アイデアは良かったが、展開は不十分。
2005/10/11 21:06
13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:越知 - この投稿者のレビュー一覧を見る
かねてから入試の国語問題について、斬新な切り口で興味深い本を出し続けている国文学者の新著である。
学校の国語の教科書は何のためにあるのか? そりゃ日本語を学ぶためだろ、という答えは事実の半分をしか言い当てていない。実は道徳を教え込むためにもあるのだ、というのが著者の主張である。
近年歴史教科書について激しい論争がなされている。歴史をどう見るべきかがイデオロギー闘争であるとするなら、国語の教科書が採用する文章にだってイデオロギーは含まれているのは、或る意味当然であろう。極端な話、教科書にマルクスや重信房子の文章が採用されているのと、保田与重郎や北一輝の文章が採用されているのとでは、子供たちが受ける印象はまるで異なってこよう。無論、現実にはそんな文筆家は採用されるはずもなく、無難な内容の文章が選ばれるのではあるが、にもかかわらずそこにはある種の定型的な思想が看取できると著者は主張する。
例えば小学校の国語教科書には動物の出てくる文章がやたらに多く、「自然に帰れ」「都会は悪く田舎は善である」というようなメッセージが隠されているという。この種の分析は、言われてみればなるほどと思うが、意外に気づかない点であろう。
著者はまた、一時期新聞をにぎわした「国語教科書から鴎外や漱石が消えた」という報道が誤りであると喝破し、「ゆとり教育」批判の一因ともなった「PISAの読解力試験」がいかなるものでその結果を単純に学力低下と見ていいかどうかという疑問をも提出する。いずれも貴重な指摘であると思う。
以上、この本の価値を認めた上で、以下疑問点を記す。すなわち、著者の分析自体がイデオロギー的な偏向を含んでいるように見受けられるところである。例えば環境問題が国語教科書に頻出し、「わたしたちが考えていかねばならない」という言い回しで締めくくられる場合が圧倒的に多いことに触れて、これは政府の責任を回避する保守的な見方だと著者は言うのだが、果たしてそうだろうか? むしろ市民サヨク的な思考法の表れと見た方が適切ではないか。この種の問題を政府に丸投げせずに、自分たちの問題として捉え、自分は社会に直接関わっているという意識を絶えず持ち続けるのがその種の人たちの生き方だからである。高度の消費生活を営み環境を危機に陥れているくせに、「私は環境問題を自覚し活動もしているのだ」という理屈で自分を免罪してしまう。このくらいまで分析ができないと、国語教科書のイデオロギー批判としては物足りない。
また、内容をそのまま受け入れるのではなく、内容の是非について議論できるようにするのが国語教科書の役目だと言いながら、案外著者の判断が固定的なのも気になる。例えば戦時中の物語から取られた教材に「体の弱いお父さんまでがいくさに行かなければならないなんて」という表現があることをとらえて、著者は「体の丈夫な男性なら戦争に行ってもいいとでも言うのだろうか。(…)どんな人間であっても戦争に行ってはいけないのだ」と書くのだが、どうだろう。生徒の意見の自由を尊重しろと主張したいなら、体が丈夫なら戦争に行くという考え方もあり得る、と書かねばならないのではないか。時代によっては個人の生よりも国家全体の安全を選ぶという選択もあったはずであり、現代人にそれが受け入れられるかどうかは別にして、様々な時代の異なる感性に対する想像力を養うのも国語教科書の役目である以上、著者がもう少し広い感受性と思考力を持たないと、せっかくのアイデアが十全に活かされない本で終わってしまう。一考して欲しい。
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今の国語教科書は道徳教育に偏していて批評精神を涵養しないという観点から国語教科書を「滅多切り」にしている。カミソリ千秋の面目躍如というところ。岩波編集部が出版を躊躇しただけの内容はある。やや過激。
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あぁ、来年は教育実習に行くんだ、と思いながら読み進めました。
そのなかで気になる箇所があったので、ここに残しておこうと思います。
…では、日本の国語教育はどうすればいいのか。ここで、一つの提案をしておこう。それは、現在の日本の国語教育はあまりにも「教訓」を読み取る方向に傾きすぎているので、それを是正するために、現在の国語を二つの科目に再編することである。
一つは、まず文章や図や表から、できる限りニュートラルな「情報」だけを読み取り、それをできる限りニュートラルに記述する能力を育て、さらにその「情報」の意味について考え、そのことに関して意見表明できる力をも育てる「リテラシー」という科目を立ち上げることである。この科目においては、「正解」と「まちがい」の違いがある程度はっきり出る。したがって、採点可能な科目である。もちろん、採点の基準は「道徳的な正しさ」では決してない。「正確さ」だけが唯一の採点基準である。(p58-59)
もう一つは、文学的文章をできる限り「批評」的に読み、自分の「読み」をきちんと記述できるような能力を育てる「文学」という科目を立ち上げることである。なぜ「文学」かといえば、「文学は作者の意図通りに読むべきである」というよほど保守的で頭の固い一部の近代文学研究者でない限り、現代社会においては「文学」は個人の好みでさまざまに読んでよいという共通認識が成り立っているからである。その意味で、書かれたものの中では、文学は誰も傷つけることなく自由に自分の意見を言うことのできる、数少ないジャンルなのである。(中略)
この場合の「批評」とは、テクストから根拠を引き出すことのできる「読み」や、自分の用いた枠組について言及できるような「読み」のことであって、根拠のない意見や感想のことではない。根拠のない意見や感想は、言いっぱなしになるだけであって、知的なコミュニケーションを生まない。
しかし、実は根気よくコミュニケーションを行っていけば、一見すると根拠のないように思える意見や感想でも、ある一定の枠組から読んだものだということがわかってくるはずなのだ。その結果、児童や生徒は自分の立っている場所が見えてくる。つまり、自分がそうと意識せずに寄りかかっていた枠組が見えてくる。「文学」という教科は、そのことを炙り出しにするまで、いかに根気よく児童や生徒と対話ができるかにかかっている。(中略)
したがってこの場合には、教室において複数の「正解」を認めなければならない。つまり、「文学」は採点が不可能な科目である。学校空間のなかに採点をしない科目を作るのである。これはドラスティックな提案かもしれないが、こうでもしないと日本の風土では「自由」な意見は出にくいのでないだろうか。なにしろ、「大人」の世界でも「自由」に意見を言えば、表だって、あるいはやんわりとたしなめるのが、日本のお国柄なのだから(p60-62)。
「リテラシー」の必要性は、普段SSGで議論している通りだと思う。
しかし、本当に問われているのは「批評」することではないだろうか、なんてちょっと思ってしまった。
改めて「国語」の持つ可能性を感じた一冊でした。
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国語の解法は「道徳」であるという指摘はみんなが何とは無しに感じ続けていたが言葉に出来なかったことなんじゃなかろうか。
内容もさることながら、文章に適度に毒が利いていて読みやすい。
国語が分かる人=「道徳的視点・枠組みから文章が読める人」という視点は、国語力と読書力・読解力を安易に結び付けようとする最近の流れに対して、良い牽制球だと思われる。
突っ込み所があるとしたら、「根拠」の部分かなぁ。言っている事は正しい「気がする」が、それを裏付けるような確固たる証拠や用心深さが見られない。徹底的にやる気なら、もっとやれるはずである。
とは言え、攻撃的な姿勢に全体的に好感が持てる本です。
批評って大事だなぁ。
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ここんとこ読んだ本を考えてみると…義務教育において、正解は決まっている事に対して答えを考えるという事が刷り込まれている。それが日本の問題になっている。
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戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。現在その役割を担って
いるのが国語である。「読解力低下」が問題視される昨今、国語教育の現場では
何が行われているのか? 小・中学校の教科書、なかでもシェアの高いいくつかの
教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような
表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギー
を暴き出す。
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戦後の学校教育は子供の人格形成を使命の一つとしてきた。現在、その役割を担っているのが国語である。「読解力低下」が問題視される昨今、国語教育の現場では何が行われているのか?小・中学校の教科書、なかでもシェアの高いいくつかの教科書をテクストに、国語教科書が子供たちに伝えようとする「思想」が、どのような表現や構成によって作られているかを構造分析し、その中に隠されたイデオロギーを暴き出す。
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敬愛する石原先生の著書。教育は恐ろしいです。思想統制なんて簡単にできてしまうのですから。
本著は思想統制とまではいかなくても知らず知らずに刷り込まれている思想について、おなじみの国語教科書の教材を分析。なかなか興味深い。
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国語教育が実は見えない「道徳教育」であり、「自然に帰ろう」「他者と出会おう」といった価値観のもとに編集されていることを指摘し、世界に通用する国語教育とはどのようなものかを説いた本。鋭くシュールな指摘に思わず笑ってしまうところもあり、そうそう、そんな感じの教科書だったなーと思いながら読めるので興味深い。「豊かさ」、「わたしたち」、「客観的」といった何気ない表現に、見えないイデオロギーや曖昧な価値観が含まれていることを、それと気付くことなく納得して読んでしまっていたことに気付かされた。国語教育の難しさを感じた。「テストは教育のはじまり」(p.36)、間違うところから成長する、という言葉には同感だ。(2008/01/13)
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小・中の教科書の作品・構成の検討を通して
国語教科書に秘められた「思想」を解き明かす書。
この書で述べられていることは、
・現在の国語教育で道徳教育が行われている。
ということ。
本文を読んでいくと、
作品がある特定の道徳観で選ばれていることがよく分かる。
レビュアー個人としては
国語の大半が文学作品の解説で占めているところに
危機意識を感じていたのだが、
この本の著者の主張は概ね合致するものであった。
もっともこの本は教科書分析から
論を展開しているので
本当にこの国語教科書の思想を
児童生徒が植え付けられているのか疑問の余地がある。
けれども、教科書の採択状況の偏りについても述べられているため、
この思想が国語の授業を通して
植えつけられている可能性は高いと思われる。
この書の直接のテーマは国語教育ではあるが、
個人的には、道徳教育を考える上でも有益な一冊だと考える。
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とりあえずレポート用に。
国語教科書の問題点を、具体的にその教材の内容に言及して、述べているところ、道徳教育化している国語教育の問題点やら、いろいろと。とりあえず、5時間も普通の読書でいってしまったわけなのですが、内容も頭に入ってなかったり、色々と終わっています。うーん困った。とりあえず、批判的にレポートを書かねば…。
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現在、どのように教育していくのかが注目されていいる教科の国語。
その国語の教科書を一冊のテクストとみなし、テクスト論の立場から、「言説分析」と「構造分析」を行っていく。
国語は全ての教科の基礎となるような読解力を身に付ける教科だと考えている人がいるとしたら、それは「誤解」である。現在の国語という教科の目的は、広い意味での道徳教育なのである。したがって、読解力が身についたとは、道徳的な枠組みから読む技術が身についたということを意味するのだ。
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本来の意味でのシュールさと鋭さ。
まさに今おかれている状態をわかりやすく、明解に説明された
人におすすめしたい一冊。
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悪質なデマーゴス。教科書編集などにも関わるのであれば、学習指導要領や国語教育の研究成果がどのような方向に向かっているか知っているだろうに、国語教育を道徳と断罪するのは、何かしらのバイアスをもっていると疑うべき。不勉強であるだけならば、国語教育に真摯に取り組む人間に対する冒涜であるのでこういった無用な批判は控えてもらいたい。
ただ、こういう言説がウケルのは、教師自身が国語教育に対する勘違いをして、それを実践しているという不勉強があるから。
非常に根の深い問題がある。
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カバーに書いてあるように「現在の国語という科目の目的は、広い意味での道徳教育」であり、読解力を養うための教育ではないと指摘。教科書を批判する事を通して、文章の読み方も指南している本。