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風土社、沖積社の「寺山修司全歌集」を底本として、講談社学術文庫の一冊となりました。巻末には、塚本邦雄と穂村弘の解説が載せられています。
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「564」という数字に異常に反応するようになってしまった。電話番号の語呂合わせがしたくなります。
https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:Pcrlg_b4YkUJ:https://www.kyoto-su.ac.jp/more/2011/305/pdf/20110422_law.pdf+&cd=3&hl=ja&ct=clnk&gl=jp
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これは猟奇歌の系譜の短歌ととらえることができるのではないか、と興奮しながら読みました。
以下、個人的お気に入りの方々。
「失いし言葉かえさん青空のつめたき小鳥撃ちおとすごと」
「悲しみは一つの果実てのひらの上に熟れつつ手渡しもせず」
「うしろ手に墜ちし雲雀をにぎりしめ君のピアノを窓より覗く」
「汚れたるちいさき翼われにあらば君の眠りをさぐり翔くべし」
「愛されていしやと思うまといつく黒蝶ひとつ虐げてきて」
「ある日わが喉は剃刀をゆめみつつ一羽の鳥に脱出ゆるす」
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短歌、俳句、詩、エッセイ、評論、演劇…。芸術のジャンルを軽々と飛び越え、その鬼才ぶりを発揮した寺山修司。言葉の錬金術師は歌う。故郷を、愛を、青春を、父を、そして祖国を。短歌の黄金律を、泥臭く、汗臭く、血腥い呪文へと変貌させる圧倒的な言語魔術に酔いしれる。
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一つだけ補足しておきたいことがある。それは行為と実践のちがいである。詩人もまた他の文学者たちと同じように行為者であるべきだが、実践してはならない。たとえば本気でデモの効果を信じ、テロを信じ、世直しのための実践活動家になってはいけないのである。ヒットラーはゲルマンの血の純血という夢のために詩的行為の人となったが、実践しようという意識に欠けており、明確に明日の人類のヴィジョンをもっていなかったために二十世紀の悪霊と言われた。しかし、彼はそれゆえに芸術家でありえたのだし、純粋だったのだと私には思われてならない。(塚本邦雄 評)
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マッチ擦るつかのまの海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや
など、胸をえぐられるような歌もありつつ、事前に期待?したような、ページをめくるたびハっとさせられるということではない。
血とか墓とか盲目とか、ショッキングな単語を使い、卑近なものと遠いものを結びつけるというような技巧・・・短歌の中でどう表現するか、という形骸に囚われている感じもする。若書きとも言えるのではないか。
「全歌集」というのは寺山自身がつけたタイトルらしく、跋文にあるように、自身の(歌の)墓標であるという。つまり「歌はこれで棄てた」という覚悟のようなものがむしろ印象的であった。
つくづく、歌は生き様そのものなのだ。