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今まで読んだ中での最凶の悪書。
カラヤンを通じて自分の考えを敷衍してるにすぎないマスターベーション的内容。
おおよそ「新書」のカテゴリーからははずれた随筆ないしはアジビラ的内容。
カラヤンを批判するのはいいが論理が完全に破綻をきたしている。
クレンペラーとケーゲルを称揚するのはいいが、それも説得力に欠ける。
難しい言葉を羅列しているが、簡単に書けばよいのだ。
曰く、指揮者、音楽家は通俗的であったはならない。大衆に背を向けろ。大衆の好む音楽をやるな。指揮者自身変わり者であれ。悲劇的であれ。(クレンペラーやケーゲルがそうだからね)。
で、このひと「大衆」が大嫌いである。大衆を無知であると考えている。そういう「無知な大衆」がオレの大好きなクラシック音楽を貶めて汚してるだとの論理である。
それこそ著者が言う、憎むべきファロス中心主義・ロゴス中心主義なんじゃないのか?。
このひと論理を進める中で、自分自身に刃を向けているような気がしてならない。
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酷評なのか、賛辞なのか、わからなかった。
カラヤンがどんなだか知らないのに読むっていうのが、
最初から無理だったようで、ぱらぱらっと読んですぐに返却。
「どうせ売れないから、好きなこと書いてよいよ」と
編集担当とやりとりしたようで、
存分に好きなように書いてあることは感じられた。
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國學院大学文学部教授(20世紀西洋美術史)の宮下誠によるオーケストラ指揮者カラヤンへの批判。
【構成】
第1章 音楽の悪魔-プロレゴーメナ
第2章 流線型の美学-ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)
第3章 孤高の絶対音楽-オットー・クレンペラー(1885~1973)
第4章 絶望の音楽-ヘルベルト・ケーゲル(1920~1990)
20世紀で最も有名なオーケストラ指揮者であるヘルベルト・フォン・カラヤンへの毀誉褒貶は枚挙に暇がない。本書はそのタイトルから知れるように数多あるカラヤン批判の一冊である。大学の文学部の教授が精神史的・芸術史的見地から批判しているつもりらしい。
曰く、20世紀は世界大戦に象徴されるように苦悩と絶望に苛まれた時代であり、そのような時代の苦悩を投射せずに美しさのみを求めたカラヤンの音楽は20世紀という時代への犯罪的行為であり断罪されるべきであるそうだ。それをカラヤンの音楽と、それに対比させる形でのクレンペラー、ケーゲルの存在によって論じている。
そもそも、なぜ戦後冷戦下で長期的な平和の下にあった西ヨーロッパ、アメリカ、日本でそのような精神的苦痛をクラシック音楽に反映させなければならないのか、あるいは戦前の音楽に対してはそのような精神的な苦悩を聴衆が求めていたのか、などはかなり疑問だが、たとえそうであったとしても、この作者の主張には何等の説得力も持たない。
まず本書の論理構造からすれば、カラヤンの音楽が非精神的であり、それが20世紀後半の大衆の傾向を象徴するものであるとしているが、それならば断罪されるべきはカラヤンではなくそのカラヤンの音楽を享受し続けた大衆にあるはずである。世界最高のオーケストラ指揮者であったところで、聴衆の支持のない指揮者がポストを継続できるはずもないし、まして大量のレコード、CDの録音を残せるはずがない。つまり、著者が絶賛するようなクレンペラーやケーゲル(あるいはフルトヴェングラーもか)のような音楽の内面性にまで踏み込んだ演奏がありながら、軽薄なカラヤンの演奏を「聴衆がなぜ選択したのか」が論じられるべき問題であろう。
それを単純な印象論で演奏解釈をあげつらい、ベートーヴェンやブラームスはドイツ的重厚に、モーツァルトは「悲しみ」を表現すべきなどという時代錯誤の見解を並べ立てるなど、滑稽で痛々しいほどである。読了した感想を端的に言えば、カラヤンの音楽よりもこのような論理性の欠片もない文章を草する愚かな学者の方がよほど断罪されるべき存在であろう
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批判するということは、技術がいることだなぁと思った。
気分が悪くなり、途中で断念。
ただ、著者の奥さんが、
「自殺したくなるからやめて」と言ったという、
ケーゲルの指揮したアルビノーニの「アダージョ」とやらを
聞いてみたい。
絶望しきった音楽とは、どんなものなのか?
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[ 内容 ]
20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。
その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。
しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。
かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるがごとく、宗教儀式のように音楽を体験し、享受した。
そこには特別な「意味」が存在した-。
本書は、カラヤンの音楽と、それを鋭く断罪する二人の音楽家、オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーブルの、絶望や狂気、矛盾や破滅が内在する『危険な音楽』を通して、20世紀から現代までを覆う「負の遺産」を問い直し、音楽、芸術、そして人間存在を考える。
[ 目次 ]
第1章 音楽の悪魔-プロレゴーメナ(死後20年目のブーム 音楽の言語化 ほか)
第2章 流線型の美学-ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908~1989)(『大地の歌』 人口楽園 ほか)
第3章 孤高の絶対音楽-オットー・クレンペラー(1885~1973)(満身創痍の鉄人 アンチ・モラリスト ほか)
第4章 絶望の音楽-ヘルベルト・ケーゲル(1920~1990)(自殺したくなる音楽 途絶えたキャリア ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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どういう内容の本多か調べもせず何気なく買って何気なく読み出したのだが、カラヤンを通して20世紀という時代の人類の行過ぎた快楽主義を問うという内容だった。しかもカラヤンと比較されるのがクレンペラーとケーゲル。読み始めてどんどん引き込まれていった。しかし、この本で使われている言葉、哲学や美学の用語なのだろうが私には一度読んでも意味が酌めずに数回読みかえした文が何回も在った。
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ちょっと面白いタイトルでしたので、手にとってみました。今は自分で演奏することはないですがクラシックは4年間いちおう演ってましたので気になります。
さて、内容は表紙に記述されているものをそのまま引用します。
20世紀を代表する指揮者、ヘルベルト・フォン・カラヤン。その流麗な「美」に魅せられた人は少なくないだろう。しかし、「カラヤン以後」、音楽の風景は一変し、何かが決定的に失われてしまったことに気づいているだろうか。かつて音楽を聴く聴衆は、その成り立ちに息を潜めるがごとく、宗教儀式のように音楽を体験し、享受した。そこには特別な「意味」が存在した。
本書は、カラヤンの音楽と、それを鋭く断罪する二人の音楽家、オットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルの、絶望や狂気、矛盾や破壊が内在する「危険な音楽」を通じて、20世紀から現代までを覆う「負の遺産」を問い直し、音楽、芸術、そして人間存在を考える。
著者の巻頭言のみ引用。
20世紀のある時点で、クラシック音楽は見紛うことなく、一つの「死」を経験した。その「死」は、人類という種の、今日における絶望的状況の一断面を鮮やかに浮き彫りにする。
このような事態を象徴的に体現したもののひとりが、ほかならぬ、指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン、その人である。彼、あるいは彼を取り巻く状況は、時代の病理を理想的に映す鏡である。私たちは、そこに己の姿を映し、見つめ、考えなければならない。
はじめにでも書いてあるのですが、著者の終始主観で、結構丁寧に書かれています。明らかに人によって受け止め方が異なるので、自分の考えはあえて入れませんが、面白い考え方、視点です。
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『クレー──越境する天使』のなかで、本書のことが触れられ、その内容に対する中傷によって、著者は相当に消耗したと書いてあった。カラヤン的なものが、その流線型への化粧が覆い隠してしまった、音楽が本来深く肯定すべき、苦悩に満ちた、死と隣り合わせの生の本質に迫る表現を、クレンペラーとケーゲルの仮借のない音楽に見て取る著者の議論が、なぜそれほどの攻撃の対象にならなければならないのか。そこには一部の歴史修正主義とも共通する、慰撫された状態を逆撫でされることへの過剰な反撥があるのかもしれないが、そうしてまで寄りすがろうとするものが虚無でしかないことを、まずは直視するべきだろう。ただ、そのことを暴き出す著者の議論は、読んでいて痛々しい。やむにやまれず書いたことがひしひしと伝わるが、もう少し、それこそクレンペラー的に論理を積み重ねても良かったのではないか。編集者に恵まれなかったようにも見える。すでに鬼籍に入った著者とは、一度音楽や絵画のことを語り合ってみたかった。
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一つの音楽に この著者が考えていることに対し
内容に対して かなり賛否両論あるんだろう。
確かに その時の歴史的時代背景や
著名な作曲家達の気持ち 精神や宗教や思想が
一つの形としてクラシック音楽となっているものだと思う。
ただ それはその著者の思考であり
個人の精神論であり
みんながみんな そうではない。
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駅ビルの本屋さんで購入する。正直、期待はずれでした。著者の本は、いつも期待はずれです。この本を読むまでは、こちらが悪いと思っていました。僕には、美術、音楽を楽しむための基礎的教養が欠けています。それが、理由だと思っていました。もちろん、それも、原因の一つだと思います。主な原因は、著者にあることが分かりました。芸術評論は、可能なのでしょうか。絵画を見て、美しいと感じる。音楽を聴いて、すばらしいと感じる。それは、言葉で表現できるものではないでしょう。もちろん、何故、すばらしいと感じるのかを知りたいと思います。しかし、それは不毛なことではないでしょうか。著者の書くものは、すばらしいという感動と理屈がつながっていないのです。完璧に、言葉では表すことはできないが、どうにか伝えたい。それに対して、著者の評論は、すばらしいという感動と評論がつながっていないのです。大衆化が、クラシックを大衆に伝わりやすい分かりやすいものにした。それは、きわめて退屈だと指摘している。それが、正しいかどうか分かりません。では、大衆化しなかったクラシックとカラヤンとどこが違うのでしょう。それを具体的に指摘していません。これでは、誰も納得しません。
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言っていることは概ね当たっていると思うし共感も感じるが、カラヤンによって薄っぺらで物事を深く考えない今の社会がもたらされてるというのは言い過ぎである。むしろそのような社会の兆候あるいは表出がカラヤンなのではないかと思った。
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ヘルベルト・フォン・カラヤン批判の書。比較対象としてオットー・クレンペラーとヘルベルト・ケーゲルを称揚する。「カラヤンに代表される価値観、資本主義的競争原理における勝者の立場の影響力の大きさ、それに対する知的反省の欠如、私はこれらに対しては極めて明確に否定的立場に立たざるを得ない」という主張には思わず諸手を挙げて賛同したくなるが、冷静に読めば、衒学趣味と浅薄な文明批判のだしにカラヤンを利用しているにすぎないとも思う。叙述がなんとなく許光俊のエピゴーネンくさい。
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議論はシンプルで、「高尚で深刻であるべき(という前提でいいのかはともかく)クラシック音楽を、安っぽいエンタテインメントに堕さしめたカラヤンの罪は重い」というもの。
まあ一理はありそうに思いつつ、この情報過多の大量消費時代にはカラヤン独りが悪いわけではなく、その結節点にカラヤンもいた、というだけだろう。
後半はカラヤンと対置してクレンペラーやケーゲルといった深刻系の指揮者についての語りが入る。「世界苦(ヴェルトシュメルツ)」という単語がたびたび出てくるように、(クラシック)音楽には苦悩や狂気が必要なんだけど、カラヤンには見られないか薄いらしい。
もっとも、そのキーワードに対して「「世界苦」などという余計な感傷を無視しさえすればカラヤンのオペラは存分に楽しめるものに仕上がっている」というくだりがあるように、要は「カラヤンってダメだよね、まあどうでもいいんだけど」程度の話なんである。
しかもダメと言いつつ、最後にはもっとカラヤンを聴けと結ばれていたりして、論旨は分裂して見える。カラヤンへの歪んだ愛なのかなぁ。
この本ダメだよね、まあどうでもいいんだけど。
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カラヤンによってクラシックは大衆に消費されるものになってしまったことを舌鋒鋭く批判している本です。
著者は本書を「精神史」の方法にもとづいて執筆したと述べており、アドルノを思わせる消費社会と大衆に対する呪詛のことばがつづられるとともに、カラヤンがそうした二十世紀の動向にみごとにこたえるような天才性をもっていたことを、皮肉めいた筆致で論じています。そのうえで、オットー・クレンペラーの「世界苦」(ヴェルトシュメルツ)と、ヘルベルト・ケーゲルの「絶望」に、現代のクラシック音楽を取り巻く閉塞した状況から脱する道筋を見いだそうとしています。
本書の議論そのものはおおむね興味深く読むことができました。ただ、本書で批判されているような芸術を取り巻く消費社会的な状況は、まさにそれに対する批判をも取り込んでしまうものだという点にかんする自覚がないことに引っかかりをおぼえます。手に取りやすい「光文社新書」というレーベルから刊行されている本書は、カラヤンを批判することでクラシック通を気取りたい、わたくしのような「大衆」に消費されて終わることになるでしょう。この点で、著者にはまだ、絶望が足りないのではないかといわざるをえません。
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指揮者として他に例を見ないほどの地位、名誉、そして破格の収入と財産を築き上げたカラヤン。彼が何を考え、どのように歩んでいたのか。
それは音楽性とは無関係とは言えないが、多分に政治的な権力を行使してきた結果でもある。