紙の本
平野啓一郎の姿は終盤にかけて現れる
2008/02/04 19:50
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投稿者:JOEL - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は『ディアローグ』との同時刊行である。先にディアローグを読み、対談相手のペースで進むやりとりに平野啓一郎らしさを見いだせないと書評を書いた。そして、『モノローグ』に期待すると結んだ。
期待は裏切られなかった。本書の方が断然優れている。平野啓一郎は「私」を消し去る作家であり、その人物像を捉えるのがむずかしい。それは本書においても基本的に変わらない。
『モノローグ』という書名を持ち、装丁には「エッセイ」という言葉があるが、単なる氏の雑感ではない。三島由紀夫、ル・コルビュジェ、塩野七生、ドストエフスキーなどを論じながら、対象を解題していく。あくまで対象を客観視して、エッセンスを抽出するのである。その意味では、氏を理解するのは依然として、容易ではない。氏自身、作品を通して作家像を探ろうとする行為の無意味さを直言してもいる。
ただし、本書において読みどころがあるとすれば、自身の著作を解題していく、終わりの方の章であろう。分析の対象が自分自身であるから、作品にこめた意味を明らかにせずにはいられない。氏は『日蝕』『葬送』などで、独特の文体を用い、時代設定をしている。これは、意図的に現代を避けているわけではなく、氏の執筆時の問題意識から出てきたものを表現するのに妥当な形式を選んだだけである。自分の作品への的外れな批評に対しては、憤慨しても見せるところなど意外である。
それにしても、氏の言葉は、今となっては、どれも忘れられた哲学的な響きを帯びている。私たちがこうした言葉から疎遠になっていることを感じずにはおれない。思えば、80年代まではこうした言語表現は、哲学分野に限らず、持てる知性を示すためのスタンダードであったのではないだろうか。
90年代半ば以降のネット時代から、わかりやすさを重視するあまり、私たちはやさしい言葉を無意識に選び取ってしまっていたのではないか。氏の初期の作品に読みづらさを感じるとすれば、氏の作品の難解さによるだけではなく、私たちが平易な言語表現に流されていた面も否定できないと思われる。
氏の言説は、私たちがもう一度言葉の豊かさを取り戻し、人から多少分かりづらいと指摘されようとも、その言葉でしか表現できないものを表現していくことの大切さを教えている感じがする。
平野啓一郎氏に戻れば、この人は芸術家なのだと思う。氏にとっては、芸術の様式が文学であったのである。そのくらいに言葉を操る技術の巧みさを思わずにはいられない。
氏はデビュー当時から、将来の全集化に備えて、作品群を構想しながら書き進めてきた。稀代の作家がここにはいると考えて間違いないであろう。
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読み進むのにものすごく時間を要した。特に最初の三島由紀夫の「金閣寺」についてのエッセイ。
文章のリズムというか、言葉遣いが特殊で、するーっと読むことを許さないような摩擦係数の高さのようなものがあった、とでも表現すれば良いのだろうか?
実は自分はあまり「小説」が好きではないので、平野啓一郎氏の作品を全く読んだことが無く、従って図書館で見た背表紙の印象で手にとってみたのだが、その(年齢の割には)非常に落ち着いた思考と文章から、とても頭のいい人なんだろうなあと素直に感じ入った。
特に歴史に対して非常に意識的である態度は、ある意味建築家のそれと非常に近しいと感じた。
自分が小説を苦手なのは、どうしてもその作品世界に強制的に引っ張り込まれて、世界や登場人物をリアルに想像させられてしまう際にある種の不快感(面倒くささ)を感じてしまうからで、それは平野氏が語るところの「小説が持つ線形的な時間の流れ」に対する自分の違和感なのだろうか。
次は、平野氏の小説を読んでみようか。
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平野啓一郎氏の最初のエッセイ集です。三島作品を論じた「『金閣寺』論」「『英霊の声』論」を中心に、文学、音楽、美術、建築、そして自らの作品について論じたもので、平野文学を理解する『鍵』であると思います。
本書は作家、平野啓一郎氏の最初のエッセイ集です。対談集である『ディアローグ』とこの『モノローグ』発意をなす存在であると思っておりますので、一気に読もうかと思っておりましたが、諸般の事情でこっちを読むのが遅れてしまいました。しかし、内容の濃さとページの厚さを考えると、二冊同時に読むのはかなり苦労するだろうなと今にして思えばそう思います。
本書は三部作構成になっておりそのⅠは最初から平野氏の文学的な原点である三島由紀夫。その三島文学の新たな読みを提示した「『金閣寺』論」と「『英霊の声』論」は原典を読んだことがない状態で読んでしまったので、その内容、読み方のあまりの深さについていけず、展開されている三島論並びに作品論は文字を追いながら『あー、こりゃあまず原典を読んでからにすればよかったなぁ』と思ってしまいました。
しかし、この中にも、後に『分人四部作』に結実する思想が断片的に記されていたように思いました。さらには、自身がそのほかに影響を受けたオスカー・ワイルドやミルチャ・エリアーデに関する論考。『ディアローグ』で平野氏が芥川賞を受賞した当時に対談した日野啓三氏が他界したときの追悼文も言語において精緻を極める平野氏ならではの心のこもった追悼文ありました。
Ⅱは建築、演劇、音楽、美術に関する評論やエッセイをまとめており、建築に関して自分はそういう分野にはわかりませんで、平野氏の言葉を虚心坦懐に読むだけでありましたが、演劇では劇団四季の『オペラ座の怪人』や『コンタクト』を観劇したときの批評。さらには「ディアローグ」でも対談した横尾忠則氏に関する文章。『美』というものを小説で謳い上げる氏の『芸術観』を垣間見たような気がいたしました。
Ⅲは個人的に最大の読みどころだと思っておりますが、平野氏本人による自作の解題で、デビュー作であり芥川賞を受賞した『日蝕』その内容と独特の文体から賛美と毀誉褒貶が巻き起こり、平野氏自身が筆を取って『日蝕』の解題するなかで的外れな評論およびそれを書いた人間を『愚評』『愚評者』と一刀のもとに切り捨てていたのを読むと、頭をレンガで殴られたような気がし、
『この文章も愚評なんだろうなぁ…』
と思いながら書いているのですが…。それなりに誠実にはあろうと思っていますけれど…。ただ、あの『日蝕』も日常では使わない漢字を多用しているので、PCに手書きで漢字を入れるなどの実に涙ぐましい努力をされているということを読み、あれは天から与えられた才能だけによって書いたものではなかったことを知り、とても面白かったことを思い出します。
他にも、様々な工夫を凝らして書いた短編集や、現代の性を書いた『高瀬川』についても自身の筆によって書かれ、対談集である『ディアローグ』同様、平野啓一郎という作家および作品を知る『鍵』であることは確信できるかと思います。