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田中首相と大平外相のすばらしさがわかる。
日中国交正常化交渉において、チャイナスクールは排除されていた。アメリカとの関係を重視した上での日中国交正常化だった。
田中総理は訪中してからは大卒に交渉を任せて暇で漢詩を作っていた。
周恩来は佐藤内閣から田中内閣に変わったことで、佐藤内閣のことはあなたたちのせいではないというスタンスに。
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1972年の日中国交正常化交渉についての新書。日本側のメインプレイヤーだった田中角栄と大平正芳に加えて、橋本恕アジア局中国課長、栗山尚一条約局条約課長といった当時の外務省官僚たちのオーラルヒストリーを通じて語られている。懐かしの「プロジェクトX」のような内容で、いささかジャーナリスティック的な叙述であるが、抜群に面白かった。
日中国交正常化前夜
1971年7月15日の「ニクソン・ショック」により、アメリカは対中政策を大きく転換させた。日本への通告はニクソンの会見のわずか20分前であり、完全に蚊帳の外に置かれることになった。当時のアメリカ大使だった牛島信彦の回顧によると、当時の繊維貿易摩擦による日米間のこじれが、日本が蚊帳の外に置かれる背後にあったのではないかと推測している(P.35)
1972年7月7日に田中角栄内閣が成立する。角栄は始めから日中国交正常化に熱心であったと今では思われているが、田中が日中国交正常化に意欲を示したのは、総裁選勝利のために三木武夫を自陣に引き込む必要があり、実利的な側面が大きかったとしている。この時、中曽根康弘は日中国交正常化の断行を田中に呑ませることで総裁選立候補を辞退している。(P.46) 筆者によれば、
「もともと田中は、日中国交正常化を天下取りの一環に位置づけており、いざ首相になると二の足を踏んだのである。有り体にいえば、田中はぶれていた。」(P.61)
との事である。田中以上に日中国交正常化に執着していたのは盟友であった大平正芳(当時外相)であった。クリスチャンであった大平は中国に対して贖罪意識があったようだ。
1972年7月27日に竹入義勝(公明党委員長)と周恩来が会談。会談内容を書いた「竹入メモ」を叩き台として、日中共同声明案が作られた。橋本恕中国課長が共同声明案の骨子をメモに書き出し、条約局の高島益郎局長と栗山尚一課長が案文を作成した。ここで注目しておきたいのが、外務省内のチャイナ・スクールが日中国交正常化交渉から完全に排除されている点である。橋本の上司である吉田健三アジア局長は政策決定から外されており、それ以外にもチャイナ・スクールの小川平四郎外務省局長や岡田晃香港総領事も排除されている。日米関係より日中関係を重視するチャイナ・スクール北京派を排除して、日中国交正常化はサンフランシスコ体制内で処理されたということである。日中国交正常化において、外務省内の橋本恕、栗山尚一といった課長クラスが中心的な役割を果たした。(P.76-P.82)
日中国交正常化交渉
日中国交正常化協議会の会合において自民党内タカ派の突き上げがあったり、党内の長老だった椎名悦三郎を特派大使とした議員団の訪台を経て、1972年9月25日からいよいよ日中国交正常化交渉が始まる。この辺の記述は多くの当事者の証言が引用されており、スリリングだった。角栄が行った「ご迷惑」スピーチは周恩来を激怒させたことで有名だが、橋本の回想によると、角栄のスピーチ内容は橋本がすべて書いたものであり、スピーチ内容の翻訳はあらかじめ翻訳されて中国に渡され会場に配布されていた。周恩来はスピーチ内容を知っており、周が激��したのはある種のブラフであったとしている。(P.150)
日中国交正常化交渉において、もっとも問題になったのは、日本の対中損害賠償問題よりは台湾問題であった。台湾の取扱に関しては、日中共同声明の第三項において、「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本政府は、この中華人民共和国の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」という双方妥協的な内容で合意している。日本側としては、台湾は中国の領土の「不可分の一部」であると認めているが、中国の武力統一は認めておらず、飽くまで話し合いによる解決を志向しているというものである。また尖閣諸島問題に関しては棚上げがなされた。これは当時、中国側がソ連の脅威を意識しており、周も日本とは早めに妥協したい本音があったとしている。(P.168)
終章では、日中正常化交渉の総括が成されている。中国の復交三原則は、①中華人民共和国は中国唯一の合法政府である。②台湾は中華人民共和国の領土の不可分な一部である。③「日蒋条約」(日華平和条約)は不法であり、破棄されなければならない。といったものであった。栗山の回想によると、日本からすると中国の第二、第三原則を承認したわけではないし、周もその点を理解していた。また大平の国会答弁を見ると、武力による統一までは容認していないことが、「基本的には」の含意だったと結論付けている。(P.194) (P.206)
筆者は、台湾問題や尖閣諸島問題といった課題も残されたが、田中角栄・大平正芳コンビが内閣を作っていた1972年が日中国交正常化交渉の絶妙なタイミングであり、この時でないと日中国交正常化は成し遂げられなかったと結論づけているが、同意見である。本書は矢吹晋による激烈な批判があるが、日中国交正常化交渉を知るにはマストな本だろう。オススメです。
評点 8点 / 10点
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近隣国との摩擦について、今に至った経緯を改めて顧みる為の一冊。ややもすれば即物的に判断しがちであるが、過去の(特に中国、台湾、韓国、及びアメリカとの間の)外交においての”agree to disagree”という知恵が、ここに至る日本の外交的地位を支えてきたことは厳然たる事実であり、それを否定するのであれば、それに置換しうる枠組みを実現できる政治・外交・軍事的な裏付けを以ってして否定すべきで、それ無しに感情的に反対するのは、徒らに国益を損ねることになることに、留意すべきだと、改めて感じた。昨今、外交について安易な言質が持て囃されるが、その代償を支払うのは、政治家でも外交官でも言論人でもなく、自衛官や海上保安官、警察官、そして一般の人々なのだ。
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豪放な田中角栄と緻密な大平正芳という全くタイプの異なる二人の政治家が主導して成し遂げた日中国交回復。しかしリーダーの田中は「外交のことは分らん、大平君、君にまかせる。しかし責任は全部俺がかぶる」と腹をくくる(p216)。そして政と官との関係では、上が下を信頼し、下も上を信頼して、一点の目的のために仕事をする(p217)という体制があった。ソ連の脅威という時代背景はあったにせよ、中国は対日賠償請求権を放棄し、田中は(「ご迷惑発言」による混乱はあったものの)率直に戦争責任を認め、大平も中国に対する深い贖罪意識を持っていた。また田中が尖閣に言及すると、周恩来は「今、これを話すのはよくない」とその場での議論を避けたという(p168)。日本の政治や政治主導のあり方、日中の関係において、現在では考えられないような状況が50年前にはあったということ。貴重な現代史だと思う。2011年刊行。
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読み進めるのに、少し時間がかかった。
戦後の日本、世界の情勢を知らなかったので、細かな交渉駆け引きなどは、正確に理解出来てないと思う。
当時の政治指導に長けた人物の描写はわかりやすく面白かった。
こんな政治家が、今いないのが残念。
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当時のダイナミックな変遷が伝わってきました。ほんの数ヶ月の間とは思えないような大事件と、それに関わる人々の才能と苦悩を垣間見た気がします。