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著者に敬意をもって、「わけわからん」といいたい。
単行本も読んだことがあるのだけど、鷲田さんがさきさき自分の世界を行っているその背中を、ただただ見ているだけ、そんなかんじ。
ケアの反転、ということの意味はわかるしそういうこともあると思うけど、これに書かれているひとや場面がそれにあたるかどうかは、わたしの感性では、まったくわからない。鷲田さん、まったくすごいひとだ。
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●以下引用
24時間要介助の遠藤さんは他のだれかに身をまかせなければ生きていけない。そんなふうに無防備なまでにありのままの自己を開くことで、逆に介助する側が個人的に抱え込んでいるこだわりや鎧をほどいてゆく光景がここに開けている
じぶんもまた脆さにさらされているひとが、ひとりではその脆さを抱え込めないひとを前にして、かすかな力を内に感じる
君が今やりたいことを、真っ直ぐに伝えながら、出来ないことはみんなに手伝ってもらって、堂々と生きて行きなさい。先回りして、人がどう思うだろうかとか、これはいけないことではないかとか、勝手に一人でやめてしまう必要なんかないんだよ。自分から逃げていては何にも始まらない。だって、君は一人で勝手に何かをやっていくなんて出来ないだろう?
人に迷惑をかけること、それは大いに必要なことである
じぶんはこうしか生きられない。このようにして生きることでしかじぶんを納得させられない。ひどい目に逢わせただろう。ひどい傷も負わせただろう。そういう厄介者とときあってくれたことに、あえて「ごめんなさい」とは言わない。抱え込んでくれているにの、その抱えの外に出て、背中を見せて、あらためて「ごめんなさい」とは言わない。できるものなら、抱え込まれたままでその腕の中から「ありがとう」と言って逝きたい。厄介者として遠ざけられるのではなく、「めいわく」がまわりのひととのあいだに成り立ったことそのことに、たこは「ありがとう」と言いたかった
ひどい「めいわく」をひとにかけられるような関係をだれかとのあいだでもちえたということに「ありがとう」・・。が、そういう関係のなかではきっと、その関係のもう一方の端から、「めいわくをかけてくれてありがとう」という声も生まれているはずだ。
いまにも倒れかけているひとがいると、それを眼にしたひとは思わず手を差し出している。そういうふうに「弱さ」はそれを前にしたひとの関心を引き出す。弱さが、あるいは脆さが、他者の力を吸い込むブラックホールのようなものとしてある。そういう力を引き出されることで、介助するひとが介助されるひとにケアされるというケア関係の逆転が起こっている。
赤ちゃんはぎゃあぎゃあ泣いて、お乳ほしがって、うぱうぱ飲んで、寝て、うんこして、命綱のお母さんの顔を懸命に覚えて、とにかく必死で生きようとしている。その生きようとする力に大人は茫然とさせられる。ただ生きるためにこんなにも必死だったこと、そういうことがどれほど「世界を明るくしたか」
ケアは、支えるという視点からではなく、力をもらうという視点もある
微弱なものの力は、ひりひりするような微弱な感受性にしか共振しない。それにふれる、それを受け止める感受性、もしくは精神というものの現前を必要とする。「いてくれること」とでも訳した方がいい。弱い者こそ、他者を深く迎え入れることができるのだ
わたしの方さをほぐす、わたしの荷をほどく。
他者のなかに自分がなんらかのかたちである意味のある場所を占めているということ、このことを感じることで、生きる力が与えられるというのはわかりよい
じぶんでなくてはという想いがじぶんを占めるからである。だれかある他人にとってじぶんがなくてはならないものとしてあるということを感じられることから、こんなわたしでもまだ生きていていいのだ・・という想いがそっと立ち上がる。「わたし」という存在に顔がよみがえるのだ
じぶんがだれにとってのどういう他人でありえているかを、まず感がる必要がある
じぶんの才能や性格のうちにではなく、だれかある他者にとってのひとりの他者でありえているという、そうしたありかたのなかに、ひとはかろうじてじぶんの存在を、あるいは意味を見いだすことができるだけだ。問題なのはつねに具体的な「だれか」としての他者であり、したがって「わたしはだれ?」という問いには一般的な解は存在しない。
じぶんがここにいることが他のだれかにとって意味がある感じられないことが、寂しいのだ
じぶんがここにいることがだれかある他人にとってなんらかの意味をもっていること、そのことを感じることができれば、ひとはなんとかじぶんを支えることができる
じぶんのしていることが、あるいはじぶんの存在が、だれか別のひとのなかである意味をもっていると確認できること、そのことが生きる意味をもはやじぶんのなかに見いだせなくなっているひとがなおもかろうじて生きつづけるその力をあたえるということともに、その逆のことも、つまり他者に関心をもたれている、見守られているのではなく他者への関心をもちえているということもまた、ひとに生きる力をあたえてきたのではないだろうか
脆さを内に抱えこんでいる人が、ひとりでじぶんの弱さとつきあいきれないひとを前にして、そのひとが内にかすかな力を感じるという状況じたいを、みずからの「弱さ」をもって設定した。わたしの存在が固まる前、囲いをする前、わたしという鎧をつけきってしまう前に、他者にふれるという場面を。
存在を贈りあうという関係、これはだれかに身をあずけるということがないと成り立たない。あるいは、こおtばを相手に預けるということがないと成り立たない。それには大きなリスクがともなうからである。何を言っても、留保をつけずにそのまま受け入れてもらえるという信頼がなければ、ひとはみずからを無防備にはしないものである。押し黙りながら、口ごもりをへて、たどたどしい語りへと、閑かに時が経過するのをじっと待ってゐる人がいてくれないと、ひとは言葉を漏らしはしない。
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2015/09/post-27fc.html
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様々なケアの現場の方への取材と、その後の考察が紹介されています。
人と人とが接する場面について、一冊の本の中でこれほど多角的に考察されたものとの出会いは私自身初めてで、興味深く読みました。
模擬患者と医師との面談についての部分については、対人援助職に就く身として、ひやりとするような、はっとするようなものがありました。
相互性を常に意識して携わっていくことの重要性を、この本から学びました。
読む度に気にかかる場所が変化していく、私にとってそんな一冊になりそうです。
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恐れを抱かせるのは治療者の態度である
いいじゃないか、再発したって
その人が生きやすくなるお手伝いをしながらも、そのままで抱えていて大丈夫、と言えるようにしたい。矛盾しているようではあるけれど、今目指すところ
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あらゆる場面で見つけた弱さのちからをまとめた本。
精神科の病棟で見る患者は、この本にあるように”どう生きるかを、いつも目に見える形で突き詰めないと生きられない人たち”で、” 普通は人知れず悩むことを、過剰なまでに抱え込んできている人たち” 。その姿を見るうちに自分の歪さや弱さに気づく。精神科にいると、自分の過去を振り返ることにもなる、といった先輩医師の言葉通りであった。それから友人の脆さや作り上げた歪な自分らしさも少しずつ垣間見えるようになって、自分の生きづらさがほんの少しだけど肯定されたような気になった
べてるの家では、精神疾患を治すものとして捉えない。
疾患で生じる苦労を治しても、他の苦労がある。人間が耐えきれない苦労を支える装置として、治療するのでなく会社を作った。
“人と競ったり、嘘をついたり、誰かになろうとした時、見ないようにしてきた大事なことを、病気のスイッチがちゃんと入る人たち。脆さを持った人たちが、いてくれることの大切さを考えた時に、とっても大事な存在だよね。社会にとっても大事だよね。” というように、地域の人もべてるの家の住人たちと交流することで、内に秘めていた、もしくは顕在化させてなかった悩みを話せるようになり、それは時に疾患のある患者よりも深刻であることもあった。
ひとはみな、歪な弱さを秘めている。それを補完していくことが人生の目的ではなく、その弱さのやりとりのなかで他人を内在化したり、自身を肯定することができるのでないか。
“人は転ぶ人をみると、無意識のうちに手を差し伸べる。 弱さは、それを前にしたひとの関心を引き出し、内にかすかな力を感じさせる。介助とは、おたがいにそのいのちを生かし合う、そういう関係を作り上げていくための窓口なのだ。”
医療者としても、1人の生きづらさを感じる人間としても、何度も立ち返りたい本だ。
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講談社学術文庫で、
鷲田清一氏の著作で、
タイトルが『〈弱さ〉のちから ホスピタブルな光景』。
お硬い本を予想して買ったんですが(もちろんどんなにかたいテーマでも優しく語ってくださるのが鷲田清一氏の本なのですが)、あにはからんや、鷲田氏が性感マッサージ嬢やゲイバーのマスターや生け花作家など一癖も二癖もありそうな人に会いに行って、話を聞くという体裁の本。
でも(だから?)、これが深い。
それぞれのインタビューが、それぞれの生き方に裏打ちされて出てきた言葉の積み重ねだから、ちょっとやそっとじゃ「分からない」。
もちろんインタビューだから、書いてあることそのものが分からないわけじゃない。
でもその真意を探ろうとすると「分からない」。
こういうことかな、という感想は持てるけれど、たぶん違うな、少なくとも言わんとされていることを捉えきれていないなという感覚が残る。
だから深い。
何年かごとに、繰り返し読み返したいなと思いながら読みました。
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ディベートをさせると、震災の時に援助をすることを考える人は多くいるが、補助を受けさせるためにはどうすればいいのかを考える人がいないというのを読んでいて、確かにそうだなと思った。
色々な制度があったとしても、本当に必要な人にはその情報がいかないこともある。
そして、人は誰しも弱い部分がある。
その弱さを認めるということはとても大切で、それを力に変えられることができれば、とても強いエネルギーが出るのではないかと思った。