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保守という立場の、本来の、本当の意味でのモノの考え方の核心を、懇切丁寧に教えてくれる良書。内容は高度だったが、大事なポイントはつかめた気がする。そして改めて、僕自身も正しい意味で「保守」でありたいと感じた。ところで、出版直前に版元が変わった経緯があとがきに記されている。中島さんの言うことは正しいが、同業者としては、元の担当編集者にも同情してしまう。自分でこの本を出したかっただろうな…
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確認先:町田市立中央図書館
保守主義の起源とその「歪曲」の有様(というよりも惨状ぶり)をある意味で保守思想を理解する者からの苦言と読むことが可能である。
現在保守を声高に主張する人々は、総じて「俗流保守」であると中島は喝破する。この喝破行為そのものは、ハンナ・アーレントの「エクスコミュニスト(元共産党員)」論文で示されたことの繰り返しではある(ここで言うべきは、「元共産党員」の姿格好そのもの、つまり「敵を完膚なきまでに駆除するには敵のやり口を使うのが適切であり、この世には全なる敵と全なる味方しかいないのだ」という幻想をばら撒く、出来損ないの宣教師を描いたのとほぼ同じだということである)。
さらに問題として中島に映るのは、そうした「肥大的にアトム化した自我」を現に戒めてきたはずの保守思想さえも、一時の幻想に目をくらまされたことへの忸怩たる思いがあることは言うまでもないだろう。「不完全な存在としての人間」あるいは「自我や自己の右肩上がり発達・成長モデル」への不信感をその土台とするならば、なおさら「このままではだめだ、一切を変えなくてはならない(これは1920年代後半のドイツで一種の「流行語」になったフレーズである)」とするような「力への渇望」を戒める人間の智慧を足蹴にするような態度をよもや「保守」がいえるわけが無いからだ。
中島は言う。「保守に反動などありえない」と(伝統などを重んじるであるならばなおさら、それに胡坐をかくことは許されざるものであるがゆえに)。「現在も過去も出来損ない」でしかないもの、であるならば「ばら色の未来」も結局は出来損ないでしかない―この出来損ないの世界を見たくないという潔癖症的な態度だけで世界が変わらなかった現実は、先人の智慧となって私たちを(実はひそかに)守っている。
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序章 「リベラル保守」宣言
1章 保守のエッセンス
2章 脱原発の理由
3章 橋本徹・日本維新の会への懐疑
4章 貧困問題とコミュニティ
5章 「大東亜戦争」への違和
6章 東日本大震災の教訓-トポスを取り戻せ
7章 徴兵制反対の理由
8章 保守にとってナショナリズムとは何か
保守とは何かを考える上で、エッセンスもあり、時事的なテーマをだして保守とは何かを論じてくれているので、とても分かりやすい。
価値や社会の在り方を考える上で、こういった著作から学ぶことは本当に多い。
本書に登場する思想家をしっかりと読み込んでいきたい。少しずつ・・・
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学術論文だから良いとかエッセイだから悪いとかそういう議論は抜きにして、大変読みやすく戦後「保守」とは何か考えさせられる内容だった。そして、おそらく自分は保守ではないだろうと悟った....。
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保守の思想を「人間の理性によって理想的な社会を作ることなど不可能である」と断言している.この発想は左翼のそれの反対をなぞったもので、泥臭い人間の本生から出てくるものと理解した.となると、今保守と呼ばれている連中が本当に保守思想を持っているのかと、あらためて考えてみると疑問点が多い.原発や橋下維新、大東亜戦争、徴兵制などのトピックで定義した保守思想を検証している.ただ、断言出来にくい問題だかも知れないが、論点がややボケている感じがした.
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今の日本は右傾化しているという指摘がよくなされているが、果たしてそうなのか。どうやらちがうのかもしれないということがわかった。思想に基づいて思考することが正しいのかどうかは置いておくが、目先の利益の優先、もしくはいわゆる「仮想敵」をつくりあげてただ難癖をつけたい、誰かを罵倒したいというだけで、保守という思想のもとに思考している人は皆無に等しいようだ。でも、そういう自覚のない言論が何の躊躇もなく流布していることがいちばん恐ろしいことなのだと思う。
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なぜ「保守」を自認する安倍政権が「改憲」を目指すのか。不思議で仕方なかったが、要するに彼らは真の意味で「保守」ではないということか。「保守と「リベラル」が対立する概念ではないようです。本書は「保守」のあるべき姿とはなにかに多くの紙幅が割かれていますが、「リベラル」とは何かについての言及にまでは至っていません。タイトルにある「リベラル保守」とは何か、消化不良でした。
(以下引用)
「リベラル(liberal)という単語を辞書で調べると、「自由」以外に「寛容」という意味が出てきます。「自由」は常に「寛容」とてもに存在します。(P.20)
保守は特定の人間によって構想されたイデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。(P.33)
保守にとって重要な能力は、ユートピアを設計する能力ではなく「経験の神秘と不確実性とを従容として受け入れる能力(マイケル・オークショット)です。このような人間の不完全性を謙虚に受け止める「冷静さ」と「懸命さ」こそが、まずは保守に要求される基礎的な能力です。(P.35)
日米安保の強化を唱える自称保守は、リアリズムという観点から、左翼陣営の平和論を批判してきました。曰く、「絶対平和論は空想的な理想主義で、現実政治のリアリティの中では意味をなさない」と。周辺諸国の脅威がある以上、それに対処するには日米安保を強化することこそが現実的な選択であるというのが彼らの主張でした。その結果。「理想主義の左派」vs「現実主義の保守」という対立構造ができあがり、多くの人びとがこの構図を自明視する状況が続いています。保守は日米安保というリアリズムを選択をするのが当然という感覚が浸透しているようです。しかし、この構図は正しい対立図式なのでしょうか。(P.90)
チェスタトンの言うように、同質な者ばかりとの関係性に安住していると、価値の葛藤に耐えられない自閉的存在になってしまいます。(P.141)
この日本型雇用・福祉システムを破壊し、新自由主義的な政策を導入したのは、他ならない自民党です。家族の基盤を破壊した上で、なおかつ「家族に頼れ」というのは無理な話でしょう。(P.144)
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コミュニタリアン(サンデル)と同様、「負荷なき自己」を想定するリベラリズムを批判し、いわば「負荷ある自己」を前提とするのが「真の保守思想」であるとする。
そして、「真の保守思想」において重視されるべきは、自己を否応なく規定する「負荷」=「自己の場所」=「ポトス」であり、それがあるからこそ、「公民」としての意識が醸成され、「大衆」に堕することが防止される、人民の大衆化による民主制の堕落を恐れるのが「真の保守思想」である、と論じる。
「保守思想」ないし「保守主義」に独特な意味合いを持たせるのは、著者が影響を受けたと認める西部邁に由来する態度と思われる。
本書は、「左翼」と並んで「新自由主義」を主たる論敵としているが、「新自由主義」を明確に定義しないので、見えない敵と戦っているように思える。
また、その論調は、設計主義的合理主義を批判したハイエク(しばしば保守派の論客と位置づけられる。)の主張と大きく重なる。しかし、ハイエクには一切言及がない。それは、保守主義は「主義」ではなく態度に過ぎず、保守派は全体主義及び社会主義と闘うために自由主義を借りたに過ぎないというハイエクの保守主義に対する批判的態度を嫌ってのことかもしれない。
本書は、その前書きにあるとおり、後に出版を企図している著書のメモであるから、続編で詳細な理論が明かされると思われる。
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本書は、保守思想の解説を交えながら、原発問題や橋下・維新の会など、具体的なテーマについて筆者の意見を述べている。以下に詳しい感想が有ります。http://takeshi3017.chu.jp/file6/naiyou23201.html
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元々はNTT出版で出す予定が、橋下徹批判の章を削除するかどうかでもめたため、別の出版社になったようだ。
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自分は現場で葛藤しながらやってきて、中島さんが言う、リベラル保守に近づいているのだなと思った。だいぶ楽になった。