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文庫で再読。
改めてドゥルーズでさえラブクラフトを読んでいたのだなあと。数少ない哲学をした人の一人。
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村の隅々をあちこち探索してみても、「城」への入り口は一向に見えてこない。
注の極小ポイントの活字が眼を射る。
まるでカリンティ・フェレンツ『エペペ』の、未知の言語を使用する国に迷い込んでしまったブダイのようだ。
あるいは、そもそも僕は最初から追放されてあるのだろうか?/
カフカの『流刑地にて』の「処刑機械」は、キリスト教のことではないか?
「処刑機械」は、そのシステムに拘束された者の身体に馬鍬で刑罰を書き込むのだから。
馬鍬で身体に書き込まれる刑罰=最後の審判ではないだろうか?/
【注(1)ザッヘル・マゾッホの評伝(略)の中で、ベルナール・ミッシェル(略)は、『変身』の主人公の名前そのもの、グレゴール・ザムザ Gregor Samsa が、おそらくマゾッホに捧げられたオマージュであることを明らかにしている。グレゴール Grégoire というのは『毛皮を着たヴィーナス』の主人公が受け取る仮名〔ワンダの「奴隷」としての名前〕であり、ザムザ Samsa はたしかに、ザッヘル・マゾッホ Sacher-Masoch の略称ないし部分的アナグラムであると思われる。カフカにおいて頻出するのは、ただ単に「マゾヒズム」的主題だけでない。それだけではなく、オーストリア−ハンガリー帝国におけるさまざまなマイノリティの問題が、この二つの作品に活力を与えているのである。】(第7章 マゾッホを再び紹介する)/
【バートルビーは独身者、カフカが次のように語っているあの〈独身者〉である。(略)ーーそしてまた、冬に雪の中に寝て子供のように凍え死にする人間であり、散歩しかすることはないが、どんなところにいても、動かずに散歩ができてしまう人間でもある。バートルビーは身元保証なき、所有物なき、属性なき、身分なき、特性なき男である。】(第10章 バートルビー、または決まり文句)/
【この書物、世界で最も偉大なものの一つたるこの書物は、はじめにそう思われたようなものではない。(略)
『エチカ』は三つの要素を呈示している。それらは内容であるのみならず、表現の形式でもある。すなわち、〈記号〉あるいは情動(略)、〈概念〉あるいはコンセプト(略)、〈本質〉あるいは知覚対象(略)がそれである。】(第17章 スピノザと三つの『エチカ』)/
【死の直前にジル・ドゥルーズは、短いテクストを書き残している。「内在ーーひとつの生‥‥‥」((略)、『狂人の二つの体制 1983ー1995』河出書房新社、(略)、所収)ーー簡潔だが、決定的に重要な、そして美しいテクストだ。呼吸器の重篤な病いに冒され、すでに補助装置なしには生きられなくなっていた哲学者は、しかし、内在とはどのようなことか、一つの生とは何かについて、ここでおよそ最も厳密な思考を差し出している。(略)
書かれているのは、たった一つのことである。すなわち、一つの生とは一つの特異性であり出来事であるということ、そして、その特異性−出来事は一つの純粋な内在面においてのみ、それとしてみずからを指し示すということーーこれである。】(訳者あとがき)/
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2010/9/14ジュンク堂で購入
もはや愛さず、身を捧げず、取ることもしない。そのようにして自分自身の個人的な部分を救うのだ。というのも愛は個人的な部分ではなく、それは個人の魂ではないからだ。それはむしろ個人の魂を一つの自我にしてしまうものだ。ところが、自我というのは、与えるべき、あるいは取るべき何かであり、愛したがったり、愛されたがったりするのだが、寓意であり、イメージであり、主体であって、真の関係性ではない。自我は関係ではなく、反映である、主体を作り出す微かな光、瞳に輝く勝利の光である。
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明晰で分かりやすい文章を書くことは確かに物事を簡潔に把握したいと思う者達にとっては重要な指針であるかもしれない。しかしながら、哲学用語にはエクリチュールという概念がある。書くこと、書き方、文体といった意味であるが、簡単に言ってしまえば言葉の上に色彩と音響の効果を施すことである。そしてエクリチュールの実践、それは内在面における一つの生を肯定する。例えば、母国語を外国語に見立てて文章を書くこと。そうして否定的な「症例」は肯定的な「力」に変えられる。
文中にはニーチェやルイス・キャロル、カントやメルヴィルなど、文学を学ぶ上で欠かせない先人達からの引用が散りばめられており、非常に参考になった。文脈を逸脱しては新しい文学の創造など不可能であるからだ。
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[ 内容 ]
文学とは錯乱/一つの健康の企てであり、その役割は来たるべき民衆=人民を創造することなのだ。
文学=書くことを主題に、ロレンス、ホイットマン、メルヴィル、カント、ニーチェなどをめぐりつつ「神の裁き」から生を解き放つ極限の思考。
ドゥルーズの到達点をしめす生前最後の著書にして不滅の名著。
[ 目次 ]
文学と生
ルイス・ウルフソン、あるいは手法
ルイス・キャロル
最も偉大なるアイルランド映画―ベケットの『フィルム』
カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について
ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ
マゾッホを再び紹介する
ホイットマン
子供たちが語っていること
バートルビー、または決まり文句〔ほか〕
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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大きな前提をふまえて書かれている留保であったり拡張であったり別の可能性を提示する内容。なので、その前提への理解がないと正確なニュアンスを感じるのは難しい。が、その目指そうとする感じは難しいけど耳を傾けてしまう不思議な魅力がある。徐々に機会を見つけて読んでいきたい人かな。
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総括して、まだまだ理解が及んでいない。全体像を理解してからまた読むことの必要性を感じている。しかし所々で自分にはなかった文学の見方、或いはそもそも世界に対する認識の視点を得ることができたと感じている。
中でもお気に入りは「l prefer not to」というそれ。この文章によって全てが曖昧になる様。この言葉を吐く人物の心情や世界への視座というものは、驚くべきものであった。
「拒否しないが、受け入れもせず、彼は前に進み、この全身の動きの中で後退するのであり、言葉のかすかな後退の中でわずかに身をさらすのだ」
すべてをその決まり文句のうちに閉じ込めてしまうことで、前進=彼がその決まり文句を使うたびに、彼は段々と後退=何もできなくなる。この前進と後退の関係に面白みを覚えた。