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フーコーが渾身の力を込めた作品『監獄の誕生』を中心にしてミシェル・フーコーの視点を語る解説本。ところどころにはさまれる著者のフーコーへの愛と、現代社会への悪意?、もしくは異議申し立てが個人的には好感だ。
著者が後半でもらす本音。
「道で警察に職質されたら不快だ。夜中に自転車でコンビニ行くのは勝手だろう。レンタルビデオ屋で自分が借りている映画のリストが警察に知られたらいやだ。・・・不審者対策と称して腕章をつけた親が通学路を見回るのはうんざりだ。自分たちは善良な市民で敵は外にいると言わんばかりの態度に腹が立つ・・・」
このようなことに不満を感じる人は著者と同じくフーコーのことを好きになれるだろう。
ただ本書を手がかりにしてフーコーにアクセスするのは難しいと思う。
著者は「規律と訓練」の書としてフーコーが取り上げられるのをミスリードとするが、さて。
使えてこその思想、言葉であるとすれば使える部分から使えとおもえなくもない。
そういう意味からいえば本書は玄人好みであるか。もしくは素人?に読ませきる視点の工夫が足りなかったかもしれない。
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読むのを挫折した『監獄の誕生』をもう一度手に取ってみようと思わせてくれた本。著者のエネルギッシュなフーコー愛にぐいぐい引き込まれます。
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『監獄の誕生』の読解に比重を置いた、40代の若き女性哲学研究家によるフーコー本。だから網羅性はないし、そもそもわかりやすくもない。むしろ「わかりやすい〇〇」にはもうウンザリ、というのが筆者のスタンス。
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フーコー『監獄の誕生』解説本なのかな。著者ってば、フーコーのこと、ものすごく愛してるのね。文章がささやかにユーモラスで面白く読めるけれども、後半は感情論で文体がヨロヨロしているのが惜しい。
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フーコーの解説書というより、「監獄の誕生」の読み方でした。監獄の誕生を読んでいないと何を言っているかさっぱりわからないと思います。もちろん、この本を読んで監獄の誕生がすっきりわかるはずもなく、ちょっとだけヒントをもらえたというところです。それだけでも十分価値はあります。
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やっと読み終わった…。1度目は????????2度目で???!!!。筆者は章ごとの概要を図示しながら読み進めてようやくフーコーの頭の中を少しだけ理解できました。本の帯には「入門書で感動したことがありますか?」と書かれているけど、この入門書の解説本がほしいくらい(笑)ただただ丁寧に読み進めていけば理解できない事は決してないので頑張って負けずに読み進めてほしい。後半の統治性・国家理性・生権力の行を理解出来たら完璧です!色々書いたけど、この本を読んでから『監獄の誕生』を読むと理解が格段に増しますよ!
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『監獄の誕生』を紹介する件では、なんだこの著者はと思った。が、その肩肘の強張りを外した「最後の数ページ」には、この著者のイワンとしたことが力みなく伝えられている箇所に出会った。
途中で諦めないでよかった。
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『監獄の誕生』生涯読むことはあるまいと思っていましたが、読んでみようかなという気持ちにさせられました。
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ダミアンの残酷な処刑風景 p冒頭
【記号としての刑罰】p97
『言葉と物』第3章「表象すること」第4節「二重化された表象」
刑罰は犯罪の記号、あるいは記号の中のシニフィアンと呼ばれる能記。刑罰を見れば人の頭の中で犯罪が思い浮かぶということは、犯罪とは刑罰という記号において意味されるもの、すなわちシニフェ(所記)である。
[古典主義時代末期、近代の入り口にあたる18世紀後半に存在した刑罰の3つの体系]p99
①時代遅れになりつつあった身体刑の体系。
②刑罰と犯罪を記号として結びつける啓蒙主義の体系。
③監獄。
【「統治性」の研究】p146
近代国家―ポリス―規律権力
【ディスクール】p154
国王封印状を求める嘆願書の中の呻きや悲嘆、浮浪者の数や状況を記録する文書、そして施療院に収容された者立ちについての報告、売春婦による治安当局への密告の記録、罪人の尋問調書も、こうした「知」の一部をなしているのだ。どうまとめたらいいのか分からないこれらの言葉の集まりを、フーコーはとくに「ディスクール(言説)」と呼ぶことがあった。
【国家理性】p162
国家理性とは、近代主権国家がキリスト教普遍帝国から自立を要求するための一つの表現であったことが分かる。
【生権力とは】p184
規律権力について調べを進める中で見出された、生をめぐる権力。この権力は、法を楯にして剣を振りかざし、死をちらつかせて被治者を脅すのではなく、生そのものに介入し、コントロールし、支配し、生きて生活する人間により多くのものを産み出させるような権力だった。⇔君主の絶対支配が握る生殺与奪権。
Cf. 金森修『<生政治>の哲学』
【フーリエ主義】p200
シャルル・フーリエ
「普遍の僭称」(とりわけブルジョワ的な尺度の規範)を反転させることで、既存の価値観が政治的な構築物であること、権力作用の結果であることを示した。
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フランス現代思想家の入門書の中でも類書が最も多いのはミシェル・フーコーだろう。このことはそれだけフーコーの思想が注目されていると同時に、単純化や歪曲されて受容されていることの証左かも知れない。もちろん優れた先行研究があることを全否定するつもりは毛頭ない。
本書が注目するのは、中盤の労作『監獄の誕生』だ。これをフーコーのひとつの到達点と見なし、議論を配置する。初期の『言葉と物』が認識構造を問うものだとすれば、周到な「まなざし」を丁寧に分析したのが『監獄の誕生』であり、それは後期の『性の歴史』へ展開・応用を予告する周到な準備でもある。通常『言葉と物』ないしは『性の歴史』が重宝されるという受容状況があるが、認識と実践が交差する『監獄の誕生』抜きには、フーコーの関心や実践(例えば「監獄情報グループ(GIP)」の立ち上げ)を理解することは不可能だ。
権力はどこに存在するのか--。
彼岸に存在するのではない。フーコーは可視化された権力よりも自ら服従していく規律権力こそが問題だと喝破した。読んでいてすがすがしい一冊だ。後に展開される統治性や生権力との関わりについても丁寧に著者は描写する。フーコーの権力論は、フーコー自身がその実存として関わったという経緯を情熱を込めて描く手法には感動さえ覚えてしまう。
まなざしの網の目から抜け出すことは現実には不可能だろう。そしてひとつの網から抜け出したとしても十重二十重に再構成されるのが世の中の常なのかも知れない。しかしそうした不可避の権力性にどのように対峙し“続ける”ことが可能なのか。
一見すると取り囲みに無力になってしまう自分が存在する。しかし著者が読み直すフーコーの足跡を辿ると希望を見出すことができる。フーコーの入門書はあまた存在するが、まずは本書を最初の一冊としてすすめたい。
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著者はフーコーに惚れている。あとがきにて、「大好きな人の大好きな本についてなぜ好きかを書いて出版できるということは、それ自体とても幸運なことだ」(p.268)、と書いてしまうほどだ。フーコーという巨人の肩に乗って遠くを見通したいという願望があるのだと思う。
フーコーの数多い著作の中で、著者は『監獄の誕生』を特別視している。この本も最初は『監獄の誕生』についての本を書こうという目論見であったのが、そこに収まりきらなかったため結局『ミシェル・フーコー』というタイトルにしたとあるが、この本はやはり『監獄の誕生』に関する本として読んだ方がいい。『言葉と物』なんて『監獄の誕生』可愛さ(?)に巻末の参考文献説明で、「この本がさっぱり分からなくても落ち込むことはない。分かったところで、生きる指針を与えてくれるような内容でもない」(p.249)なんて言ってしまうほどだ(正しい?)。
フーコーは、過去の断層の向こう側の文献/言説を丹念に掘り起こすことで、すでに回りにあってあまりに当然と思っているが突き詰めて考えると全く当然でも何でもないものだということを炙りだすという手法を採る。『狂気の歴史』も『言葉と物』もそうだし、『性の歴史』もそうだ。『知の考古学』ではそのやり方について自ら解説もしている。その魅力については、著者の次の文章がよく言い表している。
「フーコーの著作はどれも古い時代から説き起こし、独特の迂回路を経て現在へとつながっている。かといって現実との関係が薄いかというとむしろ逆で、なぜこんな昔のことを書いているのに強烈に「今」が浮かび上がるのか不思議なほどだ。それが彼の人気の秘密なのだろう」(p.229)
「監獄」や「刑罰」はその最たるものであり、『監獄の誕生』は著作の順番からいってもその集大成とも言える。突き詰めて考えると「犯罪」を犯して「監獄」に入れられる根拠をは正義にもよらないし、社会的効用の最大化という理由でもない。それは「主権」、「自由」、「責任」さらには「身体」というものを通した内面化した権力による統治の仕組みに関連するものだ(と思う)。
今後、一定以下の世代においては、ほぼ全ての人がひとつ以上のソーシャルネットワークのアカウントを持つであろう時代において、フーコーが描写した「生権力」や「規律」というものがどのようにその意味を変えることになるのかは検討に値する課題であるように思う。ソーシャルネットワークに実名で向かうことで「規律」はより精緻に内面化されるとともにコントロールされ、自ら書き込むという所作を通して強化されるようなものではないかと思う。それは、かつて「権力」という言葉によって誰もが想像するような権力とは違うものだ。その意味でも、今現在においてフーコーが言う「断層」が多くの地点で発生しつつあるのではないか。分析対象としてのアルシーヴはかってないレベルの量とアクセス容易性を備えている。そういう観点でフーコーと今とをつないでくれる考察はないものかと思う。ちなみにタイトルから、ジョン・キムの『逆パノプティコン社会の到来』はその種のことを扱っているのかと思ったら全く期待外れであった(勝手���期待ではあったのだけれども)。
フーコーを研究するものは、フーコーが試みたことを読み解くだけでなく、フーコーが試みたことを現在の課題に適用して鮮やかに切り取ることも試みてくれないかと思う。著者はきっとこの世界では脂がのった新進気鋭の若手女性研究者と目されているのだと思う。次は肩に乗った先に見た景色を描写してくれることを期待している。
さて次は積ん読本になりつつある中山元を読もうかな。
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社会で正常者と異常者を区別し規律を守る為の道具として、監獄は非常に有用だというお話し。特に反体制的な思想と暴力とが共鳴しないよう、ブルジョアが監獄を生み出したと。ニーチェ以来の系譜学とか考古学とかそっちの方面から見るとそういう意見もあるのだろう。
ただもっと素直に見ればいいのにと思う。確かに啓蒙主義的な観点から身体刑から自由刑に変化したというのは胡散臭そう。そんなことより納得しやすいのは、政治の民主化が進み体制の変更が選挙で行われ、そもそも体制保持のための見せしめの身体刑が不要となったこと。実際に、体制を死守しようとする旧社会主義国では大量に粛清が行われ、死刑としての身体刑はあったわけだし。また、以前は社会が物質的に貧しく罪人を禁固にしても養えないためやむを得ず死刑にしていたが、社会が物質的に豊かになり、食料や看守や監獄などのシステムを罪人に対して与えることができるようになったこと。
社会の網の目のような互いを互いに監視するような社会に不満がある人は、そのようなシステムが無くても自分が絶対に不正をしない、犯罪者にならないという自信のあるものだけだ。もし、他者の自由を侵害しない限りにおいて自己の自由を保障するという原則を前提とする限り。
仮に、自己が自己を律することができるという目標に向かって突き進むのであれば、それはむしろフーコーが批判しかねない近代的な理性の視座ではないだろうか。
だから個人的に子供パトロールは必要だと思っているのです。
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名前だけしか知らずにいた哲学者フーコー。
ウンベルト・エーコの長編小説『フーコーの振り子』を読む前に、どんな人物だったのか知っておこうと思っての選書でしたが、エーコが書いたフーコーは物理学者レオン・フーコーの方で、同姓の別人でした。
フーコーの思想論の紹介かとおもいきや、冒頭からして、四ツ裂きの刑の話が事細かに紹介されており、げっそり。
彼の著書の中でも特に『監獄の誕生―監視と処罰』に焦点を当てて語られています。
近代以前は公開の場で懲らしめとして行われた刑罰が、近代以降は犯罪者を「監獄」に収容するようになっていったという処罰方法が変わったことが指摘されていますが、前世紀の残虐な拷問方法が延々と紹介されているため、そういった内容と思っていなかった身には相当の読みづらさがありました。
著者は大のフーコーファンを公言しており、どの文章にもフーコーへの愛が溢れています。
もはやファンレターにもラブレターにも受け取れるようなかなりミーハーレベルでの愛情が漏れでており、読者は基本的情報は知っているだろうという前提から書かれているため、一から知ろうという私のような読者には、取っ掛かりを掴みづらく感じました。
また「フーコーの著書というのはひとつ残らずとても手が込んでいる」「プロットが複雑で要約が難しいだけでなく、何を伝えたいのか今ひとつわかりにくい」と著者は随所で述べていますが、著書自身の文章も正直わかりづらく、読むのに時間がかりました。
自分がフーコーについて知らなすぎるせいか、もともと読み取りづらい文章なのかは、よくわかりませんでしたが。
中世の刑罰はとても残虐で、目を背けたくなりますが、ドラクロワが描いた「民衆を導く自由の女神」にも言及されていました。
あの絵には、フランスを象徴する自由の女神が、累々と横たわる屍を越えていく構図が描かれており、大量の血が流れたおびただしい犠牲の上に民主主義が成り立っていったことが図示されている辺り、「戦い奪って得た正義」という狩猟民族のヨーロッパ思想が感じられます。
やはり日本とは感性が違うように思われてなりません。
犯罪刑罰の激しさに圧倒されて、きちんとした内容理解に至らなかった感がありますが、論文かと思うとエッセイのように著者の文章形態が変わるのは、私は苦手とするパターン。
もうすこし初心者向けの本を今度は読んでみようと思いました。
ネガティブな苦手意識を抱え、引きの姿勢で読み進んだため、なおさら全貌の把握が難しくなってしまいましたが、ヨーロッパ軍人の戦闘スタイルから生活様式までを理想化して伝えたものとして、著者がトールキンの『指輪物語』に登場するローハンを挙げていた点には共感できました。
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[ 内容 ]
フーコーは、私たちが自明視する世界のありようを、全く違ったしかたで見せる。
「価値を変えろ!」と迫るその思想の核心に、どうすればたどり着けるのか?本書は、最高傑作『監獄の誕生』を糸口にフーコーの全貌に迫ることで、その思考の強靱さと魅力と、それを支える方法とを、深く広く、生き生きと描き出す。
正常と異常の区分を生み出す「知」の体系と結びつき、巧妙に作用する「権力」。
そうした秩序が社会の隅々にまで浸透する近現代を、フーコーはどう描き、その先に何を見定めたのか。
魂を揺さぶる革命的入門書。
[ 目次 ]
1 フーコーの世界へ
2 身体刑とその批判
3 規律権力
4 近代国家と統治
5 監獄ふたたび
フーコーのリアルと、彼をつかまえにゆく方法
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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高校2年現代文教材に「私はどこへ行く」という哲学系教材がある。
内容は、
今まで、デカルトの心身二元論によって意識する私が主導権を握っていたが、デジタルテクノロジーの発達によって身体的な私が主導権を持つようになった。これによって、今までの権力者と非権力者という構図が成り立たなくなる。
21世紀はデジタルテクノロジーによるパノプティコンの時代である。
…というお話。
一体、パノプティコンってなんだ!?と思って本書を手にとった。
本書は一般的な入門書とは異なり著者の熱意が伝わる読みやすい本。
是非、読んでみてほしい。
サイコパスというアニメにもパノプティコンは登場しますね。
知っていると楽しめます。