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青木淳悟はいつも実験的な小説を書くという印象がある。で、読み始めてしまってから、あれ何でこの本を読んでいるのだったかな、という疑問を抱くことになる。というのも、別に実験的な小説を読みたいと思う程に文学にハングリーな訳ではないからなのだが、その著者の名前の背表紙は何か自分の中にあるものを引き寄せるらしい。
青木淳悟の小説は事実を述べた文章をパーツのような組み上げる。このあいだ東京でね、も同じような文章群からなる本だった。そういう組み合わせから何かが立ち上がっているのかも知れないのだけれど、それを感知するには至らない。不可解なのである。この小説では「私」という人称で指示される人物が出てこない。それだけのことで他は何も変わらないと言ってしまうこともできると思うのだけれど、何かが動き出す気配は消えてしまう。
もちろん、それはとても実験的で意欲的なことなのだとは思う。一人称のいない世界を第三者だけで動き回る。ところがとても不思議なのだが、一人称で呼ぶ人物のいない世界は、全ての人が消えてしまってもぬけのからのように見えてしまうのだ。そしてとてつもない空虚な感じが漂ってしまう。その感じには見覚えがある。それは自分以外の存在は全ての自分の脳の作り出した想像の産物ではないかと疑ってかかった時に感じるあれだ。
そういう小説があってもよいとは思うけれど、どうしても「何故」という疑問がつきまとう。青木淳悟、ますます遠のくような気がしてならない。
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留学生を受け入れた高校の数ヶ月を描いた作品。しかし、なんとそこには物語が一切無いのだ。
タイトルは主人公がいないという意味のようで、一応は担任の目線で、ただ学校の日常が淡々と記録されていく。何か事件が起こる予兆があっても、結局はすべて尻切れで終わり、物語に発展することはない。
それが延々と続いてもページをめくってしまうのは、僕の場合、覗き見な感覚を刺激されるからであります。
小説のあり方を覆す実験性と、物語無しでも読ませる筆力は凄いと思いましたが、でもやっぱ正直言うと「退屈」だったよ。
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初めての青木作品。
評判の良さを目にして読んだが、戸惑った。
物語性の高い設定ながら何という事件は起こらない。
題名から期待される何ものかも無い。
読む側が勝手に想像することを試されているようであった。
リアリズムというならシュールレアリズム。
緻密で具体的な詳細に「小説」という名付けがあると突然意味合いが変わる気がした。
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留学生が日本の高校に留学すること以外はごく普通の高校という場所で起こる日々を淡々と書き綴った…これは小説?まぁでもその前に量子物理学の本をかじってた私には、目の前にあるものをただ受け入れるという視点が備わっているから大丈夫なのですが感想難しい。
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物語らしい物語のないこの小説に主人公たる「私」はいないのかもしれないが、作家たる「私」は強く存在していることが感じとられた。退屈といえば退屈なのだが面白いといえば面白い。ヘンな作家だなあ、やっぱりw。
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前から、単行本の装丁からくる素朴な印象とか阿部和重との対談を読んだりしたこともあって初めて読んだんだけど、精緻な文章で退屈さも感じつつ。
修学旅行の週の記録もエピソードを広げることなく、淡々とは進められていて、あえてまだ芽の出ていないエピソードに手をつけず膨らませない姿勢をとっているみたいだった。
また、その場所その場所の歴史や古典の説明を細かく織り交ぜるところはいかにも頭いい、って感じで逆に新鮮。
文体の中で明確な焦点となる人物はいなくて、あえて言うなら「学校」と「担任」なのだけど、その担任の方はと言うとカナダからの外国人留学生を常に気にかけている。その留学生と担任を含んだ学校全体を、担任が学生を見渡すときの視線と同じように作者が緩く見ている、という感じか。
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ケベックからの留学生を受け入れ奮闘する高校教師を中心に、一学期間のクラスの様子を描いたお話。半分ノンフィクションらしい。たんたんと描かれていて、ちょっと物足りなさもあった。
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ものの見事に置き去りにされた。
小説にとっての文章とは、読者が字面を追っていけば自然に情景が浮かぶものが良いのか、テクニックとか言葉遊びを楽しむものが良いのか…まあ十年間一睡もせずにガチで考え続けても答えはなかなか出なそうなことを読後は考えてしまった。
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ストーリー皆無。人格不在。もちろん作者の「言いたいこと」など何ひとつ書かれてはいない。史上最も国語入試問題に不向きな小説の誕生。
しかし何気ない描写がいちいち面白く、だがそこに物語的な面白さは一切ないと言い切れるのが凄い。描かれているのはただただ、「日本の高校にやってきた外国人留学生の日常」。それ以上でも以下でもない。さも山場っぽく修学旅行が描かれるが、そこには突然の告白も熱い友情もなければ「外国人から見たニッポン」といった類のいかにもな発見も別にない。
その面白さの質は、まさに我々が日常生活(学生生活)の中で、自分だけにとって面白いと感じる個人的な感触に満ちている。それが極めて平坦に平板にそして意識的に、強弱も緩急も極力排したフラットな文体で淡々と描かれるのみ。修学旅行のラスト、担任教師が口にする「無事、家に辿り着くまでが――」の常套句に代表されるように、「いかにも」な言動と日常的シチュエーションの連続は、まったく小説を前に進めようとしない強い意志に貫かれている。ここまで「物語」という推進力のない小説は珍しい。通常、小説を読み進めるモチベーションとして当然存在すべき「続きが気になる」という感覚が、この作品からは微塵も感じられない。予感も予兆もない世界。正直、僕は中途で二度挫折し、三度目でようやく読み通せた。だがそれは「面白くないから」ではまったくなく、むしろ「この先もいま読んでいる箇所の面白さが永久に続くだろう」という作品への信頼感からくる妙な安心感ゆえだったような気がする。
人が物語の先を急いで読みたがるのは、通常「この先もっと面白くなるはずだ」という期待を推進力にしている。だがそれは裏を返せば、「この先よりいま読んでいる箇所は面白くないはずだ」という確信に基づいているとも言える。そういう意味で、小説には普通面白い箇所とそうでもない箇所の「波」があるというか、むしろそれを前提として、振れ幅を効果的に利用すべく作られているものが多いが、本作にはその「波」というものがまったく存在せず、「凪」のまま最後まで平行移動する。だが「凪」の状態が充分に面白いのだから、それでなんの問題もないどころか、高いレベルをキープし続けるある種の理想型とも言えるわけで、全体を通してフラットなぶん精度のバラつきがない。結果として、底辺から頂点へと向かう上昇時に湧き上がる一時の興奮ではなく、虚空を漂う浮遊感が継続するタイプの小説になっている。もちろん「起承転結」などというものは知らぬ存ぜぬな顔をして。
「平坦な日常の描写」という感触はいかにも日記に近いのだが、まったく関心の持てない、キャラクター性をあえて排した人物の日記を、人は普通面白く読めるものではない。だがこの小説に描かれた心底どうでもいい人たちの学園生活は、読者にとってどうでもいいままに面白い。どうでもいい人のどうでもいい話を聞いて興味を持つことは稀だが、たとえば時にファミレスの隣席で交わされている会話が想定外に「ある意味」面白いことがあるように、まったくないというわけではない。たとえば見るからにモテなそうな先輩とそれより少しはモテそうな後輩という男二人組がいるとして���最近フラれて落ち込んでいる後輩に先輩がドヤ顔で投げかける「大丈夫。女は星の数ほどいるさ」という台詞が持つ一周した面白さ。いやそんなシーンはこの作品にはもちろん出てこないのだが、そういう類の「あちゃー」と言いたくなるようなどうでもいいままに滑稽な台詞が、本作には不意にあちこち登場する。そしてそんな稀に遭遇する「なぜか面白い場面」が連続する世界があるとしたら、やはりそれはフィクションの中でしかあり得ないのかもしれず、この小説が描いているのはいかにも平凡な日常に見せかけて、実は日常のふりをした異常な世界だとも言える。
本作の中心視点人物である担任教師(しかし主役とも語り手とも言えない)は、いかにも先生らしくすべての言動に意味を後づけしたがるが、それはむしろ徹底的に安っぽく、アイロニーとして描かれる。そもそも修学旅行というもの自体、教師側の目論見は文字通り「修学」であるにもかかわらず、多くの生徒にとってそれは第一に「遊び」なのであり、そこに「学び」があるかどうかは結果論にすぎない。そして読者の中にも、教師のように「有意義な何か=学び」を求める人と、生徒のように「面白い何か=遊び」を求める人がそれぞれいるはずで、それは教師や学生が「修学旅行」という言葉をどう捉えているかと同じように、「小説」という言葉をその人の中でどう定義しているかによるだろう。そしてこの小説は明確に、「遊び」を第一に求める後者に向けて放たれている。そこに学びがあるとすればそれは作者も意図せぬ何かであって、作者の意図した何かではあり得ない。
ちなみに美しい装丁から感じられる「切なさ」の感覚は皆無であり、これもむしろ安易な感傷ばかりを求める昨今の小説に対する皮肉であると受け取れる。少なくとも、即物的な「感動」や「泣き」を求める向きにはまったくお勧めできない小説であることは間違いない。もちろん某かの「意味」や「明日へのメッセージ」、ましてや「生きるヒント」を欲しがるビジネスライクな横着者にはもっとお勧めできない。『金八先生』と『深イイ話』を交互に繰り返し観るべきだ。しかしそれ以外の、まだ見ぬモヤモヤとした面白さを求める勇者には強くお勧めする。
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「WEBきらら」著者インタビュー
(http://bit.ly/MwJNgB)とセットで読むと、
より深く味わえる。
個人的にハマりそうな作家。
過去の作品を読んでみたい。
2012 年 第 25 回三島由紀夫賞受賞作品。
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ああ、『四十日と四十夜のメルヘン』の人か。へー
日誌。架空の日誌。小説っていうか物語とは言えないけど、この臨場感たまらない。バカリズムの架空日記とかもこの仲間?ちょっと違うか。
わたしは人の日記を読むのが好きだったことを思い出した。日記とか記録とか。
ナタリーはカナダへ帰った?菊組のみんなは受験?修学旅行たのしかったね。
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カナダから留学生を迎えた高校の1年を淡々と追う学年日誌のような小説。登場人物の感情は、一人として書かれず、それなりの事件も、学校行事もたんたんと記録されていく。そこが「私」という個人のいない「高校」という事か。
なかなかストーリーの中に入りにくかった。それでいて、読み続けさせる作者は、実はなかなかの力量なのか。次にも期待。
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三島賞受賞と聞き、手にした一冊。
淡々とした地味な作品だが、教諭の使命や責任がヒシヒシと伝わってくる。
タイトル通り「私」と云う人物が不在。
退屈と面白さが同居する変な作品だ。
同時に自らの高校生活を思い返してしまう。男女比4:1の鴉のような教室だったけど(苦笑)
登場する修学旅行先も広島・山口は同様だったので、実に生々しい!
学童から学生と呼ばれる身になっても、学校生活や団体、協調性がどうにも苦手な生徒であった私にとっては、実に厭な汗が流れる作品であった。
嗚呼、当時の教諭方、めんどっちい生徒で申し訳ないッ!
作品世界にのめり込むより、反省を促されてしまった。
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第1回の三島由紀夫賞受賞作は高橋源一郎の『優雅で感傷的な日本野球』だ。これが面白く、以来、三島由紀夫賞受賞作が気になっている。『新潮7月号』で第25回の三島由紀夫賞受賞作が発表されており、早速、この受賞作を読んでみた。
帯には「わからない愉しさ」「主人公のいない青春小説」、さらには、「これまで読んだ中で、もっとも不可解な小説」という豊崎由美氏の書評の引用もある。
この作家の小説は初めて読む。読み進めるのが辛い。語り手という中心が無いことから来るものだと感じる。末尾で、実在する教務日誌に刺激を受け、これを改変・創作した作品であることが明かされている。学校内部の世界に忍び込んだ作家は、いつの間にか自分が消えていることに気付いたらしい。学校という空間は主体が消滅する場所である。集団に呑み込まれる恐怖を本能的に感じ取る感受性の強い生徒は、「私」を守るために不登校になる。哲学者ミシェル・フーコーは、『監獄の誕生』の中で、近代の権力構造をパノプティコン(一望監視装置)に注目して分析している。人間は、この装置の中で、絶えず見られているという視線を感じながら、やがて自分で自分を監視する者へと変質する。社会全体が監獄同様に、俯瞰する視線の張りめぐらされた空間となりつつある。監視カメラに馴れた私たちは、実は、すでに監獄の中にいるのではないのか。一望監視装置の偏在する社会の中で、「私」を取り戻すことはいかにして可能か。これが現代社会の課題なのかもしれない。(現在、問題となっている大津市の中学校でのいじめ事件も、こうした文脈の中で捉え直し、学校や教育委員会、警察、さらには社会そのものの中に、いじめを生む構造が内包されているのではないかと疑ってみる必要もありそうだ。)
話を元に戻そう。私は、この小説を、ある種の「哲学小説」として読んだ。哲学にはどんな語り口があってもいいし、小説はどんな方法も許される。しかし、私には哲学的思考を表現するための方法として、小説という表現形式はいかにもまどろこしく感じられた。(もっとも、こんな風に、あれこれ考えさせられたのは、この小説を読んだからで、感謝はしているのだが・・・)
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主人公たる私がいないという意味なのか、「私のいない高校」は不思議な空気を持った小説、日記である。あえて言うなら留学生を気にしながら菊組担任の先生が日常を過ごしている。修学旅行というトピックスはあるが特に何ということもない。そして、読んでいる私がその菊組にいるような気にさせられる。そのクラスの一人としてそこにいるのが何の違和感も無く受け入れられる。、、、という変わった読書体験をした。