紙の本
なぜ子どもたちは荒れるのか、どう対処すればいいのか
2006/01/14 16:25
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:YOMUひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
最近は小学一年生にまで下降した「学級崩壊」に現れる子ども問題発生の原因は、やや乱暴に単純化すれば、幼少のうちに身につけるべき倫理やしつけやの欠如であろう。子どもが著者の言うフロイト流の「象徴的な父」に出会っていないか、「象徴的な父」の力が圧倒的に弱いためである。その結果、主観を叩かれたことがなく、自分の力を過大評価する幼児的全能感が温存されたまま、学童期を迎えてしまうのであり、評者も同感するところである。
教育界、マスコミの「子どもは決して変わっていない」信仰のなかで1980年ごろから、幼児期の全能感に由来した自己を特権化する子どもの出現を察知したのは、著者が教師という教育の最前線に立つ鋭敏な実践家であったからであろう。
第二部では、宮台真司、和田秀樹、上野千鶴子、尾木直樹、村上龍の教育論を論鋒鋭く批評する。この部分もなかなかおもしろく、教育現場に基づいて理論武装した著者の方がこれらおなじみの著作家より一枚上手であることが見て取れる。
ただ、著者は、キリスト教の神のような超越的な「外部」を持たない日本という国の教師が「知的専門家プラス『魂』の導き手のような性格を持つようになっていった」というが、戦前においてならいざしらず、戦後教育を受けた評者が出会ってきた教師たちを思い出すと、一、二の例外はあるが、ちょっと違っていたといわざるを得ない。
教師が使命感を持つことはありがたいことではあるが、彼らがそのような過度の責任を負わざるを得ないと考えるのは、本来わが子に最も根幹的な家庭教育をなすべき世の多くの親たちがその責を、意識していなかったり、しり込みしているからであろう。
紙の本
現場教師が宮台らをなで切りにする痛快さを味わうべし
2005/04/11 11:32
11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
長らく高校教諭を勤め、また「プロ教師の会」の代表として活躍してきた諏訪氏が、注目すべき新著を出した。
戦後日本の教育論の流れにはいくつかの節目があるが、高度成長が日本列島の隅々まで行き渡り生活苦に悩まされる家庭がほぼ消失した70年頃が大きな曲がり角だったと考えられる。消費社会の出現で、子供のあり方自体が大きく変わっていったからだ。
そうした中で、登校拒否や校内暴力、いじめや学級崩壊などなどの問題が次々と発生した。マスコミは当初、学校が悪い、教師が悪い、教育制度が悪いと、すべての責任を教える側になすりつけていた。学校バッシング、教師バッシングさえしておけば教育論として成り立つ——そんな安易な風潮が続いたのである。
だが、80年代半ばにマスコミに登場した「プロ教師の会」が、こうした状況に一石を投じた。彼らは現場を知る教師の立場から、子供や保護者の質自体が根本的に変わってしまっている以上、昔の教育論はもはや無効になったと宣言したのである。当初は戦後民主主義的な論者から批判も多く出されたが、今振り返ってみると「プロ教師の会」の正しさは歴然としていた。
前置きが長くなった。この『オレ様化する子どもたち』は2部構成となっており、第1部では著者のこれまでの言論活動を振り返りながら、改めて子供の質が変化していると指摘している(タイトルは主として第1部から来ている)。そして第2部ではそれをもとに近年の教育論を批判しているのだが、本書で断然面白いのはこちらの方である。
例えば最初に俎上に載せられるのは宮台真司である。共同体的なものを否定して市民社会的なものを肯定する宮台氏に、いったい社会は完全に共同体的であったり市民社会的であったりできるのか、その双方を含むのが社会ではないか、という疑問を諏訪氏は突きつける。また、「社会の学校化」という宮台氏の図式に対して、諏訪氏は逆に、学校が消費社会化して教育が成り立たなくなっているのが現状だと喝破する。
同様の批判は上野千鶴子に対しても向けられる。上野氏が「学校化している社会」「偏差値で輪切りにされる」という図式を持ち出しているのに対して、諏訪氏は冷徹に次のような例を示している。「豆腐」という文字をたまたまA高校生が読めなかったのでコンビニが「A高校生はアルバイトお断り」とした。「オーナーは『豆腐』が読める程度のアルバイターが必要であり、その方針に基づいて(…)A高校の生徒をアルバイターからはずそうとした。(…)『学校的価値』なるものの影響を受けてそうしたわけではなく、(…)そこに働いているのは純粋に経営の合理性であり、効率性である。」
他にも何人もの教育評論家が批判されているのであるが、現場を知る人間のこうした透徹した論考と、宮台氏や上野氏の浅い人間理解とを比較すると、「学者」に対する世の中の不信感が否応なく増大してしまいそうで、いささか心配になる。
なお、本書には重要な指摘が含まれていることにも触れておこう。同じ「プロ教師の会」の河上亮一氏が小渕内閣時代に自民党の研究会に呼ばれて行ったとき、若手と中堅の議員は教育に「市場原理」「競争原理」を持ち込むのを常識と見、これに反対する河上氏を「抵抗勢力」と見たと書かれている(146頁)。昨今の「教育改革」に混迷をもたらした一因が見えてこよう。宮台氏らの嫌う「共同体的なもの」こそ教育に欠かせない原理であり、それは市場や競争を讃美する近代産業社会とは根本的に相容れないのだ。本書はその意味でも、「抵抗勢力」と呼ばれることを敢えて引き受けつつ教育の本質を提示した好著と言えるのである。
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目の当たりにする状況にえらく一致するところが多く、ひざポン状態。しかし、しばらく考えて、自分を含めた世代も「オレ様化」しているなぁ、と反省。
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子どもが変わってきている事や、個別化の前に社会化が必要だという主張など、納得できる点は多いです。
ただ、全体として懐古的な印象を受けます。
「学校論」「教育論」が「変わらない」とか「学校の変容」は「可能か?」とか「変わらない教師」とか……。
全体としてやや保守的だともいえます。
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購入日不明。1日で読了。
ベテラン教師による教育論ということで、そこいらの学者とは違う視点で書かれた本なのだなと期待していたのだけれど、裏切られた感がある。本書は、著書が見てきた生徒、有識者への反駁、結論という3部構成なのだが、まず第1部。昔は良かったという感じの単なる回顧主義めいた文に終始している気がする。まあ団塊親父の酒の肴にはなるかもしれないけど。第2部は粘着質すぎ。どうせなら対談形式にして欲しかった。一方的な批判派やはりずるい。そして最後。現場教師ならではの示唆に富む提案が来るか、と期待したのだがそうはいかず。「個性」よりも「社会市民」としての常識や考え方を教え込むべきっていうのが著者の主張なんだろうけれど、そういう理論は学者に言わせておけばいいんじゃないだろうか。もっと現実的で建設的な提案がなされると思ったんだけれどな。斜め読みで良かった。
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やや難解な記述だが,非常に論理的で説得力がある。つまるところ,現代の子どもは消費者的で,対価的関係を求める・教育の責務は個別化の前提として協調性を育てるべきという主張。もっともだと思うが,途中の批判文は読んでいて疲れる。
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かなり間を置いて読んでしまったので、繋がらなくなってしまった。付箋を貼って読めば良かったと後悔。
これは再読の必要有り。
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教師生活を通じて子どもと触れ合ってきて、子どもが変わってきているから教育問題が起きているのだと断言する。教育制度がこどもにあっていないという現在主流の教育論について真っ向から反論し、子どもは根源的に間違っていないという考えに警鐘を鳴らす。
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この中に書かれている、オレ様化現象が現実だとすれば、
全てを学校の責任だと押し付け、解決法を追求するには無理があるのだろうと思った。
子ども達全般に、このような風潮が広まっているのは、いったい何が原因なのだろうか。
教える側と教えられる側は、誰が何と言おうと上下の関係でよいのではないのか。
今は、先生が注意する事も躊躇し、まずは“アイ・シンク”、私はこのように思うのだが、どうなのかな?などという、まどろっこしい言い方しかできなくなっているそうだ。
子ども達は子ども達で、自分だけの意見であろうことを自己主張するというのではなく、
自分が思うことはみんなも思っているに違いない。または、思うべきである。そう、考える子どもが多くなっているとの事。
何か悪い事をして、その場を押さえて注意しても、“やっていない”の一点張り。
そのような中で、教育していく教師達は、どれだけの苦労を強いられているのだろうか。
親と生徒の板ばさみで、精神的にもダメージを受けている教師が増えているというが、これでは、仕方がないと気の毒に思う。
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前半中々おもしろかった&興味深かったのですが
後半の色んな人(村上龍とか)の論文&著書等々を引用し、批判していくくだりは
読んでて若干しつこかったです。
でも「子供」自体を批評する本ってあまりないので
教育論的な事を語る本の中では好きです。
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子どもたちの変貌を教育の面からアプローチしています
第二部では著名な人がそれぞれ語っているけど、
少子化や時代の豊かさから子どものこと大切にしたいって思いが
裏目にでてこの結果になっちゃったのかな
どうしようもないなぁ
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p64『学校は成績評価、人物評価、規律や規範を提示することによって、子ども(生徒)たちに近代的な個人(市民)の「客観値」を示し、自己との距離を測らせようとする。距離が測れるようになるということは、(私そのもの)へのこだわりを少なくして、世の中に通用する大人になることだと表現してもいい。』
p68『勿論、10年前の学園闘争のときにも教師にその意味はわからなかった。しかし、何を主張(要求)しているかはわかった。当時は、まだ、教師と生徒は同じ文化性、コード、時代感覚にある、言葉は通じていたからである。』
p87『頭と身体が「商品交換」(人と人とは対等なやりとりをしなくてははならない)を求めている。いや、そう生きなければならないと「消費社会的」社会の倫理に脅迫されている。自分以外の誰かに判断を委ねたりしてはいけない。全て自分で決めなければいけないのである。だから、「共同体的な子ども」と違い、教師の話を一歩退いて聞こうとしていない。つまり、学ぼうとしていない。』
p98『子ども・若者たちは共同体による保護がなくなり、いつも自立(孤立)し「個」として「等価交換」に脅迫されているように見える。…「新しい学力観」にあるように、子ども(買い手)の望むものを、望むレベルとスピードで与えようとする「等価交換」の発想は、市民社会性に基づいて共同体的な教育を否定しようとしている点では進んでいるように見えるが、子どもの育つリアリティや現実に即していない。教育の必要性はまず子どものほうよりも、子どもを抱え込もうとする社会のほうにある。普通教育の前半において社会が必要とするものを、必要とするやり方で子どもたちに提示することに怯む必要は全くない。勿論、そうすることの痛みは感じなければならないが、そのことによって当座はあまり勉強をしたくない子どもも救っていけるのである。』
p115『太陽系の運行について教えられていながらあえて実感にこだわることや、生命体の死の復元可能性を信じることは、近代の「知」への離反ないしは違和を表していよう。近代社会と近代社会に生きる「個」の確かさが子どもたちに疑われてきている。学校教育を受けた近代的個人(市民、国民)とは、自分の目に見えないもの(こと)や、自分にわからないもの(こと)にも価値があることを知っているもののことである。もちろん、ひとりの「知」や検分で世界の全てを確かめることはとうていできないから、ほかの人たちの意見や認識や見聞を信じるということである。つまり、近代的な個人にとって必要なことは、何より「近代(社会)」というものを信じていることであり、近代社会に生きることが自己の実現につながると確信することであろう。』
p160『いずれにしても近代の世代は、全ての人との相互行為において「等価交換」を求めようとするから、相手に対しティ津用意上に厳しくなってしまう。・・・・・・みんな無限の「贈与」である『愛」から非常に隔たっている。この出来事は、そういう私たちの危機的な事態の一つの現れのように私には思える。』
p184文科省がこの十年ぐらい言ってきた「自分探し」
『私は、自分で自分を探しても自分は見つからなかろうと思う。本当の完璧な���分がどこかにあると設定されているからである。いつでも不満でもの足りない自分を発見して、さらに内部へ内部へと入り込もうとするのではなかろうか(オウムの若者たちのように)。自分は今の自分から「選んで」、自ら「つくり上げよう」とするものであり、自ら選んでつくり挙げたことの責任を取ろうとする営みの中で、ある程度確定されてくるものであろう。ある断念なしに自己とは出会えない。』
p189『幼児的全能感』が『社会(「外部」)』から『叩かれないと、「全能感」や「好奇心」のみが肥大化して成長し、社会性が育たず、「オレ様化」する可能性がある』『子どもが社会性を身に付けるということは、自己の「全能感」を挫折させることにほかならない。』『おとなとしての資格のひとつは、「全能感」を抑制できることであろう。そして、「全能感」がうまく志向性を持ち社会化されたものが「好奇心」であるとも考えられるのである。だから、「全能感」ではなく「好奇心」を持つとは、すでにその「個」がかなり「社会化」された人になっているということである。』
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いわゆる最近の若者論だか、長年教師をやってきた著者ならではの説得力と切迫感で書き上げている。良書です。
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学校の課題のために読んだ本。教師と対等になりたがる?オレがいいと思うことはみんないいと思ってる?オレ様化した子ども達、その原因は?「幼児期の全能感」をなくせ。学校の本来の目的ってなんだろう。オレ様化しないためにはどうすればいいんだろう、と考えさせられる本。
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内田樹の『下流志向』で取り上げられたので読んでみた。
“80年代以降の子供たち”である私にとって(生まれは79年だけどね)身につまされる話ばかり。
自分探しの罠に陥りがちなわが身を振り返り、
自分のためより人のために働かなければと思うこのごろ。