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武士道のルーツやら、武家における教育方針、少年から青年へ武家の男子がどう立場を変えていくかなど、一読の価値あり。ただ、原作が英語なせいか、訳が読みにくいのと、少し武士を自画自賛しすぎなところは最近の日本のテレビのようだ。
いい訳があればおしえてほしい。
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義・勇・仁・礼・信(誠)・名誉・忠義
武士道の基本となる考えを、新渡戸稲造が外国人向けに解説している。
現代のにジネス社会において、上記の点が薄れてきているが、武士道の考えにたち返ろうという主張をしているのではなく、日本人の道徳教育の根幹にある部分を論じた書籍である。
時代背景とともに理解することで、より理解が深まる。
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年下なのにしっかりしてるなー、と思ってた男の子の愛読書がこれと聞いて、何か関係あるのかな?と思い手に取ってみた。単なる武士の教えと言うよりは、日本人の美徳や倫理観について、日本文化を知らない人にもわかりやすいように書かれた本。西洋哲学や宗教を用いて日本人の“名誉”や“恥”と言ったものを巧みに表した新渡戸稲造氏の博識にひたすら頭を垂れる思いであった。儒学のことも歴代の武士のこともほとんど知らなかったのだけど、興味があった。あと、やっぱり和歌って美しい!
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日本人として生まれ育ったが、現代において日本人として自国の伝統、価値観は他者へ説明できない事に気付きこの本を読んでみた。
これまでの日本の発展を支えたのは、まさに武士道の精神が流れていた「人の力」だと思う。グローバル化が進む今こそ、この本を手に取り日本人としての価値観を考えるべきだと思う。
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日本人の誠実さの原点を復習。
これからも守っていかなければならない日本民族の特質を再認識した。
キリスト教と類比している部分は少し違和感があるが、様々な文献も引用していて、さすが知識人です。
分かりやすい訳で読みやすい。
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岩波文庫の武士道は昔(大学時代だったか?)に読んだことはあったが、久々に改めて読んでみようと思ったところ、この現代語訳がちくま新書から2010年に刊行されていたので購入してみた。
流石に読みやすい。岩波文庫は現代であまり使われない表現などがあり、なんとくで理解していたと思う。
最後に解説でもまとめられていて良い。
「武士道」は武士の考え方、というものよりは日本人の思想がまとめられたものと感じる。
新渡戸稲造が述べる「礼」について『長い苦難にも耐え忍び、新設で妬みの心も持たず、誇らず、驕らず、非礼を行わず、自分の利を求めず、慢心しない』は、武士道を読んだあとからよく思い出す一文である。
武士道は「義・勇・仁・礼・信(誠)・名誉・忠義」の7つで記述されているが、もっとも「礼」が心に残る。
それもあって、武士道のなかに登場する小笠原流の礼儀作法の本を何冊か読んだほど。
究極のところ「礼」とは『自分を顧みない相手への思いやりである』というのがわたしの理解。
新渡戸稲造が述べている「その最高の形においてはほとんど愛に近づく」というのも納得。
作法とは礼儀のための動作であるが、その作法を意味を理解すれば、それは相手への思いやりであることがわかる。剣道や柔道などの黙想も、何故それが必要かをはじめは理解できずに真似ているが、道を極めればその意味がわかるという。
因みに、うちの祖父はよく新渡戸稲造のことを口にしていた。その興味もあって最初に岩波文庫を手に取ったのだと思う。
今では何故、そんなに新渡戸稲造のことを口にしていたのかは聞くことはできないが、尊敬していたのかな、と思う。
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1900年に英語で出版された『武士道』は、日清戦争に勝利して国際的地位を上げようとしていた日本という国が、その文化と精神性が世界でほとんど理解されていなかったことを新渡戸が危機感をもち、世界に発信するこほを目的として出版されたものである。英題は”Bushido: The Soul of Japan”。1905年の日露戦争の講和条件についてのポーツマスでの交渉の前に、仲介役の米国に対して日本の道徳的に当時の先進国に劣るものではないことを示すためにもこの本は使われたと言われる。時は下って、セオドア・ルーズベルトやJ.F.ケネディといった米国大統領もこの本を読んだと言われており、代表的日本論としてその名が上がる『菊と刀』を書いたルース・ベネディクトもこの本の影響を受けたと言われている。ベネディクトの『菊と刀』における罪の文化と恥の文化の比較は、信や名誉を論じた『武士道』の章を読めばその影響は明らかであるように思われる。旧五千円札の肖像にも使われた新渡戸稲造だが、そのゆえんを示す本である。
なお、新渡戸は『代表的日本人』の内村鑑三と同じく札幌農学校に学び、キリスト者となった。序文にもある通り、この本を書くきっかけが、海外の学者に日本に宗教教育がないのにいかにして道徳教育が授けられるのかと問われたからだという。今でこそ無宗教であると言っても、おそらく少なくともビジネス社会では受け入れられるが、それこそ20年前のアメリカにおいては無宗教であることは道徳教育の観点からも何らかの説明が必要なことであったようだ。
『武士道』に書かれた規範が生まれたのは、太平の世が長く続いた江戸時代である。その意味でも、「武士道」の道徳や精神性は平時における日本人の精神性を表していると言える。「武士道」は、仏教や神道、孔子や孟子の思想、朱子学、陽明学などの精神をよく継承をしているが、どこかに明文化されているものではなく、それだけにいっそう日本人の内面に刻み込まれた規範として承知され行動を拘束するものであったとされる。
本書は全十七章から成り、「道徳体系としての武士道」「武士道の源泉」「義」「勇気」「仁」「礼」「信と誠」「名誉」「武士の教育」「克己」「切腹と敵討の精度」「刀、武士の魂」「女性の教育と地位」「武士道の影響」「武士道はまだ生きているか」「武士道の未来」といった章からなっている。各章の終わりには次の章のテーマが触れられており、そのため全体の流れもよく練られた感じを出すことに成功している。この本を非母国語である英語で書いたという事実は、明治期の知識人の行動と能力の高さを示すものであり、素直に感服するところである。
同時期に読んだマキャベリの『君主論』と比べるとよくわかるが、「武士道」の内容は為政者の戦略や思想としては、明らかにナイーブであり、性善説によって立ちすぎである。「敵に塩を送る」という諺のもとにもなった上杉謙信が敵である武田信玄に塩を送ったことを勇気や仁の心を示す高貴な模範であるということからも『君主論』の内容との明確な違いがよくわかる。また、「武士道」のロジックは、周りや相手も基本的には同じ考えを持ち、さらに周りとの関係性が継続することが前提である。このこ��から、同質性と閉鎖性がひとつの特徴でもあると言われる日本人の心性に思ったよりも影響を与えているのかもしれないとも思う。
また、武士道が金銭ひいては商業を卑しきものとして低く見ていたことも、武士階級自体にも悲惨な影響を及ぼしたし、日本人がビジネス上であっても他者との交渉が比較的苦手と言われることにも影響をしていると言える。新渡戸自身も「現代には、金権支配がなんと急速に蔓延してしまったのだろうか」と嘆くあたり、金銭から距離を置くことを嗜みとして美徳であるという感覚を共有していたことがわかる。近代においても倹約が美徳とされていたのは自分の子供の頃の教育環境として空気のようにそこにあった。このことは日本の国際競争力の観点からはあまり好ましくないようにも思われるのだ。
本書の内容のうち、海外においては特に、幼い兄弟の切腹の描写と家臣の子供が幼君主の身代わりとなったことを両親が誇りとする話が欧米からはグロテスクだと感じると言われるらしい。ときに忠義が生命よりも大事だとされたハラキリの文化を持つ国であるという認識は、新渡戸がそう意図しなかったにせよ、太平洋戦争終盤において米国が日本の徹底抗戦を想定し、結果として核兵器を使用する根拠にも使われたとも言われる。
新渡戸稲造は、当時において武士道の内容を海外に伝えるにおいて、その知性や語学力(奥さんがアメリカ人であった)からしてもっとも適切な人物であったと言えるが、日本文化研究者であったわけではなく、その内容についても批判されるところがあるという。しかしながら、その歴史的影響について考えると内容そのもの以上の意義があると思われる。もちろん、内容についても疑義がある箇所があるにせよ当時として十分に考慮されたものとなっており、日本人である自分にもいい意味でも悪い意味でも相当に当てはまるところがあると感じる。先の切腹や身代わりの話にしても、それが正当であるとは思わないが、そこには「わかる」という感想を持つことができる。日本以外で育った人にもどう感じるのか聞いてみたいものである。
たとえば、「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉がある。持っておきたい心意気でもある。
新渡戸は、「武士道の余命の日々はすでにカウントされている」と言う。それでも、「その力は、この地上から滅び去ることはないだろう」とも宣言する。どんなものでも同じことなのかもしれないが、武士道に関しても、場面によってまだまだ十分に規範とすべきものもあるだろうが、場面によっては当てはめるべきではないところもあるだろう。それにしても、江戸時代を通して明治期までの道徳・倫理を拘束していた規範は、想定しているよりも多くのところに影響を与えているかもしれない。その意味でもいまだ興味深く読むことができる本。古典も悪くない。
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古い日本語版武士道より読みやすく、古い日本語版を読んでいた事もあり理解し易かったです。
この現代語訳武士道の第1版が2010年に出版されたので、それまでは、古い日本語版しかなかった事を思うと、現代に生きる日本人にとって現代語訳版の方で多くの人に読まれると良いと思います。
本書の最後に書かれてる解説は、本書を解釈する助けになりました。
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新渡戸稲造の『武士道』を読みやすくわかりやすい現代語に訳した本。
『武士道』は「日本では宗教教育なくして、どのように道徳教育をしたのか」という外国人の疑問に応える意味で書かれた、外国人に向けた日本文化論の本です。
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武士道と生きてきた日本人たちのの実例集
日本人が何を大事にしてきたか、それらをどう発揮してきたかを実例を交えながら解説している。
西洋の文化から見ると異様な光景でも、東洋の考えではよくあることだし、
深く考え本質を探れば似た要素もある。
武士道の要素を解説する中で、いろんな西洋圏の人の本を持ち出しながら同じ感性を持つと伝えている。
そんな日本人紹介本
義:道理に従い、ためらわず決断する心
義理:厳しい監督者、ムチを手にして怠け者に役割を果たさせる存在
勇気:生きるべきときに生き、死ぬべきときにのみ死ぬ
義がすぎると硬直的となり、仁がすぎると弱さに溺れる
礼:他人の気持ちを思いやる心の現れ、物の道理を正しく尊重すること
儀礼とは目的に到達する最適法を長く考えた末に生まれた。
最良の道とは、効率的であるとともに優雅である。結局は労力
・時間が節約される
江戸時代では富と権力が分離されていた。
武士の教育とは、叡智・仁愛・勇気の三本からなる。
価値がないわけではなく、測れないからこそ、精神的な労務は金銭で報われるべきではない
日本人はこの時代感情的すぎて激しい性質だった。無礼な言葉に耐えられない
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人として、社会人として、武士道をまっすぐに捉えて生きたい。
現代語訳はとても読みやすく、また時間が経ったら読みたい一冊。
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昔の5千円札の新渡戸稲造さんの本。100年以上前に英語で書かれたものを日本人が翻訳している。明治時代にこれだけの内容の事を英語で外人に紹介できているのはすごい功績である。太平洋戦争の特攻隊も、この武士道の教えを曲げて正当化して解釈している部分もありそうだ。これを指示する支持しないは関係なしに、この武士道の考え方が古い日本人の根底にあることはよくわかった。
切腹のくだりなどは外国人から見ると、まったく理解不能、異星人並の扱いかもしれない。
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名著。
「日本の学校で宗教教育がない。それでは道徳教育はどうやって授けるのですか」。この質問に答えるべく書かれたのが本書だ。新渡戸稲造は、自分の正邪善悪の観念を形作る様々な要素を分析し、それらの観念は「武士道」に基づくものだと気がついた。
武士道には源泉がある。
・仏教
・神道
・儒学
いわゆる宗教であるとか、孟子・孔子の教えに連なる部分がおおいことが説明される。
そして、武士道を分解していくと、以下の項目に分けられる。
・義
・勇気
・仁
・礼
・信と誠
・名誉
・忠義
生命は主君につかえるための手段として考えられ、理想的ありかたは名誉におかれていた。
また武士において特筆すべきは、切腹と敵討ちだ。これの文化は海外においては説明を要する風習である。
現在、武士道というものは実用性を失っている。しかし、完全に滅びたわけではなく、この後の世界にも残っていくだろう。
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武士道について日本人が論じた有名な古典『武士道』。グローバル化が進む世界の中で、日本人の起源はどこにあるのか知りたくて読んでみた。
古典であるにもかかわらず現代語訳のおかげでスムーズに読み進められた。
この本を読んでみて、武士道が既に失われてしまったこと、日本人は武士道を取り戻すべきだという原理主義に陥ってはいけないこと、桜や侘び寂びを愛でる心には武士道の残り香が残っていることなどを学んだ。古来の文化は、外国の文化と同じように、今の日本の文化を相対化するために有用である。
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余談ではあるが、最近1860年前後に興味がある。
小松帯刀に興味を持ち始めたのがその発端である。
これについて書き始めると本書の感想から外れてしまうのでやめておくが、その中で文久2年(1862年)あたりに特に興味を持ち始めていたところで、新戸部がまさにその年に生まれたのだというところでさらに興味を増した。歴史というのはこの連鎖がたまらない。
閑話休題。
現代語訳者の山本氏が言うように、明治人である新渡戸の思想には確かに現代に馴染まない部分もあるのかもしれない。
ただ、自分としてはほぼほぼ共感以外の何物もなかったと言えるぐらい、すんなりと入ってきた。
歴史をどの時点で輪切りにしたとしても、必ずそこにはその前後での「差異」が存在していると思う。
差異の中身(本書で言えば武士道とデモクラシー)には時代性はあるとしても、差異そのものに対する感じ方には時代性はないのだと思える。
それが新渡戸が言う、生き続ける魂なのかもしれないが。