受けてゆがんで発達したと批判的。
・入浴文化論。日本人が大の入浴好きなのは、身体をきれいに保つという実用的な意味だけではなく、多分に精神的でマジナイ的。毎日ミソギをやっているのだ。というのは面白い。
・久高島の風葬。
沖縄には日本の原始宗教、古神道に近い信仰が未だに生きている。のろは、その神秘的な女性の司祭、つまりシャーマンである。古い時代、沖縄では神と交わるのは女だけの資格であり、直接神事に関する一切は男はタブーだった。
すぶのシロウトにも子供にだってグンと訴えかけてくるようなものでなくちゃ仕様がない。(136頁)
身を守る最低の手段として、美しさ、みえなど考えてもいないのに、結果は偶然に美しいのだ。(65頁)
文化とは何だろう。土地の風土によって、、根をはったものが本当だと考える。その土地を耕すことによって生成するもの。その土壌とは、民衆の生活以外にはない。、、やがて貴族や特権層によって、形式の洗練をほどこされ、余剰の富と力の象徴、虚飾的な美となる。いわゆる高度な文化を誇ることになるわけである。(203頁)
・ひめゆりの塔〜異様な記念塔が構えている。デカデカと相当の金をかけたものばかりだ。ああ、ここに代表された無神経日本。聞けば地方選を控えて、昨年後半あたりにぞくぞくと建ちだしたのだという。(225)
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沖縄で見たものを、どのように解釈してよいかわからず、この本を手に取りました。
岡本太郎は、奇抜な芸術家のイメージですが、
ソルボンヌで文化人類学を学んだため、文化論に関する著書が数多くあります。
この沖縄文化論は、1959年、1966年、沖縄を訪れたときのことについて、書かれています。
彼の見た沖縄は、今の沖縄とは、まったく異なる景色だと思いますが、沖縄の、そして人生のひとつの見方、考え方を教えてくれる一冊でした。
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公開中の映画「岡本太郎の沖縄」(傑作)の元ネタということで手に取ってみた。
御嶽(ウタキ)とよばれる森の中の聖域。海辺には風葬の痕跡。
「久高島にはこのおびただしい死と、ささやかな生の営みが、透明な比重の層となって無言のうちにしりぞけあっている。生はひっそりと死にかこまれ、死が生きているのか、生が死んでいるのか。・・・しかしあたりは限りなく明るい光の世界。清潔だ。天地根元時代のみずみずしい清らかさ、けがれのなさはこのようではなかったか」(P114)。
私自身、竹富島で早朝のウタキに行ったことがあるが、ホウホウというなぞの鳴き声、さらさらとそよぐ葉、うっそうとした茂みから漏れる光、あれは確かに神聖な気配に充ちた場所だった。
沖縄は日本の原点。谷川健一らほかの多くの学者も主張していることだが、人類学の素養と審美眼の二つを併せ持つ著者による類まれなる一冊と思う。
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はじめて沖縄を訪れた著者が、歌や舞踊、宗教のなかに息づいている生命をとらえたエッセイです。
沖縄のプリミティヴな文化に、文明化された本土においてうしなわれてしまった意義を求めるのは、一見したところ、朝鮮の白磁に「悲哀の美」を読み取ろうとした柳宗悦と同様のオリエンタリズムのように思えるかもしれません。しかしそうした評価はあたらないというべきでしょう。むしろ著者は、沖縄で「何もないこと」に直面したのであり、オリエンタリズムの物欲しげな視線が求める「意味」が尽きてしまったところで、はじめて沖縄と出会ったことを語っています。
八重山を訪れた著者が、人頭税によって苦しめられた人びとの歴史に思いを寄せながらも、「まともに生きている人間は誰だって、何らかの形で人頭税をしょっている。人間の生きるってのはそういうことだ」ということばをぶつけ、「島の人たちはやや呆気にとられているようだったが、やがて真顔になってうなずいた」と書かれているところに、著者がどのようなしかたで沖縄に触れたのかが、端的に示されているように思います。
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岡本太郎といえば、エキセントリックな言動の芸術家肌の人かと思っていたので、文章を読んで、こんな理知的に物事を論じることが出来る人なんだということを知って驚いた。
沖縄について、一般的な価値や見方を持って訪問した岡本太郎が、「期待していたものはここでは得られなかった」と、最初に述べている率直な感想がスゴい。
これは、よほど自分の審美眼に自信を持って、自分の価値観がはっきりと確立されている人物でなくては言えない言葉だし、そういう彼の視点から見た文化論であるからこそ、語られる意味があると思った。
沖縄本島よりも、そこから離れた離島のほうに岡本太郎は魅力を感じて、離島の記述に重点が置かれているところが面白い。離島になると、鳥葬があったり、人頭税があったり、独自の祭事があったりで、もう、まったく未知の文化で、日本とは完全に別物の文化を持っているように感じる。
もう既に、この本が書かれた時からは50年以上が経過してしまっているし、当時は本土復帰以前だったので、現代の沖縄とはだいぶ違っているのだろうけれど、独特な文化を色濃く残す土地が日本にあるということは、新しい発見だった。
私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない、といって差支えない、御嶽だった。
つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。そこに、うっかりすると見過ごしてしまう粗末な小さい四角の切石が置いてあるだけ。その何にもないということの素晴らしさに私は驚嘆した。(p.40)
昼は夢中で働いているからいいが、夜は淋しい。電気もない。村にトランジスターラジオが二つだけあるそうだ。夜になると村じゅうがそのまわりに集って聞く。だが天気の悪い日はそれも大変だ。若い人たちでも暗くなると早く寝てしまうよりほかはない。青春のエネルギーの苦痛な抑圧だ。(p.57)
人間の声はすばらしい。歌というと、われわれはあまりにも、作られ、みがきあげられた美声になれてしまっている。美声ではない。叫びであり、祈りであり、うめきである。どうしても言わなければならないから言う。叫ばずにはいられない、でなければ生きていかれないから。それが言葉になり、歌になる。ちょうど生きるために動かさなければならない身体の運動と同じように、ぎりぎりの声なのだ。(p.105)
この貧困と強制労働の天地に、文化とか芸術が余剰なもの、作品として結晶し、物化するということはできるはずがない。そんな時間、エネルギー、富の余裕はなかった。日夜、ドロのようになって畠を耕し、布を織り続けながら、同時に描き、彫りつけるなんてことは不可能だ。マチエールの抵抗をのりこえて表現する美術とか、「文化生活」なんて思いもよらない。ゆとりはみじんもなかった。それはかつての生活を、いささかホウフツさせる今日の開拓集落の暮らしを直視してもうなずけることである。
だが歌、踊りは別だ。それは今も言ったように生活そのものであり、それなしには生産し、生きることができなかったのだ。ここでは、そのように物ではなく、無形な形でしか表現されなかった。(p.112)
それにしても、今日の神社などと称するものはどうだろう。そのほとんどが、やりきれないほど不潔で、愚劣だ。いかつい鳥居、イラカがそびえ、コケオドカシ。安手に身構えた姿はどんなに神聖感から遠いか。とかく人々は、そんなもんなんだと思い込んで見過ごしている。そのものものしさが、どんなに自分の本来の生き方の「きめ」になじまないか、気づかないでいる。(p.169)
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「沖縄にこそ日本文化の純粋で強烈な原点がある」と、岡本太郎が確信に至るまでの沖縄との出会いと発見。日本の文化について考えるとき、避けては通れない一冊だと思います。
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岡本太郎が沖縄(八重山地域に関する話が多い)を訪れたときの旅行記と、日本文化に関する論考。
西洋的な現代美術及びその影響を深く受けた現代日本の美術や芸術は貴族文化がベースとなっているけれど、沖縄の文化(歌や踊り)は生活や労働に根付いたものであり、それが実は日本古来の文化なのではないか、という趣旨の論を展開している。
この考え方を敷衍して、沖縄が本土復帰するのではなく、本土が沖縄に復帰するべきなのだ、と主張している。
以前読んだ大江健三郎の『沖縄ノート』もこのような主張をしていた気がするので、この時期にこのような主張が流行っていたのかなとも思う。
岡本太郎の文章表現が非常に芸術的で、意図を読み取るのが難しい箇所も多くあったが、まだリゾート化する前の石垣島の様子も知れて、面白い本だった。
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NHK大河ドラマ「西郷どん」で、西郷が奄美で出会った女性・「とぅま」が手の甲に入れ墨をしていて、奄美・琉球のハジチという文化だと知った。
なにか惹かれるものがあり、また沖縄出身の歌手・Coccoのファンだったこともあって、沖縄の本を読みたいなあと思っていたところ、面見せされていたので購入。
一年以上積ん読していたところ、2022年は沖縄本土復帰50周年、読み時になりようやく読んだ。
【目次】
沖縄の肌ざわり、「何もないこと」の眩暈、八重山の悲歌、踊る島、神と木と石、ちゅらかさの伝統、結語、あとがき
神々の島 久高島、本土復帰にあたって
「一つの恋」の証言者として(岡本敏子)
とても興味深かったです。
私が読みたかった本でした。
p70「この世界では物として残ることが永遠ではない。その日その日、その時その時を、平気で、そのまま生きている。風にたえ、飢にたえ、滅びるときは滅びるままに。生きつぎ生きながらえる、その生命の流れのようなものが永劫なのだ。」
p173「沖縄の御嶽でつき動かされた感動はまったく異質だ。何度も言うように、なに一つ、もの、形としてこちらを圧してくるものはないのだ。清潔で、無条件である。」
p199「人々は久しく、厳しい搾取と貧困にたえながら、明朗さをもちつづけた。こだわらない。だが投げやりではない。呆れるほど勤勉に、せっせと働く。根こそぎとられたら、また作りはじめる。とばされた屋根は、また適当に拾ってきてのっけておく、といった具合。また次の台風までもてばいいというような、こだわらない建て方である。そのようにして民衆は永遠を生きぬき、生きついできた。」
上記は、滅びることを前提とするような、潔さの話だ。
震災があった後、私は、なぜそのような土地にまた家を建てるのか疑問だった。
でもあるとき、江ノ電からふと海をみて、「この土地がよいのだ、この海の、この景色がよいのだ。だからそこで生き続けたいのだ」と、理屈でなく感覚で、すとんとわかった。
それに最近、テレビ番組「日曜日の初耳学」で、成田悠輔さんが、人間は「滅びゆく動物」だと言っていた。
全然文脈は違うのだけれど、そういう考え方もあるのだなあと思ったところだった。
とてもフラットな意見として心に刻まれた。
p180「お風呂はただよごれを落し、身体をきれいに保つという実用的な意味だけでなく、多分に精神的で、マジナイ的要素がある。自分で気づかないで、毎日ミソギをやっているのだ。『ああ、いい気分だ。生きかえった』なんて、まさに再生の告白だ。」
小さな島では、禊は消毒のようなものだという。
清めの塩の由来を考えたこともなかったので、とても新鮮だった。
時代に取り残されたかのように、非科学的に見えても、実は意味がある。
私も翌日休みの場合、疲れていたりくさくさしていると、入浴せず寝てしまうことがある。
「まず一っ風呂あびて、さっぱりしてくる」ようにしようかな。
そういえば、エヴァのミサトさんも、お風呂は心の洗濯だって言ってたし。
太陽の塔とか「芸術は爆発だ」はぜんぜん知ら��いけれど、とにかくこの本はすてきです。
久高(くだか)島では、もう風葬は行われていないようです。
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川端康成「この本はいいねえ、沖縄に行きたくなった」
三島由紀夫「内容といい、文章といい、これこそ文学だ」
大阪万博の太陽の塔で有名な岡本太郎が本土復帰前の1959年に沖縄を訪れ、沖縄の持つ魅力と潜在的課題を見事に予見した「沖縄文化論」。
本土に何かを要求する前に、自分たちはこうなりたいという強い思い無くして、沖縄の豊かな未来像は描かれない。(「本土復帰に当たって」1972年)
沖縄戦:大日本帝国軍人の神懸った軍人精神の虚勢に自らを縛り、惨憺たる無意味な破局を眺めながら、虚栄の中に、反省もなく、「帝国軍人らしく」自刃した。旧日本軍の救いがたい愚劣さ、非人間性、その恥と屈辱を、私は嫌悪する。島民も兵隊も、飢えと疲労と恐怖でとことんまで追い詰められなお戦い続けなければならなかった。軍部が日本人に対しておかした傲岸無比、愚劣、卑怯、あくどさに対する憤りでやりきれない。
沖縄文化の本当の美しさは、芸術的遺品の中ではなく、人間、石垣、自然、歌や踊りといった生活そのものの中にある。それらは形として威圧してくるのではなく、こちらから全霊をもって見えない世界に呼びかける、その神聖感は身近で肌にしみとおる。
沖縄は戦争で何もかも失った。滅びなかったのは踊りや歌のような無形の文化財だけなのに、古いものはどんどん失われていく。
17世紀初め、沖縄は薩摩の島津氏に征服され、特徴的な沖縄女性の宗教的指導力(のろ、つかさ)は、武家社会という男性支配と対立し、弾圧された。
現代日本人にもある淡泊、思い切りの良さ、諦めといった気分はあるが沖縄の人にはより顕著に伺える。
久しく厳しい搾取と貧困に耐えながら明朗さを失わず、台風で飛ばされた屋根は、また適当に拾って乗っけておく、次の台風までもてばいい、そのように(なんくるないさ~)、彼らは永遠を生き抜き、生き継いできた。
神の島、久高島には毎月祭事があり、男たちも欠席は許されない。だから当時は一生、島から出たことがない人間も多かった。また、1959年当時には、風葬の習慣もあった。
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私が沖縄に関してもってる知識、観光、リゾートに関して80%、太平洋戦争の歴史に関して10%、独特な文化、風俗、農業など10%。
岡本太郎さんに関してもってる知識、太陽の塔を作った芸術家だということと、芸術は爆発だと言う名言のみ。
本土復帰前、観光開発前の沖縄と岡本太郎さん。私、何も知らなかったんだと思い知りました。
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私が少年の頃は、岡本太郎は奇妙な芸術家だと思っていましたが、この本を読んでたちまちファンになりました。沖縄だけでなく、日本の、ひいては文化芸術全般にたいする目が養われ、いま私自身が芸術にかかわる仕事をしていくうえでの、大事な感覚をもてたと思っています。
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芸術家が考えを言葉にできると、深い洞察と感受性により、ここまで鮮やかにまざまざと、感じたことを表現できるのだと感動しました。言葉もアートです。
「本土復帰にあたって」は涙がでました。