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オレ様化する子どもたち みんなのレビュー

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みんなのレビュー41件

みんなの評価3.3

評価内訳

38 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

なぜ子どもたちは荒れるのか、どう対処すればいいのか

2006/01/14 16:25

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:YOMUひと - この投稿者のレビュー一覧を見る

最近は小学一年生にまで下降した「学級崩壊」に現れる子ども問題発生の原因は、やや乱暴に単純化すれば、幼少のうちに身につけるべき倫理やしつけやの欠如であろう。子どもが著者の言うフロイト流の「象徴的な父」に出会っていないか、「象徴的な父」の力が圧倒的に弱いためである。その結果、主観を叩かれたことがなく、自分の力を過大評価する幼児的全能感が温存されたまま、学童期を迎えてしまうのであり、評者も同感するところである。
教育界、マスコミの「子どもは決して変わっていない」信仰のなかで1980年ごろから、幼児期の全能感に由来した自己を特権化する子どもの出現を察知したのは、著者が教師という教育の最前線に立つ鋭敏な実践家であったからであろう。
第二部では、宮台真司、和田秀樹、上野千鶴子、尾木直樹、村上龍の教育論を論鋒鋭く批評する。この部分もなかなかおもしろく、教育現場に基づいて理論武装した著者の方がこれらおなじみの著作家より一枚上手であることが見て取れる。
ただ、著者は、キリスト教の神のような超越的な「外部」を持たない日本という国の教師が「知的専門家プラス『魂』の導き手のような性格を持つようになっていった」というが、戦前においてならいざしらず、戦後教育を受けた評者が出会ってきた教師たちを思い出すと、一、二の例外はあるが、ちょっと違っていたといわざるを得ない。
教師が使命感を持つことはありがたいことではあるが、彼らがそのような過度の責任を負わざるを得ないと考えるのは、本来わが子に最も根幹的な家庭教育をなすべき世の多くの親たちがその責を、意識していなかったり、しり込みしているからであろう。

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紙の本

現場教師が宮台らをなで切りにする痛快さを味わうべし

2005/04/11 11:32

11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る

長らく高校教諭を勤め、また「プロ教師の会」の代表として活躍してきた諏訪氏が、注目すべき新著を出した。
戦後日本の教育論の流れにはいくつかの節目があるが、高度成長が日本列島の隅々まで行き渡り生活苦に悩まされる家庭がほぼ消失した70年頃が大きな曲がり角だったと考えられる。消費社会の出現で、子供のあり方自体が大きく変わっていったからだ。
そうした中で、登校拒否や校内暴力、いじめや学級崩壊などなどの問題が次々と発生した。マスコミは当初、学校が悪い、教師が悪い、教育制度が悪いと、すべての責任を教える側になすりつけていた。学校バッシング、教師バッシングさえしておけば教育論として成り立つ——そんな安易な風潮が続いたのである。
だが、80年代半ばにマスコミに登場した「プロ教師の会」が、こうした状況に一石を投じた。彼らは現場を知る教師の立場から、子供や保護者の質自体が根本的に変わってしまっている以上、昔の教育論はもはや無効になったと宣言したのである。当初は戦後民主主義的な論者から批判も多く出されたが、今振り返ってみると「プロ教師の会」の正しさは歴然としていた。
前置きが長くなった。この『オレ様化する子どもたち』は2部構成となっており、第1部では著者のこれまでの言論活動を振り返りながら、改めて子供の質が変化していると指摘している(タイトルは主として第1部から来ている)。そして第2部ではそれをもとに近年の教育論を批判しているのだが、本書で断然面白いのはこちらの方である。
例えば最初に俎上に載せられるのは宮台真司である。共同体的なものを否定して市民社会的なものを肯定する宮台氏に、いったい社会は完全に共同体的であったり市民社会的であったりできるのか、その双方を含むのが社会ではないか、という疑問を諏訪氏は突きつける。また、「社会の学校化」という宮台氏の図式に対して、諏訪氏は逆に、学校が消費社会化して教育が成り立たなくなっているのが現状だと喝破する。
同様の批判は上野千鶴子に対しても向けられる。上野氏が「学校化している社会」「偏差値で輪切りにされる」という図式を持ち出しているのに対して、諏訪氏は冷徹に次のような例を示している。「豆腐」という文字をたまたまA高校生が読めなかったのでコンビニが「A高校生はアルバイトお断り」とした。「オーナーは『豆腐』が読める程度のアルバイターが必要であり、その方針に基づいて(…)A高校の生徒をアルバイターからはずそうとした。(…)『学校的価値』なるものの影響を受けてそうしたわけではなく、(…)そこに働いているのは純粋に経営の合理性であり、効率性である。」
他にも何人もの教育評論家が批判されているのであるが、現場を知る人間のこうした透徹した論考と、宮台氏や上野氏の浅い人間理解とを比較すると、「学者」に対する世の中の不信感が否応なく増大してしまいそうで、いささか心配になる。
なお、本書には重要な指摘が含まれていることにも触れておこう。同じ「プロ教師の会」の河上亮一氏が小渕内閣時代に自民党の研究会に呼ばれて行ったとき、若手と中堅の議員は教育に「市場原理」「競争原理」を持ち込むのを常識と見、これに反対する河上氏を「抵抗勢力」と見たと書かれている(146頁)。昨今の「教育改革」に混迷をもたらした一因が見えてこよう。宮台氏らの嫌う「共同体的なもの」こそ教育に欠かせない原理であり、それは市場や競争を讃美する近代産業社会とは根本的に相容れないのだ。本書はその意味でも、「抵抗勢力」と呼ばれることを敢えて引き受けつつ教育の本質を提示した好著と言えるのである。

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2005/03/28 14:07

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2010/02/02 20:35

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