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紙の本
白洲本の中では、数少ない駄作である。
2006/04/19 21:56
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:GTO - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は、次郎の伝記を書くことで、日本社会のプリンシプルなさを描きたかったのだろうが、言葉が過剰でうるさく感じられた。特に著者は「正しく」という言葉が好きらしく多用されるのだが、なにか違和感を覚えた。
白洲は著者が書くほど日本を嫌ってはいなかったと思う。著者のように日本嫌いであれば、戦後あのような役回りを引き受けたとは思えない。イギリスで生活するうちに、日本という国を見直し、良くしたいと考えたのではないだろうか。そう考えなければ、日本の伝統を愛した樺山正子との結婚も長続きしなかっただろう。(私はこの夫婦は最後まで相思相愛だったと思う。)
「紳士の服飾哲学」になると、著者は俄然、蘊蓄を語りはじめる。これがまた、みっともない。単なる目立ちたがりやがすることだ。
「着ているものはその人間の内部を映し出す。それが英国紳士である。だから、いつもきっちりと服装は整えられている必要がある。しかしそれはお洒落というのとは、ちょっと違う。その証拠にロンドンで見掛ける紳士はいつも古びた、何十年も着続けたような服を着ている。」(p.78)と分かっているなら、服飾に関して蘊蓄を語ることのはしたなさも自覚すべきだ。
それに、旧制中学校にドレス・コードがなかったように書いているが、それは違う。服装に拘泥しないことを演出するドレス・コードが厳然と存在していたのである。近くに話の聞ける旧制中学出身者がいなければ、北杜夫の『どくとるマンボウ青春期』を読めば分かるだろう。その底流には、英国的な服装哲学に近いものがあるように思う。
それよりも非難されるべきは、多くの日本人が戦後みごとに民族衣装である着物を捨て去り、猫も杓子もTシャツとジーンズと言われればTシャツにジーンズ、ミニスカートと言われればミニスカートというように、自分の中身を表さない(中身が空っぽだからだが)服装をするようになったことではないだろうか。
白洲は背広にネクタイだけが本物だと考えたのではないだろう。その証拠に、妻の正子は着物の目利きであるし、三宅一生を評価したのだと思う。白洲にとっては、本物かどうか、その人の生き方を表しているかどうかが問題なのであって、ブリティッシュ・トラッドが絶対だというような狭い了見は持っていなかったと考える。
「酒の嗜み」、「好きなクルマに乗るということ」になると、著者の蘊蓄はますます加速する。白洲を語りたいのか、蘊蓄を語りたいのか分からなくなる。知識としては知っている人間は、知っていることだ。大島渚のように知己を得て、本当にストラトフォード伯爵のウィスキーを味わったことのある人間に語られるのはいいが、飲んだことのない人に知識を披露されても鼻につくばかりだ。
読むべき価値があるとすれば、第一章と最終章だけである。著者は、プリンシプルに拘りたかったようだが、それならば、白洲自身の『プリンシプルのない日本』を読むのがいい。白洲次郎の伝記では爽やかな読後感のある青柳恵介の『風の男 白洲次郎』を薦める。生き方の本質を感じたいならば、勢古浩爾の『白洲次郎的』がガンガン訴えてきて小気味よい。残念ながら、白洲次郎を扱った本で、この本はめずらしく駄作である。このような人物に白洲を語られるのは、心外だと言っては言い過ぎだろうか。
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