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噛みあわない言葉をかわす人びとの、滑稽でかなしい群像劇。
劇中に散りばめられた恋する者と恋い慕われる者同士でさえ、なにひとつ分かりあえない。求めるものを追えば追うほど、それは遠のいていく。たとえば「夢」。たとえば「愛」。
そんな子供っぽいたあいのない幻に裏切られたら、あとはただやり過ごすだけの日常を生きるか、あるいは
死ぬか。
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物質と精神を分けるなんて、誰もそんな根拠は持っていません。ひょっとすると精神だって物質の原子の集まりかもしれませんからね。
私は人生をおもしろおかしく好き勝手に生きてきたし、そのことに何の不満もないが。
あたし自分がずっと昔に生まれたような気がします。なんだか長い裳裾のように自分の人生を引きずっているみたいで。
人間の幸不幸っていろいろでしょう。おもしろおかしくもない、さえない自分の人生をひきずっている人もいる。誰もが似たり寄ったりで、幸せとは無縁な存在です。
きっと仕事のしすぎですわ。それでご自分の存在の大きさを感じる時間もその余裕もおありにならないのよ。あなたは他人の人々にとってはとても大きな素晴らしい存在です。
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読了後に解説を読むまでは、なぜこの作品が名高いのかがわからなかった。
トルストイ、ドストエフスキー無き後のロシア文壇を担わされたチェーホフが仕掛けた劇中劇、ねじれた愛の数々、そして堕ちるかもめ。惨憺たる初演と絶賛の再演、しかもチェーホフの意図とは異なる演出で。
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誰を軸にして読んでいいかがわからず、少しためらった。事件はおこらず、思索と実りのない恋愛の数々。かみしめるように味わわないと意味なし。これは玄人受けな作品。
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芸能人一家ってこんな感じ?というような…
恋の話より、母息子の関係に目が行きました。いつもにこにこ包容力あるママ……でなく、子供にも嫉妬するあたり、現実的で勉強になりました。
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『かもめ』/チェーホフ/複雑な恋愛関係の中で、夢と現実が交錯する展開。決して人間関係がドロドロなわけではないんですが、夢も恋愛も何一つ叶えた登場人物がいない(!)よね(?)。後半の「わたしはかもめ」という台詞がうまく解せない。
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偏食気味で良くないのですが、そもそも文学系の本を読むことは少ないですね。特に戯曲は、シェークスピアを除いてほとんど読んだことがありません。
ということで、恥ずかしながらチェーホフははじめてです。この「かもめ」、後の「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」とともに四大戯曲と呼ばれたチェーホフの代表作のひとつです。
終幕近くトレープレフとニーナの台詞の交換、ニーナは「私は、かもめ・・・」と何度もつぶやくのです。ニーナは忍耐に目覚め、トレープレフは絶望の淵へ。再び多くの人物が登場して一気に結末のシーンへと向かいます。
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原書名:ЧАЙКА(Чехов,Антон Павлович)
著者名:アントン・チェーホフ(1860-1904、ロシア、劇作家)
訳者:浦雅春(1948-、大阪府、ロシア文学)
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やはり、終わり方が秀逸。
チェーホフは120年時を経ても断然おしゃれ。
たとえ誰かに真似されたとしても、シンプルにオリジナルはかっこいい。
「エジプトの壁画に…」っていう耳にタコが出来そうな話があるけれど、いつの時代にも『余計物』はいて、考えることはほとんど同じで、都会のアパートの隣人よりも、その人たちとの方が心の距離が近いこともあるんだな。
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わたしは、かもめ。
不思議な、というか、これをどうしたらいいのかわからない。なんというか、頽廃的。イメージする、ザ・ロシア。チェーホフだから、そう思っちゃうのか、チェーホフが、そのイメージを作ったのか。なんか、大切な部分を、あれ読み飛ばしたっけ、となる。でも、書かれていないらしい。それでいいのか。
長い語りがあるからか、トリゴーリンに一番気持ちをのっけることができる気がする。
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久しぶりの再読。チェーホフの四大戯曲の中では最も完成度が低く、あちこちデコボコしたような印象を覚える作品だが、四作品の中で唯一「青春もの」と呼べる内容であり、チェーホフらしからぬ若々しさに溢れている。後の作品、とりわけ『三人姉妹』の萌芽が随所に見える点も興味深い。この作品でうまく表現しきれなかったモチーフを熟成させて、『三人姉妹』で用いたのだろうか。
繰り返し読むことで、物語の構造やモチーフの反復など、作劇の技術がよく分かってくる。だが、そこには多くの謎も秘められている。たとえば全ての幕で冒頭にマーシャが出てくるのは面白い趣向だが、何故マーシャでなくてはならないのか?と考えても、答えはよく分からない。それらの謎の中には、作品を解釈するための重要な鍵もあるはずだが、全てが計算され尽くしているわけではなく、単に勢いで書いてしまったのではないかと思える部分も含まれている。やはり『かもめ』は、良くも悪くも、若々しく荒っぽい作品なのだ。昔はその荒っぽさが欠点にしか見えなかったのだが、最近は次第に魅力として感じられるようになってきた。
浦雅春の訳は、現代的な口語をうまく駆使し、こなれていて読みやすい。全体的なバランスでは、数ある翻訳の中でもベストだろう。ただし文学的な香気に若干欠ける嫌いもあり、その点に関しては堀江新二の訳の方がいい。
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集英社版の沼野訳と較べながら読んでみた。沼野訳は生きのいい台詞に重点を置いているので、浦訳のほうがやや説明的で、読んでいる分にはわかりやすいところもある。ハムレットの引用部分は、原文からとロシア語訳からでだいぶ印象が違う(原文のほうがどぎつい。でもロシア語訳を採用しているのは沼野訳くらい?)。どこかで指摘されていてなるほどと思ったのは、各幕の最初がマーシャで始まっていること。それから、今回読み直して気づいたけど、最後のところでニーナは2回も「ちょっとした短篇の主題ね…」て言うんだ。トリゴーリンとニーナ、アルカージナとトレープレフがパラレルになっていて、世代の違いなのか、演劇に対する認識の違いなのか、どこまでいってもわかりあえない。訳者によって、「仕合わせ」「幸せ」とあるけど、違いはなんだろう?解説を読んで、アクーニンは「悪人」から来てるってほんまかーい、と思った(笑)。
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四幕の戯曲で、さほど厚くない本だが、少しずつ読み進める。一人一人の台詞は短いし、次々登場するので、最初は「えっと、コイツ誰だっけ?」登場人物のページを何度も見直す。
様々の恋が織りなす人生模様とカバーの裏にあるが、誰もが自分勝手だと思う。
一番違和感を感じたのは、アルカージナかな。息子を愛しているというけれど、無理解だし、女優なので衣装にお金がかかると、息子にはろくに服を買い与えない。
登場人物の誰にも感情移入が出来ないけれど、不思議な感触がある。
そして終幕。正直、息を飲んだ。
生の舞台を観たくなった。
「私はカモメ」って女性宇宙飛行士、テレシコワの科白と思っていたけど、元ネタがあったんだ。
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誰もが現状に満足せず、不満を持って生きている群像劇。
自由に空を飛べるかもめを夢見ながら、あるいはそうであるはずなのに、撃ち落されて地面に落ちてしまうかもめ。理想と現実のギャップを埋められない。
2年後、そんなかもめたちは飛ぶことができるようになったのか? 飛ぶことができたのは誰なのか? それを決めるのは周囲の評価でもないし、客観的な現状でもない。ただ自分が自分を生き方を評価するのみなのだ。不幸せに見える人間が幸せであり、幸せに見える人間が不幸せであるのだ。
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喜劇だと思っていたが悲劇だった。
なんか自分のことで精一杯な感じ
かもめ?ニーナになにか起こるかと思っていた。