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紙の本
一人前の御師になるのは維新の頃になるはずだが……
2011/04/30 02:52
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:saihikarunogo - この投稿者のレビュー一覧を見る
お伊勢さんには、小学六年生のときに修学旅行で行ったことがある。今から思うと、当時の私には、お伊勢さんという目的地よりも、同じ学年の子たち全員と一泊の旅行に行く、ということのほうが、重大だったような気がする。たぶん、私たちを引率した先生方にとっても、そうだっただろう。別の意味で。
江戸時代の御師も、現代の小学校の先生方と同じだったようだ。深川の伊勢講を先達する御師の行徳が、両替商の伊勢屋の隠居の勘兵衛に尋ねる。
御師の役目の本分はどこにあるとお考えでしょうか?
この伊勢屋というのは耐震補強工事に力を入れているうえ、専属の火消し人足まで養成している、防災意識の高い両替商なのだ。その隠居の答えは……。
>「伊勢講の人たちを、旅立ったときのまま、元気な姿で連れて帰ることでしょう」
御名答、さすがは勘兵衛さんと持ち上げておいて、行徳は、後継者の朝太を、伊勢参りから帰ってきた後、伊勢屋の火消し組の下働きにしてほしい、と頼む。
朝太は、現代ならば小学一年生の男の子だ。そもそもこの小説は、安政三年五月五日の端午の節句の日の、土佐の海辺から始まっているのだ。ある者は種崎村で浦戸湾を悠々と泳ぐ鯨の親子を眺めながら、ある者は室戸岬の山見小屋から沖で潮を噴き上げている鯨を見ながら、お伊勢参りのことを話していた。鯨漁の季節は十一月から三月までで、また、浦戸湾に入り込んだ鯨は捕らない。
室戸の鯨組は、鯨捕りの船の模型を伊勢神宮に奉納する。船大工の宇土湖屋では、竜虎と並び称される宗八と良訓が奉納船造りを競い合っている。前祝いに、佐川村の領主深尾家が「司牡丹」を贈ってきた。同じ作者の『牡丹酒』で、元禄時代に二百石積みの弁才船で六十日かけて江戸まで運んだ、あの銘酒だ。
室戸の伊勢講の御師鯨慶は、奉納船の競い合いに勝った船大工が伊勢で、江戸から来たこどもと一緒に宝物殿に行くという夢を見た。ことしの鯨捕りは不漁になるが、その子が次の正月に室戸で初日の出を見たら豊漁に変わる、という。
そもそも、鯨が捕れなくなるのは、去年、安政二年十月二日の大地震で、現代風の言い方をしたら、海底プレートが動いた音におびえたから……らしい。
この大地震で江戸の町が壊滅状態になったとき、土佐と秋田の杉を使った建物は崩れなかったので、復興景気で土佐の杉が高騰したが、土佐藩江戸家老は国許からの廻漕を倍増させて値を下げ、藩主が老中から直々にほめられた。
また、江戸の火消し六十四組が、がれき撤去に大活躍をした。公儀はその褒美に、火消し六十四組とその家族親類縁者は翌年の伊勢参詣勝手次第、とした。
勘兵衛の伊勢屋は無傷、そして朝太が住む長屋も倒壊しなかった。朝太の長屋では、隣家のおきねと耕造の夫婦が、大横川の異変を見て大地震の前兆を感じ取ったが、誰も信じなかった。朝太だけが信じて、夫婦と一緒に火の用心を触れて回った御蔭で、地震の後に起こった大火事も免れた。
というわけで、行徳率いる伊勢講は、品川沖から鳥羽湊まで七日で行く五百石積みの「七日船」を仕立てた。途中、清水湊に寄って前の年の大地震のときの救援物資の御礼をするのは、同じ作者の『背負い富士』と話が合う。七日船の噂は船乗りたちによって全国に広まり、諸国のお伊勢講が我も我もと船を仕立て、土佐の鯨組も勢子船で行くことになった。
土佐の奉納船や勢子船の材料となる檜や杉、伊勢神宮の建材となる檜、檜を廻漕する木曽川や五十鈴川、そして、深川の木場に向かう筏が通る大横川は、木の精の恵みによって結ばれているのだった。それはわかるが、なぜか加賀の御陣乗太鼓まで関わってくるのは、『かんじき飛脚』を書いた作者の好みとか(御)都合(主義)としか、思えない。おもしろいからいいけど。鳥羽の湊町を駆け回り、加賀や土佐のいい男たちと友達になる朝太は、作者の分身かも。
ところで私は、お伊勢さんに初日の出を見に行ったこともある。やっぱり小学生の時、親に連れられて。そして、この小説でも、お伊勢参りをした人たちが、次の正月に初日の出を見る。若い預言者の誕生。小説はそこで終わるが、幕末そして維新後を彼がどう生きるのか、気になるところだ。
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