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最近、内田さんのブログを知りました。今から過去の膨大なブログを編年体で読んでいくのは大変なので、分野別になっているこの本はとても助かります。
頭のいい人の物の考え方が、少し分かったような気がします。他のも読んでいきたいです。
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ここのところわたしの知的欲求のほとんどは内田先生の御本を拝読することによって満たされている。読みながら、満たされたそばからまた新たな知的欲求に駆られるので、もうずっと読みたい本が尽きない。
手元に置いて再読したい本。
あー、早くひとり暮らしして本棚を買ってこの本をそこに並べたい。
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書くとはどういうことか、読むとはどういうことか。ある書き手の言葉が読者に伝わるとはどういうことか。
そういうことに関する論考が集まった本です。
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街場の読書論
内田さん独特の書き口で読んできた(読んでいる)本の解説を加えている著書。時に著者の思い以上の何かを汲み取り、展開していく様はさすが内田先生、非常に読みやすく、頭がよくなった気になってしまう。頭がオーバドライブする感覚、一度味わってみたい。
下記、備忘録のため章を記載。
(何かしら記憶の糸口があると、思い出しやすいから)
1章 文芸棚
シャーロックホームズの溯及的推理
ある出来事の前段を推理する力
2章 人文棚
平川克美
3章 ウチダ棚
4章 教育棚
5章 著作権棚
6章 文章とリテラシー
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内田樹の本を読んだことがなかったので、とりあえず1冊、と思い、図書館で借りて読んでみました。
内田樹の、ものすごい読書量と、視点の鋭さと、感覚的なものを的確に言葉にする表現力が、よくわかりました。
が、理系的なものに対する物言いについては、若干、違和感がありました。
とはいえ、面白い本だったので、内田樹の本は、これからも読んでいきたいと思っています。
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ときたま内田樹のブログを読む。この人のここ数年にばかすか出た本は、ブログコンピ本が多いので、読んでいると、あーこれ確かブログで読んだなーと思う。この本は、おもに「書物」や「書くこと」について内田が書いたものが編まれている。
とくに5章の著作権棚におさめられている文章は、「『We』がこの頃ほんまに売れへんなー」ということと照らして、いろいろと考えることが多かった。たとえば「読書と書籍購入者」には、こんなことが書いてある。
▼ネット上で無料で読もうと、買って読もうと、どなたも「私の読者」である。本は買ったが、そのまま書架に投じて読まずにいる人は「私の本の購入者」ではあるが、「私の読者」ではない。私は「私の読者」に用があるのであって、「私の本の購入者」に用があるわけではない。
著作権についての議論ではどうもそこのところが混乱しているような気がする。
もの書く人間は「購入者」に用があるのか、「読者」に用があるのか。(p.312)
そりゃもう「読者!」に用があるわけだが、『We』をつくる経費もなんとか賄いたいから「購入者」もそれなりにいてほしい。「『We』がこの頃ほんまに売れへんなー」という実感からすると、(今のまま続けるのはかなり厳しいなア…)と思い、「こちらからお金を払っても申し上げたいことがあるので、本を書いている」(p.311)という内田の心向きを読むと、(私は『We』を出すことで何がしたいんやろう?)と思う。
『We』の一読者だった私が、ひょんなことから「乱読大魔王日記」を書くようになり(原稿料はずーっと現物支給だった)、校正を手伝ったりの時期を経て、『We』の編集部に入った。「読者」だった頃と、変わらないこともあるけれど、「つくる、編集する」側に入って、感覚が変わったところもやっぱりある。
読者であった頃から、『We』の行商を手伝ったりもしていたが、つくって売る側になって、より一層(『We』がもうちょっと売れへんかなー)と考えるようになったことが、いいのかわるいのか…とも思う。読んでもらいたいという気持ちと、買ってもらいたいという気持ちと、ちょっと分けて考えたほうがいいんかな…と内田があれこれ書いてるのを読んで思った。
「このメッセージは自分宛てだ」と感じられるかどうか、そこが大事なところやと内田は書いていて、『We』を「これは、私のための雑誌や」と思える人に届けられるかどうか(そして、いま届けられているか)、のようにも思った。
「あとがき」にある贈与と存在の話がよかった。
▼贈与の本質は「これを受け取ってください」と差し出すことです。そのとき手渡される「これ」にはあまり意味がありません(そう思っている人が多いですけれど、違います)。
そうではなくて、「はい、どうぞ」という贈与行為そのものが重要なのです。
というのは、「はい、どうぞ」は「あなたはそこに存在する」という重大な認知的言明を含んでいるからです。
贈与に対する「たしかに受け取りました」という返礼も同じです。それは「私に贈与したあなたはそこに存在する」という言明に他ならないからです。
「あなたはそこに��受信者として)存在する」という言明に対して、「あなたはそこに(送信者として)存在する」という鏡像的な言明が返される。この相互認知、お互いに「あなたはそこに存在する」という言葉を贈り合うこと、それがすべての夾雑物を削ぎ落としたときの贈与の本質だと僕は思います。(p.412)
present、存在そのものが贈りものだという、西村理佐さんのお話に通じるものがある(理佐さんのお話は、『We』181号に掲載)。
(11/25了)
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普通。別段面白くもなかった。ブログの文章を編集してるだけなので、素直にブログから読んだ方が読みやすい気がする。まぁブログの文章を集めて本にしてる時点で多少の読み辛さは避けられないか。
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内田樹の読書に関するブログエッセイ集。前半部分は書評、後半は読書環境をめぐる時評、言語論など。
子供の英語熱に関する著者の意見に共感した。最近、幼い子供に英語を習わせることが流行っているが、言葉はあくまで自分の考えを発信する手段である。自国語も満足に話せない子供に、外国語を先に覚えさせることがあってはいけない。自然にネイティブとして自国語を自由に操れるようにしておかないと、自分の考えを発信するのに苦労することになる。実際、バイリンガルの中には、どちらが自国語なのか判らなくなる人もいるらしい。まず自国語を学ぶことが必須で、外国語はその後でも良いという。
でもこういう意見を書くと、英語にコンプレックスがある人の考え方と取られるかも。
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1文芸棚
軽快な語りである。本読書が著者との対話であるというなら、慣れてきた、文体、構成、話の進め方など。取り扱いの本は、軽い内容ではないと思うのだが、分かりやすく、扱っている技がある。
2人文棚
じんぶん、ちんぷん、長い文でさっぱり分からず。
3内田棚
自画自賛でも、おもしろい、読んでいない著作が多かった。
4教育棚
歌わざる英雄は何故、教育なのだろう。教えるものなのか?誰かがいわなければ分からないのだろうが、学生向けで分かる教育なのか?
運がいい、という表現がとても気に入った。
学ぶ力中学2年生が対象なのか。まさに好対象な時期ともいえる。これが大学に入ると込み入ってしまうのは何故だろう。
6著作権不明
グーグル、クラウドとネットが発達してきた以上、著作権を保護することは難しい。著者の利用可の考えは、とても好きである。また、中国の著作権に対しての指摘も最もである。擬似著作権についての話は知らなかったこと。「戦敗加算」なるものが敗戦国にいたとは驚きである。アメちゃんの考え方はフェアではない。
ブライアン・ウィルソンの気鬱は心を打つものがあった。
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本書は、筆者がこれまでブログや雑誌などに寄稿した、読むことや書くことに関する文章(加筆修正された)が収録されたものである。前に一度読んだ文もあったけれども、学ぶことが多かった。その中でも特に秀逸だったのはあとがきだった。読む価値の高い一冊だと思う。
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とても示唆にとんだ本だと思う。
ひっかかる言葉がいくつもあって、これからあと数カ月のちにどの言葉がひっかかっているかそれはまだわからない…
というわけで、とりあえず目についた箇所を箇条書きに。
・「おのれの女性性とうまくなじむことができずにいる少女」の魅力
・言語は内側に割れることによって、無限の愉悦と力を生み出す
・『「悪」と戦う』と『晩年』の冒頭部の相似
・「自分の賢さ」をショウオフするよりも、「自分の愚かさ」の成り立ちを公開することの有益性
・映画は「観る」ものではなく、その中を「生きる」もの。映画、音楽は浴びるように。「read」と「scan」というふたつの読み。
・科学的知性は突き詰めれば宗教的になる。私たちは「私たちを超えるもの」を仮定することによってしか成長することができない。
・脳の機能は「出力」を基準にして、そのパフォーマンスが変化する。
・「はさみを渡す」というゲームについて。
・知性の切れ味と愛について
・引き受けてのない憎悪より「バカヤロー」のほうがマシ
・境界をひく人間=やせ我慢の人=隣人愛
・「共同体の若いメンバーたちを市民的に成熟させること」
・物書きは「ニッチ・ビジネス」
・「学びたいのです。先生、教えてください」
・ブライアン・ウィルソンの著作権について(泣きそうになった)
・「自分がその言葉を発しなければ、他に言ってくれる人がいない言葉」だけが発信するに値する言葉である
・「私の言葉は果たして他者に届くだろうか?」
・メタ・メッセージについて
・エリクチュールと生き方はセットになっている
・「私が語るこの言葉は『ぜひあなたには理解してもらいたい』という気持ちを込めて語られる
・真に「古典」という名に値する書物とは、「それが書かれるまで、そのようなものを読みたいと思っている読者がいなかった書物」のことである。「まだ存在しないニーズ」を創り出すこと。
ちっとも「まとめ」にはなっていない。
言葉について…エリクチュールやメタ・メッセージ、それから宛名の話はとてもひっかかったのだけれど、これはたぶん「街場の文体論」に引き継がれるのかな。リーダブルな文章というのは「ぜひあなたに理解してもらいたい」と伝わってくる文章というのが、あぁ、まさになあと。
それから知性を刀にたとえたところは勢いにのって書かれた感じがして、きちんとはわからないんだけど、名文だと思うな。
この本を読んだことで、「知識がついた!」というよりは、もっと素朴な効用があったように思います。それは何かというと…
・もっと謙虚を心がけようと思った
・無知を自覚し、「教えてください」と素直に言えるように
・ぐるぐると愛について考える
・文章を書くうえで、「孤立」をいとわないこと。そのうえで、「私の言葉は届くだろうか」という配慮を怠らないこと。
つくづく「当り前のことを当たり前にやる」というのがいかに大事かということを教えてもらったような気がします。
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ブログのコンピ本。
話の内容はいつもと一緒だし、ブログでも読んだことがあるものが多い。
けど読みたくなる。
しかも紙の本で。
先生曰く、繰り返される主題は、
「言葉が伝わるというのは、どういうことか」
ということだそうです。
これは僕のライフワークでもあります。
伝わる伝わらないを決定しているのは、コンテンツの可否によるとついつい考えてしまします。
が、そうではなく、やはりマナーだと。
メタメッセージの形でまず伝えるべきは、
「このメッセージは他でもない、あなたに宛てて発せられているんですよ」ってこと。
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内田氏の本は、言葉が難しくて、分かりにくい部分もあるのですが、おもしろいので読んでしまいます。
内田氏が接してきた本を引用しながら、氏の解釈を提示。
「メッセージの最も重要なことは、宛先が存在すること」という部分は心に留めて、これからは文章を書いていきたいと思いました。
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本書を私の後に手に取る人にこれがどんな本だったのかと問われれば、「面白く読める」「マルクスに対しての見方が変わる」「そもそも知らない読んだことがない本がまだまだあることに気付かされる」などとバラバラでまとまりがなく、ざっくりとした言葉を宛てることしかできないでしょう。
その問いに対して明かな回答ができない代わりに、本書を読んでからの感想を伝えることができるとすれば、僕は内田氏の「聞いて欲しい」「伝えたい」という気持ちを心地よい言葉でテキスト化できる才能を羨ましく思う、と答えます。
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内田先生の本も脅威の15冊め。こんなに1人の人を読んだことはない。それだけ読ませる。おもしろがせる。前半は内田先生の切り込まれた書評や本に対する思い入れのあるエピソードが多くて、これも読んでみたいなとか、こんな本があるんだーと、ページ進めるのがワクワクしてたんだけど、後半はいつも通りのブログのコンピ本になってたので、実際半分で良かったんじゃないかな。