紙の本
司馬ファン必読の書
2013/09/29 17:50
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:キック - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は司馬氏の虚構を徹底的に追及していこうという内容ですので、司馬遼太郎信者は激怒するでしょう。
一坂氏は、「本書では松陰・龍馬・晋作を主人公にした『竜馬がゆく』『世に棲む日々』を中心に、司馬遼太郎が描かなかったもの、避けて通ったものが何だったのかを探ってゆきたい。そうすれば、現代の幕末伝説とは違う、決して憧れだけでは済まされない部分が見えてくるだろう(13ページ)」 という意図で、司馬遼太郎作品の胡散臭さを暴いていきます。本書では「史実」と比較して司馬作品を論じていますので、司馬作品の矛盾点等が明らかになっています。
とにかく、ノンフィクション風に仕上げている司馬作品は、史実をヒントにした「創作物語」と認識して読むことが肝要ということが理解できました。ところが、司馬遼太郎の術数にハマった武田鉄也のような司馬竜馬信者が盛んに宣伝するので、偽の「坂本竜馬」が拡大再生産されているのが現状です。司馬信者も本書を読み、司馬作品には創作が多く含まれていることを知ってもらいたいものです。
一方、「坂本龍馬」は暗殺ターゲットとなるほどの人物だったことも確かであり、竜馬ではない龍馬の真の実像を知りたいと強く思いました。それにしても高杉晋作の「武勇伝三点セット」は、全て史実とは確認できないなんて驚きです。
投稿元:
レビューを見る
龍馬さんが近江屋で亡くなってから146年が経ちました。
「もう、幕末関係の新事実は出尽くしたんじゃないの?」と素人の私などは思ってしまうのですが、ありがたいことにまだまだこうして新しい本が出てきます。
この本は今年、平成25年の9月に出版されたものです。
この本では、吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作を大々的に「英雄」として送り出した司馬遼太郎先生の小説を論じ、そこに描かれなかった「本当の姿」を映し出したものです。そこには松陰・龍馬・晋作だけでなく、その周りにあったものの、司馬作品には出てこない、それでも印象的な人たちも取り上げてくれています。
かく言う私は、司馬作品を今まで読んだことがありません。意識的に避けているところもあります。
私自身、趣味でとはいえ小説を書く身であるので、小説は所詮「小説」でしかないことなど百も承知です。ですが、小説であれ大河ドラマであれ、それを「史実」として受け取ってしまうひとが多いということに怖さを感じてしまうのです。それだけ「フィクション」だと言われようと、受け取る側がそう取らなければそれは「史実」となり、出典を知らないままに口伝えでそれがあたかも「史実」になっていってしまう、それはとても怖いことです。
実際、小説やドラマの中で使われた言葉がまるで龍馬さんが「本当に言ったこと」のように平然と使われ、それを商品として売られているものさえあります。
私が知りたいのはそういった「創作」ではなく「本当の言葉」なのですが、それがどちらであるのか調べるのでさえ困難なものもあります。
例えば、将軍家茂が孝明天皇の加茂行幸に随従したときの有名なくだり、高杉晋作が家茂に向かって「いよっ、征夷大将軍!」と野次を飛ばした一件。私はこれをどこで見たのか忘れてしまったのですが、すごく印象に残っていてすごく好きなエピソードでした。でもこれは実際には「創作」らしいのです。今回、この本でそのことを知り、結構衝撃でした。
一坂さんのこの本を読んで思うのは、すごく「客観的」だなあ、ということです。
研究者もひとりの人間です。個人的感情もあるかと思います。ですが、やはりそこに感情が入ってしまうと史料に対する正確な評価もできなくなります。
私の本棚の中には一坂さんの他の著書がありませんので、他の本も読んでみたいと思います。
投稿元:
レビューを見る
小説はあくまで小説であって、“史実”ではない。
“司馬史観”といわれる司馬遼太郎の作品に対して、
著者が客観的にするどく切り込む。
吉田松陰・坂本龍馬・高杉晋作の「本当の姿」が
見えてくると思います。
投稿元:
レビューを見る
司馬遼太郎は好きで愛読しています。でも、確かに小説なので、創作していて当然なのですが、作品にのまれすぎて、その事を忘れていました。全て史実に基づいているわけではないと言うことを気づかせてもらいました。
投稿元:
レビューを見る
一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末 松陰・龍馬・晋作の実像』集英社新書、読了。「司馬で歴史を学んだ」という人が後を絶たないように、日本人の歴史観に大きな影響を与えたのが司馬遼太郎。しかし司馬小説はあくまでフィクションであり歴史教科書ではない。 http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0705-d/
松陰はテロリストだし、龍馬一人で薩長連合を成し遂げた訳でもないし、晋作の奇兵隊も実像とは程遠い。本書は作品を読み解きながら歴史的事実との解離に迫る快著。根柢に流れるのは弱者を無視したヒロイズムで歴史を読み解く手法。英雄待望論で難挙打開への頼ろうとする精神文化は司馬遼太郎の副産物か。著者の手厳しい批判が痛快。
著者は司馬史観の問題を、特別な英雄が時代を変えてしまう「英雄史観」で貫かれていること、その人物を本人の好き嫌いで過大過小評価していること、そして重要な歴史的事件が意図的にスルーされていること。司馬遼太郎を読むなということではないし、この問題は司馬遼太郎だけに限られてしまう訳ではないが、どこか「ネットde真実」とつながっているような気もする。
投稿元:
レビューを見る
司馬遼太郎の作品は、幕末物を中心に読んだけど、独特の呼吸を忘れるような文章の進め方と、息が苦しくなる頃に、逸話や作者の意見を織り込んでくる、話の緩急のつけかたが、話の内容にのめり込む要素の一つと思っている。一坂さんのこの本を読んで、改めて司馬遼太郎の作品を拾い読みすると、資料に裏打ちされたように、主人公達は生き生きと力強く行動している。それが、司馬遼太郎が創作した偽物の資料も混じっているとしても、「司馬さん、貴方、やってくれたね。さすが、小説家!!」と、思わずにはいられない。歴史の真実と小説の作られた部分とを、見極める目を読者はもたなければならないと、あらためて思った。
投稿元:
レビューを見る
資料を基に司馬遼太郎作品の内容について審議。史実として誤解することに警告する。フィクションであることは司馬自身も明らかにしており、歴史家でなく小説家であり、その評価が変わることはない。14.3.21
投稿元:
レビューを見る
吉田松陰、高杉晋作、坂本竜馬、、幕末史を彩る英雄たちの活躍について、我々現代人が認識している歴史は、実は司馬遼太郎という稀代のストーリーテラーによって“創作”されたものが多い。
彼らの行動が日本の歴史を変えた、という英雄礼賛なコメントは多くの政治家や経営者から聞かれるものである。だがよくよく歴史を検証してみると、後付けで英雄に仕立て上げられたケースは枚挙に暇がない。
吉田松陰と坂本竜馬は実際には会っていないし、高杉晋作の辞世の句は亡くなる際に詠まれたものではない。。等々、我々が心を動かされるエピソードが実は司馬遼太郎による演出の結果だという。
もちろんそれは英雄たちの価値を下げることには繋がらないし、我々が得た感動が間違いだということでもない。それは個人に翻ってみても、想い出は美化されるし過去のそれぞれの点が繋がって一つの流れになる。
歴史は異能の傑物たちによってドラマティックに変えられるのではなく、市井の名もなき人々の暮らしの積み重ねこそが新しい時代をつくっていくのだ。
投稿元:
レビューを見る
司馬作品を数多く読み、幕末のこの国の歴史にある程度詳しく又歴史好きの読者ならば、吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作らの考え方、生き方をもとにこの本を参照できるだろう。
司馬作品は小説である。小説には当然作者の考え方でつくられる場面や考え方が登場する。ゆえに、司馬遼太郎が描かなかった・・・。と考察する姿勢については面白く参考にしたが・・・?「司馬史観」を恐れすぎかな?
投稿元:
レビューを見る
司馬遼太郎の著作から松陰、龍馬、晋作の事実と違う部分を書いています。司馬史観というより、完全な事実の歪曲という部分もあり見方を変える必要があります。小説として司馬遼太郎の著作は、信念を持った日本人の生きざまを示し勇気をくれるものと愛読していましたが、小説である事を再認識しました。ただそのことを差し引いても魅力ある小説であると思います。
投稿元:
レビューを見る
中学生の頃に”竜馬がゆく”を読み憧れ、何度も読み直してる。
全8巻を人にあげたことも2回あるw
そして、卒論も坂本龍馬。
”坂本龍馬日記”という当時の最新資料を読みながら、”竜馬がゆく”ではない龍馬を発見。
山岡荘八さんの”徳川家康”を読んでから司馬遼太郎さんに対する”?”も生まれたから、卒論作成時から色々想うところあり、本書も全然違和感無く読めた。
ってか、秀逸。
ただ、それでも坂本龍馬が魅力的なのは変わらない。
あ、何度も伝えてるけど、良ければ俺の卒論もw
http://downpicker.com/sotsu.htm
というわけで、本当に良い本でした。
投稿元:
レビューを見る
司馬遼太郎は作家であって歴史家ではない。わかっていても読んでる間はのめり込んじゃうんだよねー。書かなかったことを列挙することで司馬の作家性が浮き彫り になって逆に凄いひとだと思えてくる。実は個人的に吉田松陰がちょっと苦手だ。理由は常にテンション高そうだから。疲れそう。実際どうかは知らないわけで、そ ういう印象のほとんどがフィクションからきてるのだろうが、松陰には大和魂で爆走して欲しいし、晋作は将軍に野次とばして欲しい。龍馬は薩長同盟に裏書きした にいちゃんぐらいの感想しかないのでわりとどういうのでもいいです
投稿元:
レビューを見る
司馬さんの小説が事実と思っている人は案外多い。英雄視される小説上の晋作、松陰、龍馬についての文献と小説の差異を客観的に指摘している本。但し書ききってないようなので読後は、消化不良感が残る。司馬さんは英雄伝を書き、通説を事実と思わせる書き方をたまにするので、その事を理解して小説として楽しむのは良いと思う。
投稿元:
レビューを見る
本書は司馬遼太郎の名作「世に棲む日々」、「竜馬がゆく」に描かれる吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬といった幕末の英雄像に対して、歴史の専門家の立場として史実に則った検証を試みているものである。
作者は国民作家である司馬遼太郎の作品を通して描かれる英雄像に対して、国会議員をはじめとして無邪気に受け入れる読者への影響を危惧しているらしい。ところどころ「司馬史観」に対する危惧が感じられる。
Amazonのレビューではかなり高評価が多いのだが、ボクとしては本書の意義が感じられない。
影響力が高いとはいえ司馬遼太郎が描いたものは歴史小説なのである。けして歴史書ではない。
小説家は『ものがたり』を紡ぐのが職業であるため、当然のことながら物語のストーリーを重視して描くものである。乱暴な言い方をすると「嘘ついて客を喜ばせてなんぼ」の商売である。
それに対して、いちいち『小説の中ではこうだが、史実は異なる。実際はこうであった。なぜ司馬遼太郎はこれを描かなかったのか?』といちいち反論することになんの意味があるのだろう?
司馬作品の時系列に対して実際の吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬の行動・判断はそれぞれこうであったという資料に基づいた検証ということであれば、そういうスタンスでまとめたほうが歴史好きなボクとしては素直に受け入れやすい。
いちいち司馬作品の中身に触れての反論というスタンスは、作者自らが危惧している司馬遼太郎の影響力を当てにしてのプロモーション的な意味合いがあるのではないかとかえって穿った見方をしてしまうのだ。
そういう意味では、ボクにとっては本書は非常に残念な印象なのである。
あくまで司馬作品に対する検証というスタンスを崩したくないのであれば、歴史家としての検証だけでなく、『史実はこうだが、なぜこのとき司馬遼太郎は異なるストーリーとしたのか?時代背景を考慮すると司馬遼太郎の思惑はこういうところにある。また、前後のストーリーを考慮するとこの流れが自然である。』とか文芸批評のような形でまとめるべきではなかったか?と。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
国民的作家として読み継がれている司馬遼太郎。
そのあまりの偉大さゆえに、司馬が書いた小説を史実であるかのように受け取る人も少なくない。
しかし、ある程度の史実を踏まえているとはいえ、小説には当然ながら大胆な虚構も含まれている。
司馬の作品は、どこまでが史実であり、何が創作なのか?
吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作が活躍する司馬遼太郎の名作をひもときながら、幕末・維新史の真相に迫る。
[ 目次 ]
第1章 吉田松陰と開国(『竜馬がゆく』と龍馬「愚童」説;象山塾入門を無視した司馬の意図 ほか)
第2章 晋作と龍馬の出会い(晋作、佐久間象山に会う;『世に棲む日日』に登場しないもう一人の師 ほか)
第3章 高杉晋作と奇兵隊(松陰改葬に秘められた政治目的;「三枚橋の中の橋を渡った」のは本当か ほか)
第4章 坂本龍馬と亀山社中(龍馬と横井小楠の会談;亀山社中創立時に龍馬はどこにいた? ほか)
第5章 描かれなかった終末(長州藩の戦意高揚作戦;英雄に甘かった司馬遼太郎 ほか)
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]