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仙台に本社を置く河北新報は、東日本大震災で壊滅的な被害を蒙った。沿岸の支局は津波に呑まれ、安否不明の記者も続出。本社のコンピューターが倒れ、紙面制作の機能を失う。「それでも新聞をつくらなければならない!」この絶対命題を前に、彼らは何を思いどう行動したのか。“新聞人”たちの凄絶な闘いの記録。
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東日本大震災で大きな被害を受けた仙台に本社を置く地方新聞の河北新報社。3月11日の地震の直後から、その翌日の号外発行に始まり、その日以来の被災者に寄り添う報道の様子を伝えるノンフィクション。毎日当然のように私たちの手許に届く「紙の」新聞がいかに貴重なものであるか改めて認識を新たにさせられます。その裏側には取材、編集、印刷、配送、配達など様々な部署の人たちの仕事にかける情熱やプライドがあることを再認識しました。電子版も便利ですが、やはり「紙の」新聞はいいと思います。
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【あの日――彼らはそれでも新聞を出し続けた】自らも被災しながら取材を続けた記者たち、倒壊した組版システム、被災者から浴びた罵声……彼らは何を思って新聞を出し続けたのか。
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自社も被災したにもかかわらず、新聞を発行し続けようとする河北新報の地元紙としての使命感。その戦いの記録。
宮城県の死者が万単位になることが分かったときに、新聞の見出しの文言を「死者」にするか「犠牲者」にするかで悩み、ただ一紙「犠牲『万単位に』」とした河北新報。それは被災者に寄り添うと決めた地元紙ゆえの苦悶。
石巻市上空のヘリで飛んでいると、小学校の屋上に「SOS」の文字を発見したカメラマンは、写真を撮り続けることしかできない。救助の手を差し伸べたいけれどもそれができない無力感。
それでも、この写真が新聞に載れば速やかな救出活動が行われることを期待していたが、後に明らかになった事実によると、このとき屋上で助けを求めていた人たちのところに医療チームが到着したのは1週間後だった。その厳しい現実に苦しむことになるカメラマン。
人々が津波にのみ込まれる様子を捕らえたスクープ写真の掲載を取りやめる。被災者とともにあると決めたことが、心の葛藤を生むという現実。
過酷な状況下に置かれた記者たちの葛藤に心揺さぶられる。そこはまさに戦場のようであった。
発災後、被災地で起こっていたことを再認識するためには良質なノンフィクションだった。
「あなたは頑張れと言うけれど、わたしたちはもう頑張っている」という被災者の言葉が心に痛かった。
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東北地方6県で展開する地元密着型の地方紙にとって、あの東日本大震災はどのような影響をもたらしたのか。
当時の社員のアンケートをもとに再取材・再構成したドキュメンタリータッチというより集まった事実を淡々と記述した飾らないスタイルに好感が持てた。
東北の地名で分からない部分が多いのと、新聞業界の役職名・役割がいまいち理解できていない点、一部冗長な記述(なぜか同じ内容を2回繰り返しているところがいくつかある)が気になったが、あまり東京では伝えられていない情報など気になった。震災発生直後より時間が経過してからの方が大変だったこと。報道しても助からない命・何もできない事に対する葛藤は計り知れないと思った。報道に関わる多くの人の人生を根本的に変えるだけの破壊力のある出来事なんだとあらためて痛感した。
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震災からもう4年になる。
震災復興に関わる仕事をしている会社にいるとは言え、やはり震災の記憶は徐々に風化する。今も故郷に戻れず避難生活をする人々のことを忘れる。
だから新聞を読んだり本を読んだりして、また思い出す。
この本は、河北新報が震災とどう向き合い、どう報じたかを記録したドキュメントです。
河北新報と言えば、以前の印象はただの保守的な地方紙でしたが、震災以降はちょっと変わりました。一番驚いたのは、以前はどちらかといえば原発推進派と言ってもいいくらいの姿勢でしたが、震災以降は明確に脱原発にシフトしたことです。
大きな企業が少ない東北の経済にとって、東北電力はやはり大きな存在です。
河北新報がそれに抗してどこまで脱原発を貫けるのか、注目しています。
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東北の新聞社の震災後における初動を描いた記録。
初動において、安否確認をして、情報収集をして、それを発信する――というプロセスは、国交省や自衛隊等の対応機関に類似していると思った。
じっさい、新潟日報との協定だとか、それを踏まえたデータ送受信訓練を一か月前に実施していたことだとかは、先日国交省の東北地整から公開された『災害初動期指揮心得』にも書かれていた「備えていたことしか、役には立たなかった。備えていただけでは、十分でなかった」というくだりに通じるものがある。
また、土地勘のある記者を派遣するという指揮もさることながら、後方支援の重要性、とりわけ総支局間での応援だとか、「おにぎり隊」の活躍も印象的で、そうした後方支援や兵站だってチームのためにとても重要、というムードを作りだし共有することが、精神衛生上も大切だとも学ぶことができた。
さらに、単純に、被災直後の人々に最も欲されるものとは「情報」であると、改めて認識。
(とくに、デジカメ・スマホ時代の写真のプリントの尊さと同様に、)ネット・TV時代の新聞の尊さが、3.11後に改めて明らかにされた、と思う。
「アナログメディアの重要性」という指摘もあったがまさにそのとおり。
そして何より、あのころの動きがこうして(しかも発災わずか半年で!)まとめられ出版された貴重な記録に、リスペクトと感謝を抱かずにいられない。
しかも、何度も涙腺が緩んだほど、正直な感情に大変満ちた、この記録に。
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東日本大震災(そして原発事故)被災地の新聞が被災当日からいかに報道・取材・発行に取り組んだかが描かれている。彼ら自身も被災者。あるべきものがない中で、報道のあるべき姿が逆に浮かび上がってきた。いろんな部署を紹介しているので(記者だけが頑張っているわけじゃないので当然だが)読み物としてやや散漫な感もあるが、目配せがきいているとも言えそう。久しぶりに本を読んで涙腺が緩んだ。通勤時に読んだのは失敗。
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読んでいて、何度も涙が出てくるのを必死にこらえた。
自室で読んでいたら、それこそどうなっていたのか
わからない。
「大震災」後の3月28日にやっと故郷の宮城に
入ることが出来て、そして、そこで目にした
「光景」は一生忘れないだろう。
今でも、「自分に出来ることは何か」を模索しながら
生きている。
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個人的な話になるが、この本を読み終わった5月3日は、28年前朝日新聞阪神支局襲撃事件の起こった日だ。当時学生で物を書く仕事に憧れていた私には、とても衝撃的な事件だった。中でも銃撃された記者が「指はあるか!」と叫んだという逸話が忘れられない。命の危険にさらされても、なお書くことへの執念は捨てない、その記者魂に圧倒された。
河北新報という名は2013年4月、横浜の日本新聞博物館で初めて知った。震災報道を伝える展示会が開かれていて、その紙面が掲示されていたのだ。生々しい紙面、そして震災の日も発行されていたことへの驚きで、息を吐くことしかできなかった。
この本に描かれた、紙面の裏にあった葛藤は想像以上だった。「紙齢(しれい:新聞の発行日数)を絶やさない」ことへの執念。組版基本サーバーのディスク装置が倒れ、制作が危ぶまれたが、新潟日報に紙面を作ってもらえるようになる。2004年の中越地震を経験していた新潟側の呼びかけで、2006年から有事には強力する協定が出来ていたのが役立ったのだという。このことが象徴するように、人と人との繋がりが震災後の河北新聞を支えていく。編集局、記者ばかりでなく、販売店など、新聞に関わるすべての人々を描くことで、新聞のもつ底力をより大きく感じた。
一方で記者たちの被災者に対する思い、人間らしい弱さや苦悩も生々しく胸に迫る。ヘリで空撮を行っているカメラマンの目に映る、学校屋上に非難した人々の作った「SOS」の文字。助けてあげられず「ごめんなさいね、ごめんなさいね」と言いながら写真を撮り続け、その写真の報道で助けになれればと祈っていたというが、現実は厳しかった。その人々が救出されたのは1週間後、その間ほとんど食べ物もなくスティックシュガーをなめていたという。その事実を後日知ったカメラマンは、自分の仕事が役に立っていなかったと苦しむ。
ここに描かれている記者や編集局の人々も被災者だ。水や燃料・食料不足の中、極限の状態で新聞を作っている。編集局と記者たちの温度差を感じた報道部次長が、アンケートを行い、その苦悩が明らかになる。精神も体力も限界の中で報道するという使命と、被災者に役立っているのかという無力さ。その狭間で葛藤する人々の言葉を細やかに拾い上げたことで、彼らの姿が浮き彫りになり、まっすぐに響いてくる。
河北、という言葉は「白河以北」という意味で、「白河以北一山百文(白河より北は荒れ地ばかりでひと山百文の値打ちしかない)」という侮辱的な言葉への反骨精神からなるという。東北人らしい粘り強さ、やさしさを持って、これからも紙齢を絶やさずにいて欲しいと心から願う。
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大変な状況で苦労した、という話だが、引用される記事がひどい文章で、安い演歌歌手リサイタルの司会者みたい。日頃の修練が足りないと、こういう時にむき出しになるようだ。
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一枚一枚めくっていくたびに、涙がこぼれそうになった。喉の奥が熱く、ひりひりし、目頭が熱く、じりじりした。情景が浮かぶようだった。
武田真一さんの、ボタンを押す手が震え、志津川支局の渡辺龍さんらの安否が確認できない、という文章を読んで、ぞわぞわと背中に怖気が走った。ただ電話が繋がらないだけなのか、動けないから繋がらないのか、流されたから繋がらないのか、生と死が垣間見え、きりきりと胃が痛む。
ーー津波が来た! 地獄だ!
その題名を見た瞬間に、絶望が訪れて、ウッ、とうめいた。わたしは経験していないけれど、アレは多くの人々にとっての地獄だった。ユーチューブやニュース番組で何度も繰り返し報道された。黒く大きな濁流は瓦礫から何からを押しやり、詰め込み、のしていく。
荒浩一さんにかかってきた深沼販売所の奥様からの電話。息子は配達に出かけ連絡が取れず、夫は店の片付けのために逃げ遅れた。半狂乱となって泣き叫んでいる、とあたり、誰もが泣き叫びおののくしかなかったその瞬間がありありと浮かんだ。
空撮が災害時には一番良いのだそうだ。どこの被害が一番大きいのか、被災状況はどのくらいなのか、そういった情報が一挙に獲得できる。
だからこそヘリコプターをチャーターしての空撮が必須なのだけれど、あのとき河北新報社がチャーターしているヘリコプターを扱う会社が被災し空撮ができないとなって大変だったとあった。
インターネット、テレビ、ラジオ。みな電気と電波で動くもの。すべてが遮断され、頼みの綱は紙媒体。新聞。河北新報社が新聞を配布したからこそ、被害の大きさを知ることができた者も大勢いる。新聞がなければどれほどの規模の地震だったか、被害状況なのか、何もわからない。
現場取材班に関しても、被災地に向かうも交通網が遮断されており取材ができないもどかしさ、無事に帰ってくることができるかの不安、それらがないまぜになっていたと記載され、向かうことすら一苦労、だが事実を知って広めなければならず、大変だなと思った。
比較的電話よりメールのほうが通じやすかった、とあり、事実、メールはたまに入ってきたけれど、電話は全く繋がらなかったことを思い出す。
気仙沼市の被災状況に関する記事が、とてもつらかった。開口一番、墓場だ、と書かれたその文章。すべてのものが破壊されつくされ、それはこの景色がこの先しばらくずっと続くことを物語っており、陰鬱とした空気を醸し出す。
また、ようやっと空撮できる機会に恵まれ、その写真を撮る際に、とても直視できなかったという部分。ファインダー越しでないとまともに見れなかった、と。被災が広範囲すぎて、何もかもが信じられなかったであろうことがうかがえる。
南三陸町の被災状況に関する部分も。海岸線は二キロも先のはずなのに、漁具に巻き込まれた車の数々、無表情のままの町民たちとすれ違い、きょうだいかも分からぬがランドセルを背負った学生と中学生らしい学生が手を繋ぎ黙々と歩む。壊滅、以外の文字が、思い浮かばない。
シャッターを切る最中に涙があふれ、それを知られまいと食いしばるカメラマン。
とても、つらい。
死者、万単位に。
犠牲者、万単位に。
どちらがより、つらくないと思われるだろうか。
死者、という文章のほうが、分かりやすい。
ただ、まだ死んでいない、生きている人たちに、絶望を植える言葉だ。
だから、河北新報社、宮下拓さんは、犠牲、と書いた。
翌十四日の朝刊に於いて、犠牲者、と打ったのは、河北新報社ただ一社であったという。
感情論でぶれすぎた、と宮下さんは社内調査で語ったというが、だからこそ良かったのだと思う。冷静ではいられないのが、震災なのだから。個人的には、犠牲、のほうが、ほっとする。
冒頭に書いた深沼販売所の件が、ここに来て復活する。利府にあるグランディ21が東北随一の遺体安置所になったことは記憶に新しい。
子供らと共に奥様が訪れ、遺体の確認をする。
冒頭で読んだ、泣き叫びうろたえる様を思い出して、目頭が熱くなる。
ただ一部、気になる点があった。
女性たちが飯炊き女のようにアコギに利用されていた点だ。
山形支部だかの、浦響子さんにやらせましょう、と言った加賀山という人物に辟易した。
この点において誰も言及しておらず、ハァ?となった。
男尊女卑とかそういう問題でなく、女性に対して、他人に対して、【やらせましょう】と言い切った点が解せない。
勿論、炊き出しには人数が必要だということも理解できるが、そんな風に人を使うなと言いたい。
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ここからは、個人的なめも。
震災のあの日。わたしは地元仙台にいた。まだ大学生だった。卒業まで後少しというところ。そんな折、あの大地震が起こった。
夜中過ぎ、寒くてたまらず、わたしは最寄りの学校から車中泊に移行した際に、カーナビのラジオだったと記憶しているが、それが、一時間ごとに、死者の数を増やしていったのを聞いた時には絶望しか浮かばなかった。
ーーで死者百人、という報道のその一時間後に、ーーで死者二百人、またその一時間後に、ーーで死者三百人、という報道を聞いたとき。
自分がその光景を見たわけではないのに、涙が止まらず、脳裏には見てもいないのに連なる死体の想像が溢れ、眠るに眠れずにいた。
感じた心は人により違い、わたしは上記のようにただ震えていただけだったけれど、まだ寒さをしのげた。しかし、あのとき、津波に流されながら生きることに必死だった人や、建物の中にも入らずに震えるだけだった人もいる。
荒浜での死体に関してはデマだったと後ほど知ったけれど、それを知るまでは恐ろしさしかなかった。実際、多くの方々が亡くなっている。事実でないが、現実ではある。
最初に揺れてから三十分以内くらいは少し繋がり、そのあとまったく通じなかった。母とも連絡が取れず大変だった。メールで家に帰宅する旨を伝え、母やきょうだいを待つ時間はじりじりしたものだった。
幸い、きょうだいと共にいたため、最寄りのコンビニでごはんを買おうと思い立ち、長蛇の列をなすコンビニに入り込んだと記憶している。
パン、おにぎり、お弁当、お水、お茶。そうい��たものはかけらも見当たらず、まあそれは当たり前なのだけども、それならばと、日持ちのしそうなクッキーやビスケット、牛乳がなくとも栄養は多少とれるであろうと踏んでコーンフレーク、アクエリアスやポカリスエットなどの飲料水、山中などでは糖分があると良いと言われるのでチョコレートなどを買い込んだ。
この買い込みがあったおかげで、わたしたち家族は電気が通じる三日後まで飢えを知らずに済んだ。
夜、ほかに空いているコンビニがないか、母と共に歩き回った。星がとても綺麗で、ああ電気がないとこれほど空は美しいのか、と思った。そのときの写真でも撮っておけば良かったと今更ながら思う。
今ならスマートフォンで山のように証拠写真のごとく撮影し、そのときの情景を胸に秘めたろうに、あのときはただひたすら、これは現実なんだろうかとぼんやりするしかなかった。
三日目の夜、いやもうあのときは深夜に近かったろうか、近所に銀行があり、非常灯らしいものがともったのを見て、電気がついたのか!?とスイッチを押したときの明るさ。
あのときの安堵は、これから先いつまでも忘れられないと思っている。
ぶわっ、とエアコンが作動し暖かさに包まれ、メールもざくざく通じ始めた。電話も繋がり、ほっとしたのを覚えている。
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https://www.news-postseven.com/archives/20110405_16576.html?PAGE=1#container
http://www.2002rifu.net/miyasta/shinsai.htm
https://kioku.library.pref.miyagi.jp/onagawa/index.php/ja-menu-item-search.html?action=detail&uniqid=58110000005436
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市政だよりに掲載されていたのを見て図書館で借りた震災文庫。
河北新報と各記者が、東日本大震災発生時にどう考え、どう動いたのかを詳細に綴った一冊。自分たちも被災しているのに被災者に情報を届けるために必死に闘う記録は後世、語り継ぐべきだと思う。
記事見出しを「死者」とするか「犠牲者」とするかの葛藤は、壊滅した現場を歩いて取材した地元紙ならではの配慮で、感銘を受けた。(「第3章 死者と犠牲者のあいだ」)
また、若い女性記者が原発爆発後に福島を離れたことについて、記者としての使命感と自分の弱さの落差に絶望して記者をやめてしまう話には心を動かされた。あのときは皆が放射能という見えない敵に怯えていたし、会社からも避難指示が出ていたのだから、そこまで思い詰めないで気持ちを切り替えて頑張っても良かったのではと思うが、彼女にはそうできないくらい後悔、葛藤があったのだと想像する。(「第6章 福島原発のトラウマ」)
その他にも配達中に犠牲になった販売店の方の話、物資不足の中でも新聞発行に奔走する河北新報社の想い、被災者の気持に寄り添うことを基本姿勢として衝撃的なスクープ写真の掲載を見送る話、震災1ヶ月後の社内アンケートでわかった記者たちの「苦痛」「感激」などの心の声など、心に深く残る内容。
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震災時の報道資料。いわば新聞社のBCPに関する実録であり、大変勉強になった。街がなくなったと書く記者の心情には、心動かされた。