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防衛庁長官、防衛大臣を歴任した石破茂氏の著書。
本書のテーマは集団的自衛権だが、戦後日本政府の「自衛」に関する意識の変化についても書かれている。
まずGHQ占領下においては、1948年に吉田茂首相は「自国」が攻撃を受けた際に防衛・反撃する「個別的自衛権の行使」をも否定していた。
その後、1950年に朝鮮戦争が始まると駐日アメリカ軍は朝鮮半島へと出兵したため、アメリカは占領している日本の防衛が十分にできなくなると、自衛隊の前身となる「警察予備隊」が組織される。同年にGHQのマッカーサー元帥が日本の自衛権を容認。
そして1952年に日本が独立すると、吉田茂首相は「独立国である以上、自衛権はある」という立場へと変わる。その後、1981年に鈴木善幸首相が「集団的自衛権の行使は憲法上、許されない」との認識を示し、その解釈が第二次安部内閣まで引き継がれてきたが、2014年7月に安部首相は「集団的自衛権の行使を可能とする憲法解釈変更の閣議決定」を行った。それに基づく安全保障関連法案が、憲法違反であるという指摘されたわけだ。
「集団的自衛権」は、それが認められるにはいくつかの要件があります。
1. 他国が攻撃を受けた。
2. その攻撃が、自国への攻撃と同等とみなせるほど緊急性や重要性がある。
3. 攻撃を受けた国が、日本へ救援を求めた。
4. 集団的自衛権の行使は、国連が必要な措置をとるまでの間に限られる。
以上のような条件を全て満たした場合に「自衛」として武力行使を認めるのが集団的自衛権であり、武力行使を行う以上、反撃を受ける可能性もあり、戦争に参加するといって良いだろう。
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集団安全保障 ダンバートン・オークス会議 常任理事国の拒否権 国連憲章第51条 個別的自衛権 集団的自衛権自然権説 ジュネーブ協定 東南アジア条約機構(SEATO) 復仇 ベトナム戦争とプラハの春の共通点 ニカラグア事件 サンディニスタ政権 ソフトパワー コスタリカには軍隊が無い? インターオペラビリティ パリ不戦条約 戦略的辺疆 ANZUS(太平洋安全保障条約) リチャード・アーミテージ コブラ・ゴールド 看護師「3Kできついのは私たちは承知の上。国が発信するからなり手が減る」 国境のジレンマ スービック海軍基地
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元防衛大臣の石破茂氏による集団的自衛権解説書。
わかりやすいのはそうなんだけど、前書きにも書いてある通り佐瀬昌盛氏の著作を基に書かれているところが多くて、あれを読んだらこっち読んで集団的自衛権に関して新しく勉強になるところはあんまりないかな、という印象。
行使容認派の本でさらっと勉強というのには良いかもしれない。
集団的自衛権の話と直接関係はないのだが、戦後ドイツは徴兵制を、軍隊に市民との接点を確保する、シビリアンコントロールのためのシステムとして肯定的にみる向きがあったというのは勉強になった。日本において徴兵制は現実性が薄いが、予備自衛官とか体験入隊的な制度の話を考える上でも、シビリアンコントロール・市民との接点という観点で考えるというのは参考になりそうだ。
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非常に丁寧に、初心者でも分かりやすく、実例を用いて説明してある。
集団的自衛権、個別的自衛権、集団安全保障、色々言葉があり、あたりまえだが各々が違い、それを理解しないと話はすすまない。
集団安全保障とは、国連の対応のことで、平和を壊したり、侵略をしたりする乱暴な国が現れたら、国際社会が一致協力して対応し、平和を取り戻す。これが集団安全保障という概念であり、全ての加盟国が国連と言う仲間であるとした上で、その仲間内から約束を破る乱暴者が現れたら、その他の仲間の国々が共同して制裁を加えると言うことだ。ただ、集団安全保障は、安全保障理事会が対応を話しあうが、常任理事国が1つでも拒否すれば機能しないし、安全保障理事会が対応を決めるまでには少なからず時間がかかる。それまでに何の手も打てないのか、ということになる。こういう声にこたえる形で考えられたのが、国連憲章第51条だ。これは、簡単に言えば、「自国が攻められた場合に、国連の安全保障理事会がちゃんと対応してくれるまでの間は、その間を埋めるつなぎとして、個別に自衛権を行使して戦ってもよい。また、不断からつきあいのある仲間同士で協力して自衛権を行使して戦ってもよい。その二つの自衛権を国家は固有の権利としてもっている。ただし、事後でいいから安全保障理事会にはどういうことをしたか報告しなければならない」ということだ。もう分かったと思うが、前者が個別的自衛権で、後者が集団的自衛権だ。集団安全保障という考え方やそれに基づく体制は尊重しなければならないけれども、それだけでは現実的に対応できないこともあるので、この51条があるのだ。
個別的自衛権については結構わかりやすい概念で、言ってみれば正当防衛みたいなものだ。しかし、集団的自衛権については、わかりにくく、解釈については世界中で議論がなされている。
集団的自衛権についての考え方の世界の主流は、「ある国が攻撃された場合、それは自国への攻撃と同様にみなすことができる。だから、そのある国の防衛に関与することは自国を守るのと同様であり、正当である」という考えだ。
もうひとつ議論の対象になるのは、固有の権利というところだ。英語、中国語、フランス語に訳されているものを見ると、それは、自然権、と言う解釈になる。そう、生まれながらにして持っている権利だ。個別的自衛権も集団的自衛権も固有の権利、独立した国が生まれながらにして持っている権利で、だれもそれを否定したり、奪ったりすることは出来ない権利というものだ。これは国際的には議論の余地も無いほど受け入れられているのに、日本ではそうではない。
この集団的自衛権の現在の日本の解釈は、「主権国家である以上、国際法上、わが国は集団的自衛権を有しているが、憲法第9条において許容される自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲内にとどまるべきもので、集団的自衛権の行使は、その範囲をこえるものであるため、これは行使できない」というものだ。これは1981年、鈴木善幸内閣においての政府答弁書の内容・見解で、「保有しているが行使できない」という今日の日本の解釈だ。
当然、お隣の中���、韓国も集団的自衛権を保有している。例えば韓国に北朝鮮が戦争を仕掛ける場合、日本が集団的自衛権を行使して、韓国と共同して北朝鮮に対抗するとしたら、北朝鮮も相当考えなければならない。しかし、日本が集団的自衛権を行使しない、韓国を助けないとなると、北朝鮮は、敵が一人いなくなったと同じであり、少し韓国を攻撃してみようか、となる。集団的自衛権は、戦争を仕掛けられる確立を低くするための智恵であるのに、集団的自衛権を持ったら、危険だと、一部の人やマスコミは騒ぎ立てているのだ。
集団的自衛権の行使がOKとなれば、アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか、という人もいる。これを同盟のジレンマ、と言う言葉で説明すると、同盟には相反する二つの恐怖がつきまとうということだ。それは、同盟国の戦争に巻き込まれる恐怖と、同盟国に見捨てられる恐怖だ。日本では、前者のアメリカに巻き込まれるばかりを強調する。今の現状をみると、巻き込まれるよりも、見捨てられる恐怖も日本はきちんと直視しなければならない。アメリカの力は落ちてきている。逆に、中国の力が大きくなりつつある。そのようなとき、日本は、アメリカをこれまで以上に巻き込んでおかなければならない。アメリカだって、善意で日本を助けてはくれない。アメリカの納税者もそれは許さない。アメリカの利益がない限りはこれからはアメリカは動けない。当たり前の話だが。「なぜ、日本のためにアメリカ軍が動くのか」と一致してアメリカ国民が言えば、アメリカも簡単に軍を動かせないのだ。また、9.11テロの際、アメリカは個別的自衛権を行使し、NATOは集団的自衛権を行使しアフガニスタン攻撃を行った。その後、集団安全保障にきりかわったが。なので、理論上は、あの時、日本が集団的自衛権の行使が可能であったなら、アフガニスタンの戦いに参加した可能性はゼロではない。ただし、これは可能、というだけであって、実行するということとはイコールではない。日本に集団的自衛権があっても、それを行使するには国会の事前承認が必要となるだろう。行使できる、と行使する、はまったく別なのだ。9.11に関して言えば、日本人も犠牲になっている。だから、解釈によっては、個別的自衛権も発動できたかもしれない。ただ、日本人の感覚として、いくら国民が殺されたからといって、それで自衛権を発動して敵国を攻撃しようと言う話にはならなかっただろう。それが日本人にとっての常識的な感覚だと思う。つまり、問題は、集団的か、個別的かというのではなく、最後はその国それぞれの判断によってきめるということだ。
日本の豊かさは決して日本単独の力で得られているものではなく、国際社会の様々な要因と結びついている。だからこそ、日本がGDP上位の国として平和と繁栄を享受出来ているのは、国際社会の平和や安定の恩恵を受けていると考え、国際の平和と安全に寄与すべく、集団的自衛権を行使できるようにしておく必要があると著者は言う。
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石破幹事長による、集団的自衛権を巡るこれまでの議論のまとめ。集団的自衛権を巡る議論はもう、完結しているんだなと再認識。自衛権を巡る憲法解釈が今までどのように変化してきたのかについてもわかりやすくまとまっている。かなり無理していろんな意図を込められている『憲法解釈』がいかに変わってきたのか。そして、『憲法解釈を変えるな』がいかにこれまでの経緯を無視しているのかがよくわかるw公明党は何周遅れなんだよとw
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この国の武装のあり方を分かりやすく説明しているのだが、深みが足りない。それは過激やヘイトを求めている事ではなく、過去の戦争から何を学んだのか反省すべき課題を提示することにある。ま、あくまで主題は集団的自衛権に限っているのだから、ではなくそこまでの言及が必要だと考える。
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石破さんによる集団的自衛権について書かれた本。
メディアだけを見て、集団的自衛権についてわかった気になっていたが、実際に読んでみると非常に納得させられた。一方で批判もあるだろうが、論理としては非常にわかりやすく書かれた本であった。
友達に「僕が誰かにいじめられたら助けてよ。でも、君がいじめられても助けられないんだ。だって憲法で決まってるから。そのかわりに支援はするよ。お金とかね」これでまかり通る世の中でしょうか
さて、これを読んで知ったことによって考えることが大事であろうと思う。
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「集団的自衛権」と聞くと、イコール他国の戦争に巻き込まれるといった危険、をイメージしがちである。しかし、昨今のウクライナ情勢に垣間見られる様に、今日の安全は明日の安全には繋がらない。結局のところ、身近なレベルで国家の危機をどう考えるか、という問題意識を持つことが大切であると考える。誰も戦争が利益を生まないことは理解しており、国際社会と上手く連携し、集団安全保障の緊密さを高める上でも、よく考えたいテーマである。
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【アメリカに巻き込まれるのがいいか、見捨てられるのがいいか】
この手の本は、何が書いてあるか、よりも、誰が書いたかで判断されがちで、集団的自衛権なんか要らない派の僕も、少なからずそういうバイアスを持ってしまう。それを念頭に読んでみよう。するとどうしても、遠近法というか、置換えというか、そういう風にみえてしまう。たとえ話がちょっと子どもっぽすぎるのかもしれない。
「行使と権利は不可分」とする話は、国際法(権利は持つ)と憲法(行使は不可)の順番の議論をあやふやにしてしまっているし、自衛隊の既成事実化と、自衛権解釈のやりかたは、憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」の基準生活において、かつては保護家庭がクーラーを持ってはいけない時代があったがいまはそんなことはない、ということに収斂(?)する。
ただ、全体としてはイメージ先行を振り払うために説明をしようという意図は汲めるし、ある意味(多くのハンタイハンタイの人たちよりも)一貫した説明ではある。
最終的には「国民の良識」だって。痛いところを…。国民も子どもっぽいからねえ…。