紙の本
何も無いことに事の本質をみる
2004/02/01 10:18
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:北祭 - この投稿者のレビュー一覧を見る
天才芸術家、岡本太郎。その昔、テレビのCMでピアノを弾くなりカメラに向かって「芸術はバクハツだ!」と叫んだ姿ばかりをイメージすると火傷をする。実は、岡本は艶と毒味のある独特な文章をあやつる作家という一面をもっていた。
本書が書かれた当時、川端康成は「あの本はいいですねえ。沖縄にいきたくなった」と語り、三島由紀夫は「『沖縄文化論』になぜ読売文学賞をやらないんだ。僕が審査員なら絶対あれを推すな。内容といい、文章といい、あれこそ文学だ」と絶賛したのであった。このエピソードから、当時の岡本に寄せられた評価の質を察することができる。
岡本は当時まだ米軍占領下であった沖縄を訪れた。『芸術新潮』に連載していた「芸術風土記」のための探検旅行の最後を締めくくる旅である。
はじめ、岡本は<何か在る>ことを期待していた。「私の究めたいのは、悠久の過去から未来にわたる因果の中で、沖縄の生命の本質がどのように運命と対決したか。またするか−」との意欲満々の思いを語る。沖縄見学をすすめるなか、人々の温かさや自然体としての風俗を体験していく。しかし、ある種の「けだるさ」におかされる。何かが足りない。
「私はまるまる一週間、島内をかけずり廻った。見るべきところはほとんど案内してもらったのだが、結果は予想に反した。いわゆる<文化>というべきもの、発見としてグンとこちらにぶつかってくるものがないのである。」
何も無いことに苛立ち、何も無いことに眩暈を感じる岡本。この率直な意見が文面から伝わり、もうそろそろ本書を閉じようかと思いつつ頁をめくった、まさにそのとき、一枚の老婆の写真に目が釘付けとなった。”久高のろ”である。
沖縄には日本の原始宗教、古神道に近い信仰が生きていた。各島、各村には必ず”祝女(のろ)”とよぶ、云わゆるシャーマンがいたという。岡本は久高島に入り、この島を護る祝女、すなわち”久高のろ”に会う。このくだりから、本書は突如として沖縄文化の本質に迫る緊張感に満ち始める。”久高のろ”が放つ清楚で強烈な印象が本書全体を覆い始める。
岡本は”のろ”の息子さんの案内で儀式に使われる神聖な場所「大御獄」に赴くが、そこには、なんと何も無い。「何の手ごたえもない」「ただの石っころだけ」。しかし、村に帰った岡本の身体を<うちつづけるもの>があった。
「日本の古代の神の場所はやはりここのように、清潔に、なんにもなかったのではないか。おそらくわれわれの祖先の信仰、その日常を支えていた感動、絶対感はこれと同質だった。でなければ、なんのひっかかりもない御獄が、このようにピンと肉体的に迫ってくるはずがない。−こちらの側に、何か触発されるものがあるからだ。日本人の血の中、伝統の中に、このなんにもない浄らかさに対する共感が生きているのだ。この御獄に来て、ハッと不意をつかれたようにそれに気がつく。
そしてそれは言いようのない激しさをもったノスタルジアである。」
<何か在る>ことを証明することは容易い。だが、<何も無い>ことに事の本質を見出すことはけっして容易なことではない。岡本太郎の芸術家魂は遂に日本文化の本質が<何も無い透明さ>にあることを掴み取ったのである。
紙の本
昭和期の偉大な芸術家・岡本太郎氏の沖縄の民俗について語った貴重な書です!
2020/07/22 09:32
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、昭和期に活躍された芸術家で、抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触されたことがあり、大阪万博の「太陽の塔」のデザインでも知られる岡本太郎氏の作品です。同書は、 苛酷な歴史の波に翻弄されながらも、現代のわれわれが見失った古代日本の息吹きを今日まで脈々と伝える沖縄の民俗について語った名著です。その根源に秘められた悲しく美しい島民の魂を、画家の眼と詩人の直感で見事に把えて描いてくれます。同書の構成は、「沖縄の肌ざわり」、「何もないことの眩暈」、「八重山の悲歌」、「踊る島」、「神と木と石」、「ちゅらかさの伝統」、「結語」、「神々の島久高島」、「本土復帰にあたって」となっています。
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岡本太郎氏がメディアに作られたイメージよりはるかに常識人だったことに驚かされる。沖縄や八重山の音楽や舞踊について触れている項目もあるが、彼の視点は主観的ではありながらも、共感や同情に終わることなく、終始平等で、厳しく、そして優しい。
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2007/06/01購入。岡本太郎が語る沖縄論。地知って言葉を知って気になる故郷のこと。琉球舞踊が無性に見たくなった。ユタにも興味を持った。
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凡庸な芸術論なんか足元にも及ばない一冊。
エコノミーに回収されない、一瞬の美しさを捉えた素晴らしい作品。
心が震える。
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本土復帰前の沖縄を旅した岡本太郎の見たものは何か。ユタ・御嶽(ウタキ)・闘牛・泡盛・市場・・・。「沖縄の人に強烈に言いたい。沖縄が本土に復帰するなんて、考えるな。本土が沖縄に復帰するのだ、と思うべきである。」太郎のメッセージは熱い。
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岡本太郎ってやっぱり頭良くて素直な人だったんだろうなという気がした。
読みやすくて面白い。沖縄に興味があるなら是非おすすめの一冊。
イザイホー見に行っててうらやましい。
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太郎さんが沖縄に行って書いた本。
日本古来の信仰が残っているところなんですね。沖縄は。
神道の元々の姿。自然信仰。
沖縄に行ってみたいなあ。
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岡本太郎が沖縄に取材し著した文化論。タイトル副題が如実に示すとおり、沖縄に残る土着の信仰、素朴なシャーマニズムのつぶさな観察から、我々本土の文化や意識にもかすかに残っている昔ながらの自然の見方・考え方・信仰を再発見していく。
こうした原初信仰のようなものが、本土では、あとから入ってきた宗教や氏族権力にまみれて大げさかつ俗っぽくなっていった。著者はこの過程を、沖縄で発見したひじょうに素朴な自然信仰との対比から想像してみせ、ピュアな力強さ、信仰、表現、美とはどんなものかということを、ほんとうに一生懸命に考えている。つまり、この本で語っていることは、岡本太郎さんの美術のテーマそのものでもあるようなのだ。
ところどころ難解でピンとこないところもあったが、ひじょうに面白い。
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沖縄が本土に復帰するのではなく、本土が沖縄に復帰するのだとのたまう岡本太郎はやっぱりかっこいい。たった数日沖縄を訪れるだけで、本質を見抜く岡本太郎って、やっぱり凄い人だったのだ。
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芸術を創りだすとか、文化が何ぞやとか...、それを語るとか...
そんな事を全く無視して存在するもの...って事なのか???
あの岡本太郎が『ビビーーット』来てしまった素の沖縄
観光の沖縄ではなくて、裏っかわの沖縄を覗きに....
行けるものなら..行きたいと思ってしまう。
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沖縄、それは岡本太郎にとって日本が残ると感じた場所だった。何もない、そう何もないのだ。彼にとって、沖縄を感じさせるものは、首里城やら焼き物ではなかった。石垣であり、舟であった。何か想いなりを込めて作った芸術ではなく、長い時間をかけて、生活が、自然が、意味を削っていった、純粋なる記号が彼を捉えたのだ。単純であること、自然であること。それが彼らから感じた事だとまとめられるかもしれない。
ロラン・バルトの「表徴の帝国」に通じるものを感じた。再読する必要性が絶対にある本だ。
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身体、というもの、根源にある力みたいなものをかんじられる場所なのかも。
女性が宗教的なパワーを持った存在として優位に立つのも興味深い。
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沖縄×岡本太郎・・・面白くないはずはない!
その導入から筆者の美意識に粛然とした。
著者は文字をもてなかった歴史の上に成り立つ歌・踊りといった無形のものや御嶽と呼ばれる神の聖所に心を奪われる。
そして沖縄の人の自然と生活感情を同質させ、こだわらないが投げやりでない生き方に素っ裸の原始日本を見る。
1959年というアメリカ統治下のレポートのため、現在の様相とは大分異なるはずだ。
しかし、著者が直観した深遠な魅力は、50年を経ても憧憬の的として私を惹きつける。
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岡本太郎が米軍統治下の沖縄を訪れて書いた、名高いエッセイ集。そもそも沖縄にひかれたきっかけが料亭で見た琉球古典舞踊だったというだけあって(124頁)、とくに「踊る島」と題された章はダンス論としても秀逸。日本舞踊ともバレエとも異なる琉球舞踊の特徴を言葉で書き起こした部分は描写の見事さにゾクゾクしてしまう。
「情感がもり上り、せまる。そのみちひきのリズムの浮動の中に、私はとけ込んでしまう。目で見ている、観賞している、なんて意識はもうない。一体なのだ。しかし、にもかかわらず、踊り手はまるでこちらを意識していないかのようである。見る者ばかりではない。世界に、身体が踊ってるということの外には何もないという感じなのだ」(127頁)
シャーマニズムに関する記述もある。久高島の御嶽(うたき)を訪れて、神聖な儀式の場所が実際は森の中のただの空地でしかないことに衝撃を受けるくだりなど異様なまでの迫力。
「神はこのようになんにもない場所におりて来て、透明な空気の中で人間と向い合うのだ。〔…〕神はシャーマンの超自然的な吸引力によって顕現する。そして一たん儀式がはじまるとこの環境は、なんにもない故にこそ、逆に、最も厳粛に神聖にひきしまる」(168-9頁)。